聖日礼拝メッセージ
2012年6月9日 更新

聖 書 Tヨハネ2:28、29   (第14講)
 題 「神から生まれた者として生きる」


  (序)聖霊信仰が薄められていった理由

* ヨハネは、聖なるお方から注がれた油の持つ驚くべき効力について、伝えずにはおれない思いにされたのは、それは、信仰者たちの聖霊に対する信頼度が、少し低いことが気になったからです。

* どうして相手先教会の信仰者たちの聖霊信仰が、最初の頃より薄められてしまったのでしょうか。それは、見える形と実感が伴わないことに、頼りなさと不満とを抱くようになっていったからだと思われます。

* しかし、この聖霊信仰が不安定になると、霊の成長はストップしてしまい、サタンの思う壺となってしまうのです。それは、教えられた真理の福音に忠実に従うためには、聖霊のお働きを信じる信仰が欠かせないものであり、この信仰が伴わなければ、キリストの内にとどまる歩みが不安定になってしまうからです。

* 神の子として、光の中を歩み続けるために大事なことは、真理の福音に立ち続けることだと言ってきたのですが、終わりの時代も、より惑わし攻撃が激しくなってくる第2段階に突入した厳しい状況に置かれていることを自覚し、聖霊の助けなくして乗り越えることができないことを示してきたのです。

* このように勧めているヨハネの思いは、せっかく真理の福音に立ち、3重の交わりの喜びを味わいつつ歩み出したとしても、道半ばでその歩みが頓挫してしまうならば、せっかく走り出したのに、目標地点に到達できない惨めな結果に終わってしまいます。そうなってほしくないという思いが強くあったのです。

* ヨハネは、君たちの信仰人生なのだから、君たちの好きなようにしなさいと投げ出すような言い方はしませんでした。神があれほどの犠牲をも惜しまず、サタンの手から買い取って、神の子としての恵みを受ける者にさせようと手を尽くしてこられた一人一人であるのだから、その神の愛のお心を思えば、投げ出すことなどできなかったのです。

* そこで彼ら自身に、神が示された目標地点目指して走り続けることの大事さに気づかせようとし、どのような信仰姿勢を保って走り続けることが重要なのかを示そうとするのです。

* この時代よりもさらに終わりの日に近づいている時代に生かされている私たち信仰者にとっても、自分のこととして受けとめていかなければならないと思わされるのです。


  (1)初めから終わりまで変わらない信仰の継続

* 前回の所において、あなたがたは聖なるお方から油注がれた者ですから、神に与えられた使命を果たす者として選ばれただけではなく、聖霊の内住を頂いた者として、その恵みを十分に活用させて頂き、彼の内にとどまる歩みを続けなさいと言ってきたのです。

* このことが、いかに大事なことであるか肝に銘じていたヨハネは、その同じ言葉を、今日の箇所でも繰り返し、そのことの重要さを強調しようとしていることが分かります。

* この彼とは、キリストのことを指していると考えられます。それ故、キリストの内にとどまるとは、キリストとの深い結びつきの中におり続けることだと言っているのでしょう。

* ここでの強調は、最初に、福音を通して頂いたキリストとの深い結びつきによって、神から注がれるいのちと光とによって輝かせて頂くようになった歩みを、途中で変形させたり、逸れたりせず、その状態を最後まで継続し続けることの大事さを示そうとしていることが分かります。

* 前節とのつながりから考えてみて、注がれた油を通して教えられているように、キリストの内にとどまるようにという勧めは、聖霊が教えて下さった真理の福音にしっかりと立ち続けるようにという勧めであることが分かります。

* 聖霊が教えて下さる真理の福音に立ち続けることが、キリストの内に継続してとどまることと言い換えて言おうとしたことは、真理の福音から逸らさせようとする闇の働きかけが激しくなっていく中で、動かされず、惑わされず立ち続けることができるのは、自分の努力によってではなく、恵みによってキリストの中に置いて頂いているという事実を確認させて下さる、聖霊の助けによるものであることを示そうとしたのでしょう。

* 28節では、キリストがもう一度現れて下さる再臨の時に言及し、目標地点である終わりの日において、裁き主キリストの御前に引き出された時に、確信を持って、これは「大胆に」とか「率直に」という意味を持った言葉ですから、大胆に主の恵みにあずかっている者として告白しつつ、喜んで立つことができるか、それとも主の御前に顔を上げることができない者として立つかどっちかだと言うのです。

* この表現は、キリストが私たちをどう裁かれるかという点に重点が置かれているのではありません。私たち信仰者の側が、私は主の恵みにあずからせて頂き、終わりの日に至るまで、キリストの中に置いて頂いて導かれてきましたと大胆に告白する者として立つことができるか。

