(序)神の時計の中で生かされている者として
* 前後のつながりから、今日の箇所を理解するために、少しくどいようですが、これまでの簡単な要約をした上で、今日の内容にどのようにつながり、積み上げられてきているのかを見る必要があります。
* 御父と御子とわたしたちという3重の交わりの中に置かれ、この地上にあって光の中を歩むようにと導かれたのが信仰者ですが、その歩みにおいてまず信仰上の不備である罪の残りカスを正しく処理し、愛の道場において兄弟愛の訓練を受けることがその歩みの前提であると示してきました。
* そして更に、今立っている信仰認識を確立し、内に残っている世を引き出そうとする欲に注意しなさい。そうすれば不注意、不用意から惑わされたり、暗闇の中に引き込まれたりすることはないと言ってきたのです。
* そこに続けて今日の内容を語っていくのですが、ヨハネは、神の時計の中で生かされるようになったことに目を向けさせ、神の定めておられる時を、強く自覚して歩む必要があることを示していくのです。
* 神の時計とは、本来神は、時間を超越した永遠なる存在ですから、神には時計は必要ないのですが、人間を創ろうとお考えになり、天地万物を創造なさった時から、神の時計は動き出し、ある定められた時がくれば時間を終わらせられ、神の時計は消滅させられると言うのです。
* すべての人間は、神の時計が動いている間の、そのどこかで生き動き存在するようにされているのですが、キリストがあがないのみわざを成し遂げるためにこられた時から、終わりの時代が始まり、(Tペテロ1:20 新367)いつ終わりの日が来てもおかしくない状態となると言われているのです。
* 終わりの時代も押し迫ってくると、反キリストたちが大勢現れてくる段階となると言って、今まさに反キリストたちが現れる段階の時に入ったとヨハネは示しているのです。
* このことがなぜ、光の中を歩む者にとって重要な段階を示すしるしだというのでしょうか。そのことを知っていることがどうして大事なのか、神の時計の中に生きる者として、どのような理解を持って歩めばいいのかなど、ヨハネがこのことを示している意味を探っていくことにしましょう。
(1)反キリストたちとは?
* ここでも“子供たちよ”と愛情を持って語りかけています。神が示しておられる神の時の重要な段階を見落とさないでほしいとの思いで語りかけているのが分かります。
* ヨハネが取り上げた事象は、反キリストたちが教会の中から出て行き、それは侮れない勢力として立ち向かってくるようになる光景だと言うのです。
* この事象が、終わりの時代の重要な段階を示しているとヨハネは言うのですが、その内容の出所はどこにあるのでしょうか。イエス様が教えられた終わりの時の前兆として、「多くの者がわたしの名を名のって現れ、自分がそれだと言って、多くの人を惑わすであろう」(マルコ13:6 新74)と言われています。
* そしてもっと後になって、偽キリストや偽預言者たちが起こって…惑わそうとするであろう(マルコ13:22)とも言われています。イエス様もこの期間がどれほどであるのか明確にしてはおられず、ただ前もって言っておくから、気をつけるようにと言われているだけです。
* パウロは、Uテサロニケ2:3からの所で(新324)最終的に滅びの子という、サタンが送り出す最強、最悪の存在者を立て、力としるしと不思議とを持って信仰者に激しく襲い掛かると言っています。
* これらのことを総合的に考えて見ますと、キリストによる救いの完成のみわざによって終わりの時代が始まり、終わりの日に多くの魂が救われるために、神による全世界宣教のみわざが進められると同時に、信仰から外れて教会から去っていく反キリストたちの勢力が、日増しに増えていくようになると言うのです。
* そして、神が定められた終わりの日が近づくにつれ、終わりの日の前兆である戦争や飢饉や地震などが現れてきて、各地で偽キリスト、偽預言者が出てくるようになり、その惑わしの働きかけもより激しくなるのです。
* そして、終わりの日がカウントダウンされるようになると、パウロの言う滅びの子というサタンの最終兵器を送り込まれて、大勝負を仕掛けてくると考えられています。
* それでは、ヨハネがここで、今が終わりの時代であることを示し、反キリストたちが多く現れてきたと言って示している状況は、どのような状況を指しているのでしょうか。
* それは、最初の頃よりも、より惑わしの働きかけが強くなってくる偽キリスト、偽預言者が数多く出てくる第2段階に突入しており、滅びの子が送られてくるのも間近ではないかと考えていた様子が伺えます。
* 偽キリスト、偽預言者が起きるだけではなく、不法がはびこり、多くの人の愛が冷えてくると言われたイエス様の預言から考えますと、まだそこまで切迫していないが、いつそんな時代が来ても不思議ではない、そのような時代に置かれている者にとって最も大事なのが「最後まで耐え忍ぶ」ことだと(マルコ13:13)言っているのです。
