(序)誰が毒麦か詮索する必要はない
* 前回の所で、あなたがたが真理の福音にとどまることができたのは、あなたがた自身の持っている判断力によったのではなく、聖なるお方があなたがたの内に注いで下さった油により、キリストの代理人、小キリストとして生かされてきたからだと、その信仰状態を明らかにして励ましてきました。
* いくらキリストのあがないの恵みを受けて、聖霊が内住して下さるようになったとしても、聖霊の内住についての意識が弱く、聖霊が神の思いを内側に起こして下さっているという信仰が十分に育っていないと、注がれた油が有効に働いていないことになるので、聖霊に働いて頂けるように明け渡していく信仰が重要であることを示してきたのです。
* それは、サタンがキリスト教会に送り込んできた反キリストたちによる惑わしは、決して軽いものではなく、それが終わりの時代に生かされている信仰者が、必ず通される厳しい妨げの道であることを明らかにしてきたのです。
* 反キリストたちが、教会を混乱させた上で出て行ったのを、ヨハネは、どうしてサタンが最初から霊的スパイとして教会の中に送り込んできた、キリストに属さない人たちだったと断定する必要があったのでしょうか。
* ヨハネは、イエス様が教えて下さった天国のたとえ話を思い起こしていたのでしょう。敵であるサタンが良い麦の中にこっそりと毒麦をまいていったというのです。麦が大きく育った時、毒麦も育ち、良い麦の妨げとなったという話でありました。(マタイ13:24〜30 新21)
* その時、どう対処すればいいか教えられているのですが、自分たちで判断して、それを抜き集めようとする必要はない、終わりの収穫の時に、毒麦は束にして焼かれるようになると言われているのです。
* 誰が、サタンから教会に送り込まれた反キリストなのか、私たち信仰者が詮索する必要はなく、ただ毒麦の影響を受けないように、内側に注がれた聖霊の助けを頂いて、真理の福音を確立し、そこに立ち続けるように向かうことが求められているのです。
* 反キリストが誰かを詮索する必要はないが、何が真理であり、何が偽りの教えであるかが分からなければ、キリストに属する者として、光の中を歩み続けることはできません。
* それ故ヨハネは、この時代に語られていた偽りの教えのどこに問題があるのか、そのような偽りの信仰は、どんな結果をもたらすのかを明らかにして、最初に受けた福音信仰に立ち続ける重要さを示していくのです。このことは、今日の私たちにおいても重要でありますから、ご一緒に考えていくことにしましょう。
(1)真理に対抗する偽り者
* サタンが送り込んできた反キリストたちを、ここでは真理に対抗する偽り者と呼んで、彼らが示している内容は、完全なうそとまやかしであることを明らかにしようとしています。
* 彼らは、イエスイコールキリストであることを否定し、神の子キリストは、イエスの公生涯において、すなわち、バプテスマの時に降り、十字架刑の前にイエスの肉体から去っていったという一時的降臨だと教え、生まれた時も、死んだ時も、人間イエスとしてであったと言うのです。
* これは、イエスが神の御一人子として、神性を持ったまま、肉体を取って、この地上にキリストとして来て下さったという福音の最も重要な部分を根底から覆す教えなのです。
* イエスが、神の子キリストそのものであったということを信じない者は、ご自身の一人子イエス・キリストをこの地上に遣わされ、人類救済のための供え物とされたという、神の御心を否定するものであり、神性を持ったまま人間の姿を取って下さったという御子を否定することになるのだから、そういう人たちは、福音を退けることによって、反キリストであることを明らかにしていると言いました。
* このことを明らかにしようとしたのは、肉体を持った人間イエスが、神性を持った存在であると信じるよりも、元々人間であったイエスに、一時的に神の霊が降臨し、神なる存在として御国の福音を宣べ伝えられた、と考える方が理解しやすいと思う思いが肉の心の中に残っているからです。これは、納得しやすいかしにくいかという人間の思いに重きを置いた見方に引っ張られてはならないことを示そうとしたのでしょう。
* 世の思いを残している人間は、ともすれば、理性で納得しやすい方を選ぼうとしやすいのですが、キリスト信仰は、たとえ不可解に見えても、それが神によって啓示された福音であるかどうかという視点から見るように求められているのです。
* イエスが神の子キリストとしての、神性を持ったお方でなかったとしたなら、キリストのあがないのみわざは大事なものではなくなり、神のご計画である、過去、現在、未来に至るキリストによる全人類の救いのみわざの完成にならないことになります。
* 偽りの教えにおいては、イエスは人類の救済者となられたお方ではなく、神の国について教える一介の教師に過ぎず、「わたしと父とは一つである」(ヨハネ10:30 新157)と言われ、神と本質的に一体であることを示してこられたイエス・キリストは、ペテン師であり、神を示す存在として「わたしを見る者は、わたしをつかわされたかたを見るのである」(ヨハネ12:45)との言葉も否定するのです。
