(序)ヨハネが受けとめていた福音理解
* 今日の内容は、ヨハネが受けとめていた福音理解が分かっていないと、とても不可解な内容だと思わされる箇所です。というのは、兄弟を愛しているかどうかが、救われるか滅びるかの決め手になっているかのような表現は、キリストの十字架によるあがないのみわざが無視されているのではないかと感じさせられる内容だからです。
* ヨハネの伝えている福音は、パウロが伝えてきた福音とは異なっているのではないかとさえ思わされるほどです。背後に同じ聖霊が働いて導かれた福音だと思えないなら、別の福音としか言いようがないのです。
* ヨハネが聖霊の導きを受けて示してきた福音は、簡略にまとめますと、人類は2つの部類に分けられると言います。ひとつは神から生まれた者で、神の種(神の言葉)がとどまっているので、罪を犯さない。しかしもう一方の悪魔から出た者は、罪を犯す。(神の嫌われる罪を犯し続ける)
* この分け方で、他の事柄も示し、神から生まれた者は、キリストの永遠のあがないによって義人とされ、義を行うが、悪魔から出た者は、義を行わない、いや行うことができないと言います。
* 更に、神から生まれた者は、兄弟を愛する。神が合わせられた兄弟として、愛し合うように導かれているので、それを実行する。しかし、悪魔から出た者は、兄弟を愛さないという点で分別しています。
* 罪を犯す者、犯さない者、または、義を行う者、行わない者という分別の仕方は、救われる者と滅びる者との分別であることが分かるのですが、兄弟を愛しているか、愛していないかという分別によって、その人が救われる者か、滅びる者かという分け方は、あまりにも極端すぎる論理ではないかと思わされるのです。
* ヨハネの福音理解は特殊なのか、それとも私たちがヨハネの福音理解が分かっていないから、そのように誤解しているのか、そのことが分かっていないと、今日の内容は不可解のまま終わってしまうことでしょう。この疑問を解き、このことを示しているヨハネの意図を正しく学び取っていきたいと思います。
(1)世から嫌われることを不思議に思うな
* これまで示してきたことは、全人類は罪人であるので、すべての人が悪魔から出た者であるが、その中から信仰を持つことによって、神から生まれた者に転換して頂き、光の中を歩む者にされた者があると言ってきました。
* しかしそのような存在は、悪魔から出た者が住む世界である世において、全く異物とも言えるものです。神から生まれた者の存在は、世には全くそぐわないものであるから、世は、排除しようとする思いが働くのです。
* カインの例を取り上げて示したのもこのことでした。世の象徴とも言えるカインは、アベルの存在そのものが気に食わず、神から、自分よりも優れた者だと見られたアベルに対して、憎悪の念を抱かずにはおれなかったのです。
* このことをよく自覚しているように、世があなたがたを憎んでも、驚いてはいけませんと言うのです。なぜここで、このようなことを示す必要があるとヨハネは考えたのでしょうか。世の生き方をしている者は、兄弟を愛するという行為はしない。しかし、世の生き方から離れ、光の子として歩む者だけが、兄弟を愛そうとする。
* 世の生き方から離れ、光の子として歩もうとしていなければ、世は排除しようとはしてこないが、神から生まれた者になった時、悪魔から出た者としての生き方をやめて、世の生き方から離れる者となるので、世は、そのような存在を煙たく思い、手嫌いし、憎もうとするのです。
* このことははっきりとしています。もし世から憎まれるというようなことがないなら、光の子として歩んでいないからだと言うのです。
* このことをあえて記しているのは、光の子としてのきよい生き方をすれば、世の人々から敬われ、慕われるというような間違った幻想を抱かないように示すためであったのでしょう。
* ここから考えられることは、この当時の信仰者たちは、世の人々から敬われ、慕われる生き方をすることが大事だと考えて、目を世の人の方に向けて歩んでいたのでしょう。
* それによって、最も大事にすべきキリストのからだとしての一致と、互いに愛し合っていく兄弟愛の方がおろそかにされ、神に喜ばれる生き方をしているつもりで、死のうちにとどまる生き方をしていることを気づかせようとしたのでしょう。
* やはり、私たち信仰者も、世の人々から嫌われたり、憎まれたりしたくない思いがあります。できれば、嫌われないように、憎まれないようにするために、光の子としての歩みを少しゆるめ、世の人々の目を(もちろんその中には信仰を持っていない家族も含めてでありますが)意識して歩もうとするところが残っているのです。
* それ故ここでは、世の人々の目を恐れず、神が歩ませようとして導いておられる光の子としての歩みを大事にし、兄弟愛を重んじる向かい方をするようにと示しているのです。
