聖日礼拝メッセージ
2012年6月8日 更新

聖 書 Tヨハネ1:1,2   (第1講)
 題 「偽りの教えに惑わされない本物の信仰に」


  (序)信仰者が、なぜ偽りの教えに惑わされるのか

* 今日からヨハネの第1の手紙を学んでいきますが、手紙と言われているこの新約文書は、形式で言えば、手紙とは言えません。差出人も宛先も記されてはおらず、挨拶も結びも書かれてはいません。

* ただ明確ではありませんが、ある宛先の状況が考えの内に置かれていると見られ、具体的な勧告、警告、激励、奨励などを記し、手紙としての目的を果たそうとしていることが感じられるので、後に、手紙として分類されることになったのでしょう。

* それ故、この手紙の著者も、宛先の教会も分かりません。すべての教会の回覧文書として記されたものか、それとも具体的な対象を考えつつ記された論文のようなものなのか、正確には言えませんが、伝承として、著者は使徒ヨハネとなっており、小アジア地方の諸教会が直面している問題を憂え、教える形で記した手紙だと見られています。

* 批評的な学者たちは、使徒ヨハネが著者ではあり得ないと言います。この手紙の中に、著者自身が名前を明らかにしていないので確定することはできず、使徒ヨハネが書いたということを否定する明確な証拠もないので、著者は誰かということにこだわらず、内容によって示しているように、生前のキリストを直接見たことのある人物の一人であったと理解し、便宜上、著者をヨハネという名で呼び、学んでいきたいと思います。

* もう一つ考えておかなければならないことは、この文書が書かれた小アジア地方の諸教会が直面していた問題が、どのようなものであったかということですが、内容から考えられることは、この時には迫害を受けている様子が見られず、キリストの福音を逸らそうとする異端の教師たちの働きかけが教会を揺るがしており、何が真理で、何が偽りか、その判別の重要さが、いかに大事であるかを示そうとしていることが分かります。

* この手紙の意図を、まず内容全般からある程度把握することが、詳しく理解していくために重要だと言えますから、その要点を見ていくことにしましょう。

* 信仰者が、なぜ偽りの教えに惑わされるのか、それは福音の真理だけが持っている力、特徴、真理を通してのみ与えられる神との一体性、神からの最高の贈り物(永遠の命)のすごさが分かっていないから、異端の教えに心向けてしまうのです。それは、肉の思いを満足させてくれそうな教えに心を奪われるのが人間だからです。

* ヨハネにとって、真理の立つとは、真理を悟り、真理を受け入れるだけではなく、真理を行い、真理の只中に生きることを意味していました。これがないなら、勝利者とは言えないという強い語りかけをしていくのです。

* そして、この手紙の主題として、神との交わりに生きることを示し、罪を告白し続けること、罪を犯さない生き方をすること、キリストのように歩み、互いに神から生まれた者同志として向き合う兄弟愛の重大さ、御霊によって真理を確立することにより、真理から逸れない歩みをすることが最も重要なことであり、キリストにある者として、永遠の命にあずかる生き方をしてほしいと強く願って書いていることが分かります。

* その語り方の特徴は、対立する2つの言葉を使って、信仰者としての姿を示し、一方は神に受け入れられるが、もう一方は悪魔につく者として神から退けられると言い、その中間はないことを明言しています。

* なぜ右か左しかないのか、そのことを通して示そうとしている真意は何か、真理に生きる信仰者とって、そのことをこの手紙から学び取ることが、いかに大切なことであるか思わされるのです。


  (1)真理を原動力とした勢いある信仰

* それでは、序文に記されている1節から4節まで内容を、2回に分けて学び、ヨハネがこの手紙を書いた目的が何であるか正しく受けとめ、この時とは異なった時代、状況に生きる私たちにとって、ここから何を学び、霊性が強くされ、群が育っていくための御旨を学び取っていくべきか、御霊の助けを頂いて学んでいくことにしましょう。

* この手紙は、全般的なキリスト教の真理として語っていこうとしているのではなく、多分小アジア地方の諸教会において、巧みに入り込んできた異端の教えに振り回されそうになっている人たちに照準を合わせて、何が本物であり、何が偽者であるかを分からせようとして語っていることが分かります。

