(序)信仰の基本的な内容として
* ヨハネは、神から生まれた子供として生きるようにして頂いたことの幸いを、何とか分かるように伝えようと、あらゆる努力を重ねてきました。
* けれども現実には、神の種が植え付けられて、罪を犯さない者にして頂いたにもかかわらず、その福音の真意を受けとめることができず、現実に出てくる罪を解決することができず、肉の思いでごまかして、それを見ないようにしようとしている人たちが多くいたのです。
* そしてそれが、悪魔から出た者の範疇に入ることであり、神が見捨てられる者の中に、自ら進んで入っていくことであることを示し、神は、神から生まれた者か、悪魔から出た者か、2つに分けて裁かれることを語ってきました。
* それは、悪魔から出た者は、義を行わず、すなわち、イエス・キリストのあがないを信じることによって与えられた神の義を重んじる生き方をしようとしない愚かさを示すだけではなく、10節後半において、兄弟を愛そうとしないことは、義を行わない姿に匹敵すると付け加えたのです。
* 手紙を読む側においては、突然のように出てきたこの内容ですが、カインの例を挙げながら主にある兄弟として集められた者同志、互いに愛し合うように導かれていることは最初から教えられてきたはずだと、これまで語られてきた信仰の基本的内容へと引き戻そうとしているのです。
* この後から、兄弟を愛することがなぜそれほど重要な事柄だと示しているのか、そのことを説き明かそうとしていくのですが、今日の箇所は、その入り口の内容として、兄弟を愛さない姿というのは、義を行わない者としての姿を現す愚かさに匹敵する事柄であることに気づかせようとしているのです。
* もちろんこのことは、イエス・キリストを信じることによって、神との交わりが回復し、光の子として、この地上にあって生きるように導かれている私たちの歩みにおいても、いかに重要なものであるか、その入り口の内容としてしっかりと把握している必要があると思わされるのです。
(1)神の側に主導権をお渡ししているか
* 11節において、兄弟を愛そうとしない者は、義を行わない者に等しく、神に受け入れられることはないと示してきたのは、決して初めてではない、あなたがたが信仰を持つように導かれた最初から、このことは大事なこととして教えられてきた使信だと言います。
* なぜこのような言い方をしているかと言いますと、信仰者にとって、救いの恵みにあずかることを示す福音の基本的な内容だけではなく、光の子として生きるためには欠かすことのできない大事な内容として、最初から示されてきたにもかかわらず、そのことが彼らの中に全く建て上げられてはいなかったからです。
* 家の建築で言うならば、土台の上に、家を支える重要な柱が何本か必要でありますが、ある柱は重んじられても、他の柱は軽んじて、家を支える状態になっていないと言うのです。
* 人間というのは、賢そうでどこか抜けている所があります。神の側において、光の子として生きるために重要な柱として示されたとしても、受け取る側が、自分の感覚や知恵によって、これは大事だが、これはそれほどではないと仕分けして信仰を持とうとする所があることに気づいていなければなりません。
* というのは、信仰を持っても、なお理性が強く働き、理性的に納得しやすい、受け入れやすいものは大事なものとして受け入れますが、理性で納得しにくい、不可解な内容は敬遠しやすい肉の心が強く働くからです。
* 信仰者は、受け入れやすいか受け入れにくいかで判断したり、理性で納得できるかできないかで判断したりすれば、それは信仰ではありません。人間の判断が中心だからです。
* 神の側において、光の子として生きるために重要な柱として示された内容を、それがたとえ理性で納得しにくいものであろうと、信仰によって、神のお心として受け取っていく必要があったのです。
* この当時のクリスチャンたちにも、この点に問題があったから、信仰の家を建てる柱が立てられてはおらず、自分の好みに合わせた柱だけを重んじていたから、家が傾いていたのです。
* これは、パウロが語っている信仰の基本があやふやになっていた結果であります。パウロは言いました。「信仰は聞くことによるのである」と。(ローマ10:17 新246)人間の側の判断で必要か必要でないかを判断するのではなく、神のお心をそのまま信仰によって聞くことにより、それが信仰の柱となり、家が建て上げられ、ビクともしないものとなるのです。
* ヨハネは、今初めてあなたがたに語っているのではない、あなたがたが信仰を持った最初の時から、神のお心の重要な柱として、福音の根本として語り続けてきた。それがあなたがたにとって実を結んでいなかったので、ここでもう一度その重要性を示していると言っているのです。
