聖日礼拝メッセージ
2012年6月9日 更新

聖 書 Tヨハネ3:1〜3   (第15講)
 題 「神の底知れない愛の大きさを見ているか」


  (序)霊的な事柄に対する鈍さ

* 前回の所で、神の義を頂いた者としての歩みをするようになったのは、神から生まれ、神の義の性質を受け継ぐ者として神に生んで頂いたからだと言ってきました。

* これは、新しく生まれ変わったという実感がなくて確信できず、光の支配下に移し変えられているという霊的状態も見えず、神が最後まで責任を持って養育して下さるという信頼感が薄れてきていた相手先教会のクリスチャンたちに対して、自分たちが信仰によって立たせて頂いている驚くべき恵みの状態に気づかせようとするためであったということが分かります。

* 今日の所は、私たちがその恵みの状態に置かれるためには、神の側で、どれほどの愛を持って働きかけて下さった結果であるかに目を向けさせ、その事実が、終わりの日において恵みの状態を完成させて下さるという希望をもたらすことを示し、そのためには、この地上に置かれている信仰人生において、何に心を向けて歩まなければならないかを示そうとしています。

* せっかく神の深いあわれみのお心により、こんな私たちを、神の義の性質を受け継ぐ者として生んで下さったという恵みの状態を示しても、その素晴らしさが見えず、その状態を喜ぶことができないなら、それは豚に真珠、猫に小判でしかありません。

* 霊的な事柄に対して鈍いままであると、先の希望すら正しく期待して待ち望むことができず、内から出てくる肉の思いに妨げられて、この地上における信仰生活も無力なものになってしまうとヨハネは考えていました。

* それ故ヨハネは、相手先教会のクリスチャンたちの霊の目が開かれ、霊的状態を確認できる者になってほしいと願い、その歩みを大事にするために、今何を心がけていなければならないかを教えようとしたのが今日の内容であります.

* 時代は異なっていても、今日の私たち信仰者にとっても大事だと思われる神からの語りかけを、私たちもここから、聞き取っていく必要があると思われます。


  (1)与えられた特別の恵みの状態を疑わない

* 罪に汚れた私たちが、神から生まれた神の子としての恵みの状態に置かれるために、神はどれほど大きな愛を現して下さったかよく考えて見なさいと言っています。よく考えて見なさいと訳されているこの言葉は、文の最初に置かれ、見なさいと強い調子で言っている言葉です。

* 霊が鈍くて気づこうとしていない部分が見られるので、しっかり目を見開いて見なさいと語りかけているのです。

* 何を見なさいと言っているかと言いますと、神の子にするなど到底考えられない罪深い素材を、驚くべき御力によって、神の義を受け継ぐ、神から生まれた者にしてしまわれたという、その愛の大きさ、すごさを見なさいと言っているのです。

* どのようにして見ることができるのでしょうか。これを見ることができないなら、神のして下さった事が何も見えていないことになります。目をしっかりと見開いてみよと言うのです。

* この当時の信仰者たちも、実際にイエス様を見たこともないし、イエス様が私たち罪人の身代わりとなって命を捨てて下さった事を見たわけではありませんでした。

* ヨハネや他の伝道者たちを通して、神がご自身の大事な御一人子を犠牲にしてまで、私たち罪人の罪をあがない、信じる者を神の子にして下さったという福音を受け入れただけです。

* その福音から、神のすごい愛を見なさいとはどういうことでしょうか。ペテロが手紙を書き送ったクリスチャンたちも同じ状況にありましたが、その人たちに対して、ペテロは次のように言っています。

* Tペテロ1:8,9(新366)「あなたがたはイエス・キリストを見たことはないが、彼を愛している。現在見てはいないけれども、信じて、言葉に尽くせない、輝きにみちた喜びに溢れている。それは、信仰の結果なるたましいの救いを得ているからである。」と。

* ここから分かることは、神の愛の大きさを感情で受けとめ、深く感動しなさいと言っているのではなく、信じた結果与えられたたましいの救いから、すなわち、私を罪の奴隷として縛っていた罪から解放され、信仰の喜びに溢れさせて頂くために、こんな愚劣な私のために神がして下さった救いのみわざを見て、その愛の大きさを受けとめ、しっかりと見ていなさいと言うのです。

