聖日礼拝メッセージ
2012年6月9日 更新

聖 書 Tヨハネ3:21、24   (第22講)
 題 「福音の中に身を置く聖霊信仰」


  (序)自分の思いから解放される困難さ

* ヨハネが、相手先教会のクリスチャンたちのことを考えた時、彼らの中に惑わしの教えに心を惹かれて、真理から逸れようとしている姿を見て危機感を覚えていたのですが、彼らの最も根幹にある問題点は、神がどう思われるかという所に立たず、自分がどう思うかという所に立ってしまっていた点でありました。

* 今、取り上げている兄弟愛についても、それほど大事だとも、具体的に行いと真実とを持って向かっていかなければならない事柄だとも、自分の思いで思わなかったので、これまで聞いていたにもかかわらず、聞き流してしまっていたのです。

* すなわち、自分の思いから重要なもの、重要でないものとの判断を下して福音を仕分けし、自分の思いが納得できる向かい方を追及しようとしたので、神のお考えがそこから抜けてしまい、その結果、神が人を救うために示して下さった真理から逸れてしまっていたのです。

* 信仰とは何かという非常に基本的な事柄が、分かっているようで分かっていなかったと言えるのです。信仰とは、罪にまみれた自分の思いから解放されて、人が真に生きるための真理として示された神のお心を受け入れ、神のお心に生きるようになることなのです。

* こうは言っても、自分の思いから解放されるというのは、何と困難なことでしょう。一筋縄ではいきません。なぜなら、神の真理に出会うまでは、自分の思いが最も大事で、自分の思いを高め、強くし、大きくしていくことが最も重要なこととしてずっと生きてきたからです。

* 言うならば、土中にしっかりと根を張り巡らした巨木を抜こうとするようなものですから、そう簡単にはいきません。しかし、この根が私たちの人生を妨げ、引き落とし、くだらないものにする元凶だということに気づかされ、神の真理によってのみ、神の御心に沿った人生が作り出されると信じることがキリスト信仰なのです。

* それでは、自分の思いから解放されるために何か方法があるのでしょうか、それを理解して、実行していく歩みが信仰人生だとも言えます。それを示そうとしたのがこの箇所であります。そのことを私たちもここから学び取って行きたいと思うのです。


  (1)自己願望の生き方から御心願望の生き方へ

* 前回の所で、自分の思いの中にある強い人間的正義感を持って、自分の兄弟愛のなさを責め、神に代わって自分を裁こうとすることは、越権行為であることを示してきました。神が裁こうとしておられないのに裁くのは、勘違いもはなはだしいことだと言わなければなりません。神は人間の心よりもはるかに大きいお方だからだと言ってきたのです。

* これは、人間が判断しようとする基準と、神の判断基準との間に大きな開きがあることを示そうとしたのだと分かります。神はもともと罪を犯した人間の内側に愛がないことをよくご存知でありますから、信仰を持ったからといって、すぐに、互いに兄弟愛を現し合うことなどできるとは思ってもおられないのです。

* しかし、人間はなぜか信仰を持ったら、きよい人間にならなければおかしいと思い、人にも自分にもそのことを強要しようとするのです。これは言葉上の勘違いから来る錯覚だと言えるでしょう。

* 信じることによって神の子として頂いたと言っても、きよい人間になったから神の子として認めて頂いたのではありません。ただキリストを信じただけで、神のあわれみにより、神の目から見て神の子と承認して下さっただけであって、きよい人間になったわけでも、愛のある人間になったわけでもないのです。

* 神は、神の子とした者を、育てつつ導き、愛の発生源を注ぎ、兄弟愛を現していくことができるようにと働き続けて下さっているのです。それ故、最初から信仰者にきよさも愛も求めてはおられず、神によって育てて頂きたいと自分を明け渡す者に力を注ぎ込んで下さるのです。

* それ故、自分の基準で自分を裁いたり、責めたりする生き方から解放されたならば、神に対して確信を持って立つことができると言うのです。この確信という言葉は、大胆さという意味をも持っていますから、神に対して、何の後ろめたさを感じることもなく、大胆さを持って御前に立つことができると言っているのです。

* パウロは、同じ言葉を用いてエペソ書で次のように語っています。「この主キリストにあって、わたしたちは、かれに対する信仰によって、確信をもって大胆に神に近づくことができるのである」と。(3:12 新303)

