(序)真偽を見分ける霊的能力の源泉
* なぜヨハネは、神の時計が、終わりの時代に突入して、その第2段階に入っていることを示す必要を感じたのでしょうか。それは前回学びましたが、サタンが教会の中に送り込んだ反キリストたちが、強力な勢力となってキリスト教会を惑わし、根底から揺るがそうとする惑わしが激しくなってきていることを明らかにして、注意を促すためであったと分かります。
* ヘタくそなマジックであるならば、その種はすぐに分かるのですが、巧みなマジックになると、それがマジックだと分かっていても、その不思議な光景に目を奪われてしまいます。
* 反キリストたちが、いかに巧みに、信仰者の内側にある不満や物足らなさなどに、その思いをあおって疑いを起こさせたり、目で確認できるようなものや、人間的に納得しやすいものなどに目を奪わせたりする働きかけをし、何が真理で、何が偽りかという大事な問題から目を逸らさせ、高度な惑わし術を弄する厳しい時代に入ったことを意識するように示してきたのです。
* これは、背後にいるサタンが、どれほど恐ろしい存在であり、信仰者を惑わすことなど、サタンの手にかかったら、赤子の手を捻るようなものであることを、ヨハネはその怖さをよく知っていたからこそ、警告せずにはおれなかったのです。
* サタンに対してだけではなく、サタンが送り込んできた霊的スパイである反キリストたちを見分けて注意する必要を訴えてきたのです。
* 彼らは、教会に中に入り込んできて、いかにもクリスチャンのような振りをしているが、彼らはキリストに属さず、私たちの交わりにも属さない者たちであり、キリストに属する者たちを駆逐していこうとする、強力な力を持った外来種だと言ってきたのです。
* ヨハネが憂慮していたのは、反キリストたちが教会から出て行くことではなく、反キリストたちの惑わしにより、キリストに選ばれ、キリストに属していたはずの人たちが言葉巧みに惑わされ、キリストの福音から離れてしまって、神の愛を無にしてしまうことであったのです。
* それ故、あなたがたが反キリストたちの教える偽りの教えに惑わされなかったのは、あなたがたに真偽を見分ける能力が与えられており、惑わしの働きかけに揺すぶられなかったからであることを示し、サタンとサタンの送り込んだ反キリストたちに対して勝利していることを明らかにしているのです。
* それは、あなたがたの力と言うより、キリストが注いで下さった聖なる油によるものだと、真偽を見分ける霊的能力の源泉は何であるかという点に目を向けさせようとしているのが今日の箇所です。
* このことを正しく理解していることが、信仰の大きな鍵になると示しているのです。そのことについて、ご一緒に学んでいくことにしましょう。
(1)聖なるお方によって油注がれた者
* ヨハネは、偽の教えに惑わされなかったあなたがたは、内側にキリストから注がれた油を持っているからだと言いました。これは、あなたがたの人間的判断によって正しいと思ったから福音にとどまったのではなく、注がれた油の助けによって下した判断だと言うのです。
* ここに、聖なる方とあるのを、神と考える人と、キリストだと考える人があります。27節にも同様の表現があって、口語訳ではキリストと訳していますが、原文では彼という代名詞で記されていて、明確ではありません。ヨハネは神とキリストとを明確に分けようとする意図がなかったのでしょう。
* しかし、ここでの勧めの中心は、キリストに逆らおうとする人たちが語る、偽の教えに注意することでありますから、キリストに反する人たちが、自分の思いを基にして伝えている偽の教えに対して、キリストの福音は、キリストによって注がれた油により、神の御思いが正しく受けとめられ、正しく伝えられてきたと言おうとしていることが分かりますから、ここでは神というより、キリストと考える方がいいのかもしれません。
* もちろんヨハネは、神とキリストとを明確に区別しようとしない所があったという結論でもいいでしょう。どちらにせよ、ここでは聖なる方と呼んで、それは神にのみ属するきよさ、尊厳に満ちたお方であって、汚れを嫌い、神のお心からかけ離れたものを排除されるお方である点を強調しています。
* サタンの手下である反キリストたちや、その反キリストたちに惑わされて教会から出て行った人たちは、聖なるお方の御心にかなわなかったが、(彼らは自分たちの方が正しくて、これまでの信仰を間違っていたとして見限って、自分たちから出て行ったと思っていますが…)真理に踏みとどまったあなたがたは、聖なるお方から注がれた油を受けた人たちだと、神の側から油を注がれたから真理に踏みとどまることができたという事実を明確に示そうとするのです。
* 神(あるいはキリスト)から 注がれた油とは、聖霊のことを指していると言えます。これは27節の言葉にも暗示されており、Uコリント1:21(新279)では、「油を注いで下さったのは、神である。神はまた、わたしたちに証印を押し、その保証として、わたしたちの心に御霊を賜ったのです」と言われていることからも分かります。