* 本来なら、救う価値がなく、信仰も薄く、一度信じても疑ったり、迷ったりする可能性のある人間であることをすべてご承知の上で、それでも神の子と呼ばれる者にするために、神のして下さった事は、底知れぬ愛という他ない。このことを見なさい。それが見えていれば、神の愛をおろそかにすることはないと言おうとしたのです。

* 私たちのような者が神の子と呼ばれ、その特権にあずかることができるのは、神の愛のみわざによって実現されたことだから、間違いなく事実だと再確認させようとしているのは、彼らに少し揺れ動く所が見られたからでしょう。

* 神がこんな私たちのために与えて下さった特別の恵みの状態を、僅かも疑わず、自分の不確かそうな姿を見せられたとしても、心揺すぶられることなく、大胆に、私は神の子だと言いなさいと勧めようとしていることが分かります。


  (2)キリストの栄光を反映する者に

* 私たち信仰者が、神の愛のみわざを信用して、この私は、神の子にされていると大胆に告白したとしても、世の人はそれを認めるわけではありません。私たちの人間的な弱さ、貧弱さ、足らなさを見て、神の子だなんてちゃんちゃら可笑しいと言うでしょう。

* そう言うのは当然です。世の人が私のことを、神の子だと判別できないのは、そうして下さった父なる神を知らないからです。人がどう見ようと心揺すぶられるな。神がして下さった事を信じなさい。とてつもなく素晴らしい愛を持ってなして下さった恵みのみわざを信用せよと言い続けているのです。

* 確かに、世の人が私たちを見て、神の子だと思えないばかりか、自分で自分を見ても、あまりにも神の子らしくない、肉の思いと言葉と行いとが満ちていて、いやになる時があるぐらいですから、本当に神の子にして下さったと言えるのか、心が揺すぶられます。

* もし世の人の判断や、自分の判断の方を信用して、神の愛のみわざの方を信用することができなかったらどうでしょうか。私たちは、与えられた恵みの壇上から、自らの意志で降りてしまうことになるのです。

* 私たちが、人の目や自分の判断から解放されるかどうかが、神の子と呼ばれる者にされたことを確認できるかできないかにかかっていると言えるでしょう。神が、私たちのことを神の子と呼んで下さっていることを、本気で信じることができるかどうかが問われているのです。

* ただヨハネは、神の子と呼ばれることは間違いないが、この地上にある間の私たちの霊的状態がどのようになっていくのか、明らかではないと言います。

* こう付け加えたのは、神が、私たちを神の子と呼んで下さっても、この地上に置かれているが故に戦いがあります。地上での戦いは各々異なっており、必ずしもみんなが順当に成長し、問題がなくなっていくとは限らず、様々な道を通されるので、すべてが明らかではない。順調に行くこともあれば、順調に行かない時もあると言うのです。

* しかし、終わりの日が来たならば、キリストが現れ、信仰者はすべてキリストの栄光に照らし出され、一瞬のうちにキリストに似た者に変えられるという驚くべき栄化(栄光の姿に変えられること)について語っているのです。

* キリストが再臨して下さった時、信仰者はキリストのまことの姿を見ると言います。これはキリストのそのままの姿ということで、神の栄光に輝くお姿を指していますが、そのキリストを救い主であり、神であり、支配者であると仰ぎ見ることによって、キリストの栄光が信仰者の上に反映し、キリストと同じ姿に変えられると言うのです。

* もちろん同じ姿と言っても、外観のことではなく、罪がなく、永遠性を持ち、神に対して真実で義なる存在となるという、同じ栄光に満ちた姿であることが分かります。そのことは、パウロもUコリント3:18で(新281)新改訳で見ますと「私たちはみな、顔のおおいを取り除けられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに、姿を変えられていきます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです」と言っています。

* この地上における、終わりの日に向かっての途上人生は様々であるから、明らかではないが、最後はみな同じ栄光体に変えられるという確かな希望があることを、ヨハネは知らせているのです。

* このことを示すことにより、どのような信仰人生を通されていても、到達地点は信仰人生の究極目標である人間性の完璧な回復です。すなわち、キリストと同じ姿に変えられることですから、その希望に心を躍らせている者でありなさいと言っているのでしょう。

* この霊的な事柄を正しくイメージして、その究極目標に到達するまでの途上人生であることを心に思い浮かべながら、今を生きるように示されているのは、今日の私たち信仰者においても同様だと言えるでしょう。


