(序)正しい自己判断力を養う重要性
* 今もなお、津波被害の爪あとが残る災害地の惨状の様子を見る時、災害に会われて生死を分けたものは何だったのかと思わされますが、避けられない状況にあった方もおられると思われますが、けれども正しい判断をしていれば助かった人も多かったのではないかと思うのです。
* 人間は、瞬時に自己判断力を求められる場面が多くあります。いくら危険だと言われていても、これ位なら多分大丈夫だろうと思う心で自己判断していたなら、それが命取りになる可能性もあるのです。
* ヨハネの手紙の宛先教会については、推測しかできませんが、ヨハネは、その宛先の特別な状況を思い描いて手紙を書いていると感じられますから、小アジア地方のいくつかの教会の状態を思い描いているとして、これからその対象を、相手先教会という表現で呼んでいきたいと思います。
* この相手先教会の信仰者たちも、異端の教えが津波のように入り込んできた時、それにどう対応していくべきか、自己判断力が求められたのです。
* こちらの方がいいのではないかと、異端の考えを取り入れてしまっていた危機意識のない人たちは、異端の教えという津波に飲み込まれてしまったのです。
* 異端の教えに飲み込まれた信仰者たちは、それまでの信仰の歩みに喜びがなくなってきていたのでしょう。その結果、その人の持っていた信仰が肉的になってしまい、そこから生み出される自己判断力で、こちらの方がいいと判断し、信仰が逸れて行ったのです。
* 著者ヨハネは、使徒として立てられて、長い年月に亘って今日まで続けてきたことは、この私を根底から造り変え、神のいのちに溢れさせ、輝きに満ちた喜びに溢れさせてくれたいのちの福音を、神の真理として、確信してのべ伝え続けることであったのです。
* いのちの福音が与える輝きを失い、異端の教えの方が理にかなっているのではないかと自己判断して引き込まれそうになっていた人たちと、異端の津波の影響を受けて、動揺させられている教会全体の様子を見て、彼らの自己判断力の危うさを指摘し、いのちの福音が持っている本物の力を再確認させたいと願わずにはおれなかったのでしょう。
* 真理に対する信仰とは何か、教会とはどういうものか、互いにどのように向き合うべきか、光の中を歩むこととはどういうことか、罪をどのように処理しているべきか、きよい生き方はなぜ重要かなど、異端の教えによって惑わされている部分を語っていこうとしているのです。
* 示そうとしている一番基本となる内容が、真の交わり理解であると考えていましたから、それを序文の中で、このことが、あなたがたに伝えようとしている目的だと言っているのです。
* 私たちも、霊的自己判断力が高められて、何が輝きに満ちた喜びに溢れさせてくれる本物か、何が神から見離され、滅びへと落としていく偽物であるのか、見分ける能力が重要になってくることを、肝に銘じている必要があるのです。
(1)時空を超えた広がりを持つ私たちの交わり
* ヨハネは、3節でも繰り返し、私が伝えているものは、私の目で、また霊で見たものであり、私の耳で、また霊で聞いたものであると強調して語っています。それは、異端の教師たちが、彼らの思いの中で考え出したものとは違い、神が見せて下さり、聞かせて下さったものを、そのまま伝えていることを分からせようとしているのです。
* そして、本物であるいのちの福音を、そのまま真理として受け取っていくことが、今私たちが持っている交わりの中に、あなたがたもあずかることができるようになるのだと言います。
* この交わりという言葉は、一般的には、互いに信頼し合う交際のことを指していますから、世的な言葉のイメージが強く、聖書が語っている意味を間違って受けとめやすい言葉の一つであります。
* 交わりと訳されている原語は、コイノニヤと言って、織田師のギリシヤ語辞典によりますと、霊的に同じ恵みにあずかり、同じ一つのいのちに生かされ、同じ源に結ばれていることと記されています。すなわち、同じ神の恵みにあずかった者同志であり、同じ源泉からいのちを受けている者同志を指していると言います。
* このことから、ヨハネがここで、私たちが持っている交わりと表現している意味を考えますと、前回も見ましたように、私たちというのは、ヨハネを含む使徒団として、キリストから示された真理の福音を受け取り、それを少しも歪めずに、神のいのちがあふれている福音として伝えてきた初期集団のことを指しています。
* それから時が経ち、今私ひとりが生き残っているだけであるが、今死んでいるか生きているかにかかわりなく、時間を超越して結びついており、同じ源泉から生命を受けているという交わりが、時間を超えて継続されていると信じて語っている表現であることが分かります。
* そこであなたがたも、私が伝えているいのちの福音を受け入れて、同じ神の恵みにあずかろうとするならば、あなたがたもこの私たちが持っている時空(時間・空間)を越えた驚くべき交わりにあずかることになるのだと言うのです。