* それではヨハネはなぜ、直接的に聖霊、あるいは御霊と言わないで、油を注いで下さったと言ったのでしょうか。それは、単に、聖霊が注がれたと言うのではなく、油を注ぐという意味の中に深い意味を込めたのだと考えられます。
* 油注がれた者とは、キリストのことであり、旧約においては、祭司、王、預言者などが、神の与えられた使命を果たす者として、神が特別に選ばれ、その認証式としてオリーブ油を注いだことが背景にあり、それらを予表として示されたのが救い主キリストであったのです。
* それが、ここでは信仰者一人一人を神用の者として、神が特別に選ばれ、神の代理人として世に遣わされるために、神(あるいはキリスト)が油を注いで下さったという意味を込めて語っているのが分かります。
* 言うならば、信仰者とは、真の油注がれたキリストの代理人、すなわち小キリストとして神に選ばれた者、神によって立てられ、世に遣わされている者だと言おうとしているのです。
* 反キリストたちは、サタンに選ばれたサタンの代理人として教会に遣わされ、惑わしの務めを果たすように導かれた者たちであるが、信仰者たちは小キリストとして、そのような小サタンたちに対抗し、この終わりの時代にあって勝利の人生を送るようにされているのです。
* 小キリストとして立てられ、遣わされているという自覚を持つことの重要さを示そうとしている意図が、ここには伺えます。
* 人間的に立派で、品格が優れているから、小キリストとしての自覚を持てるようになるというのではありません。神が油を注ぐためにふさわしいかどうかを見分けられ、神が小キリストとして選んで下さったかどうかで判断し、自覚を持つようにされているのです。
* 神は、信仰者の何を見て、油を注ぐのにふさわしい者と見て下さるのでしょうか、それは、キリストのあがないのみわざを信じて罪のない者とされているか、いのちの福音を歪めることなく、そのまま神の御心として受け取っているか、この2つの点であると言えるでしょう。そのような者の内側に、神は最高のプレゼントとして聖霊を宿らせて下さったのです。
(2)内住の聖霊がすべての真理を教えて下さる
* 油を注ぐということで語ろうとしているその中心は、聖霊の内住であると見てきました。そのことを、相手先の教会の信仰者たちに確認させる必要があったのは、自分の考えで、あなたがたが真理の福音にとどまったのではなく、あなたがたの内に宿って下さった聖霊のお働きによって、何が真理で、何が神のお心であるかを知ることができるようにされたからだと、聖霊のお働きに目を向けさせているのです。
* これは、反キリストたちの人間の知恵に対抗するのに、あなたがたの知恵で立ち向かおうとしてはならない、御霊があなたがたの理解できない神の知識を明らかにし、分からせる働きをして下さるから、あなたがたは真理に立ち、真理に踏みとどまることができるのだと示していくのです。
* Tヨハネ書の著者が、ヨハネによる福音書の著者と同一であるならば、ヨハネはこの時、イエス様の語られたお言葉を思い起こして語っていると考えることができます。「父がわたしの名によってつかわされる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教える」(ヨハネ14:26 新166)と。
* 聖霊が内住して下さっているならば、聖霊は神の御心を正しく教え、すべてのことを教えてくれると言われているのですが、信仰者が、神の御心をすべて知っているわけでも、理解しているわけでもありません。それなのにどうしてこのように言われているのでしょうか。
* これは、私たちがすべてを知り、すべてを理解すると言われているのではありません。神の御心すべてを知り、理解しておられる聖霊を、私たちの内側に頂いた者となったと語られているのです。それはどういうことでしょうか。
* すべてのことをご存知であるお方が内にいて下さることによって、必要な時、状況に応じて、聖霊が教え示して下さるのです。ただ私たちが何もしないで聖霊が働いて下さるわけではなく、聖霊が働いて御心を示して下さるように、真剣に飢え乾いて求め、信頼することが重要なのです。
* 聖霊は、真理の御霊とも呼ばれていますから、(ヨハネ16:13)私たちの内に宿って下さり、私たちの霊に働きかけ、真理が分かるように助けて下さるのです。別の視点から言うならば、偽の教えが分かるようにして下さると言うのです。
* もちろん、直接声が聞こえてくるわけではありません。しかし、私たちの霊に働きかけて下さることによって、御言葉に触れる時に、霊の思いが引き出され、真理を受けとめ、真理に立つ思いが起こされてくるのです。
* この聖霊による働き掛けがないならば、人間の知恵しか持ち合わせない私たちが、神の知恵、神の恵み、神の賜物などについて理解し、受けとめるすべはないのです。
* すべてのことをご存知である聖霊が内にいて下さるとの確信に立った信仰は、その人を真理に立たせ、真理に踏みとどまらせる力を頂くことができます。あなたがたが反キリストの惑わしにも振り回されなかったのは、実にあなたがたの内に注がれた油の故だと、ヨハネは示してきたのです。