(2)4両の貨車として連接した福音
* それでは、今日の内容で一番理解しにくい内容に目を向けてみましょう。私たちは、兄弟を愛する者になっているので、私たちはすでに死からいのちに移っていることを知っていると言い、兄弟を愛するという一点によって、神から与えられた新しいいのちに生きているとみなされていると言っている内容を考えて見ましょう。
* 私たちはこれまで、ヨハネ5:24(新143)「わたしの言葉を聞いて、わたしを信じる者は永遠の命を受け、また裁かれることがなく、死からいのちに移っている」、ローマ6:11「このように、あなたがた自身も、罪に対して死んだ者であり、キリスト・イエスにあって神に生きている者である」などに語られているように、福音によって、キリストによる十字架のあがないを信じ、それを神のお心と受けとめることによって、神の前に死んでいた者から神の前に生きる者へと移し変えられ、神の手の中にあって養われ、育てられる者となったと確信してきたのです。
* しかしヨハネは、兄弟を愛しているか、愛していないかで、死からいのちに移し変えられているか、そうでないかが判定できると言うのです。これでは、キリストを信じる信仰はどちらでもいいのか、キリストを信じていても、兄弟を愛していなかったら、救われたことにはならないと言っているのか、そのことを考えて見なければなりません。
* ヨハネは、兄弟愛の大切さについて説いているのですが、そのヨハネの福音理解を、私たちも受けとめている必要があります。それはまず、ヨハネは、ここでは福音の内容の一部だけを取り上げているだけだと気づいていることが重要です。というのは、兄弟愛について取り上げていますが、それが福音のすべてだと言っているのではないのです。
* ヨハネやパウロが示している福音の全体像をまず捉えていなければなりません。それは、列車でたとえるならば、4両編成の列車で一つのものを指していると見るのです。すなわち、キリストという機関車に引かれている4両の貨車だとイメージして下さい。
* その1両目は、イエス・キリストによる身代わりの死を信じて、罪赦され、神の子とされるという福音の基本とも言うべきものです。罪人が、キリストを信じるだけで義とされ、神との平和な関係が回復し、神の御前に生きることができるという内容が、1両目の貨車の中に詰まっているのです。
* しかし、福音の内容はそれが全部ではなく、2両目もそこに連結しているのです。2両目の貨車に積まれているものは、この地上にあって光の子として生きるために、神は真理の御霊、助け主を遣わして下さったので、聖霊の内住を信じ、導きと助けとを頂いて、この地上にあってきよめられた信仰人生を送ることができるのです。
* 救われて神の子とされても、この地上に遣わされるので、信仰によってきよい信仰人生を送るためには、真理の御霊によって神のお心を深く知っていく歩みが必要であり、それと共に、聖霊の助けを頂くことによって、きよめられた生き方ができるのです。これが2両目の福音の内容です。
* 更に3両目も連結しており、救われた者をキリストのからだの一部として集められ、キリストにあって一つにし、神の宮とし、群として神のみ栄えを現すという福音が示されています。
* これは、エペソ書によれば、「御旨の奥義として示されていて、神の定められた目的のもとに、キリストにあって集められ、群として神の栄光をほめたたえるようにされている」と言うのです。(エペソ1:11,12)
* ヨハネは、更に4両目があって、群として、神の栄光をたたえる器として用いられるためには、互いにキリストにあって兄弟とされた者同志、愛し合い、大事に思い合っていく必要があるようにされていると示したのです。
* すなわち、キリストを信じるということは、その機関車に連結されている4両の貨車に積まれている福音すべてが一つにつながっていて、切り離すことのできないもの、全体でキリストを信じる福音だと、御旨によって示された内容をヨハネは受け取っていたのです。
* ということは、全体が一つの福音であるという連接(関連をもってつながりが続くこと)福音として理解していたことが分かるのです。その内どれが一つかけても、死からいのちに移っているとは言えないのです。
* だからヨハネはこの箇所では、4両目の内容だけ取り上げているのですが、連接福音としての理解から、兄弟愛が大事にされない福音は、死からいのちに移っていることにはならない。私たちは兄弟を愛しているので、すでに死からいのちに移っていると言ったのです。
* ここでの主題は、兄弟愛についてでありますから、4両目の貨車だけが取り上げられているに過ぎないのです。神の側では全体を一つの福音として見ておられるので、どの部分が重要というのではなく、一つにつながった福音として、それを受け取っていかなければ、福音に生きる者、光の子として歩む者とは言えないのです。