* このことは、今日の私たち信仰者においても、陥りやすい罠であると言えます。人間の思いで聞いていると、いくら福音が語られても、聞く人の上に建て上げられてはいかないのです。信仰によって聞く、神が今私の状態を知った上で、私たちへのお心を示して下さっているお言葉だと信仰によっていくことが信仰者の聞き方なのです。
* 自分の関心度や、納得できるかできないかがポイントなのではなく、神の側に主導権をお渡しし、神が今この私に示そうとしておられるお心を、信仰によって受け取っていこうとする飢え渇きがなくして、人間的信仰以上のものにはならないのです。
(2)神から生まれた者として、兄弟愛を重んじる
* 兄弟を愛する歩みが、この地上にあって光の子として生きていくために大事な事柄であると示し、ただ耳で聞くだけにとどめてきた信仰者たちに対して、そのような聞き方をしているのは、自分の思いを大事にして行動を起こしてしまったカインと同じだと言うのです。
* どうしてヨハネは、カインの例がふさわしいと考えて取り上げたのでしょうか。兄弟を愛そうとしないことをそんなに重要だと思わなくなっていたクリスチャンたちに対して、それが、どんなに神のお心に反した姿であるか、また、光の子として生きる者にふさわしくない姿であるかを明らかにするために、自分の内から出る肉の思いに従ったカインを例に取り上げたのでしょう。
* カインは、弟アベルと共に生きるように導かれていたのに、カインは主へのささげもののことで、自分のささげものが神に顧みられなかった時、神との関係で自分の何が問題なのかを考えようとせず、弟アベルの方が顧みられたことを妬んで、弟に対して殺意を持ったのです。
* なぜ、共に生きる道を選ばず、内側に起きてきた肉の思いに従ってアベルを憎み、殺そうと考えてしまったのでしょうか。それは、カインが神との関係を最も大事なものとして捉えることができず、自分の内に起きてきた肉の思いを満たすことを優先してしまっていたからです。
* 人間の内には、起きてくる肉の思いを満たしたいと願う強い心がありますから、それを抑えることをせず、肉の思いのままに生きるならば、優先しなければならない神との関係が崩れてしまい、肉に囚われた生き方しかできなくなるのです。
* このような生き方をする者は、悪魔から出た者だからだと言っています。ヨハネが言おうとすることは、その人が悪魔から出た者だから肉の思いを重んじて生きることになるのだと言うのです。
* 段々肉の思いに生きるようになってしまったから、悪から出た者だと言われるようになるのではない。悪魔から出た者としての生き方から抜け出ようとしないから、肉の思いを満たす生き方しかできないと言うのです。
* すべての人は、生まれた時、罪人として生まれているので、悪魔から出た者なのです。しかし、イエス・キリストのあがないの恵みにあずかり、罪赦された者となった時、神から生まれた者に変えられたのです。
* 神から生まれた者は、内側に起きてくる肉の思いを抑え、神が起こして下さる霊の思いを大事にし、それを満たしたいと願って歩む、光の子としての生き方をするようになるのです。
* しかし、形はクリスチャンと呼ばれるようになっても、内から出てくる肉の思いを抑えようとせず、それを満たそうとするカインと同様の歩みをする者は、神から生まれた者に変えられてはおらず、悪魔から出た者のまま生きていることになると言います。
* その見える一つの形が、兄弟を愛するようになったかどうかで分かると言うのです。というのは、内から出てくる肉の思いでは兄弟を愛そうとすることはなく、自分の都合を最優先し、損得や利害で量り、決して兄弟への配慮と兄弟を大事に思い、共に生きようとする兄弟愛は生まれてはこないのです。
* 神が、その人の内に霊の思いを起こし、神が合わせられた兄弟として向き合おうとする時、兄弟愛が生まれてきて、互いに愛し合おうとするのです。それ故、神から生まれた者同志は兄弟愛を重んじるようになり、悪魔から出た者の間では兄弟愛は生じないとカインの例を用いて明らかにしようとしているのです。
(3)測り知れない連鎖と結合の世界
* ヨハネは、なぜそれほど兄弟が互いに愛し合うことを重要視したのでしょうか。これは、ヨハネがこれまで福音の中心的な内容にかかわっているものとして、伝えてきたものであったからです。
* というのは、永遠の命であるイエス・キリストがこの地上に来て下さり、あがないのみわざを成し遂げて下さったのは、御父との交わり、御子との交わり、時空を超えた私たちの交わりという3重の交わりにあずからせて下さるためであったと言ってきました。