* それとも、最初は真理の福音に立たせて頂いていたが、キリストだけでは救いが不十分だと考え、他の教えの方に心を動かされた歩みをしてきたので、キリストの御前に立たされた時、恥ずかしくて顔を上げることができない思いで立つかどっちかだと言うのです。

* 再臨のキリストの前に立たされる情景を示す必要を感じたのは、信仰者の歩みのゴールにおいて、キリストに受け入れて頂いてこそ、信仰は意味のあるものになるが、最初はよくても、途中から歪んだり、変形したりしてゴールに到達しなければ、それは全く意味のない歩みとなるということを考えさせようとしたのです。

* キリストは、光の中を歩むその道中をも、判断材料として見ておられるのですが、終わりの日に至るまでのすべての歩みを見て判断され、裁かれるのです。途中まで福音に沿って歩んでいたが、途中から逸れてしまったのでは、確信を持ってキリストの御前に立つことはできないでしょう。

* だからヨハネは、初めから終わりまでキリストのうちにとどまるという信仰の歩みを挫折することなく、継続させることが重要であることを示し、その歩みだけが、喜びを深めつつ、喜びと確信とを持続することができる歩みであることを示して勧めているのです。信仰は、初めから終わりに至るまで変わらない継続が求められているものであることを、私たちも肝に銘じている必要があるのです。


  (2)義を行う者とはどういうことか

* キリストが、終わりの日に裁き主となってこられることを示したヨハネは、このお方の裁きは、神の義にかなった者であるか、そうでないかという、神の視点から見られる義によって、判定をなさるお方であることを明らかにするのです。

* 道徳的に正しいかどうかという判定ではなく、神の義にふさわしい者であるかどうかという点が、裁きの尺度であることを示しているのはなぜでしょうか。

* これは、神が人間に求めておられる存在価値が、義という一点でしかないことを明言されるためであったことが分かります。罪の奴隷となり、闇の支配の中で生きるようになった人間が持つようになった存在価値は、神から思いが離れてしまっているので、世にあるもの(富、地位、名誉、生きがい、幸福など)を所有することでありました。

* ヨハネは、そのような闇人間が持っている存在価値である世の欲は、人間の価値を高めるものではなく、世的人間に引き落とすためのものでしかなく、世と世の欲とは過ぎ去ってしまうもの、消えてしまうものだと2:16の所ですでに語ってきました。

* キリストの内にとどまる生き方をしようとしない闇人間にとっては、世と世の欲とを求める以外に、何の喜びも楽しみもないのです。

* しかし、すでに闇の中から移し変えられて、光の中を歩むようにして頂いた者にとって大事なのは、神は、どのような姿を存在価値のある者として見られるのかを知ることであります。それは、義を持って生きるようになっているかどうかという一点なのです。

* 再臨のキリストが尺度とされるものが、この義だけであることが分かっていれば、光の中を歩む信仰者にとって、終わりの日が来た時に、義を持つ生き方が継続されているように、心を傾けていく必要があることが分かります。

* それでは、私たちは終わりの日が来た時に、義を持っている者として、キリストの御前に立つためにはどうしたらいいでしょうか。そのことは、パウロが明確に語っています。ローマ1:17(新233)「神の義は、その福音の中に啓示され、信仰に始まり、信仰に至らせる」と。

* そして3:22では、「それはイエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、すべて信じる人に与えられるものである。そこには何らの差別はない」とまで言って、私たちの罪を赦すために血を流して下さったイエスを信じる者を、神は義として下さったと言っているのが分かります。

* このように、再臨のキリストが義なるお方であると示すことにより、裁きの尺度が、キリストを信じて神の義を頂いた者にされている状態が継続されているどうかの一点だけを見られるという神のお心を示そうとしたのです。

* ヨハネは、神に義とされた状態の継続を、「義を行う者」と表現しています。これは、神の義を頂いたという恵みの状態を喜び、神に受け入れて頂いていることの確信にあふれ、そこから離れたり、逸れたり、疑ったりしないで、その信仰を保持し続けていこうと努力することを指して、義を行う者と言ったのでしょう。

* もちろん、神の義を頂いたという霊的事実を喜ぶ者にされたならば、神が求めておられるきよい言動を表す者になりたいと思わされるようになるのですが、そう思うようになったからといって、神の忌み嫌われる姿を現さない、義を行う者になれるというわけではありません。

* それ故、ここでの義を行う者とは、恵みによって神の義を頂いた状態を、保持することに全力を注ぎ、その上で、神が求めておられるきよい生き方をしたいと真剣に願いつつ、聖霊の助けがあることを信じてきよく生きていくように努力していく姿を現すことだと言えるでしょう。


  (3)神から生まれた別人生として歩む

* このような意味で、義を行う者は、みな神から生まれた者であることの証拠だと言って、再臨のキリストの御前に立たされる時まで、キリストの内にとどまり、光の中を歩み続けることができるのは、神がご自身にとって大事な子として生まれ変わらせて下さったことによると言ったのです。

