聖日礼拝メッセージ
2012年6月9日 更新

聖 書 Tヨハネ2:26、27   (第13講)
 題 「聖霊を抜きにした信仰はあり得ない」


  (序)ヨハネの聖霊観

* 反キリストが大勢現れるようになる終わりの時代において、彼らの巧みな惑わし攻撃に注意する必要があることを語ってきたヨハネは、あなたがたが惑わされないで今日までくることができたのは、聖なるお方が注いで下さった油によって、真偽を見分ける霊的能力が与えられたからだと言ってきたのです。

* 主から油が注がれたという霊的恵みのすごさをすでに示してきたのに、その表現だけではまだ不十分だと考えたヨハネは、油の効力は、あなたがたが考えている以上に、すごいものなのだということを示そうとして、ここにヨハネの聖霊観を明確に述べていくのです。

* 20節の所でも学びましたが、3:24とか、4:2や5:7の箇所のように、直接的な表現で、御霊とか神の霊と言わないで、なぜ注がれた油と表現したのか、それは第1に、神の器としての使命を果たさせるための、神の選びという点を強調するためであり、第2は一人一人に油を注ぐという形で、聖霊の内住が示す意義を表そうとするためであったことを、心に留める必要があります。

* この油が持つ驚くべき効力を受け取っているか、もし受け取っているなら、惑わされることは決してないし、反キリストたちの勢いも収まると言うのです。

* ヨハネが示している聖霊観を、言葉だけで聞き流してしまうなら、それが私たちの聖霊観となってしまいます。ここに示されている油の驚くべき効力が、特別選ばれた人の上にだけ実現するものであるならば、それも仕方のないことですが、ヨハネがここで示しているのは、信仰者すべての人に注がれた油の効力として述べているものですから、これは、私たち自身のこととして考えなければならない聖霊観だと言えます。

* この聖霊観が、私たちの信仰として確立するならば、もはや惑わしに対する恐れは一切不要になり、今立っている所が、真理の福音に立つ信仰だと確信して進むことができます。今日は、私たちの聖霊観を確立していく意味で、ここからご一緒に学んでいくことにしましょう。


  (1)父の約束として信じて確認する

* ヨハネが、相手先教会の信仰者たちに、反キリストたちが語る偽りの教えに惑わされないように、いろいろな点から勧めてきたのは、現実に惑わされたり、心に動揺を覚えたりしている人たちが、そこにいたからであります。

* どうして彼らは惑わされたり、動揺させられたりしたのでしょうか。ヨハネが下した判断は、聖なるお方によって油注がれたという、信仰者として必ず立たなければならない重要な信仰状態が、まだ十分確立していなかったから、言わば、耐震強度が不足していたから、激しく揺すぶられたと見ていたのでしょう。

* 油が注がれるという霊的事実は、神の側において、一方的な恵みとしてなされる行為であって、決して人間の側の資質や、資格や、努力や、実績に対して与えられる褒美なのではありません。

* それでは、神の恵みによって油注がれたという霊的事実を、私たちはどのように認識することができるのでしょうか。もちろんこれは、霊的な事柄ですから、実感することはできません。神の約束を、間違いのない霊的事実として信じて受け入れるしかないのです。

* ということは、キリストを信じることによって、光なる神との結びつきを頂き、光の中を歩むようにして頂いた時、聖なるお方から油を注いで頂いたという、約束されていたことが霊的に事実となったということをそのまま鵜呑みにして、実感のないまま信じ続けることに他ならないということが分かります。

* 聖霊信仰の難しさは、そこにあると分かります。聖霊について約束されていることを本気で信じて、それが私の上にも実現したと、実感なしで確認することが、聖霊信仰の鍵であることが分かります。

* 私たち肉なる人間が、実感なしで、どうして確認することができるのでしょうか。普通に考えるならできないでしょう。確認する唯一の方法は、真実な、語られたことを必ず実現される神が約束して下さったことだと思えるかどうかにかかっていると聖書は示すのです。