* ヨハネが言いたかったことは、自分の思いに囚われ、自分の持っている基準を大事にする生き方をやめなさい。それはあなたを縛り、あなたを苦しめ、あなたから平安を奪おうとするものでしかない。それは、神への信仰を引き落とすだけだと言います。

* このように、自分の思いから解放されたならば、どのような願い事であっても、何でも頂けると言い足しています。

* このような内容が取り上げられているのは、自分の思いを大事にする生き方をしている者が願うことは、自己欲の延長である自己願望の達成でしかありませんが、自分の思いから解放された者の願い事は、自己願望ではなく、神のお心を第1にし、御心のままになることを願おうとする、御心願望に変えられて行っているので、神はそのような心から出る願いはすべて聞いて下さると言うのです。

* これは、信仰者が自分の思いをなお大事にして、自己願望の域を超えていないか、それとも自分の思いから解放され始め、自己願望の生き方から、御心願望へと変えられつつあるのか、神は信仰者の内面をごらんになった上で、聞こうとして下さっていると言っていることが分かります。

* しかし事はそう簡単ではありません。自己願望の生き方から御心願望の生き方へと変えられつつあると言っても、完全に代わるわけではなく、自己願望の生き方がなお残っているのです、けれども、そこにも神は働いて下さり、御心第1に置いて向かうように導きながら育てて下さるので、完全でなくても、心配する必要はないのです。


  (2)福音の中に身を置く生き方

* 私たちの願望を、主は何でも聞いて下さるのですが、そこには次の条件がついていると言っています。それは私たちが、「神の戒めを守り、みこころにかなうことを、行なっている」点であると。

* 神の戒めと言うと分かりにくいのですが、神の命じられたことを指しており、23節の表現から見ると、神の子イエス・キリストの御名を信じることと、互いに愛し合うべきであるという2つのことが示されています。

* ヨハネの福音の基本となっているのは、4両編成の連接の福音だと学んできましたが、ヨハネは、ここではその内の1両目と4両目の福音だけを取り上げています。確かに取り上げているのは1両目と4両目だけですが、それによって福音全体を示そうとしていることが分かります。

* 2両目の、聖霊の内住によるきよめられた信仰人生を歩むことと、3両目の、かしらなるキリストの下に集められたキリストのからだなる教会が建て上げられていくことでありますが、これらは命じられた事柄という要素よりも、神の子として育て、用いようとするための、神のあわれみの要素が強いと言えます。

* 1両目の、キリストの御名を信じることの重大さ、4両目の、神のあわれみの行為を無にせず、注がれた愛の発生源をもって行いと真実をもって実践していくことが命じられています。この2つを示すことで、神が示された福音に対して、忠実に向かうように求められていることが分かると考えたのでしょう。

* 福音は、すべて深い関連を持ってつながっています。神の子イエス・キリストの御名を信じることは、聖霊の内住信仰に生きることであり、それはまた、キリストのからだなる教会に集められた主の群として生きることであり、それは、兄弟愛を持って互いに愛し合っていこうとすることでもあります。そのうちの一つでも欠ければ形をなさないのです。

* そのことを身近なたとえで言うならば、4本足の机のようなもので、1本が欠けても立たなくはありませんが、不安定なものとなるようなものです。

* 神の命じられたことを守っていることに加えて、神のみこころにかなうことを行なっていると言っています。神が喜んで下さる行いとは、神が命じて下さったことに耳を傾け、神が実現に至らせて下さることを信じて(ピリピ2:13 新310)実践していこうとすることを指しているのでしょう。

* ゆだねなさいと言われれば、すべての点においてゆだねていこうとし、心配せずお任せしなさいと言われたら、主に信頼し、心配しないで進んでいこうとすることです。それは、信じるとは、信じて行なっていくということも含んでいるからです。そのようにしていれば、神のお心を第1に置いているが故に、どんな願い事でも主はかなえて下さると言っているのです。

* すなわち、ヨハネがここで言おうとしたことは、福音に生きるということは、福音の中に身を置くことであり、福音を信じて受け入れると共に、福音を実践していくことだと示し、言葉や口先だけの信仰にしてしまってはならないと勧めることにあったのです。

