(序)信仰用語の表す真意を理解する
* ヨハネの使う信仰用語を十分に把握していないで読むと、真意を捉えることができず、このような言葉は到底言えないと思ってしまう表現がいくつもあります。今日の6節の表現などは、本当にこのように断言できるのか首を傾げさせられます。
* 新改訳聖書などは、このようなヨハネの断言に抵抗があったのか、そのまま訳さないで、理解しやすいように、「誰でもキリストのうちにとどまる者は、罪のうちを歩みません」と訳しています。しかしこれでは、ヨハネが示そうとした意図が失われてしまいます。
* なぜヨハネは、このような抵抗のある表現で断言したのでしょうか。その表現によって福音の何を示そうとしたのでしょうか。相手先教会のクリスチャンたちに対して、どのような信仰理解が必要だと考えて、このような理解しにくい表現を使ったのでしょうか。これらの疑問を解き明かしていく必要があります。
* そして、今日の私たち信仰者も、日々内側から出てくる罪の思いと戦わされている現実を突きつけられている歩みの中で、このように信仰によって断言できるのか、断言することによって、私たちはどのような信仰理解に立って、この地上にあって歩み続けることができるのか、これらのことを確立せずして歩むことはできないでしょう。そのことをご一緒に考えていくことにしましょう。
(1)いつでも肉が吹き出てくる状態だと理解する
* ヨハネは、これまでキリストの内にとどまり続けることの重要性を知ってほしいと、繰り返し勧めてきました。それは、その重要性に気づこうとしないで歩んでいる彼らの様子が見られたからでしょう。
* 前回の所では、神の義の性質を受け継いでいる、神の子としての人生を生かされているという事実に目を向けさせ、その歩みが継続するためには、自らをきよくする歩みが必要であることを語ってきたのです。
* このように勧めてきたのも、彼らが、神の子として特別の恵みの状態において頂いているとの意識が薄れてきていたから、偽教師たちの教えに揺すぶられたり、福音から離れて行ったりする原因だと見ていたからです。
* キリストの内にとどまり続ける歩みにおいて、もう一つ考えておかなければならないことは、罪から解放された信仰者に対して、なお働きかけてくる罪について、どう考え、どう対処しているべきか、この難しい問題に取り組んでおかなければはならないことを示そうとしたのです。
* すでに1:8〜2:2の所で、罪について取り上げていました。しかしそこでは、偽教師たちの罪についての間違った考え方に反論するという形で罪問題を取り上げたのです。
* しかしここでは、自らをきよくする生き方をしていこうとするならば、霊は、神との正しい関係が回復して、神の力と、光を受けて輝く状態にして頂いたのですが、心と体とはなお罪に汚染されていて、いつでも肉が吹き出てくる状態のままなのです。
* それ故、それを抑制せず、罪を垂れ流しているなら、せっかく頂いた義を投げ捨てて、不義に生きようとすることになると言うのです。
* 肉は死火山になってくれればいいのですが、休火山か、ともすれば活火山となり、そこから噴出してくるマグマで、自分だけではなく、周り中にも被害を及ぼしかねないものだと気づいていなければならないのです。
* キリストの内にとどまる歩みが確立し、自らをきよくする生き方が軌道に乗ってくると、休火山から徐々に死火山になりかけていくのです。もちろん、罪の働きかけは、内にあるマグマを引き出そうとしてくるのです。
* だからヨハネは、はっきりと言うのです。自らをきよくする生き方をしようと心がけ、神の子としての意識を強くし、終末の希望にあふれ、真理の御言葉の前に降参し、信仰によってきよめられているという意識が確立していくならば、罪は沈静化するが、それをせず、平気で罪を犯しているならば、神の前に不義なる者と見られ、見捨てられると言うのです。
* 4節にある不法という言葉は、ここでは神の律法に違反している状態を指しています。すなわち内からあふれ出てくる罪を押さえ込むことをせず、平気で罪を犯す者は、神の前に律法違反を犯していることになると言うのです。
* 更に、罪は律法違反そのものだと言い切っています。これは、肉体を持っている限り、罪は仕方のないもの、霊さえ神と結びついていればいい、そう軽く罪について考えるように教えていた偽福音に心を奪われようとしている人たちに対して、罪を犯す者は、律法違反者だとして、神が見捨てられることを断言しているのです。