* 信じることができるのか。実感がなくても、見える保証がなくても確認できるのか。それともやはり実感したり、目で確認したりできるものがないと信じることができないのか、それは、神の約束を本気で信じることができるかどうかという、神の真実への信仰があるかないかにかかっているのです。

* イエス様の下にいた弟子たちは、お世辞にも強固な信仰を持っていたとは言えませんでした。まして、イエス様が捕えられ、拷問を受けている時などは逃げ隠れし、おびえきっていたのです。

* そんな彼らであったのに、復活後のイエス様から、かねてから約束されていた父の約束を待つようにと聞いた時、(使徒1:4 新180)その時は12弟子たちだけではなく、他にも多くの弟子たちが加わっていたと思われますが、後には120人ほどの弟子たちが、イエス様のお言葉通り、父の約束を僅かも疑わず、本気で信じて待ったのです。

* 確かに、最初に現された聖霊降臨は、弟子たちの信仰を強める必要があったために、見える形と実感とが伴うものとして与えられたのですが、それは彼らが本気で、父の約束を信じて待ち望んだ姿を見て、主がそれに応えて下さったものであったことは事実です。

* キリスト信仰とは、神の約束を信じて、真実なる神を確認する信仰なのです。このことが分かったならば、聖なるお方から油を注いで頂いたという霊的事実は、約束によるものであるが故に、実感が伴わなくても実現したと確信し、神用の器として特別に選んで頂いた者であり、真理の御霊の内住により、神の知識を知る者とされたという事実に、喜び躍る者とされたことを確信することができるのです。


  (2)最高の私専属の家庭教師として活用する

* このような、ヨハネが示す聖霊信仰が、信仰者にとってなぜ重要なのかを考えてみなければなりません。というのは、人間の知恵、知識では、神のお心を知る能力は僅かもなく、そこに真理の御霊の助けなくして、神の示して下さった真理の福音を知ることができないのです。このことが理解できていないなら、神のお心を受けとめている信仰とは、到底言えないでしょう。

* 神は、人間をお造りになった時、神と交わり、神のお心を知って向き合うように、霊を持った存在としてお造りになったのです。しかし、罪を犯したことによって、人間の霊が活動不能状態になり、神との交わりが断絶し、神のお心を知る能力を全く失ってしまったのです。

* その妨げとなっていた罪を、キリストによるあがないの恵みを信じることによって取り除かれ、神との結びつきを回復させて下さり、霊が活動し始めたのです。

* けれども、一度全く停滞してしまった霊は、信仰によって回復して頂いても、その霊的能力はまだ貧弱で、十分神のお心を知るだけの能力が回復してはいないので、神は真理の御霊を、真理の教師として私たちの内に常駐させて下さることになったので、御霊の助けを頂きつつ、御心を知っていく者にされたのです。

* この構図が、ヨハネの思いの中にいつもあったので、「あなたがたの内に主から頂いた油がとどまっている」との光景は、聖霊が内にあって、いつも働こうと待ち構えて常駐して下さり、準備万端整った状態であることを示しているのです。

* しかしそれは、私専属の家庭教師のようなものでありますから、言わば、最も有効な道具のようなものですから、私たち信仰者の方が、自ら積極的にその道具を有効に用いようとしなければ、宝の持ち腐れとなってしまうのです。

* 神用の、神の役に立つ者として選んで油を注いで下さり、準備万端整った状態で常駐して下さっている真理の御霊に働いて頂いて、真理を受け取っていこうとするならば、もはや誰からも教えてもらう必要がなくなると言うのです。

* 真理を教えて下さる最高の教師は、このお方以外にあり得ない。そんなお方が、あなたがたの内に常駐して下さっているという事実に驚きと感激とを覚えるように示しつつ、油がとどまっている状態の素晴らしさを描いているのです。

* 信仰を持ったら、信仰者は、真理が全部分かるようになって、日々信仰生活において、すべての事柄において間違いのない判断を下し、神のお心に沿う生き方ができるようになり、何の問題も起きなくなると言っているのではありません。