* このことは今日の私たちにおいても言えることでしょう。福音の中に身を置くことによって、自分の思いから解放されていく歩みをしていきたいのです。


  (3)実感によらず、神の御思いの確かさによる

* 神が命じられたことを、よそ事として聞かず、福音の中に身を置き、福音を信じ受け入れ、福音を実践していく歩みをしていくならば、自分の思いから解放されていくようになっていくのです。

* そうすると、その人は神の内におると見られ、神もその人の内にいて下さるという驚くべき霊的一体関係となると言われています。

* この「いる」という言葉は、「とどまる」「滞在する」「住みつく」という意味を持った言葉であり、現在時称で書かれていますから、その状態が進行中、継続中であることを示しているのです。

* 分かりやすく補って言うならば、福音の中に身を置いた時から、その人は神の中にとどまり続けた状態であり、神もその人の中にずっと住みついておられる状態になっていると言い、それが今もなお継続中であることを示そうとしているのです。

* ヨハネが、このように語ろうとした意図はどこにあるのでしょうか。決して神秘的な意味で、神の中にいる実感、私の中に神が住みついて下さっている実感を感じ取るようにと示すためではありませんでした。

* 救われても、きよくなっている実感を持てないので、救いを疑い始め、きよくされている実感を持てないのは、神は肉体まできよくして下さることはできないからだ、それ故、肉体は悪いもの、どうにもならないもの、霊がきよければそれでいいという教えの方に引っ張られ、真理から逸れて、闇の生き方をするようになっていた人たちが出始めていたのです。

* これは、きよくなっている実感を持てないことに対する不満から出た反動だと言えます。人はどうしても実感を求め、実感に頼ろうとする所があります。それはなぜでしょうか。実感イコール事実だと思っているからです。しかし神は霊的真理を示して、それを信じて受けとめるように求められるのです。

* 私が神の内にとどまり続け、神も私の内に住みつき続けて下さると言っても、これは、実感できる神秘的なものとして示されているのではなく、神が信仰者と一体となって、その歩みを、生涯責任を持って導き、整え、育てて下さるお方となって下さっているという霊的状態を明らかにしている霊的真理なのです。

* それ故、実感することも、確認することもできません。しかし、神が示された偽りのない霊的事実として示されているのです。

* 自分の思いから解放されていない人は、この実感信仰から抜け出すことはできません。自分の思いで確かめずして安心することはできないからです。自分の思いで確認しようとするのではなく、神の御思いの確かさを信じて、実感がなくても確信することが信仰なのです。

* 実感できなくても、神の中に自分がとどまるようにされ、私の中に神が住みついて下さっているという霊的一体関係に置いて頂き、私の信仰人生が、すべて神の御手の中にしっかりと握り締められ、確かな導きの下に置かれていると信じて喜び続けることができるようにされているのです。その中でキリストの御名を信じ続け、兄弟愛を現していくように育てられていくのです。


  (結び)聖霊によって教えて頂く歩み

* これらのことは、すべて人間の思いで知ることができないことであって、神が私たちに与えて下さった聖霊によってのみ知ることができると話を結んでいます。

* 人間の思いでは、福音を知ることも、受け入れることもできないし、まして、福音の中に身を置くことなどできません。それらは、すべて実感の伴わないものであり、人間的安心を得ることができるものではないからです。

* 不確かで、当てにならない自分の思いから解放されていくことにより、福音の中に身を置き、自分を預けてしまう歩みの方が正しいと理解させて下さり、神の御思いだけが確かで変化がなく、神から命じられた福音に立ち、実行していく歩みをすることが、唯一の確かな道であることを、聖霊がすべて教えて下さると言うのです。

* ヨハネが、この言葉を用いて結ぼうとしたのは、聖霊が教えて下さることなくして、正しいことは何も分からないことを明らかにし、聖霊信仰が信仰の重要な鍵であることを強調する必要を感じていたからでしょう。

* 自分の思いを大事にし続けている人、にせ福音に惑わされている人、主に信頼し切れない人、4両編成の連接の福音が理解できていない人、神の御思いが受けとめられない人、これらすべての人は、聖霊によって教えて頂く歩みができていない人であって、そこが解決されない限り、一歩も前には進めないと言うのです。

* 聖霊の示しによって、福音の中に身を置き、神の中に私がとどまり、私の中に神が住みついて下さっているという霊的一体信仰に立ち続けることの幸いを、私たちもしっかりと受けとめて歩んでいきたいと思うのです。

月別へ   Tヨハネへ   TOPへ