聖日礼拝メッセージ
2012年6月9日 更新

聖 書 Tヨハネ4:1〜3   (第23講)
 題 「霊を見分ける能力は福音信仰の鍵である」


  (序)聖霊抜きの信仰はあり得ない

* ヨハネがこれまで示してきたことは、人間の思いや感覚で生きてきた人間が、救われたからと言って、簡単に自分の思いから解放され、神の御心中心の生き方に変えられるわけではなく、時間はかかるが、示された4両編成の連接の福音の中に身を置く生き方をしていくことによって、徐々に整えられていくと語ってきました。

* しかし、福音の中に身を置いて生きるといっても、福音は神秘的な実感を感じ取ることができない霊的な内容であるが故に、本当に福音の通りに生かされているのかという疑念が処理し切れず、信頼し切れない思いが残って、人間的にすっきりとする回答を得たいと思ってしまうのです。

* 偽りの福音は、そんな信仰者の思いにつけこんで入り込むのです。偽りの福音をのべ伝える反キリストたちが迫ってきて、福音信仰から引き落とし、闇の生き方に逆戻りさせようとしてきたのです。

* 実感が与えられない福音は、あなたがたを救い出す力を持ってはいない。神が与える救いは、肉の体の救いは入っていない。魂における救いだけであって、身体は悪なので、罪を犯すのは仕方のないことと割り切れば、救われても罪を犯し続ける自分を見て落ち込まなくてもいいようになる。福音の考え方を根本から考え直す必要があると、偽の福音を説いていたのです。

* 彼らの福音から見れば、キリストの福音の中で最も受け入れられない内容が、神の子イエス・キリストが肉体を取って人となられたという内容でした。肉体は悪なのに、神の子が汚れた肉体を取られるはずがないと考えて、それを否定したのです。

* 人間の思いでは福音を知ることも、受け入れることもできません。自分が納得できる思いを大事にしていますから、実感もなく、人間的に理解しにくい内容は、心は自然と反発してしまっているから受け入れられないのです。

* だから3章の所で、福音を受け入れ、神と一体とされるという、福音のもたらす最高の霊的状態は、人間の思いで知ることはできず、聖霊が教えて下さることなくして、一つも知ることはできないし、受け入れることもできないと言いました。

* いつまでも、自分の思いを大事にして向かうことによって、福音をそのまま受けとめることができない人たちに対して、聖霊抜きで、信仰はあり得ないことを断言したのです。

* ただそこにも落とし穴があることに注意させようとしたのが今日の箇所です。霊の働きかけは、聖霊だけではないからです。このことは、今日の私たち信仰者においても、何に注意が必要か考えていなければなりません。


  (1)可視化された悪霊の存在と取り憑き方

* ヨハネは、この当時において、多くのにせ預言者が出ていることに警告を鳴らさずにはおれなかったのです。この多くとは、必ずしも同じにせ福音に立つ人たちの多さを指しているとは限らず、異なった福音の数も多くあったことを示しているかもしれません。

* ヨハネは、そのような多くのにせ預言者が出ている状態を見て、多くの霊が活発に活動していて、その霊が預言者の口を用いて、多数のにせ福音を語らせていたと見ていたことが分かります。

* この多くの霊というのは、神の側における霊は聖霊だけでありますが、サタン側における霊は無数にいる悪霊のことを指しています。そのことは、パウロがエペソ4:4で、御霊が一つであることを明言しており、悪霊は悪霊どもと呼ばれ、時には一人の中にたくさんの悪霊が入り込んでいて、レギオンと呼ばれたりしていることからも分かります。(ルカ8:30)

* この当時においては、悪霊は見える形で人に取り憑き、悪霊の動かすままに、異常な人間性を表していた姿などが多く示されており、汚れた霊によって、精神異常や病気や自虐行為を繰り返す人や、平気で罪を犯す人などを作り出していた様が描かれています。

* 悪霊がどのような存在であり、どのように取り憑いていたか、公生涯のイエス様の時代において、神の力ある働きかけが明らかにされるために、特別可視化され、理解しやすいようにされたと考えられます。それから後の時代においては、悪霊の存在やその取り憑く様は、水面下に潜って見えなくなりました。