* これまでの福音信仰から、異端の信仰に引き込もうとするサタンの攻撃は、なぜキリスト信仰に立っていた人たちの心を揺さぶり、心を奪い取っていくほどの力あるものであったのでしょうか。

* サタンの攻撃に力のあることも確かですが、心を揺さぶられ、心を奪われる人間の方に問題があると、ヨハネは見ていたと考えられます。

* それは、父なる神との交わり、キリストとの交わりが十分にできていないから、いつまで経っても不安定状態のままであり、サタンの攻撃を受けやすくなっていたと見ているのです。

* それは、あの初代教会時代の熱気が失われ、奇蹟の伴った激しい勢いがなくなり、それほど押し迫る迫害にも会わなくなってきた第2世代、第3世代へと移行していく中で、キリスト教信仰が惰性に陥り始め、輝きが失われてきていた時代に入り込んでいたように思える状態になっていたのでしょう。

* 初代教会時代のあの熱気、迫害をも恐れず、どんな妨害にもくじけず、真理を盾として突き進んでいた頃の、信仰が持っていた爆発的な力というものを味わってきたヨハネにとって、今の状態は、羽をもぎ取られた鷲のような、力のない、覇気のない信仰者の姿を見て歯がゆく感じてならなかったのでしょう。

* もちろん、すべての事柄は、同じ状態が長続きすることはなく、その勢いはいつか減速するものです。その時にどう対応するかが大きな鍵になってきます。その減速状態を放置すれば必ず止まり、後退していくようになります。

* ヨハネは、ただ過去のキリスト教の勢いを懐かしんで、どうしてあなたがたはあの時のような信仰に立てないのかと嘆いているのではありません。

* その問題点を指摘し、早く手当てをしなければ、手遅れになる。今手当てをすれば、その信仰の勢いは回復する。背後に働いておられる神は、以前とは変わらないのだからと熱い心を持って語っているのです。

* サタンの攻撃を受けて落ちてしまった人々の信仰は、父なる神との交わり、キリストとの交わりが確立されていなかったからで、ここが早く回復するように手当てをするならば、信仰の勢いは、あの初代教会の時の勢いと何ら変わらず、力強いものとなると勧めようとしたのです。

* その要となるのが、真理に立つか立たないかの一点であることを示そうとして書いたのがこの手紙であったと言えるでしょう。

* そこでヨハネは、序文において、あなたがたの信仰に、真理を原動力とした勢いがなくなり、他の教えの方に心が奪われそうになっているのは、何が真理であるか判別できる霊的能力が減退しているからに他ならず、真理の体験者としての私の証言に耳を傾けるように、挨拶抜きでじかに示していくのです。

* 真理を原動力とした勢いある信仰とは、どのようなものであるかということを示そうとしているこの手紙は、今日の私たち信仰者に対しても、真理の体験者としてのヨハネの証言から、しっかりと学び取らなければならないと思わされるのです。


  (2)異端に対抗するヨハネの目撃証言

* まず4つの言葉を並べ、私たちが伝えようとしているものは、いのちの言であると言います。このいのちの言とは何を指し示している言葉なのかということから考える必要があります。

* この序文の表現は、ヨハネによる福音書の序文と類似していることは疑いないのですが、福音書の方の言(ロゴス)は、ひとり子キリストを指しており、手紙の方のいのちの言(ロゴス)は、いのちをもたらす福音を指していると考えて間違いないでしょう。

* すなわち、私が伝えようとしているものは、神のいのちに満ち溢れている福音についてであって、それは永遠の初めからおられ、この地上に肉体を取って現実に現れて下さったお方がもたらして下さった福音であり、これを否定する教えは、神と無関係な、いのちのない偽りの教えであるから、この違いを知ってほしいと言っているのです。

* ヨハネは、ここで目撃証言として、私たちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て手で触ったものだと言うのですが、どうして“私は”と一人称単数で言わずに、“私たちは”と複数で言っているのか理解する必要があります。