* 今日の私たちも、福音に自分の思いを入れ込まず、神が私たちに提示して下さった福音として正しく受け取り、導きに沿ってその段階に応じた福音に生きていく姿を現すことが大事だと強く思わされるのです。
(3)死の中にとどまったままの歩み
* 福音が、連接の福音であると見てきましたが、もしそうであるならば、福音をまだ全部理解し切れず、まだ全部受け取っていくことのできない信仰の初期の頃は、すなわち、十字架のあがないの恵みを信じて受け入れたばかりの人は、それだけでは救われたとは言えないのでしょうか。
* そうではありません。神は、最初からすべてを完全な形で求められるようなお方ではありません。キリストを信じて歩むようになった者に、更に聖霊信仰に立つように神が導いて下さり、次は、キリストのからだとしての信仰に立ち、最後は兄弟愛を現していくように導いて下さり、育てて下さるのです。
* 神の側では、4両編成の福音全部を提供して下さっているのですが、私たち信仰者は、それを一度にではなく、その段階ごとに受け取っていくことになるのです。
* 兄弟を愛そうとしない者は、死の中にとどまったままだと言っているのは、福音の段階を踏んで行くように導かれ、4両目の福音に生きるように導かれていたにもかかわらず、兄弟愛の大事さに目を向けようとせず、世の人々の目を恐れて、福音に生きようとしないならば、死からいのちへと移し変えて下さる神のあわれみのみわざがとどまって移行せず、死の中にとどまったままだと言い、滅びに至る人生を送っていることになると言うのです。
* 更に、兄弟を愛さないということは、兄弟を憎んでいるに等しいことであり、それは神の目から見れば人殺し人生を送っていることになるとの激しい言葉を使っているのです。
* これは、自分たちは、神に喜ばれていると思っている人たちの誤った思い込みを完全に否定し、あなたがたのその向かい方は、神の最も忌み嫌われる姿だと言っているのです。
* なぜヨハネは、ここまで激しい言葉で兄弟愛を重んじない人々の愚かさを指摘し、その様は神の前に滅びる運命にある、死の中にとどまった状態だと気づかせたいと願ったのでしょうか。
* 自分の思いから出てくる、福音を否定し、ゆがめようとする思いが、どれほど恐ろしいものであるかを示し、神が提供して下さった福音を、そのまま変形させず受け取っていくことの大切さを訴えずにはおれなかったのでしょう。
* 受け入れやすいものは受け入れるが、受け入れにくいものや、自分の思いにそぐわないものは無視したり、退けたりして、自分にとって都合のいい福音に作り変えてしまったり、大事だと示されている福音の内容に目を向けようとしなかったりするのです。
* 福音を正しく受けとめ、一つ一つの内容を、神のお心として受け取っていこうとしないなら、救われていると思い込んでいても、死からいのちへと移行しておらず、死の中にとどまったままで意味のない信仰人生になると言うのです。
(まとめ)神が提供して下さった福音を変形させるな
* 信仰を持って歩んでいるようでも、福音をゆがめたり、自分の思いを入れ込んだり、大事な内容が抜けていたりすると、せっかく神のあわれみによって死からいのちへと移し変えて頂き、神との結びつきを頂いて、神のいのちと祝福に満ち溢れる歩みをすることができるようにされているのに、それを自らの意志で拒み、死の中にとどまろうとしていることになると、ヨハネは示してきました。
* ヨハネは、死からいのちへ移し変えられたとか、死の中にとどまったままだという表現を使って何を示そうとしたのでしょうか。
* それは、神から注がれる偉大ないのちにあずかる信仰もあるが、死と滅びに至る虚しい信仰もあることを明らかにし、一方は神から生まれた者と見ていただけるが、一方は悪魔から出た者と看做されると言うのです。
* 自分は信仰を持っているから永遠の命にあずかり、天国に入れて頂けると思っているが、あなたの信じている福音は、私の提供した福音とは異なっていると主から言われるとするならば、その人は死の中にとどまったまま、虚しく滅びるしかないのです。
* 連接した福音であることをしっかりと受けとめて、その内の一つでも無視したり、拒んだり、避けたりするならば、自ら救いを拒むことになり、死の中にとどまったままになると言ってきたのです。
* それを考えると、できれば兄弟を愛しましょうというのではなく、兄弟を愛さなければ、救いも放棄することになるという連接福音の深みが見えてきます。ということは、兄弟愛について、私たちは本気で取り組まなければならない事柄だと気づかされるのです。
* 私たちの感覚による捉え方ではなく、神が提供して下さった福音として、神のお心を大事に受け取る信仰者でありたいと思わされるのです。