* しかし、今は見えなくても、この時に明らかにされた悪霊の働き、取り憑き方を正しく受けとめ、本来の霊的な、形のない働きかけの怖さを十分に理解し、悪霊に取り憑かれた状態がどれほど異常であり、神から遠く離れた、人間性の失われた状態であるかを受けとめるようにされたのでしょう。

* ヨハネが、ここで語ろうとしていることを理解するためには、この悪霊の働きかけがどのようなものであるか、その考え方の前提を正しく把握している必要があります。

* イエス様の時代に可視化されていた悪霊について見てみますと、イエス様に付き従っていた婦人たちの中には、悪霊を追い出してもらって病が癒された人たち多くいたと言われています。(ルカ8:2,3)

* 中には7つもいた悪霊を追い出してもらった婦人もいたのです。それがどのような悪霊であったか詳細は記されてはいませんから分かりませんが、その数の多さは、悪霊の働きかけの激しさを示していたと分かります。

* イエス様は、人に取り憑いてサタン化しようとしていた悪霊に向かって、その人から出て行くように命じられると、悪霊は出て行ったと言うのです。

* 悪霊が出て行った後のその人の状態は、正気になって、イエス様がして下さった事を理解し、イエス様のお供をしたいと願っていることから、悪霊が出て行けば必ず神信仰に立つとは限りませんが、神に対して目が開かれる大きなきっかけになることが分かります。

* すなわち、悪霊はその人の内に取り憑くことによって、その人自身が持っている正常な理解力、感覚、人間性などを閉じ込め、それ以上に霊を封じ込めて、神に向かわないようにさせているのです。

* それ故、その悪霊の拘束から解放された時、正常な人間性が戻ると共に、霊も解放され、いつでも神の方に向くことができる準備された状態になるのです。

* これらのことが示されているということは、悪霊はすべての人に取り憑いているという事実と、悪霊を追い出して頂けるという事実が見えてきます。

* しかしある箇所では、一度人から出て行った悪霊が、再び戻ってくることがあり、いや戻ってこようとし、その人が悪霊を追い出して頂いた後も、神の方に向かわなかったことによって、より多くの悪霊を連れてきて再び取り憑き、初めの時よりももっとひどい状態になることが示されています。(ルカ11:24〜26)

* 悪霊が世において、いかに活発に活動し、我が物顔で闊歩しているかが感じられるのです。ヨハネは、この悪霊の恐ろしい働きかけを軽く見ることはできませんでした。いかに多くの人がこの悪霊の働きかけにまんまと一杯食わされ、引き落とされることになるのをよく知っていたからです。現に多くの人たちが、悪霊の働きかけにやられており、警告を発せずにはおれなかったのです。


  (2)聖霊によるものか、悪霊によるものかを見分ける

* それでは、ヨハネの勧めの方に戻りましょう。この手紙の宛先の信仰者たちの中で、にせの福音に引っ張られ、せっかく光の中を歩む天国人にして頂いたのに、あえて闇の生き方に逆戻りし、神を信じていると言いながら、神から遠く離れていこうとしている人たちが出てきていたので、悪霊がどのように働いているかを示そうとしたのです。

* にせの福音を伝えている人たちのことを、ここではにせ預言者と呼び、にせ預言者たちは、悪霊に取り憑かれているので、にせの福音をいかにも本当であるかのように語っているに過ぎない。彼らは正常な霊的感覚が失われてしまっているから、神の導きを受けてもいないのに、神はこう語っておられると、神を前面にうち出して語っていると言おうとしているのです。

* これは、この時代特有の現象なのではありません。いつの時代においても悪霊は働いているのです。旧約においてはサタンの存在も、悪霊の存在もまだまだ明確にされてはいませんが、現に働いていたことは確かです。

* にせ預言者たちがもたらす恐ろしい影響力についてエレミヤは明確に述べています。(14:14〜16 旧1071)「主はわたしに言われた。『預言者らはわたしの名によって偽りの預言をしている。わたしは彼らをつかわさなかった。また彼らに命じたこともなく、話したこともない。彼らは偽りの黙示と役に立たない占い、および自分の心でつくりあげた欺きを、あなたがたに預言しているのだ。それ故、わたしがつかわさないのに、わたしの名によって預言して、つるぎとききんは、この地にこないと言っている。あの預言者について、主はこう仰せられる。この預言者らは、つるぎとききんに滅ぼされる…』と。」