* この耐え忍ぶとは、我慢して忍耐し続けることではなく、自分の立つべき場に固く踏みとどまって動かないことです。惑わしの働きかけがより激しくなり、福音理解が少しでも甘いと、そこにつけ込んできて惑わし、引き落とそうとしてくるのです。
* それでは、ここで固く踏みとどまることができず、惑わされて福音から逸れて行った人たちはすべて、ここで言われている反キリスト、反預言者たちだと言っているのでしょうか。
* ここで語られている反キリストたちというのは、惑わされただけの人のことではありません。惑わされただけにとどまらず、キリストの福音に反する教えを信奉して、今度はそれを伝える側に回り、信仰者を惑わす側に立つ人たちになることです。
* パウロはこのような人たちに対して激しくののしり、呪われよと言いました。(ガラテヤ1:8 新293)自ら惑わされて落とされるのは、信仰が弱いから仕方がないと言えば仕方がないのですが、その歪んだ教えを宣教して惑わす側に回った時、その人は神に呪われる人になると言われているのです。
* たとえば、キリストの福音に立っていた人が、エホバの証人やモルモン教などの異端に惑わされてキリスト信仰から逸れ、今度はその異端の方が正しいとして宣教し、キリストの福音に立つ者を惑わそうとするなら、そのような人々は、ヨハネの言う反キリストだと言うことです。日本ではこのような異端の方が熱心で、反キリスト集団の方が膨張しているのです。
* ヨハネが見ていたこの当時の状態も、異端の勢力が膨張していて、惑わしの度が激しくなってきていた状態であったので、反キリストたちの勢力に対抗するためには、信仰の甘さを放置せず、全く動じることがないように、福音信仰を確立してほしいと願わずにはおれなかったのでしょう。
(2)サタンが教会に送り込んでいる霊的スパイ
* 反キリストの勢力の台頭が、終わりの時代におけるレベル3あるいはレベル4になっていることを知って、より注意と覚悟とが必要となり、信仰の質が問われる段階に入ったことを示してきたヨハネは、そのような反キリストたちは、キリスト教会から出て行った人々であったことを明らかにしています。
* 言うならば、キリストの福音に飽き足らず、変形した教えの方に魅力を感じて離れて行った人たちだと言うのです。
* なぜ、キリストの福音に立っていた者が、その福音に飽き足らなくなって、他の教えの方に魅力を感じるようになってしまったのでしょうか。
* 考えられる理由の一つは、キリストの福音は肉的満足が与えられず、すっきりしない所が残るので、それに満足できない思いが強くなってくると、肉的な満足を与えてくれそうな教えへと心が向いてしまったのでしょう。
* それでは、キリストの福音に、彼らをとどめるだけの力と魅力がなかったと言うことなのでしょうか。肉的な満足を与えてくれないという点ではそう言えるかもしれませんが、キリストの福音は人間の思いを満足させてくれるものではなく、神の思いを満足させるものであることを忘れてはなりません。
* 人間の思いを満足させてくれるものはサタンの思いに沿ったものです。サタンは、最終兵器としての滅びの子を世に送り込む前に、人間の思いを満足させてくれるものに心を囚われ、その仲間を増やそうとして熱心に宣教しようとする反キリストたちを無数に作り出すことによって、滅びの子出現の地ならしをしようとしているのでしょう。
* ヨハネは、自分が語り伝えてきた福音が、人間の思いを満足させてくれるものとしてではなく、神の思いを満足させる真実ないのちの福音であると確信しており、僅かの狂いもなく示してきたと信じ切っていたのです。
* それ故、キリストの福音をそのまま受け入れた状態に立ち続けることに魅力を感じなくなり、偽福音の方に心を惹かれていった人たちは、彼らは最初から私たちに属する者たちではなかった。キリストに属さず、神に属する人たちではなかったから出て行ったのだとまで言うのです。
* これは、ヨハネが自分の側から見て、自分の語る福音に従い、とどまり続ける人は、キリストに属する者であると言えるが、従わない者はキリストに属さず、最初からサタンが送り出してきた反キリストなのだというような言い方は、ヨハネ自身の自己正当化ではないのかと思わされるような表現です。
* これが、ヨハネの自己正当化のための表現などではなく、神がそう語られているとするなら、ヨハネはどこでキリストに属する者とキリストに属さない者との線引きをしているのでしょうか。
* これまで学んできたことから考えますと、神の真理である命の御言葉を守って、3重の交わりの中に置かれていることを味わい喜んでいるかどうかという点であり、更に世を愛する者か、神の御旨を行う者かという点であり、もう一つは次回学ぶ20節に記されているように、聖なる油が注がれているかどうかという点であったのでしょう。