* ここから見えてくる偽りの教えを語る人たちの思いはどのようなものであったかを考えて見ますと、自分が罪人と判定されていることを否定し、神についての知識が増し加わり、悟りを得ることによって神に受け入れて頂く者にされるとの知識信仰に立ち、救済者としてのキリストは不要だと考えていたのでしょう。
* 彼らは、キリストを否定しているとは考えてはいないけれども、肉体を取ってこられたキリストがイエスであると言うことを否定し、人間イエスに、一時的に神なるキリストが降臨して、神的力を帯びたと考えたのは、罪からの救いを必要と考えていない彼らにとって、罪から救うために神性を持ったイエス・キリストが十字架にかかられたという 事実は、必要がなかったからです。
* 彼らにとっては、神が人間に何を求めておられ、どのようになれば神との交わりが回復するかということはどちらでも良かったのです。自分たちにとって、何を悟れば自分が成長し、神に認めてもらえるかという自己高揚(自分を高めていくこと)の方が大事であったのです。
* このことは、形を変えて今日においても神の御心から離れた自己高揚信仰に立つ人たちが多くいることを思わされるのです。そのような人たちにとっては、罪からの救済はそれほど重要なことではなく、自分を高めることだけに心を傾け、神を利用し、その結果、イエスがキリストであることを否定することになるのです。
* 実に、反キリストの教えは、罪人となった人間の心の中にサタンが植えつけた教えの一つだと言えます。罪から目を逸らせ、自己高揚の生き方に目を向けさせる世の心がしっかりと残っているので、信仰者も、反キリストの教えに、知らず知らずのうちに引き込まれる要素を持っているということです。
* このように、ヨハネが、反キリストの教えを悪魔的だとして示してきたのは、神の求めておられる罪からの救済と言う最も重要な事柄から目を逸らさせようとする反キリストの教えが、すべての人の中に残っている世に、サタンがしっかりと刻み込んでいるという事実に気づかせようとしたのでしょう。
(2)偽りの教えに共鳴しようとする世の思い
* 反キリストの教えが恐ろしいのではなく、反キリストたちの教えに共鳴する世の心が、信仰者の内側にもなお強く残っているという事実の方が恐ろしいのです。
* 神のお心を第1に置き、神の求めておられることに心を傾けるということをやめると、すぐに内側から世の心が外にしゃしゃり出てくるのです。
* 自分の中にある世の心を、しっかりとつなぎとめていれば、反キリストの教えはそれほど恐ろしいものではなく、それがいかに愚かな偽りであるかを見分けることができます。今の時代はもっと多種多様な反キリストの教えがあらゆるところで蔓延していると言えますが、それを恐れる必要はないのです。
* もし反キリストの教えに引き込まれ、イエスがキリストであることを否定することになり、その結果、御父と御子とを否定することになった者は、せっかく罪の赦しを頂いて、父を持つ者とされたのに、父を持たない者に落ちてしまうと言うのです。
* ここで父を持つと言う表現が使われていますが、なぜこのような表現を使ったのかを考えてみることにしましょう。ヨハネは、これまでにおいて、御父との交わり、御子との交わり、時空を超えたわたしたちの交わりに入れて頂くことが、神の前に生きる者として、最も大事なことであることを示してきました。
* それならばここでも、イエスがキリストであることを否定することによって、交わりが断絶することになると言うべきであると思わせられるのに、御子を持たず、神を持たないことになると言いました。
* これは、自分の中にある世の心をしっかりとつなぎとめ、反キリストの思いが出てこないようにし、神が示して下さったお心として、人類救済のみわざを完成して下さったイエスを、神性を持っておられるキリストとして認め、罪の赦しを頂いた者として、3重の交わりの中に入れて頂いている驚くべき事実を手放さず、しっかりと強い信仰的意志を持って握っていることの大事さを示そうとして「持つ」「所有する」という言葉を使ったのでしょう。
* 自分の中にある世の心を閉じ込めず、反キリストの思いが外に出ることにより、神のお心を僅かでも否定するようになれば、神をしっかりと握っていることにはならず、与えられている3重の交わりが失われていくのです。すなわち神と直結させて頂いて、神からいのちと力とが流れ込んでくる状態にして頂いているのに、世の思いが出ると、神との直結がそこで途切れ、父を持たない者となるのです。
* 世の心を抑え、積極的に神を持つ信仰的意志を現していくならば、神は惜しむことなくいのちと力とを私たちの内側に流し込んで下さり、恵みに満ち溢れ、喜びと感謝に躍る者として下さるのです。
* イエスがキリストであることを否定せず、信じて受け入れていくだけではなく、ヨハネはもう一つの言葉を付け加えて、理解させようとしています。それは、「御子を告白する者は、また父をも持つのである」と。
* 確信して告白していくことが、内にある世の心を抑えるのに非常に効果があります。パウロもローマ10:10において、口で告白する信仰がいかに重要であるかを述べています。(新246)それは、内に残っている世の心に負けない信仰を、口で告白することによって強められるからです。