* この手紙が書かれているのは、イエス様が昇天されてから6,70年経っていると考えられますから、実際にイエス様を目撃した人物が、この当時皆無だと考えられる時代にあって、同じ使徒の仲間がそこにいたとは考えられませんから、ヨハネは唯一生き残った使徒団の一人として、使徒団が伝えてきたいのちの言、すなわち、キリストの福音を歪めることなく伝えてきた使徒団の総意として、“私たち”と言っているのでしょう。

* 別の面から言うならば、「これは単に私ひとりの個人的な特殊体験談によって語っている証言なのではなく、キリストの証人として選ばれ、直接イエス様のお言葉を聞き、目で見、手で触れ、現実にこの地上に来て下さった神の子として目撃し、その福音的意義を後代に宣べ伝えるように立てられた使徒団の中の一人であることを強調しているとも考えられます。

* このことを強調しているのは、あの初代教会の頃、真理を原動力として勢いある信仰に立つことができたのは、どんな迫害があっても、多くの戦いを通されても、最初に受けた真理であるキリストの福音にしっかりと立っていたから、決して揺るぐことがなかったのです。

* 人は真理に立つ時、神がそこに力を注いで下さり、いのちを注いで下さるという事実を見失ってはならないと言いたかったからです。

* 神は、真理に立つ者を見て、パウロがエペソ1:19(新301)でこう言っていることが起きるのです。「神の力強い活動によって働く力が、わたしたち信じる者にとっていかに絶大なものであるか」味わうことができると。

* しかし、ヨハネがここで目撃証言として語っていると言いましたが、現実には、半目撃証言と言うべきでしょう。というのは、「初めからあったもの」と言って、永遠の初めから、神の子として父の許におられたお方のことを示し、このいのちが現れたと言うことで、人間としての肉体を持ってこの地上に、見える形で現れて下さったイエス様のことは目撃したと言ったのです。

* けれども、このイエス様が、世の始まる前から神の許におられた神なる存在であると言うことは、目撃したのではありません。できるはずもありません。

* それでは、なぜ世の始まる前からおられたと言うことを見たわけでもないのに証言できたのでしょうか。それは、信仰により霊で証言したと言うしかないでしょう。なぜこのような証言をしなければならなかったかと言いますと、当時の異端の教えで、イエスが肉体を持った人間であったが、キリストは神なる存在であったと、イエスとキリストとを分けて考えていたのです。

* その中のケリントスという異端の教師の考え方は、物質は悪であるから、肉体は悪であり、神が悪である肉体を取ってこられるはずがないと言うのです。

* そこで彼らが考え出した答えは、人間イエスがバプテスマを受けた時、神の御霊が天からハトのように下ってきたその時に、霊なるキリストがイエスの中に入られ、人間の肉体を持ちつつ神として歩まれ、神が十字架につけられるはずがないから、十字架にかかられる前に人間イエスから離れられたと言っていたのです。

* ヨハネが意識していた異端が、ケリントスであったか、その流れの他の者であったか断言はできませんが、イエスとキリストとを分離し、イエス・キリストが肉体をとってこられたことを告白するのは、愚かな教えだと語っていた教えであったのです。

* その誤った教えに、心を惹かれそうになっている人たちに対して、イエス・キリストは、世の始まる前から神の許におられたが、人間となってこの地上に降って下さったので、私たちは神なるお方を目撃し、そのことが意味する福音を伝えてきた証人ですと言い切ったのです。これが挿入の形で語られている2節の内容です。


  (3)輝きに満ちた喜びに溢れることができない人々

* ここで、ヨハネが示してきたものは、永遠の初めからおられる先在者なるキリストは、この私たちが聞いて、見て、確認して触ることができる肉体を持ったお方として、この地上に来て下さったという、人間では考えられない内容が神の真理として示され、そこに福音の深い意義が込められ、いのちの言として与えられたのが、キリストの福音でありました。それ故、これを少しでも歪めたり、変えたり、否定したりするならば、神の真理ではなくなり、神を退ける偽りとして捨てられると言おうとしたのです。

* ヨハネは、ここで決して自分だけが体験できたことを誇ろうとしていたのではありません。私が目撃したことは、現実に目撃できない人たちに対して証言させるためであり、人間イエスを見て、そこに信仰によって、永遠の初めからおられる先在者なる神の子キリストを見ることができるようにされ、キリストとして生まれ、キリストとして十字架にかかり、復活され、昇天されたことを証しさせるためだと受けとめていたのです。