* ヘブル書の著者は、私たち信仰者の歩みは、旧約の多くの証人に、雲のように囲まれていることを忘れるべきではないと言いました。(ヘブル12:1 新356)ヨハネは、自分がいのちの福音を伝える時、自分の周りには、同じいのちの福音を伝え続けた使徒団が取り囲んでいて、生死を超えて同じ主と結びつき、霊の交わりを持っていると語っているのです。
* これがヨハネの言う、「わたしたちの交わり」のことであり、いのちの福音をそのまま受け入れることによって、あなたがたと呼ばれている人たちも、わたしたちの交わりの中に加えられると理解していることが伺えます。
* これは、教会理解につながる重要な聖書思想だと言えます。教会とは、一方では今の時の、一つの場所に集められたキリストの群のことを指していますが、もう一方では、時空を超えた全時代、全世界の、限界が全く取り払われたキリストの群のことを指しているということは、以前にも学びました。
* 著者ヨハネの交わり理解は、いのちの福音の中で語られてきた教会理解を基にしたものだと言えます。現実に、一人で立っていても、自分の周りには時空を超えて、過去、現在、未来のすべての人々、すなわち、いのちの福音を受け取って、その福音に生き、証人としてそれを伝えてきた者たちが雲のように取り囲んでいて、その交わりの中で生かされているという意識を持つように示されているのです。
* 物質世界に住む世の人々にとって、そのような時空を超えた交わりなど、空想話のように思うでしょうが、時間を超越しておられる神が示して下さったいのちの福音は、そのような物質世界を超越した、驚くべき見えない広がりを持ったものであることが示されているのです。
* 私たち信仰者は、身体は物質世界にありながら、霊においては時空を超えた驚くべき見えない広がりを持った交わりの中に置かれていて、生かされているという、とんでもない生き方をさせて頂いていることを、決して忘れるべきではないのです。
(2)神なる存在、御子イエス・キリストとの交わり
* そのような時空を超えた驚くべき交わりの原点は、御父との交わりであり、御子イエス・キリストとの交わりのことですと説明を加えているのです。これは、時空を超えた交わりというものは、人間の思いで考え出したものではなく、時間を超越しておられる永遠なる神と結びつくことによって与えられる、神の世界の事柄であることを示すためであったのです。
* しかし、ここでは父なる神だけではなく、御子イエス・キリストとの交わりという表現を加えているのは、異端の誤った教えを意識してのことだと考えられます。
* 父なる神は、神なるご性質を持った御子イエス・キリストを通して交わりを回復する道を設けられたと示し、神なるお方が、見える肉体を取ってこの地上に来て下さり、あがないのみわざを成し遂げて下さったから、それが実現したことを明らかにしようとしたのです。
* 異端の教えで言っているように、一時的に人間イエスの身体に神が宿り、十字架にかかられる前に、天に引き上げられたなら、神との交わりを回復する道はなかったことになると示そうとしたのでしょう。
* 神が肉の体を取られるということが、人間の思いでは理解できないことなので、彼らは、苦心して考えをひねり出し、一時的に人間に宿られただけだと見ることによって、福音として示された救いの道を、ないがしろにしてしまっているくだらない教えに落としてしまったのです。こんな教えにどうして惑わされるのかと訴えているのです。
* すなわち、御父との交わりをつないで下さる神なる存在、それが御子イエス・キリストであり、このお方が神なるご性質を持っておられるからこそ、永遠なる神と結びつくことができることを示し、イエスが一時的に神を宿した位では、神との結びつきの回復には役に立たないことを明確にしようとしたのです。
* それでは、異端の教師たちが持っていたイエス像とはどのようなものであったのでしょうか。これは推測するしかないですが、多分、一時的に神を宿したイエスは、公生涯においてのみ、神の偉大な力を受けて奇蹟をなし、神の教えを示し、神の代理人として歩まれたと考え、その教えは、物質を悪とし、それ故身体も悪であり、その身体という牢獄から悟りによって霊が解放され、肉の生き方に全く囚われない歩みができるというものであったと考えられます。
* ということは、イエス・キリストでさえ、一時的に宿っている身体は悪であり、神が宿っている間は悟りのあるお方であるが、十字架にかかられる時は、もはや一人の人間に戻っているので、人として死んだと見ているのです。それは、神は死なれることはないからだと言うのです。
* このような考えのどこに、人間の救いはあるのでしょうか。彼らは悟りによって完全に罪を克服し、肉体の悪から解放され、身体は悪であるから、罪を犯しても当然であり、それに囚われる必要がないと考え、悪を行っても平気になるように、思いを切り替えたのです、
* ここには罪からの救いはありません。罪からの救いは、御子イエス・キリストとの交わりによって与えられるのです。すなわち、キリストが人間の罪を処分して下さったあがないのみわざにあずかること、共有させて頂くことが御子イエス・キリストとの交わりだと言うのです。