* ヨハネが、反キリストたちの惑わしに注意せよと言うだけではなく、彼らの教えがなぜ偽りだと言えるのか、その内容を検証しようとしたのは、その内容のくだらなさを明らかにするばかりではなく、それに共鳴しようとする、信仰者の内側に残っている世の心を、出さないようにしなさいと勧める意味もあったことが伺えます。
(3)最初に聞いた福音にとどまっていること
* こうして信仰者の内側に残っている世の心をしっかりとつなぎとめ、御子が神性を持った偉大なお方でありつつ、私たちを罪から救うために、自らを犠牲にして、あがないのみわざを成し遂げて下さったお方であることを告白しつつ、神を持つことが、光の中を歩むために最も大事なことであると示してきたのです。
* ヨハネが手紙を書いている相手先教会の信仰者たちは、最初福音を受け入れた時は、何の疑いも抱かず、神の愛の大きさに圧倒されつつ、その恵みの素晴らしさを喜んで、信仰に生きていたのです。
* それが、教会の中に入り込んできた反キリストたちに惑わされ、動揺させられる者が起こされ、教会全体が荒波のように揺れるようになったのです。これは、信仰者の内側になお残っている世の心が引き出される引き金となり、これでいいのだろうかと思う心が湧き上がってきたからです。
* そのような信仰者たちの心の変化を感じ取ったヨハネは、最初聞いた福音を疑うことをせず、そこにとどまり続けよと言うのです。反キリストたちは、最初聞いた福音は初歩だから、そこからもう一段、もう一段と成長していくことが大切だと言わんばかりに、最初の福音を徐々に変更して、別の方向へと進ませようとしてくるのです。
* 信仰の成長とは、福音がどんどん新しい内容に変わっていくことではなく、最初聞いた福音の中にとどまりつつ、より信頼し、より自分を明け渡し、より3重の交わりを深めていき、神からのいのちと力とを十分に受け取っていく歩みをしていくことなのです。
* それ故、最初聞いた福音にとどまると言うことは、決して停滞することではなく、その福音の中で、より深みを味わっていくことが成長であって、決して別の福音へと段階を駆け上っていくことなのではないと示すのです。
* ヨハネは、それが御子と御父との内にとどまることであり、それ以外の福音に進んでいくことではなく、御子と御父との中にとどまり、その中に置かれていることの幸いを、より深く味わっていくことなのだと言おうとしたのです。
* このことを勧めなければならなかったのは、信仰は、最初そのまま受け取って歩もうとするのですが、必ず途中から変形させようとする働きかけを受けることになるとヨハネには分かっていたのです。
* いつの時代においても、マンネリを嫌い、変化を求める世の心を持っているのが人間ですから、変形させようとする働きかけを受けることを知って注意が必要です。マンネリを恐れず、変化を求めず、最初に聞いた福音にとどまっていることが最も重要なことだと言うのです。
(結び)キリスト信仰はシンプルなもの
* 教会には、必ず敵が夜こっそりとやってきて、毒麦の種を蒔こうとする、と言われたイエス様のお言葉を知っていれば、注意力が養われ、サタンの惑わしに引っかかることもないでしょう。
* もちろんそのためには、惑わされやすい要素として、サタンが植えつけた世の思いが、信仰を持ってもなお自分の中にしっかりと残っているという事実を理解し、偽りの教えに共鳴する世の思いが引き出されないように、世の思いをしっかりとつなぎとめておくことが重要であると見てきました。
* それだけではなく、マンネリを嫌い、変化を求める心も、サタンの残して行った性質ですから、最初聞いた福音にとどまることをせず、自己高揚の思いが強く、福音信仰を変形させようとする働きかけに揺さぶられないようにする必要があることも見てきました。
* ヨハネが示しているキリスト信仰は、シンプルなものでありました。神が示された福音を疑わず、こねくり回さず、そのまま素直に受けとめ、その福音にしっかりととどまり続け、その深みを味わって歩み続けよと言うものでした。
* しかし、人間の側が単純を嫌い、変化を求め、もっと成長を肌で感じることができるようなものとして要求し、悟りを得ることによって、より優れた信仰へと登りつめていくものを願う心を持っています。
* サタンは、反キリストたちを用いて、信仰者の内になお残っている世の思いに共鳴する内容を示して惑わそうとしてくるのです。自分の中にしっかりと残っている世の思いの恐ろしさを知って、見張り番を置いていない人は、いとも簡単にサタンの手によってひねられてしまいます。
* 神が約束して下さった永遠の命の完成にあずかることができる人とは、最初の福音にとどまり、御父と御子との中にとどまり、その深みを味わい続ける者に他ならないと話を結んでいます。
* 今日においても、サタンは反キリストを教会に蒔き、信仰者の内側になお強く残っている世の思いを引き出す惑わしの働きかけを続けています。
* 私たちは、父を持つことのできる福音にしっかりととどまっていて、喜び続けることができる信仰に立っているか、変化がなくても、より深みを味わう歩みをさせて頂いていると信じて動かないでおることができるか、私たちにも問われていると思えるのです。