聖日礼拝メッセージ
2012年6月9日 更新

聖 書 Tヨハネ3:7〜10   (第17講)
 題 「神の種が持つ罪浄化能力」


  (序)単純明快な見分け方

* ヨハネが使う表現は、なぜ難解なのでしょうか。それは、人間の側からの視点による表現ではなく、神の側からの視点による表現を使っているからなのです。そこに立って読まない限り、混乱してしまい、誤解を生むことになります。

* 相手先教会のクリスチャンたちは、ヨハネが心血注いで伝道し、導いてきた大事な子供たちでありました。そんな彼らが、悪魔による巧みな教えに惑わされたり、騙されたりしてほしくない思いが強いのもうなずけます。

* なぜ彼らが、騙される危険性があると考えていたのでしょうか。それは、人間には神から生まれた者の言葉であるか、それとも悪魔から出た者の言葉であるか、それを見分ける能力を持ってはいないから、それを聞くだけで判断し、見分けることは至難の業であったからです。

* しかし、これを見分けることができないなら、それは霊のいのちにとって死活問題となるのですから、難しいからと言って、放置していい訳ではありません。しかも、悪魔から出た者の教えの方が、人間には納得しやすく、受け入れやすいものですから、騙されやすいのです。

* それでは、どうしたら見分けることができるのでしょうか。ヨハネは、非常に簡単なリトマス試験紙があると言うのです。その液体がアルカリ性であるならば青色になり、酸性であれば赤色になるという試験紙のことですが、それと同様に、罪を犯す者は悪魔から出た者であり、義を行う者は神から生まれた者であるという、単純な判定方法を示しているのです。

* 神から生まれた者は罪を犯さない。いや犯すことができないとの表現は何を意味するのでしょうか、そのことを通して信仰者たちにどのような信仰に立たせようとしたのでしょうか、前回の学びと合わせて、今日の箇所を正しく捉えることができないなら、ヨハネが明らかにしようとしていることが何も分からないことになります。

* 信仰者の、どういう姿が罪を犯さない姿なのか、信仰者のどういう姿が義を行う姿なのか、今日の私たち信仰者においても、悪魔から出た者ではなく,神から生まれた者であることを確信して告白するために、今日の箇所の理解が重要になってくると言えるでしょう。


  (1)罪を犯さない者と断言できるのか

* この当時のクリスチャンたちが騙されそうになっていた原因は、罪問題がなくならず、いつまで経っても尾を引いていたことにありました。

* 信仰者になったことによって、神の導きを日々求め、きよい生き方をしたいと願いつつも、自分の中から出てくる肉の思いに悩まされ、罪を犯さない生き方ができない無力さを感じさせられる中で、どうしたら罪を解決している者として歩むことができるのかという一点でありました。

* これまで聞いてきた福音では、その解決方法が分からず、別の教えによって示された解決方法が、肉体は悪で、魂は悟ることによって神に受け入れられ、肉体という牢獄から解放されるので、悪である肉体が罪を犯したとしても問題にはならない、それ故、罪を犯す自分を責める必要がないと言う、都合のいい受け入れやすいものでした。

* このような偽福音を伝えていた人たちは、罪を犯しながら、これは肉がしていることであるから、何ら問題ではないと、罪に対して平気になるように解決方法を示し、信仰者を引き込もうとしていたのです。

* このような考え方が、神のお心を無視した、いかに愚かな教えであるかということを、ヨハネは騙されそうになっている信仰者たちに気づかせようとしているのです。

* それ故ここで、非常に簡潔な表現で持って、神のお心を示そうとしたのです。肉体は悪だから、罪を犯してもいいとは神は言われません。罪を犯す者はすべて悪魔から出た者だからだと言います。そして、すべて神から生まれた者は、罪を犯さないと。

* 6節の所でも、キリストにとどまる者は罪を犯さないと断言していましたが、この犯すという動詞が、動作の継続を表す現在形で書かれているから、罪を犯し続けることはないと強調していると捉え、これは習慣的、常習的な罪の事を指していて、罪を犯すことがあっても、常習的に、故意に罪を犯したのではなく、もう犯さないようにしようと、信仰によって、罪を憎む思いで対処しようとするようになることが、ここで言う罪を犯さないという意味だと考える人たちがいます。

* またある人たちは、ここで言う罪とは、悪質な犯罪や取り返しのつかない罪のことを指し、そのような罪を犯さなくなることであって、小さな罪のことは含まれてはいないと理解する人や、またある人たちは、ヨハネは理想論としてクリスチャンであるなら、罪を犯すことがないと訴えていると理解する人もあります。これは、このような断言する言葉が、いかに難解であるかを物語っています。

* これは、罪を犯すという言葉の反対語として書かれている、義を行うという表現から理解する必要があります。義を行うとは、倫理的、道徳的に正しいことを行う意味で使われているとは考えられません。

