(序)真の兄弟愛とはどのようなものか
* 前回は、兄弟を愛しているかいないかという点だけで、死からいのちに移っているか、死の中にとどまったままであるかという分別の仕方は、極論ではないかと思わされるような語り方でありましたが、そこには、根底に深い福音理解があったからだと学びました。
* それは、キリストという機関車に引かれた4両連結の貨車をイメージした連接の福音として捉えていたから、1両目から4両目まで、どの貨車の内容であっても、それが一つでも満たされないなら、死の中にとどまったままであるというものでした。
* この福音理解ができていないと、兄弟愛の重要さが分からないままであり、兄弟を愛していない者は、死の中にとどまったままであるという内容が極論のように思えたりするのです。
* それでは、神が求めておられる兄弟愛とはどのようなものなのか、このことを正しく理解していないと、兄弟愛という言葉だけが独り歩きするだけで、何の意味も持たないので、ヨハネは、神が現すように求めておられる兄弟愛について明らかにしていこうとするのです。
* このことは、今日の私たちにおいても重要なこととして指し示されていることが分かりますが、キリストのあがないの恵みを信じて救われた者として、自然と兄弟愛を持つことができる者にされているわけではありません。
* まず、あるべき真の兄弟愛とはどのようなものかを霊で学び取り、実践していこうとすることが必要だと示されているのです。今日は、このことについて共に学んで行きたいと思います。
(1)信仰で向き合おうとしなかった人々
* ヨハネがこれまで語ってきたことは、私たちは神からとてつもない大きな愛を賜ったので、イエス・キリストを信じただけで神の子にして頂き、キリストから頂いた油(聖霊)を受けた者となり、神から生まれた者として、光の中を歩くことができる者にして下さったと、私たちの置かれている霊的な状態を明確にしてきました。
* 光の中を歩く者として、主によって集めて頂いた者同志の間で、まず兄弟愛を現していくことが、死からいのちに移し変えられた者にとってなさなければならない、重要な事柄であることを示し、もしそれがなされないなら、せっかく頂いた救いも現実のものとならず、幻のように消えうせてしまうと示してきたのです。
* これは、この手紙の相手先教会のクリスチャンたちが、兄弟愛をそれほど重要なものと受けとめず、その人が生まれついて持っている感覚、性格、生理的感情から、自分に合う人、合わない人を見分け、合わない人は毛嫌いし、交わろうともしない。このようなことが平然となされていた状態であったことが伺えます。
* ヨハネは、このような向かい方を、兄弟を憎んでいることになると捉え、そのような人は光の中を歩いているのではなく、やみの中を今もなお歩いていることになり、悪魔に囚われた状態でしかないと言ってきたのです。
* これは、この当時の教会における特別な光景なのではありません。いつの時代においても、人はその人が生まれつき持っている感覚、性格、生理的感情が、信仰を持ったことによって完全に処理されるわけではなく、なお残っているからです。
* 信仰で向き合おうとしないで、古い人の感覚、性格、生理的感情によって向き合おうとしやすいのが人間の常であると言えます。
* もし、このような肉的向かい方をしているならば、そこには兄弟愛は作り出されてはいきません。肉の人間の思いから自然発生的に兄弟愛が出てくることはありません。このことをまず肝に銘じていなければなりません。
* 信仰者が集まれば、麗しい兄弟愛のあふれる状態が作り出されるかのように錯覚している、気のいい信仰者が多いのですが、そんな甘いものではありません。古い人の感覚、性格、生理的感情をしっかりと残したまま集まるならば、そこは、肉という雑草の繁殖地となるだけで、兄弟愛の芽は僅かも出てこないのです。
* このことが分かっていない人が、もっといい状態が作り出されるはずなのに、実際はそうではないので、その状態に幻滅して裁いたり、離れていったりするのです。しかし、自分がその内の一人であることに気づこうともしていないのです。兄弟愛を作り出せない自分であることに気づかされる必要があります。
* それ故、信仰者は、まず兄弟愛を学び取っていかなればならないのです。ヨハネは、主が私たちのためにして下さった愛のみわざから、それを学び取りなさいと、命をも捨てて、人間の救いのために愛のみわざをなされたキリストのお姿が、兄弟愛の原型だと言うのです。
* 古い人の感覚、性格、生理的感情を持ち続けている人間が、どうして兄弟のために、命を捨てるという自己犠牲愛を表すことができるでしょうか。キリストは神ですから、そこまでの深い愛を持っておられるので、自己犠牲愛を表すことができるのは分かりますが、愛のない私たちが、そんなレベルの高い、自己犠牲愛を現すことができるとは思えません。
* なのになぜ、兄弟愛がそこまでの深い愛を示しているというのでしょうか。無茶な要求ではないでしょうか。それとも、できなくてもいいから、そこまでの思いを持って向かえばいいと言っているだけなのでしょうか。
* 「私たちもまた兄弟のために、命を捨てるべきである」とはっきりと言い切っています。この捨てるという言葉は、自分の意志で投げ出す、自分から進んで差し出して提供するという意味を持った言葉ですから、できなくてもいい、そのような思いを持って向かいさえすればいいというような意味ではないことが分かります。
