聖日礼拝メッセージ
2012年6月9日 更新

聖 書 Tヨハネ3:19、20   (第21講)
 題 「神の側において育てて下さる兄弟愛」


  (序)兄弟愛を軽んじてはいけない

* ヨハネの信仰理解の基礎となっているのが、4両編成の連接の福音であったと学んできました。兄弟愛について学ぼうとする時、この連接の福音につながっている一部であるとの理解なくして、その真意を把握することはできません。

* すなわち、連接の福音から理解するなら、兄弟愛を現していない者は、死の中にとどまったままだと示し、兄弟愛を重んじない者は,神から生まれた者であるとは言えない、みな悪魔から出た者のままでしかないと明確に線引きをしてきたのです。

* しかし、生まれつきの人間の内側に、兄弟愛を現すことのできる愛の発生源が全くないので、肉の感覚、性格、生理的感情による努力によってでは兄弟を愛することはできないもで、愛の発生源となる、神から注がれた神の愛が源となって、初めて兄弟を愛することができるようになると言ってきたのです。

* このような言い方から考えてみて、ヨハネがここで示そうとしている主旨は、兄弟愛を軽んじてはいけないということであったことが分かります。人間的努力で兄弟を愛するようになりなさいとは決して言いません。それは無理な注文だからです。

* 信仰を持つ者の内側に神の愛が注がれ、その神の愛の働きによって、兄弟を愛する愛の思いが起こされてきて、互いに愛し合っていくことができるようにされると教えてきたのでした。

* それ故、兄弟を愛そうとしない者は、注がれたはずの神の愛を受け取っていないことが明らかだと言うのです。神の愛を受け取らず、人間的努力で向き合おうとするから、相手の嫌な所が目に付き、愛することは無理だと考えて、肉の思いのままに避けたり、裁いたり、つまずいたりするか、あるいは言葉や口先だけの形式的な兄弟愛にしてしまうのです。これは、ヨハネの目から見ればどちらも兄弟を愛そうとしていない姿だと言ってきたのです。

* 非常に単純明快な言い方ではありますが、そこにはそう簡単に割り切れないものがあることを、ヨハネは知っていましたから、どのような姿を現していれば、兄弟愛を持って向かっていることになるのか、兄弟愛の点で、未熟さを見せ付けられる歩みの中において、いのちに移し変えられている安心感を持つことができるのか、そこに目を向けさせようとするのです。

* 私たち信仰者が、兄弟愛を持って向き合うとはどういうことか、注がれた神の愛が兄弟愛を育てて下さると信じることができるのか、まだまだ理解しなければならないことは無数にあるのですが、連接の福音の大事な一部であるが故に、これら一つ一つのことが開かれていかなければならないのです。それを少しずつ解いていきたいと思います。


  (1)神の愛の働きかけを受けとめているか

* 前回の所において、兄弟愛とは、キリストが私たちのためにいのちを投げ出して下さったように、友のために命を投げ出すことだと示した上で、一つの実例を取り上げ、痛みを共有し、相手を大事に思い、神の愛によって引き起こされた思いやり深い愛を持って、接していくことだと示してきました

* せっかく、注がれた神の愛が、私たちの内側に引き起こして下さった思いやりの心を閉じ込めてしまい、実践していこうとしないならば、注がれたはずの神の愛が働けなくなり、消えてしまうと言ってきたのです。

* 内側に起こされた霊の思いに沿って、積極的に兄弟愛を実践していこうとする強い意志と、心から向かっていこうとする真実さが、何にも増して重要であることを明らかにしてきたのです。

* このように、私たちの内側に引き起こして頂いた霊の思いに沿って実践していこうと向かわされるのは、主の導きを何よりも大事にしようとする信仰に立っている者の証拠だと言おうとして、その信仰に立つことが、真理なるお方から出た者であるとの確信となると言うのです。

* ここでは、どれだけ痛みを共有しようとしているか、どれだけ相手を大事に思って向かっているか、どれだけ思いやり深い愛を現しているかという神の目に適う兄弟愛の分量には全く触れようとはしていないのです。

* どれだけできているかではなく、神の愛が内側に起こして下さった霊の思いに沿って向かおうとしているかどうかが見られているのです。

* その人の内に、どれだけ兄弟愛が育てられているかによって、起こされる霊の思いは異なるのです。それは、育てられている程度に応じて、神の愛が起こして下さる霊の思いが違うからです。もし分量を言うとすれば、起こして下さった霊の思いをどれだけ実践していこうとしたか、どれだけ肉の思いの中に閉じ込めて目を背けたかという分量が見られるのでしょう。

* それ故、兄弟愛の未熟さというのは、他の人との比較によって思うものではなく、神の愛が起こして下さった霊の思いに、どれだけ沿って実践していこうとしたかどうかという面から見た未熟さだと言えます。というのは、その人の内側に、どれだけ霊の思いが起こされたかどうかは、神とその人にしか分からないものだからです。