* キリストに属する者という表現は分かるのですが、キリストに属さない者とはどのような人たちのことでしょうか。キリストに属さない者は、すべて反キリストだというのではありません。
* しかし、すべてサタンの働きかけを受けた者は、サタンに属する者であり、ある人たちはサタンから送り出された反キリストたちであり、それ以外の人たちは、反キリストの予備軍とも言うべき人たちだと言えるでしょう。
* ヨハネは、反キリストたちは最初信仰を持っていたが途中から他の教えに走り、それを伝える者となっていったと言わず、彼らは最初から、サタンが教会に送り込んだ霊的スパイたちであって、サタンの配下の者であったとはっきりと言い切っています。
* これは、サタンの巧みな働きかけの恐ろしさをヨハネは知っていたから、彼らが信仰から離れていったというのではなく、彼らは元々サタンから教会に送り込んで来た霊的スパイだとまで言ったのでしょう。
* サタンは、キリスト教会の中に、どれほど多くのスパイを送り込んで、教会をサタン化しようとして働き続けていることか、このことは今日のキリスト教会においても見られることで、サタンに取り込まれ、いのちの福音のすごさが見えないようにされている教会の方が多いのではないかとさえ思わされるほどです。
(3)聞いた福音を霊に刻み込んでいく努力
* サタンの働きかけの怖さを知らないなら、信仰を持っているようでいて、いのちの福音を握っていない形だけのカス信仰に引き落とされていることにも気づかないで、もう終わりの日が近づいているこの時にあっても、注意の足らない、隙だらけの信仰で終わってしまうとの注意を呼びかけているのが今日の箇所でした。
* サタンとサタンが送り込んできた反キリストに惑わされないためには、キリストに属する者としての状態にとどまり続けることが大事であると示すことがこの勧めの目的であったと分かります。
* どうしてキリストの福音にとどまることを強く勧めなければならなかったのでしょうか。それは福音理解が十分に確立していなかったから、他の教えに心動かされる人が出てきていると考えたからです。
* どうしたら信仰者は、惑わされることがない福音信仰を確立していくことができるのでしょうか。それは、聞いた福音を、霊にしっかりと刻み込もうとする努力なくして他に方法がないでしょう。
* それは、イエス様がぶどうの木のたとえを通して教えられていることであります。「あなたがたもわたしにつながっていなければ実を結ぶことができない」と。(ヨハネ15:4 新166)そして、「あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたにとどまっているならば、なんでも望むものを求めるがよい。そうすれば与えられるであろう」とも言われています。(15:7)
* 聞いた福音を霊に刻み込もうと、自分にできる努力をしていく時、キリストの福音が私たちの中にとどまるようになり、それによってサタンによるどんな巧みな働きかけがあっても、崩されることはなく、動揺させられることもなくなるのです。
* より惑わし攻撃が激しくなる、終わりの時代の切迫した段階に突入していると受けとめたヨハネの時代よりも、更に1900年以上経った今の時代は、より終わりの日に近づいており、それがいつであるかは分からなくても、キリストに属している者として、キリストの福音にとどまり、霊に刻み込んでいるならば、いつ終わりの日が来ても、恐れる必要はなく、安心しておれるのです。
(まとめ)
* ヨハネは、神の時計が、いよいよ反キリスト攻撃が頻発する段階に入ったことを示すことによって、注意と覚悟が必要であることを勧めてきました。
* そして、サタンとサタンの送り込んできた勢力とに打ち負かされてしまわないためには、まず反キリスト勢力を見分け、惑わされないための手立てをしっかりと立てている必要があることを示してきたのです。
* 信仰者の脇が甘いと、サタンとその手下が付け入る隙を与えることになり、危険を招き寄せていることになります。
* どうして福音信仰の確立が難しいのでしょうか。福音は人間の知恵によって理解することができない神の知恵であるがゆえに、聖霊の働きかけを受けとめて向かうことしかできない難しさがあるのです。
* また、福音を霊に刻み込んでいこうとする努力が大変なものであるというこの2つの点が、世に生きている信仰者にとって乗り越えにくい事柄となっているからです。
* 確かに難しいと言えば、難しいのですが、できないことを神が要求されているのではありません。福音信仰が確立しなければ、光の中を歩むことはままならず、サタンの巧みな働きかけを受けて難儀するでしょう。
* 聖霊の働きかけを本気で信じて受けとめ、福音を何としてでも霊に刻んでいこうという思いを傾け、努力していくなら、もはやサタンも、サタンの手下も恐れるに足りません。というより、いのちの福音のすごさに日々圧倒され、惑わされる隙が全くなくなると言えるでしょう。