* キリストの十字架や復活について取り上げるのではなく、肉体をとってこられたというキリストの受肉がなぜ取り上げられているのかという疑問は、キリストが受肉することなどあり得ないという異端の考え方が、この当時の信仰者たちの思いを揺り動かしていたからです。

* どうしてこんな考え方に、信仰者の思いが揺すぶられたのでしょうか。それは、イエス様を見ることのできないこの時代にあって、思いの中だけで、イエス様が永遠の初めから存在しておられるという、神としてのご性質を持っておられることを確信し続けることはたやすいことではなかったからでしょう。

* もちろんヨハネも、イエス様が生きておられる時に、イエス様の中に、神なるキリストとしてのご性質を信仰によって見ることができたかと言いますと、実際には、十字架にかかられ、復活された後にしか分からず、聖霊が注がれて初めてその信仰を確立したのです。

* イエス様を実際に見たら、すべての人がイエス様の中に神なるキリストを見ることができたわけではありません。ごくわずかな人たちだけでした。それを見た人たちが、聖霊によって伝えていった結果、多くの人がイエス様を見ないでも、信仰によって見ることができるようにされたのです。

* ペテロが手紙を書いた時代の人々も、そのような人たちが対象でした。Tペテロ1:8(新366)「あなたがたは、イエス・キリストを見たことはないが、彼を愛している。現在見てはいないけれども、信じて、言葉につくせない、輝きにみちた喜びに溢れている」と言いました。

* 魂の救いを得た者は、イエス様を実際に見なくても、信仰によって見て信じることができるし、輝きに満ちた喜びに溢れることができることを、この人々が証明しています。

* それでは、この手紙の宛先である教会の人々は、どうして、霊で見て信じて、輝きに満ちた喜びに溢れていることができなかったのでしょうか。

* これは、キリスト信仰を惰性的なものに引き落として、魅力のないものにしてしまおうと働きかけてくるサタンのわざにかかってしまっていて、いのちのない習慣化した信仰になってしまっていたからでしょう。


  (結び)泉の価値のすごさを体験した者として

* ヨハネは、自分が直接耳で聞いたもの、目で見たもの、確認して手で触ったものと言って、永遠の初めからおられた神なるキリストが、この地上に肉体を取ってこられたという驚くべき事実を体験したことによって、神が提示して下さったいのちの福音は、私たちを神のいのちで満ち溢れさせずにはおれないものだと訴えずにはおれなかったのです。

* ヨハネにとって、神による真理の福音は、神のいのちがあふれ出続ける泉のようなものであって、その泉のすごさを体験した者は、決して水溜りの水を飲もうとは思わないはずなのに、どうしてあなたがたは、神のいのちがあふれ続けている水を、力のない水のように思って捨て、無意味な水溜りの水に心を惹かれているのかと、もどかしい思いがしていたのです。

* 預言者エレミヤの時代のエルサレムに住む民も同様でした。彼らは、愚かにも2つの悪しきことを行ったと言い、「生ける水の源であるわたしを捨てて、自分で水ためを掘った。それはこわれた水ためで、水を入れておくことのできないものだ」(エレミヤ2:13 旧1045)と信仰を捨てて、他のものに心を向けた不信仰さが指摘されています。

* なぜ本物を捨てて、偽物を望むのか、それは本物の持っている神のいのちがあふれ出る水脈の価値のすごさが分からないからで、意味のないもののように思ってしまっているから、そんな愚かなことが平気でできるのです。それはいのちの福音に問題があるのではなく、真の価値を見抜くことができない人間の霊的鈍さが問題なのです。

* 罪によって霊が鈍くされてしまった人間が、信仰を頂いたことによって、驚くべき価値ある水脈を掘り当てた者となったのですから、神のいのちがあふれる水を汲み続ける信仰に立ち、それを味わい、輝きに満ちた喜びに溢れることができるのです。

* イエス様がこう言われています。「わたしが与える水を飲む者は、いつまでも、かわくことがないばかりか、わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠の命に至る水が、わきあがるであろう」と。(ヨハネ4:14 新140)

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