* それでは、自らをきよくする生き方に向かっていれば、罪を犯すことなく、神から律法違反だと見られないでおることができるのでしょうか。肉が残っているので、やはり罪を犯してしまいます。それでは、神から見捨てられない姿を現すためにはどうしたらいいのでしょうか。
* 罪を犯さない人間は一人もいません。信仰者も、罪を赦して頂き、神の義を頂く者となったのですが、罪を全く犯さない歩みができるわけではありません。であれば、神から不義なる者と見られるしかないのでしょうか。その解決策として、この地上に人として来臨して下さったキリストによる救い主としてのみわざに再度言及するのです。それを見ていくことにしましょう。
(2)罪のないキリストの内にとどまる
* ヨハネが、信仰を持っている人たちに対して、救い主キリストのあがないのみわざに再度言及しているのは、キリストのあがないのみわざは、罪人であった者を罪から救い上げて下さるという驚くべき偉大なみわざであると共に、そのみわざの効力はそれだけではないことを示すためであることが分かります。
* 罪人の罪を赦し、罪から解放し、罪から救い上げて、神の義を頂いた者として下さるみわざであると共に、その信仰に立って歩み、キリストの内にとどまる歩みをする者の内に、なお出てこようとする罪を、仕方のないものとあきらめることをせず、不義なる者とならないために、そのあがないのみわざは、なお別の効力を発揮し続けて下さっていると言うのです。
* それはどんな効力なのでしょうか。「罪を取り除く」とあるこの言葉は、複数の罪、すなわち諸々の罪と言い、過去、現在、未来に至るまでの犯すであろう罪も含めて、すべての罪を取り除いて下さるのです。ということは、信仰を持った後も、罪を犯し続けることが最初から神には分かっておられるから、罪を取り除いて下さると言っているのです。
* というのは、取り除くという言葉は現在形で書かれていて、日本語で言うならば、現在進行形で書かれており、罪を取り除き続けて下さるという継続性が示されていて、信仰を持った時、それまでの罪を取り除けて下さっただけではなく、最後まで罪を取り除き続けて下さるという驚くべき救いのみわざであることを取り上げているのです。
* このように、キリストのみわざは1回限りでありながら、その効力は永遠に亘るものであることは、ヘブル書の著者も語っています。(9:12 新351)「ご自身の血によって永遠のあがないを全うされたのである」と。
* これは、信仰を持った後の罪さえも、取り除き続けて下さって、罪から完全に解放されている者として、すなわち、神の前に義なる者として歩むことができるようにして下さっている点を明らかにしているのです。
* しかし、この後、文のつながりが切れて、「キリストには罪がない」と言うのです。これは6節につながり、罪のないキリストの内にとどまっている人は、罪を犯し続けることはありませんと、内容がつながっていくのです。
* 永遠のあがないを頂いた信仰者は、過去や現在の罪だけではなく、将来の罪をも取り除き続けて頂いていると信じているから、内に潜む肉の思いが噴出してきたとしても、罪を犯している者として責められることなく、すでに罪を取り除いて下さっているものとして、罪を見ず、永遠のあがないの血を見るのです。
* この生き方が、罪のないキリストの中にとどまっている人の姿として、罪を犯し続けない姿だと言うのです。これは、神の側においては罪を取り除き続けて下さるのですが、そのことが実現するためには、すなわち、永遠のあがないの効力が最大限に発揮されるためには、人間の側が、罪のないキリストの中にとどまり続けようとする強い意志を働かせる必要があることを示しているのです。
* 罪のないキリストの内にとどまり続けるとは、具体的にどうすることでしょうか。それは、自分の思いを出さず、神の御思いだけを追い求められたキリストのことを、罪のないキリストと呼んでいることから分かります。
* それはクリスチャンたちが、偽教師たちが語る、彼らの肉の思いから出た教えに惑わされ、罪を犯し続けている姿が見えていたから、罪のないキリストが現された神の御思いを追い求められる姿に、焦点を当てたのでしょう。
* そのキリストの内にとどまり続けるとは、自分の思い、すなわち肉の思いが出ようとするのを押しとどめ、神の御思いを追い求める姿を現していくならば、罪が取り除かれ続けているので、罪を犯し続けない者になったと言うのです。
* 自分の思い、肉の思いが出なくなって罪を犯さなくなったとは誰も言えないでしょう。罪の影響が残った心と体とを持っている信仰者から、肉の思いが出てこなくなるということはありません。ということは、罪を犯さない歩みができるわけではないのです。