* 確かに霊は、神との交わりを持つことができるように回復され、神の側においては問題なしと見られているのですが、霊の恵みを全部受け取ることができるほど霊が回復しているわけではなく、まだまだ貧弱な状態なのです。

* それではどうしたら貧弱な霊が育っていくのでしょうか。第1は、神のお心すべてをご存知である聖霊の助けがなければ、神のお心を見分けることができないと信じて、本気で聖霊の語りかけを聞こうとすることです。

* 第2は、常駐して下さっている最高の家庭教師に頼り切るのではなく、上手に用いることです。第3は、その時々に神の御心を教え示して下さる教師の導きをしっかりと霊に刻んでいくことです。第4は、霊に刻んだものを時と状態に応じて応用していくことです。

* もう少し説明が必要でしょう。第1と第2は、聖霊が教えて下さることを本気で信じることが何よりも重要なことですが、かと言って、いつまでも真理の御霊に頼り切るのではなく、上手に用いることが必要なのです。聖霊は私たちの固まった霊をほぐし、神のお心を受けとめることができる霊に育てようとして下さっているからです。

* それ故、いつまでも、主よ教えて下さいと頼り切るのではなく、聖霊が長い年月をかけて私の霊を育てて下さっていると信じて、これまでの導きを基に、自分の霊を十分に働かせる向かい方をしていくことが重要になってくるのです。

* ヨハネ14:26(新166)において、「父がわたしの名によってつかわされる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、またわたしが話しておいたことを、ことごとく思い起こさせるであろう」と言われたイエス様のお言葉が記されています。

* 聖霊は教えるだけではなく、思い起こさせると言われて、私たち信仰者が、聖霊の助けを頂いて、自分の霊を十分に働かせ、神のお心を正しく受けとめることができるようにして下さると言っているのです。頼り切るのではなく、自分の霊が御心に沿って働き出すように、聖霊の助けを上手に用いることが大事なのです。

* 第3と第4は、示された真理の導きをしっかりと霊に刻み込んでいくとは、せっかく神の御心を教え導いて下さっている聖霊のお働きを、その場限りのものにしてしまわないように、その原則をしっかりと自分の霊に刻み、霊が成長していくように創意と工夫とを持って向かい、次の機会において、その原則を土台にして応用していこうとすることです。これが、霊の成長につながっていくのです。

* せっかく、最高の私専属の家庭教師として、24時間休みなく常駐して下さっている聖霊を、正しく活用させて頂くことができないなら、聖なるお方から注がれた油が、形だけとなり、虚しく地に流れてしまうことになります。これほど霊的に無駄な生き方はないでしょう。


  (3)聖霊は神の真理をすべて教えて下さる

* 最高の、私専属の家庭教師である聖霊が教えて下さることは、真実であって、偽りはないとの言葉を、27節に添えているのですが、ヨハネは、なぜその言葉を添える必要があると考えたのでしょうか。

* もし家庭教師の教えてくれる内容を信用することができないのであれば、家庭教師を持つ意味がありません。もし、聖霊が必ずその時々において教えて下さるという事実と、その内容とを信用することができないのであれば、私たちは家庭教師を抜きにして、自分だけを信じて向かわなければならなくなります。

* しかし、神のお心を知る知恵も知識もない人間が、自分の知恵、感覚だけを頼りとして、すべてのことを判断して向かわなければならないのであれば、それは悲惨というしかありません。それはあたかも、宝くじのように、当たる可能性はゼロではないが、ほとんど期待できない、宝くじ人生のようになってしまうからです。

* 世の生き方をするのであれば、自分の経験と知識による判断を頼りにするしかないのですが、神のお心を理解することと、正しい生き方を求める信仰者にとっては、神のお心を理解できない自分の知識、経験、感覚だけを頼りとして歩もうとすることは、それは、目をつぶって歩くような頼りないものだと言えるでしょう。

* 聖なるお方によって注がれた油についての、彼らの信頼度の薄いことが、ヨハネにとって非常に気がかりだったのでしょう。確かに、これまで聖霊の導きを頂いてきたからこそ、惑わしを受けても、真理の福音から離れなかったのです。ということは、彼らは聖霊の助けを認識していたから守られたのです。