* というのは、2:1の所では、「罪を犯さないようになるためである。もし、罪を犯す者があれば、父のみもとには、わたしたちのための助け主、すなわち義なるイエス・キリストがおられる」と書いています。

* 3章では、神から生まれた者は、罪を犯さないと断言しているのに、ここでは、もし、罪を犯す者があればと言って、全く罪を犯さなくなると言ってはいないのです。

* ただ、もし罪を犯しても、私たちには神の義を与えて下さった義なるイエス・キリストが、いつも父のみもとにいて下さって、その罪を、永遠のあがないによってすでに処理済として取り除いて下さるので、神の目から見て、罪を犯さない者、罪を犯すことができない者として見られていると理解するように示していることを、すでに6節の時に学んだ通りだと思わされるのです。

* 倫理的、道徳的に罪を犯さなくなることはできないし、信仰的にも、揺すぶられたり、疑ったり、つぶやいたりする所があって、罪を犯さなくなってはくれません。罪を犯したくないと願いながらも、倫理的にも信仰的にも罪に落ちてしまいそうになるのです。

* 神の目から直接見れば、それは罪ある者、不信仰な者、汚れた者としか写らないのですが、信仰者には、間に入って下さる義なるイエス・キリストがいて下さるので、罪が処理され、罪を犯さない者と見て下さるのです。

* すなわち、罪を犯したくないと思いつつも、その愚かさを現してしまう者のために、すでになされた永遠のあがないのみわざによって処理して下さるのです。それを信じているならば、罪を犯さない者、義を行う者と見て下さっていると言うのです。


  (2)悪魔とキリストとの激しい魂の取り合い

* このように、罪にまみれた人間を救い出されるだけではなく、何と、罪を犯さない人間にしてしまわれたという、キリストの驚くべき永遠のあがないのみわざについて、ヨハネは明らかにしてきました。

* このキリストの永遠のあがないのみわざにあずかろうとしない者のことを、罪を犯し続ける者、神に逆らい続ける悪魔から出てきた者だと言い、この地上には神から生まれた者と、悪魔から出た者との2種類しかいないことを示すのです。

* 神から生まれた者とは、前回、神の遺伝子を受け継ぎ、義の性質を受け継いだ者のことだと言いました。もう1種類の人々は、悪魔から生まれたとは言わずに、悪魔から出た者と言いました。これは出身地が悪魔であるとの表現です。

* すなわち、悪魔出身者ということで、悪魔の思いで満ち、悪魔に支配され、悪魔的な考え方しかできない者であることを示し、その人たちは神に逆らい、神に背を向け、罪を犯す生き方しかできないと言うのです。

* これは、悟ることによって魂は神に受け入れられていると言いながら、肉体は悪だから、罪を犯すのは仕方がないこととして割り切って向かおうとしていた人たちに対して、神はそのようには見てはおられない。罪を犯し続けるあなたがたの姿を見て、神は、悪魔の思いで満ちている悪魔出身者だと見ておられると言うのです。

* キリストがこの地上に、神の子として現れて下さったのは、悪魔出身者の者を、神から生まれる者に造り変えるためであり、悪魔出身者を用いて、悪魔の勢力を増し加えようとし、神と対等に戦おうと、戦いを挑もうとする悪魔の働きを骨抜きにするためであったと言います。

* このように、悪魔は、悪魔出身者を確保するだけではなく、神から生まれる者に造り変えるために、キリストに奪われた魂を、罪の問題を処理できない思いに追い込んで、再び取り戻そうと働き続けているのです。

* すなわち、私たちの見えない所で、悪魔とキリストとが激しく火花を散らしています。キリストはご自身のあがないのみわざで、悪魔のわざを押さえ込み、勝利されたのですが、悪魔は簡単にあきらめず、奪われた魂を再び取り戻そうとして、罪を犯させ、罪から解放されないつまらない信仰人生だと思わせたり、肉体は悪だから、罪を犯すものだと神に逆らう思いを導き出したりして、神から生まれた者の喜びを持てないように働くのです。

* そのような悪魔の働きかけに動揺させられず、神のお心に逆らう教えに惑わされず、神から生まれた者は罪を犯さないという、キリストによる永遠のあがないのみわざのすごさをしっかりと受け取って、信仰の喜びに満ち溢れた歩みをしてほしいと、ヨハネは願っていたのです。


  (3)神の種が内にとどまっているか

* 神から生まれた者は、なぜ罪を犯さないと言い切れるのでしょうか。その明確な理由を、ヨハネは、ここに提示しようとしています。それは、「神の種が、その人の内にとどまっているから」と言いました。