* キリストのあがないのみわざは、神としての永遠なるご性質を持ってなされたものであるから、今、目で見ることはできなくても、信じるだけであずかることになり、御子イエス・キリストと直結することによって、御父と直結させて頂くことができるようになるのだと言って、御父と御子との連携作業であることをこの表現で示しているのです。
* 神が人となられたという事実と、罪ある人間に一時的に神が宿られたという考えとの間には、天地の違いほどの差があり、一方は神の真実であるが、一方ではサタンの教えだと4章において語っていくのです。
(3)わたしたちの交わりと言う広がり
* これらのことを書いたのは、わたしたちの喜びが満ち溢れるためであると、目的についてここに記しています。しかし普通であるならば、このことが理解でき、御父との交わり、御子イエス・キリストとの交わりを味わうことができるようになったら、あなたがたの喜びがあふれてくるようになるでしょうと言うべきだと考えられるのですが、ここで、どうして「わたしたち」と言ったのでしょうか。
* ここの表現も、今日考えてきたヨハネの交わり理解についての正しい考え方を受けとめていなければ、その表現を使った意図を受けとめることはできないでしょう。
* ヨハネは、見える世界だけに目を向けていたのではありませんでした。肉の目では見えない世界にも目を向けていました。見える世界というのは、今直接見える、時間空間の狭い範囲しかありません。
* しかし、時間と空間とを超越しておられる神と結びつくことのできる霊的世界を知っているヨハネは、見える世界だけではなく、見えない世界があり、それは見える世界とある一点で結びついていると見ていたのです。
* ヨハネの表現で言うならば、いのちの福音によって、御子イエス・キリストとの交わりを頂き、そこから御父との交わりを頂くことができるようにされ、見える世界と見えない世界との隔てを越えた信じる者すべてが、わたしたちの交わりと言う、人間の思いの枠を超えた、時間・空間を超越した交わりの中に置かれていると受けとめていたのです。
* それ故、あなたがたもいのちの福音から逸れず、御父との交わり、御子イエス・キリストとの交わりを味わうことができたならば、わたしたちの交わりという驚くべき時空を超えた世界における交わりの中に入れられるのだから、先に交わりの中にある者も、後から交わりの中に加えられた者も、喜びが満ち溢れるという意味で、わたしたちと言われていることが分かります。
* ヨハネの霊的イメージは、わたしたちと言う、いのちの福音によって、切れることのない無数の強い糸で結ばれた全世界、全時代に亘っての結びつきがイメージされており、ひとりが加えられることにより、わたしたち全体が喜びあふれるという光景であることが分かります。
* 逆に言えば、このわたしたちの交わりから落ち、サタンの手の中に落ちていく者がいたならば、わたしたち全体が悲しみに満ち溢れずにはおれなくなると言えるのです。
* それ故、ヨハネがこの手紙を書いているのは、ひとりも、いのちの福音からはずれることなく、わたしたちの交わりから落ちることのないようにと願うためであり、そのために、いのちの福音を再確認させようとしているのです。
(まとめ)イエス様が持っておられる喜びを頂く
* 御父との交わり、御子イエス・キリストとの交わりの中に入れられることしか、私たちの内側に神のいのちがあふれることはありません。ヨハネの表現で言うならば、喜びが満ち溢れることはないのです。この喜びとは、いのちの源泉としっかりと結びついているという平安を味わえる喜びのことです。
* イエス様は、この喜びを、「わたしの喜びが彼らのうちに満ち溢れるため」(ヨハネ17:13 新170)と言われました。私たちが喜べるような状態にしていただけたから喜ぶというような、私たちの思い次第で喜べたり喜べなかったりするような薄っぺらな喜びではありません。
* それは、イエス様が内に持っておられる喜び、すなわち、御父との一体感、父の愛のうちにおらせて頂ける喜びのことであって、信じる者は、これを頂くことができると言われているのです。それは、私たちの状況がどうであれ、決して消えることのない喜びだと言われているのです。
* 決して途絶えることのない源泉に結びつき、そこから流れてくる脈々としたいのちに満たされ、それがどんなにすごい恵みであるかを味わうことのできる喜び、これが御父との交わり、御子イエス・キリストとの交わりであります。
* しかも、自分ひとりではなく、わたしたちの交わりと言う、広大無辺な広がりを持った交わりの中に置かれ、いのちの福音という強い糸で結ばれている交わりのただ中で、延々と続く喜びを、イエス様から頂いて歩むことができるようにされているのです。
* 見える世界に生きていながら、見えない世界と深くつながり、雲のような多くの証人に取り囲まれ、いのちの福音のすごさを体験してきた人々の保証を頂きつつ歩むことができるようにされていることを思うと、喜びが溢れてこないでしょうか。