* すなわち、神との結びつきの回復と、弱さ、足らなさをなお持ち続け、肉の思いに振り回されやすい部分を持ち続けている私たちを、神と結びつけるとりなし手となって下さった御子との結びつきだけではなく、時間、空間を超えたすべての信仰者の結びつきを与える神のみわざであったのだから、時空を超えたわたしたちの交わりは決して取り外せない重要な事柄だと示してきたのです。
* もちろん、時空を超えたわたしたちの交わりとは、見える形ではないが故に、今見える形で与えられている今の時に集められている主の群において、兄弟愛を持って向き合うようにされていることを、ヨハネは語っていたのでしょう。
* 時空を超えたわたしたちの交わりという、イメージができない、とてつもない深い交わりの中に入れられたという霊的事実は、私たちを、この地上にいながら、天上の結びつきの中で生かされているという、広大で、深遠、かつ測り知れない連鎖と結合の世界の中で生かされていることのすごさが分かるようにされ、天上人として互いに愛し合うことが、神の求めておられる交わりの世界だと言うのです。
* 現実に、私たちはその交わりの広大さ、深遠さ、測り知れない連鎖と結合の世界と言っても、どこまで理解できるのか、はなはだ心許無い感じがするのですが、深遠な神の世界の中に組み込まれているという、驚くべき事実を疑わず、その中に組み込まれた者同志の間で、互いに愛し合うことが、そこに組み込まれた者にとって非常に重要なこととして示されているということを、決して忘れてはならないでしょう。
* イエス様も、大事な戒めとして受けとめるようにと、こう言われています。「互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」と。(ヨハネ13:34)
* 兄弟が互いに愛し合うというのは、単に仲良くしましょうと言うのではありません。同じ連鎖と結合の世界の中に組み込まれたという霊的事実を信じた者同志が、主を愛するように、互いに愛していくことです。
* この意識が薄かったこの当時のクリスチャンたちは、イエス・キリストによる罪からの救いを信じたにもかかわらず、驚くべき深遠な神の世界に組み込まれたという大事な事実を聞いてきているはずなのに、そのことに目が開かれておらず、今もなお肉の思いを満たす向かい方をしていたので、神から生まれた者に変えられないまま、悪魔から出た者の領域内にとどまっていたのです。
* 3重の交わりにあずかることができるように示された福音を、一部だけであっても、自分の勝手な思いで受け入れなかったならば、神の求めておられる信仰にはならず、せっかくの恵みを落としてしまうことになってしまうのです。
* ヨハネの願いは、不信仰な姿を現している者を裁くことではなく、神のお心に沿った3重の交わりにあずかる信仰に立ってほしかったのです。肉の思いで神のお心を選り好みしないで、そのまま受け取って歩んでほしいと願っていたのです。
(まとめ)
* 相手先教会の多くの信仰者たちは、福音をしっかりと聞いていたはずなのに、肉の思いでそれを選り好みしたり、自分の思いが強くて軽く聞き流してしまったりしていたのが、他の教えに惑わされたり、信仰の確信を失ったり、引き落とされたりする原因となっていたとも言えます。
* 神が大事な福音として示された内容を、自分の思いで重要だと思うものや、受け入れやすいと思えるもの、理性で納得しやすいものは受け入れるが、そうでないものは敬遠するという、自分の思いを判断基準にした信仰は、神の啓示して下さった福音を信じる信仰ではなく、部分信仰、身勝手な信仰に過ぎないことをヨハネは明らかにしてきました。
* 肉の思いを重んじる生き方をしてきた彼らは、兄弟愛はそれほど重要ではないと考えていたのでしょう。そのような姿は、神のお心から遠く離れてしまっており、深遠な3重の交わりにあずかるという、神の愛から作られた福音の内容が虚しく地に落とされそうになっていたのです。
* 私たちの信仰は、自分の思いを判断基準にして選り好みしているものか、それとも、神の深いお考えから作られた福音の内容を、その神のお心を受けとめ、そのまま歪めることなく信頼していくものとなっているか、問われているのがこの箇所だと言えるでしょう。
* 神によって驚くべき深遠な神の世界に組み込んで頂いた者同志として、兄弟が互いに愛し合うように導かれていることが、喜びであり、励ましとして与えられているのです。ヨハネは、この恵みを味わえる者となってほしいと願って語っているのでしょう。