* 兄弟を愛する思いの故に、自分のいのちをさえ、強い意志をもって投げ出そうとすること、これが兄弟愛だと言っているのです。こんなレベルの高い愛を、一体誰が、実行することができると言うのでしょうか。
* 愛のある人間は一人もいません。このようなレベルの高い愛を実行することなど、人間にできることではありません。そういう意味でないとすれば、この要求を正しく理解する必要があります。
* ヨハネは、理解するためのヒントとして、一例を次に上げることによって理解させようとしていることが分かります。
* そこには、2つの点を読み取ることができます。一つは、自分は裕福な状態に置かれているのに、同じ兄弟の中に、経済的に困っている人のあることを知っていながら、痛み、苦しみを共有しようとする思いを閉じ込め、知らん振りしていたという点です。
* 第2は、そのような兄弟愛を持とうとしない姿は、その人の内に注がれている筈の神の愛が消えてしまっていると示している点です。これらのことについて考えて見ましょう。
(その1)なぜ痛みを共有する思いが起こされないのか
* ここに取り上げられているのは、一つの例というよりも、現実にそのような実例があったことを、ヨハネは耳にしていたのかもしれません。ヨハネは、信仰者として神の前に立ち、光の中を歩んでいれば、痛み、苦しみなどを共有しようとする思いが起こされてくると考えていたようです。けれども、彼らにそのような姿を見ることができないのを悲しく思っていたことでしょう。
* もちろん信仰者は、あの初代教会の時代の時のように、「いっさいの物を共有にし、資産や持ち物を売っては、必要に応じてみんなの者に分け与えた」と、その当時の情景を伝えています。(使徒2:44 新183)もちろんこれは、信仰者はすべてのものを共有する生活をすべきだと言っているのではありません。
* 初代教会の時は、特殊な状況に置かれていたから、その時は、すべてのものを共有する生活が必要だと感じられ、驚くべき集団生活がなされたのでしょう。しかし、それもそれほど長期に亘っていなかったと思われます。
* けれども、そこで示されている御心は重要なものであります。それは、主によって集められた兄弟姉妹は、神の家族として、痛みを共有しようとする思いが起こされてくる。それがキリストをかしらとした、一つからだに組み合わされた信仰者のあるべき姿であることが明らかにされているのです。
* AD56 ,7年頃に書かれたと考えられている、ローマ書において、パウロは兄弟愛について次のように語っています。(ローマ12:10、15 新249)「兄弟の愛をもって互いにいつくしみ、進んで互いに尊敬しなさい。…喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣きなさい」と。
* いつくしみと訳されている言葉は、思いやり深く愛するという意味です。互いに尊敬し合えという言葉は、尊敬を持って互いに人を自分よりまさる者と思い合えとの意味です。神が愛された者として互いに重んじ合い、痛みを共に分かち、共に喜び、共に泣きなさいと、自分のからだのように受けとめよと言われているのです。
* たとえ、実際に共生生活をしなくても、思いにおいて共有し、互いのことを大事に思い、見下げず、裁かず、非難せず、自分にとって大事な存在だと考え、共に進めることを喜び、手を携えて歩めと言っていることが分かります。
* この群において、礼拝の後でシャロームの挨拶をするようにしていますが、それは、ただの挨拶なのではなく、神の前にひとつとされ、思いにおいては共生している者同志であることを確認し、神が愛された者同志として互いを重んじ合っている思いを示すためのものでもあるのです。
(その2)兄弟愛を現すための、愛の発生源
* 2つ目の事柄は、愛を持っていない人間にとって、兄弟愛を現すためには、愛の発生源が必要だと考えられていたことが分かります。すなわち、神の愛という愛の発生源が、神から信仰者の内側に注がれることによって、兄弟愛を現すことができるようにされると言うのです。
* この当時の人たちの多くは、信仰を持った時、神の愛が内側に注がれたはずなのですが、それを自分という箱の中に閉じ込めてしまい、思いやり深い愛を持って向き合うようにと、神から思いが起こされていたと思われるのに、それを押し込めて、兄弟を愛そうとしなかったので、神の愛がその人に内にとどまっていないとヨハネは言ったのです。
* このような表現から考えられることは、神は、私たちが信仰を持った時に、ご自身の思いやりに満ちた愛を挿入して下さり、まず兄弟に対して、兄弟愛を現していくことができる者へと育てつつ導いておられることを示そうとしていることが分かります。
* しかし、その神からの働きかけを受けとめず、自分の強い思いの中に押し込めてしまうことにより、挿入された神の愛は、水泡のごとく消え去っていくと見ていたのです。
* このことは4:7からの箇所において、挿入された神の愛がどのように働いて兄弟愛を現していく原動力となっていくか、詳しく示そうとしていますから、そのところでもう一度いろんな角度から受けとめていきたいと思わされますが、今日の箇所では、挿入された神の愛が、私たち信仰者の中で有効な働きをするものとなるのか、あるいは無意味な賜物となってしまうのか、それは、受けとめる私たち次第であることを示していることが分かります。