* しかし、キリストの永遠のあがないの血は、その罪をも取り除き続けて下さっているので、出てもすぐに消去されており、罪を犯し続けない者と看做されているのです。
* この信仰に立って、自分を責めず、肉の思いに引っ張られず、すでに解決済みとの強い意識を持って信仰に立ち続けることが、罪のないキリストの内にとどまっている歩みだと言えるのです。
(3)霊の目が開かれる経験
* このような、キリストの内にとどまっているという強い意識を持たず、肉の思いが出やすく、肉の思いに引っ張られやすいことに注意せず、神の御思いだけを追い求めるキリストの御足の跡をついていこうとしないなら、信仰を持つことによって、罪から解放されたはずなのに、信仰を持ってから後の歩みにおいて、出てくる肉の思いに振り回され、罪を犯し続けることになってしまうのです。
* この当時の相手先教会のクリスチャンたちの中で、信仰を持ってから後の、罪の処理ができず、人間的に理解しようとして、体を持っている限り、罪を避けることができないので、それは仕方のないことだという教えの方に心を向ける人たちが出てきたのです。
* ヨハネは、このような人たちのことを、罪を犯している人と称し、すべて罪を犯す者は、キリストを見たこともないし、知ったこともない人であると決め付けています。どうしてこう決め付け、神に受け入れられない罪人に逆戻りするなと言ったのでしょうか。
* ヨハネがキリストを見る、キリストを知ると言っているのは、霊的な意味であります。ペテロは、ダビデの歌として詩篇16篇を引用し、「わたしは常に目の前に主を見た」と言いました。もちろん実際に見たのではなく、霊によって見たと歌っているのです。(使徒2:25 新182)
* 霊でキリストを見る、キリストを知ると言っても、すべての信仰者がそれを理解することができるわけではありません。すなわち、霊で体験すると言われてもピンと来ないので、軽く聞き流してしまうのです。こういう人のことを、ヨハネは、ここで罪を犯している人と言っているのです。
* 霊でキリストを見る、キリストを知るとはどういうことでしょうか。ヨブの言葉から考えて見ることにしましょう。ヨブは、神のことがよく分かっていた信仰深い人でありました。しかし神によりすがっていた者に対する神の仕打ちが、家族が巻き込まれる災害、耐え難い病などが続き、神が見えなくなってしまったのです。
* そんなヨブが、神の明確な示しを通してはっきりと悟ってこう言ったのです。(42:5 旧749)「わたしはあなたの事を耳で聞いていましたが、今はわたしの目であなたを拝見いたします」と。ヨブはこれを境に神を見、神を知る者に変えられたのです。信仰が大きく変わったのです。
* ここから分かることは、ヨブは、神を肉眼で見たわけではありませんでした。人間の知識で理解したわけではありません。霊で神が見え、霊で神を知ったのです。分かっていたつもりであった部分が、聖霊の助けによって目が開かれ、悟ったのです。
* ヨハネは、偽教師たちの人間の思いから作り出された教えに心を奪われた人たちを、罪を犯す者と呼び、そのような人間の知恵で分かっていたつもりで、自分の肉の思いを引き出し、神の御思いを退けてしまった人々は、霊の目が塞がれ、霊の心が塞がれている者だと指摘したのです。
* 霊の目が開かれる経験、霊の心が開かれる経験、これがなされない限り、私たちは分かっているつもり、知っているつもりの信仰にとどまり、罪から解放して頂き、永遠のあがないの血によって罪を取り除き続けて下さっていることを本気で受けとめることができないのです。
(まとめ)
* 罪のないキリストの中にとどまり続けることが、罪問題を解決する唯一の方法であることをヨハネは示してきました。
* 信仰を持った後も、自分の思い、肉の思いに引きずられ、罪を犯させようとしてくる働きかけに負けず、神の御思いを追い求め続けられたキリストの御足の跡を従うことによって、勝利の歩みをするように語ってきたのです。
* 信仰者も、頭では分かっていても、霊の目、霊の心が塞がれているならば、肉の思いが強く吹き出て、主への信頼心が奪われそうになってくるのです。
* 罪を犯さない歩みができるように、永遠のあがないの血は働き続けられ、罪を取り除き続けて下さっていることが分かるならば、もはやサタンのどんな働きかけも恐れる必要はなくなります。
* キリストを見、キリストを知った信仰者として、永遠のあがないによって、罪が処理されていることを信じ、罪を犯さない者として生かされていることがどんなに素晴らしいことか、その喜びを頂きつつ歩み続けて行きたいのです。