* ヨハネがこのことを語ったのは、聖なるお方から注がれた油を頂いているという確信に満ちた信仰が、真理の福音に立っていると断言できる根拠であり、キリストに属し、3重の交わりの中に入れられている、最高の歩みをさせて頂いているとの根拠でもあると明らかにしようとしたのです。
* このことは、終わりの時代が、この時よりも、終わりの日に向かってますます進んでいる時代に生かされている私たち信仰者においても同様であります。
* もっと多種多様の反キリストが姿を変え、形を変え、衣を変えて、キリスト教会を惑わしている現状を見させられる中で、聖なる方から注がれた油を頂いているという確信に満ち、真理の福音に立ち、キリストに属している者として、3重の交わりに生きる真実な信仰者としての歩みを続けたいのです。
(3)真理は聞くだけではなく、確信と、生活化が必要
* このように、注がれた油を頂いていることの重要性を示した後、ヨハネは、この手紙を書いているのは、あなたがたが真理に対して無知だから、教えようとして書いているのではなく、あなたがたはすでに真理を知る者とされ、その真理の立ってきていたと分かった上で書いていると、少し持って回った言い方をしています。
* 今手紙を書いている内容は、あなたがたが初めて聞く内容ではない、以前にも話してきたものだ。それを改めて書いているのは、あなたがたが、知っているというだけにとどめず、強い確信と生活に反映された生き方になっていくようにと求めようとしたことが分かります。
* イエス様は、「あなたの母は何と恵まれていることでしょう」と言った女の人に対して、「いや、恵まれているのは、むしろ、神の言を聞いてそれを守る人たちである」(ルカ11:28 新107)と教えられました。
* 真理はまず聞くことから始まり、それが生活化することによって力となり、喜びとなるのです。相手先教会の多くの信仰者たちは、真理を聞き、そこに立っていたから偽の教えに惑わされなかったのですが、それだけではなく、その真理が生きた力となって生活化し、もっと真理に生きる歩みが確立していくようにと、ヨハネは願ったのです。
* そして、すべての偽りは真理から出るものではないことを知っている、と言うことにより、真理から偽りの知恵が発生することは決してない、真理に立っているならば、偽りの教えに惑わされることは決してない、と断言しているのです。
* 真理を聞き、真理に生きる歩みをしていれば、偽の教えがいかにくだらない、低い人間の考え出したものに過ぎないことが見えてくると暗示し、真理を聞くだけにとどめず、確信と、生活化が重要であることを示しているのです。
* 真理の福音は、頭で聞くものではなく、霊で聞き、生活化していく時、それは私たちにおいても、この地上にあって小キリストとして生きる力となり、喜びとなり、励ましとなるのです。
(まとめ)
* 前回、反キリストはサタンが教会の中に送り込んだ霊的スパイであり、信仰者を惑わすために、サタンの手下として激しく働く時代に突入したという現実を、ヨハネは確認したので、注意をするように呼びかけずにはおれなかった点を学びました。
* 確かにその勢力は侮れないものであり、惑わしの働き掛けも小さいものだとは言えないが、多くの信仰者は、惑わされることなく真理にとどまってくれていたので、ヨハネはとても喜んでいました。
* けれども、それで惑わしの働き掛けがとどまってなくなることはないのです。ますます激しくなってくるのが分かっているので、信仰者として立っていなければならない位置を、確認させようとしたのです。
* それは、聖なるお方が注いで下さった油を頂いていると言う、信仰の要とも言うべき内容を示し、その信仰が確立されていれば、惑わしの働き掛けは、さほど恐ろしくもなく、心配する必要もないことを示し、油注ぎの持つ重要な意味を2つ考えるように示されたのが、今日の内容でした。
* 第1は、神が特別に選ばれ、神の代理人として、すなわち小キリストとして立てられ、世に遣わされているという事実を示し、サタンの代理人である反キリストたちに対して、真理を持って対抗できる者とされたという励ましでありました。
* 第2は、人間の知恵しか持ち合わせていない私たちが、神の知恵をすべてご存知である聖霊が、内に宿って下さることによって、すべての真理をその時々、各々の場において、必要に応じて教えて下さるという、最高の家庭教師を、あるいは優秀なコーチを得る者とされたという恵みについてでありました。
* 聖なるお方から注がれた油を持っているという霊的確信が、この地上にあって、光の中を歩むために最も必要な武具の一つだと言えるでしょう。パウロはそのことをエペソ6:11で、「神の武具で身を固めなさい」と言い、更に「御霊の剣、すなわち、神の言を取りなさい」と言っています。
* 私たちが神のお言葉を取りさえするなら、神のお心すべてを教えて下さるお方が、いつも私の内にいて下さるのですから、真理に立ち、真理に生きることができるように働いて下さっていると信じることができ、安心して光の中を歩むことができるので、これほど心強いものはありません。