* 突然出てきたこの「神の種」という表現は、どういう意味でしょうか。あえて種という比喩を用いた理由も合わせて、考えてみる必要があります。

* 種と言えば、イエス様がたとえ話として語られた種まきの話があります。そのところで、「種は神の言である」とはっきりと示されています。(ルカ8:11 新98)ここでも神の種とは、神の言葉だと受け取ることができるでしょう。

* しかも種の性質を考えますと、神が種を植え付けられ、豊かな実りが得られることを待ち望まれている意味も含めて、たとえられていると見ていいでしょう。

* 神のお言葉、それは神の保証だと言えるでしょう。ヨハネがここで示している点から考えてみて、キリストによる永遠のあがないという、キリストのみわざの実現を、約束のお言葉を持って保証して下さっている、この種が内にとどまっていればと言っているのです。

* 神のお言葉が内にとどまっているとは、その人の中に受けとめた御言葉が拠り所となり、力となり、喜びとなって、しっかりと刻み込まれていることを意味するのでしょう。

* しかも種というたとえから、最初から完成したものではなく、成長し、豊かな実を結ぶようになっていくことが示されているのでしょう。

* 信仰者は、神から生まれた者とされても、見える形で分かるわけではなく、実感できるわけでもなく、なお内から罪が噴出し、弱さ、惨めさを感じさせられ、これでは罪から解放されたきよい人生を歩んでいるとは言えないのではないかと厳しい現実を見せられるのです。

* けれども、キリストによる永遠のあがないのすごさを疑わず、罪を取り除き続けて下さっているという霊的事実を信じ、罪を犯さない信仰人生を歩ませて頂いていると、本気で信じることができるかと問われているのです。

* それは、神の種が、内にとどまっているかどうか次第だと言っているのです。神の種が内にとどまっていないと、罪の実情を見せられては失望して落ち込み、惑い、振り回されるからです。それほど罪問題の処理は、信仰者にとって避けて通れない重要事項だと言うことを、ヨハネも指し示しているのでしょう。

* 神の種が持つ特別な、罪浄化能力が分からないなら、信仰者は救われて神の子とされても、内に残っている罪の根と、それを引き出そうとする悪魔と悪魔から出た者たちからの働きかけから逃れることができないので、平安はなく、罪から解放されることがないのではないかという疑いと不満とが押し寄せて、神から生まれたという事実さえ信じることができなくなってしまうのです。

* この私は、キリストによる永遠のあがないを信じ、過去、現在、未来に至る、私がこの地上において犯すであろうすべての罪を赦し、取り除き続けて下さることによって、神から生まれた者に保って下さり、神の種が内にとどまっていることにより、神の目から見て、罪を犯さない者、罪を犯すことのできない者と見て下さっているのです。

* 私たちは、自分がきよい生き方ができているから、罪を犯さない者だと言えるのではありません。私たちの罪を取り除き続けて下さるキリストのお働きにより、また、頂いた神の種により罪を犯さない者にして頂いたと告白することができるようにされたのです。


  (結び)神の真実なお心という保証

* ヨハネは、罪問題の処理ができていれば、神から生まれた者、できていなければ悪魔から出た者であって、その区別は明白だと言ってきました。これは、肉の目で判別できるものではなく、信仰による目で判別するしかありません。

* しかも、その区別は、神の種を内にとどめているか、そうでないかによって明らかだとも言ってきました。ヨハネがこれらの言葉を用いて語ろうとしてきたことは、自分が神から生まれた者か、悪魔から出た者か、よく考えて見なさいと、自分を見る目を持つように迫るためであったことが分かります。

* どうして信仰者は、せっかく神がキリストに犠牲を強いてまでも与えて下さった恵みの状態を、受けとめることができないのでしょうか。

* 神から生まれ、罪を犯さない者にして下さったという霊的状態を、目で見ることができず、実感できないばかりか、現実に罪を抑えることができず、これで罪を犯さない者と言えるのかというきよい信仰者らしくない自分の姿を見せ付けられると、神の保証も、実現していると言われている霊的状態も疑わしく覚えてしまうのはどうしてでしょうか。

* それは、神の保証を、神の真実なお心から出ている確かなもの、間違いのないものとして、本気で受けとめることができず、見えるもの、実感に頼る心を少し残しているからでしょう。

* パウロもたえず示してきたことですが、Tコリント1:8でも10:13でも言っています。神は真実なお方であると、この一点を見失ったら信仰は消えてしまうよと言っているのです。この言葉の重みを今日の私たち信仰者も忘れてはなりません。

* 真実なる神の保証は、私たちの感覚よりも確かです。罪を犯さない者、罪を犯すことのできない神から生まれた者にして下さったという恵みの状態を僅かも疑わず、罪から解放された者としての喜びに溢れて歩んでほしいとヨハネは願っているのです。それ故、私たちも罪から解放して下さった神の保証だけを頼りとして歩み続けたいのです。

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