  (3)自らをきよくしていく歩み

* この希望を抱いて生きようとする信仰者は、今置かれている所において、何を心がけて歩み続けなければならないかに言及していくのです。

* というのは、究極目標に到達するまでのその途上にある信仰人生において、いい加減な向かい方をしているならば、目標地点に到達できなくなるから、このことが大切だと示すのです。

* 確かに、神の子と呼ばれるようにして下さったのも、神の大きな愛のお蔭だし、終わりの時にキリストの栄光を反映してキリストと同じ姿に似せられるのも、御霊なる主の働きによると言われているので、どちらも神の側のお働きによるものでありますが、究極目標に到達するまでのこの地上に置かれた信仰人生において、人間の側が適当にしていてもいいと言うのではありません。

* 神の側の一方的な恵みの働きかけも、私たち信仰者の側の真剣な、希望を望み見て向かう姿勢を見て、それに応えようとして下さるものであることを忘れてはならないでしょう。それ故ここでは、キリストがきよさを貫き通されたように、自らをきよくする生き方が求められていると言うのです。

* 自らをきよくするとはどういうことでしょうか。ここで言われているきよさとは、この言葉は倫理的にも、儀式的にもきよくあろうとしていくことを意味していますから、自分で意識的にきよくあろうとして生きなさいと言われていることが分かります。

* これを理解するために、倫理的にきよくあろうとする向かい方について取り上げられているTペテロ1:22と、儀式的にきよくあろうとする向かい方について取り上げられている使徒21:24から見てみることにしましょう。

* 第1の、Tペテロ1:22において、「あなたがたは、真理に従うことによって、たましいをきよめ、偽りのない兄弟愛をいだくに至ったのであるから、互いに心から熱く愛し合いなさい」と言われています。

* 積極的に、真理の御言葉に従っていこうとするならば、たましいをきよめると言うのです。すなわち、真理のすごさの前に、自己主張を捨てて降参し、真理に従っていくならば、この私という存在そのものが神用としてきよくされると言います。

* そのように、神用にされた者としてきよくされているという所に立っていれば、道徳的、倫理的にもきよくあろうとする歩みになっていくのです。すなわち、神用としてきよくされているという、神の子としての位置を意識し続けているなら、道徳的、倫理的にきよく生きる向かい方にされていくのです。

* 第2の、使徒21:24において、「彼らと共にきよめを行い、また彼らの頭をそる費用を引き受けてやりなさい」との誓願を立てるようにとパウロに勧めた、エルサレム教会の長老たちの言葉が記されています。ここで言うきよめとは、神の聖さにあずかる儀式を指しています。その儀式を行うことによって、神からきよいと見て頂くのです。

* 神の前にきよめの儀式を行うことによって、神の御前に出ることが赦され、きよいと看做して頂くのですが、新約においては、そのような儀式的なきよめがなされなくなり、それに代わって、使徒15:9に「信仰によって彼らの心をきよめ」とあるように、信仰によってきよめられているという強い意識を持って向かうことが大事だと分かります。

* これらのことから考えてみて、自らをきよくしなさいとは、真理の前に降参し、真理に従っていこうとする歩みのことであり、信仰によってきよめられているという強い意識を持って、きよく生きていこうと向かうことだと理解できるのです。


  (まとめ)神の子としての意識を強くする

* ヨハネは、クリスチャンたちに、神の子と呼ばれるようにして頂いたという、その恵みの状態に置かれている意識の薄さが問題だと見ていたのです。

* どうして彼らは、神の子としての意識が薄かったのでしょうか。それは人の目を意識し過ぎ、自分への自己判断に囚われてしまっていたので、神が計り知れないほどの愛を持ってみわざを進めて下さった結果を信用することができず、見えない、実感できないというだけで、神の子とされている自分を信用し切れなかったのでしょう。

* 神の子としての意識が薄いなら、神の子としてきよめられていることも意識できず、聖霊によって、きよい生き方をしようという思いも起こされてこないのです。

* 神の子としての意識が薄いなら、終わりの日に、キリストの栄光の反映を受けて、キリストと同じ姿に変えられるという希望に満ち溢れることもありません。

* どうしたら、神の子としての意識が強くされ、終末の希望にあふれ、きよい生き方に向かうことができるのでしょうか。それは、福音の中に明らかにされている、神のとてつもなく深くて、大きい愛を受けとめることによって、おのずと神の子としての意識が強くされると考えられるのです。

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