* なぜヨハネは、神の義を頂いた者として生きるようになっていることを、神から生まれた者の証拠であると言おうとしたのでしょうか。これは、相手先教会のクリスチャンたちが、自分の決心や、抵抗によって偽りの教えを排除してきたと思わせないためであることが分かります。

* あなたがたが、そのような正しい判断を示し、惑わしに引き落とされなかったのは、聖霊を宿す者として、神によって生まれた者となったからであって、親から生まれた子供は親の遺伝子を受け継いで生きているように、神から生まれた者は、神の義の性質を受け継ぎ、神に義として頂いたという霊的事実を最も大事にする者として生んで頂いたという信仰をしっかりと握って生きるようにされていると言うのです。

* ヨハネは、この後も、3:9,4:7,5:1,4,18において、神から生まれた者という表現を、意義深い表現として使っています。これは、自分の思いで新しく生まれ変わったのではなく、すべて神の側の意志とあわれみによって生んで頂いたのだと言うことにより、神の激しい愛を示そうとしていることが分かります。

* 聖霊を宿している信仰者を、神から生まれたと表現することによって示そうとした第1のことは、信じただけでは何の変化もなく、きよい生き方も伴わず、新しく生まれ変わったという実感は持てなくても、神によって肉的な要素から全く解放された、全く新しい存在として生まれた者にされていると、その霊的な面を明らかにしています。

* 第2は、罪人なる人間は、闇の支配から逃れることはできないが、神との交わりが回復した、神のご性質を受け取っていく者として、神が生んで下さったことにより、光の支配の下に移し変えられた者となったことを分からせようとしています。

* 第3は、神から生まれたということにより、神が、ご自身から生まれた者を、生涯の終わりに至るまで責任を持って養育して下さり、大人になれば霊的に自立した者として導き、使命を与えて、それを果たすことができるように働き続けて下さると、生んで下さった責任を果たそうとされる神の御思いも、その表現の中に込めているのでしょう。

* 罪人であったあなたがたが、人から生まれた罪の奴隷でしかなかったのに、自分の内側に起こされた、キリストを信じ、キリストの内にとどまろうとする信仰の思いを大事にして踏み出した時に、あなたがたは神から生まれた者に造り変えられたのだよと示すことによって、人間的には小さな変化に見えることであっても、出所が全く変わったというとんでもない違いにより、神によって生まれたという別人生にされていることを自覚しなさいと示したのでしょう。


  (まとめ)立っている位置、恵みの状態の確認

* 私にとって大事な子供たちに、このことはぜひ知ってほしい、自覚してほしいと願って、今日の内容を示してきたヨハネでした。ヨハネの目から見れば、ある霊的な大事な事柄に対して目が開かれていないと、自分の立っている位置も、与えられている恵みの状態もよく見えず、信仰の力が消されてしまうと見ていたのです。

* その霊的な大事な事柄としてヨハネは、第1に、キリストの内に継続してとどまるということが、どういうことなのか知ってほしいと願い、第2に、私たちは義なるお方の御前に立たされている者であることを示し、第3は、神から生まれた者として全く別人生を歩むようになったことを示してきました。

* ヨハネは、相手先教会のクリスチャンたちの信仰を見ていて、これらの点について十分目が開かれていないのを感じていたので、確信と自覚とが少し薄れることによって、信仰の力が消されていくことがないように、そう思って勧めてきたのです。

* 自分の立っている位置、置かれている恵みの状態がよく見えていないと言うことは、信仰者にとって致命的な欠陥となってしまいます。

* もちろんこのことは、最初から分かるわけではありませんが、真理の福音一つ一つを霊に刻んでいく歩みをし、福音に沿って歩んでいこうとする時、聖霊の助けによって、これらのことが見えてくるようになっていくのです。

* そして、見えてきたならば、確信と自覚とを増し加えていくように、自らの霊によく言い聞かせ、その恵みを喜び、告白し続けていくならば、その歩みは確立していくのです。

* ヨハネが求めていたのは、このことであり、それは、今日の私たちに対する勧めでもあると言えるでしょう。もし自分の立っている位置、置かれている恵みの状態がよく見えていないなら、神から生まれたという驚くべき信仰人生を生きていないことになります。

* 神は、私たちが以前、世にいた者として、世と肉の名残に振り回されやすい者として生きているのをご存知です。そんな私たちを飽きられず、見放されず、あなたがたは、もう私が生んだ子なのだよ、私から生まれた子として、これまでと全く別の人生を生きることができる位置に、あなたがたを立たせているよと言って下さっているのです。

* この置かれている恵みの状態が見えているなら、サタンの支配する世に遣わされていても、天国人としての祝福された人生を歩むことができると確信できるのです。

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