* この当時の信仰者たちの内側にも、神の愛は多くの霊の思いを引き起こし、兄弟愛を重んじて向かうように導かれたはずです。にもかかわらず、この人たちは、別の、自分の思いに都合のいい教えの方に心を向け、「肉から出るものは悪だから、人を愛することなどはそれほど大事なことではない。霊さえ神の前にきよければそれでいいと考え、兄弟愛についての福音から目を背けてしまったのです。

* そのように考えていた人たちに対してヨハネは、神の側の働きかけを受けとめようとしないで、自分の思いに沿って向かうならば、注がれた神の愛は失われ、神から生まれ、光の中を歩むように導かれた導きを落としてしまい、悪魔から出た者に逆戻りしてしまうと言うのです。

* 信仰とは、ある意味でもろいものだと言えます。神が思いを起こし、導こうとして下さる働きかけを受けとめることができないなら、与えられたと思っていた祝福さえ、すべてなくなってしまうのです。

* 受け取り続けてこそ、神の働きかけにより信仰は養われ、育てられ、強くされていくのですが、受け取ることをやめると消えうせてしまうのです。私たちもこのことをしっかりと心にとどめておかなければなりません。


  (2)霊的状態の確認から得る安心感

* このように、神の愛が内に起こして下さった兄弟愛を、積極的に実践していこうとする強い意志を持ち、心から向かっていこうとする真実さを表していくなら、真理なるお方から出た者であると確信できると言ってきました。

* そして、この確信によって、死からいのちに移し変えて頂いている霊的事実を疑う思いがなくなり、神の御前に心を安んじていることができると言って、信仰者にとって、最も祝福された、安定した状態に置いて頂いていることを述べているのです。

* この、心を安んじているという言葉は、信頼する、頼みとする、落ち着ける、なだめるという様々な意味を持った言葉であって、真理なるお方を頼みとすることによってほっとしている、安心している様子を描いているのでしょう。

* 真理なるお方は、4両編成の連接の福音に沿って、私たちの内側に働きかけ、信仰を与え、神から生まれた者であることの喜びと感謝に溢れさせ、聖霊の驚くべき導きと助けとを頂いて、勝利者としての歩みに向かわせ、世にあって孤立することのないように群として集め、神の宮として建設させ、互いに支え合うキリストのからだとなるように霊の思いを起こさせ、兄弟愛によって強くさせようとして下さっているのです。

* この箇所では、兄弟愛にのみ焦点を当てていますから、連接の福音の大事な一部として、神の愛が、私たちの内側に兄弟愛を起こそうと、霊の思いを引き起こして下さっているので、積極的に霊の思いに沿って向かっていこうとするならば、真理から出た者と見て頂けるという、神から見た私たちの状態が保証されていることを示しているのです。

* この霊的状態が確認できているならば、いのちに移し変えられた恵みの状態から、決して落ちることはないという安心感があることを示しているのです。

* 私たちの信仰は不安定なものですから、死からいのちに移し変えられたと思っていても、時には目の前の状況に振り回されたり、霊的活気が感じられなくなったり、信仰に無力さを感じるようになったり、この地上に生きていれば無数の、霊を引き落とす働きかけを受けるので、その度に、いのちから落ちて死の中にとどまる者になってはいないかと不安を覚えなければならないとしたら、心が落ち着くことはないでしょう。

* まして、兄弟愛を十分に実践しているとは口が裂けても言えない私たちにとって、その足らなさを責められ、それでは到底真理から出た者だとは言えないと断罪される者でしかないので、平気で主の御前に立つことなどできません。

* けれどもヨハネは、神が私たちのことを、真理なるご自身から出た者だと見て下さり、それを確信することができるので、いのちから落ちる心配は全くしていない、安心しておることができると言うのです。

* ヨハネがそう言える根拠は一体どこにあるのでしょうか。彼は、愛の発生源を持たない私たちの内側に、神が、神の愛を送り込んで下さり、神の愛が私たちの内側に兄弟愛の思いを起こして下さると信じ切っていたのです。

* 起こされた思いを閉じ込めないで、行いと真実を持って実践していきたいと願って向かっていれば、私たちは真理なるお方から出た者としての位置が崩れることはないので、安心しておることができると言っているのです。


  (3)兄弟愛のなさで自分を責めてはならない

* しかしヨハネは、もう一つその確信を崩そうとする大きな要因があることを知っていました。それは、信仰を持って向かっている自分の心だと言うのです。それはどういうことかを考えて見ることにしましょう。

* 私たち信仰者は、正しく自分を分析すれば、自分がいかに兄弟愛の足らない、未熟な者でしかないかを知らされるはずです。私の愛し方はこれで十分だと言える人がいるならば、その人の分析力はまともではないでしょう。自分に対してあまりにも甘すぎる分析をするからです。