* けれども、聖霊が、神の真理を何の欠けもなく、この私たちに、すべてを完全に教えて下さることができると本気で信じる信仰に立っているかと言えば、その信頼度は弱く、聖霊から真理を奪い取っていこうとするほど飢え渇いているようには感じられず、彼らの、聖霊に対する信頼度の低さをヨハネは感じ取っていたので、彼らにそのことに気づかせようとしたのでしょう。

* ヨハネ16:13に語られているイエス様のお言葉を本気で受けとめる必要があることを、ヨハネは心の中に思い浮かべていたことでしょう。(新168)「真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれる」と言われているのです。私たちは、御霊が、本当にあらゆる真理に導いて下さると信じているでしょうか。

* 私たちは、聖書を読んでも、すべて分かるわけではありません。また、信仰人生において出会う事柄において、すべて回答が見えるわけではありません。なのに、聖霊はあらゆる真理に導いて下さると語られているのはどういうことでしょうか。

* 聖霊は神ですから、神のお心がすべて分かっています。その聖霊が私たちの内に24時間態勢で常駐して下さり、神のお心を教えて下さるというのですから、あらゆる真理に導いて下さる条件が完全に整っているのです。

* 後は私たちの側で、私たちの人生を、最高のものに導こうとしておられる神のお心について、すべてご存知である聖霊に対して、私たちが絶大な信頼を置き、聖霊から必要な神のお心を、その時々において、すべて聞き取っていこうと本気でよりすがり、飢え渇いて求めていくかどうかにかかっているのです。

* 聖霊は、私たちの霊に働きかけて下さり、霊が活性化していって成長していくように、神の御心を示し、その偉大な御力を明らかにすることによって、私たちの霊を高めて下さるのです。

* それ故、聖霊の働きかけを一時的なものしてしまわないで、私たちが受けた恵みを味わい、喜び、霊に刻み、それを積み上げ、深めていくことによって霊が育てられていくものとして受けとめるならば、神のお心を知っている者として、すなわち真理の福音に立っている者として、大胆に告白していくことができるのです。

* もちろん、霊が育てられたといっても、それで聖霊の助けが全くいらなくなるのではありません。より神のお心の深みを知っていく者へと育てるために、真理の御霊のお働きはとどまることなく続けられるのです。


  (まとめ)

* ヨハネが示してきた聖霊観は、私たち人間の足りない所、無知な所を聖霊が補って下さるという程度のものではありませんでした。それは、真理の御霊のお働きなくして、私たち人間は、神のお心を僅かも知ることはできないという衝撃的なものだったのです。

* それ故、聖霊が私たちの内に常駐して下さって、私専用の家庭教師となって下さらなければ、主を信じることもできないし、神を見上げて生きることもできないと言うのです。

* すなわち、聖霊を抜きにして信仰はあり得ないし、最高の人生を送らせようと示されたキリストの福音を、僅かも信じることができないと言い切っているのです。そのことはパウロもはっきりと言っています。(Tコリント12:3 新270)「聖霊によらなければ、誰も『イエスは主である』と言うことができない」と。

* しかもヨハネは、必要な神の御心を、聖霊はすべて教えて下さると言って、私たちの人生において必要な御心を全部教えようとして下さるお方として、私たちの内に常駐して下さっていることを明確にしています。

* 私の知恵によって、真理の福音に立つことができなくても、聖霊が私たちの内に、最高の教師として、24時間常駐して下さることによって、私の霊は活発にされ、真理のすべてを知っている者のように大胆に主を告白して、キリストの証人として生きることができるのです。

* 聖霊の助けを本気で飢え渇き、信頼して歩むというのは、私の霊と聖霊とが2重写しとなって見えるようになっていくことなのです。

* この聖霊信仰に立って歩んでいるなら、サタンの惑わしも、どんな働きかけも、恐れる必要がなく、勝利者とされているとの強い確信に満ちて歩むことができるのです。

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