* このように、挿入して頂いた神の愛が、私たち信仰者の側の向かい方によって、有効な働きをするものともなるし、無意味なものとして消え去ってしまうものともなるのです。
* それでは、私たちがどのように向かえば、内側に挿入された神の愛が有効な働きに切り換えられ、兄弟愛として現すようになるのでしょうか。ここでは、愛を現すべき兄弟の状態を正しく判断し、思いやり深い愛を現していこうとする時かそうでないかを見分け、もし思いやり深い愛を現していくべき時だと思わされたら、やさしい思いやりの心を閉じないで、前向きに愛を現していこうとすることです。
* 私たち自身に愛はなくても、内側に注がれた神の愛が、私の内に兄弟愛の思いを起こさせ、その愛の思いを育て、養い、押し出そうとして下さるのです。それが兄弟愛となって出るのです。神が思いを起こさせ、行動を促して下さるのです。その働きかけを受けとめようとしないならば、せっかく注がれた神の愛も水泡のように消えていくのです。
(2)兄弟愛が引き起こされる土壌作り
* これまで見てきたことは、私たち自身の内側には愛はないので、自然発生的に兄弟愛が起こされてくるものではないということでした。
* しかし、そんな私たち信仰者の内に神の愛が挿入されたという恵みの事実を信じるならば、その神の愛が兄弟愛を引き起こそうと働いて下さることが、兄弟愛が育てられていく原動力になるという点は、信仰によって受けとめるしかない事柄です。
* 私たちには、見える形で神の愛の注入が分かるわけでもないし、必ず兄弟愛が引き起こされるという保証を持っているわけでもありません。キリストから頂いた油(2:27)が、私たちの内で愛の実を結ぼうと働いて下さる(ガラテヤ5:22)という、神が信仰者の内に形造って下さった霊的事実をそのまま信じ、愛のない私たちの内側に、兄弟愛が起こされてくることを信じて求めていくことしかできないのです。
* ヨハネは、信仰者がそのような受身の信仰に立ちつつも、積極的に兄弟愛を現していこうとする向かい方をしていくことが必要であることを示し、それが、兄弟愛が引き起こされていく土壌となると言うのです。
* しかも、形だけではなく、そこには行なっていこうとする強い意志と、心から向かって行こうとする真実さが必要であるとして、18節の言葉を語っているのでしょう。
* なぜ、言葉や口先だけではだめだと言わなければならなかったのでしょうか。兄弟を愛している振りだけしてお茶を濁そうとする肉の姿が出てくる危険性があることを示しておく必要を感じたのでしょう。
* 神の愛が引き起こそうとして下さる兄弟愛、すなわち、思いやりの深い愛、尊敬をもって互いに敬う愛が引き出されるためには、兄弟愛を行なっていこうとする強い意志と心から向かっていこうとする真実さがなければ、神の愛は、私たちの内に兄弟愛を育てていくことができないからです。
* 愛することができるから、兄弟愛を現していくのではありません。愛のない私たちが、光の中を歩ませて頂くようになり、互いを主のからだとして結び合わされた者同志として認識し、兄弟愛を現していこうと強い意志を持って向かい、真実をもって、誠実な心で向かっていこうとするならば、私たちの内に挿入された神の愛が、私たちの内に兄弟愛を引き起こして、神の家族として、痛みを共有しようとする兄弟愛を育てていって下さるのです。
* もちろん、完璧な兄弟愛を現すことはできないでしょう。しかし、私たちの内に挿入された神の愛は、そんな私たちに働いて下さって兄弟愛を現す者へと育てていって下さり、行いと真実とをもって愛し合っていこうとする歩みのなかで、兄弟愛を現し合っていくことができるようにして下さると言えるのです。
(まとめ)神が提供して下さった福音を変形させるな
* なぜ兄弟愛を現すことがそんなに重要なこととして示されているのでしょうか。そのことは、福音の内容は、神が人間を救い、神の子として形造るために進めて下さった人類救済事業を完成させるために考えられた、連接の福音だからだと前回学びました。
* ただ罪から救い出すだけではなく、聖霊の内住によるきよめられた信仰人生を歩むように導かれ、キリストのからだに結び合わされた神の宮を建設し、その中で兄弟愛を現す者にすることが神の救いの目的であったからです。
* 罪から救い出しても、兄弟愛を現す者にならなければ、中途半端なまま、製作中止された神の作品となってしまい、完成品として天国に迎え入れるというご計画がしり切れとんぼに終わってしまいます。
* しかし、元々人間には愛がなく、兄弟愛を現すことはできません。神の側で何とかその障壁を取り除くために、愛のない人間の内側に神の愛を挿入して下さったのです。
* しかし、それだけで全面解決とは言えません。信仰者の側が、注入された神の愛を霊によって受けとめ、行いと真実をもって兄弟愛を現していこうとすることによって、神の愛が信仰者の内に兄弟愛を引き起こし、育て、その目的を完成させようとして下さるのです。
* 神の愛が育てて下さる兄弟愛を持って互いを大事に思い、思いやりの心を持って向き合い、互いに敬い、痛みを分かち合おうと積極的に向かっていくことが、神の愛に働いて頂く最適の状態だと分かるのです。