* 誠実な信仰者であればあるほど、兄弟愛の現し方が不十分な自分を責めるようになり、神の求めておられるような兄弟愛を現すことなど到底できないと降参してしまいます。

* このような捉え方は、敬虔な信仰者の心のように見えるのですが、それは、私たちの内側になお強い勢力を持っている人間的正義感であることに気づく必要があります。その心を持って自分を分析すれば、正義感の強い人ほど自分を厳しく責めるのです。

* ヨハネは、「たといわたしたちの心に責められるようなことがあっても」と言って、自分の中にある人間的正義感が、兄弟愛の足らない、未熟な自分を責めるという、一般の表現で言うならば、良心の呵責に押しつぶされそうになる状態に陥ると言います。それをしてはならないのです。

* これは、自分の心に支配され、振り回されている状態に過ぎないからです。神は、人間の正義感のレベルで責められるようなお方ではない、「神は私たちの心よりも大いなるお方であって、すべてをご存知だからである」と言いました。もちろんこれは、神はただ優しいお方、心の広いお方だと言っているのではありません。

* 神が送って下さった神の愛が、信仰者の内側に兄弟愛となって現れ出るように働いて下さっているのですが、一度、罪の故に、全く愛のない人間となってしまった者であるが故に、そう簡単に、兄弟愛を現していくことができるようになるとは、神も思ってはおられないのです。

* 神が、すべてをご存知であると言われているのは、私たちの姿をすべて知っておられるという意味だけではなく、ご自身の働きかけによって、愛のない人間が、兄弟愛を表していくようになる進捗過程も、停滞しやすい要素をなお持ち続けていて、なかなか行いと真実をもって愛し合っていこうとしないマイナス要素も、すべてご存知であって、無闇に完全な兄弟愛を現していくように求められるような神ではないと言うのです。

* それでは、神が広い心を持っておられるからと言って、兄弟愛の実践をしようとしない言い訳に使うべきではありません。私の思いによるのではなく、神の導きに従って、神の愛が引き起こして下さる霊の思いを大事にして、積極的に兄弟愛を実践していこうとする強い意志と、心から向かっていこうとする真実さという信仰姿勢を持って向かっていこうとする姿勢が求められているのです。

* すなわち、神の愛が働いて、私たちの内側に兄弟愛を育てていって下さると本気で信じ、起こされた思いを重んじ、兄弟愛が連接の福音の重要な一部として大事に思い、一人一人の状態に応じて導いて下さると信じて向かっていれば、今の私にふさわしい兄弟愛を現している者として、神は見て下さると言うのです。

* それ故、自分の正義感で、自分の兄弟愛のなさを責め、神に代わって自分を裁こうとしてはならないのです。神の広いお心は、私たちを育てつつ導き、愛の発生源として神の愛を注ぎ、愛のない私たちが、兄弟愛を現していくことができるようにしていって下さるのです。神から生まれた者であるが故に、神は導きを惜しまれず、最後まで責任を持って育てて下さるのです。


  (まとめ)兄弟愛を重んじる歩みの大事さ

* 一言で兄弟愛と言っても、分かるようで分かりにくいものです。それ故、どれだけ兄弟愛を実践しているかとなると、更に分かりにくく、全く実践していないのではないかとさえ思わされるのです。

* それでは、連接の福音から言うならば、私たちも死の中にとどまり続けていることになってしまいます。それでは救いから外れ、御国へも行けません。

* それならば、どう受けとめているべきでしょうか。今日の箇所において、ヨハネが示したことは、自分の正義感の観点から判断して、自分を責めたり、裁いたりしてはならない。神のお心はもっと広い。神の愛が起こして下さっている霊の思いを閉じ込めたり、目を背けたりさえしなければ、神は少しずつ育てつつ導いて下さるのです。これは、神の側のお働きによるものだと言っているのです。

* それ故、愛の発生源として注がれた神の愛を確信し、神の愛が霊の思いを起こして兄弟愛を育てていこうとして下さることを信じて向かうことが、何よりも重要だと言うことでした。

* このように向かっていれば、今、兄弟愛が十分に実践できているかと問われると恥ずかしく顔を隠すしかなくても、自分を責める必要はなく、神が必ず育てて下さると信じ切って歩んでいるならば、いのちの中から、死の中へと逆戻りする心配をする必要は全くなく、真理なるお方から出た者として確信し、安心しておることができるのです。

* 兄弟愛を軽んじるなら、神の愛は働くことができず、死の中にとどまることになるが、未熟な者であっても、兄弟愛を重んじているなら、神が育てて、兄弟愛を実践していく者へと導いて下さると本気で信じて疑わないでいるなら、神が責任を持って下さるのです。このことが分かれば、兄弟愛を重んじる歩みがいかに大切であるかが見えてくるのです。

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