* ヨハネは、にせ預言者という言葉を使うことによって、今の時代においても同様に悪霊が彼らに取り憑いて、神が遣わされてもいないのに、神はこう言われたと預言して、人々の心を惑わしていると言って、それは悪霊が取り憑いているせいであることを明らかにしているのです。

* たとえば、一つの例を取り上げてみましょう。カトリック教会において、マリヤ崇拝することが、神が示された真理であるかのように教え続け、自分たちの心で作り上げた欺きを当然のように語り続けているにせ預言者が無数におり、神を辱めているのです。これほど恐ろしいことはないでしょう。

* もちろん、悪霊以上に聖霊も内住して下さり、神の下に導き、神の前に立たせようと働きかけて下さっているのですから、人受けするかしないかではなく、聖霊が私たちの口を用いて語ろうとされることを語り、聖霊の働きかけを僅かも疑わず、示された真理の御言葉に立ち、自分の心で作り上げた欺きを僅かでもそこに入れ込まないで、福音に生きるように導かれているのです。

* 真の預言者とにせの預言者の違いはどこにあるかと言いますと、聖霊の導きを受け、神が語らせようとされる真理だけを、自分の信仰にかけて語る者と、人受けするようにと、肉の思いを入れ込み、自分の心で作り上げた欺きを、人間的な考えで語る者との違いです。

* また、御言葉を聞く側も、聖霊の助けを頂いて、聖霊によって語られたものであるか、それとも、悪霊の働きかけを受けて語られたものであるか、確かめる霊的判断力が必要だと言いました。この判断力がなければ、いとも簡単に悪霊の騙し作戦にやられてしまうしかないのです。

* 人間は、どちらの影響も受けないという人は一人もいません。聖霊の働きかけを受けているか、それとも悪霊の働きかけを受けているかどちらかです。語る側も、聞く側も、よほど注意していないと、人間の内側に悪霊になじみやすい肉の心が残っているが故に、悪霊の影響を受けやすく、にせ預言者、にせ信仰者に引き落とされてしまうのです。


  (3)福音の内容によって見分ける

* この霊を見分ける霊的判断力は、人間が元々持っているものではありませんから、聖霊の内住の恵みによって育てられていくしかありません。ヨハネは、この当時のにせ預言者たちの主張から、その内容を通して一つの具体的な見分け方を示しています。

* 一方は、神の子イエス・キリストが、人間をあがない出すために肉体を取って人となられたことを告白するように導かれる霊は、神から出た霊、すなわち、聖霊によるものであり、もう一方は、イエス・キリストが肉体を取って人となられたことを告白しないように導く霊は、神から出た霊ではなく、すなわち悪霊によるものであり、反キリストとの霊によるものであることを、受けとめればいいと言いました。

* 当時のにせ福音によれば、キリストは決して肉体を取らず、人間イエスの中に一時的に宿って、キリストが死ぬことは考えられないから、十字架にかかる前にキリストは、イエス身体から離れたので、死んだのは人間イエスであったというものでした。この考え方であるとキリストのあがないのみわざは,キリストの十字架にあるという福音が成り立たず、人間に救いはないことになります。

* 神なるお方が人間の肉体を取って地上にこられ、神として、人として、あがないの死を遂げることが必要とされた神のご計画が実現するためには、神の子キリストが肉体を取ってイエスとならなければならなかったのです。

* もちろんこれは、この当時の反キリストたちの伝えていた中心点を取り上げて語っているだけで、福音のすべてを取り上げているのではありません。他の福音の部分においても、どちらの霊が導いた内容であるか見分けることは困難でしょう。

* ヨハネが語ろうとしたことは、この重要な一点だけでも、聖霊が働いて伝えた真の預言者の言葉か、悪霊が働いて伝えたにせ預言者の言葉か見分けることができ、真の預言者として見分けた者の言葉を十分に聞き取っていくことにより、すべての内容において、真の預言者の言葉か、にせ預言者の言葉か見分けることが出来るようになると言おうとしたのでしょう。

* それでは、霊を見分けることができない時はどうしたらいいでしょうか。というのは、最初から霊を見分ける能力が誰でもあるわけではないですから、どういう対応をしていけばいいのでしょうか。

* 感じることができなくても、聖霊が働いて助けて下さっていることを信じ、肉の思い、肉の理解力で向かうことをせず、神への強い期待と信頼とを現していけば、主が導いて下さるでしょう。

* 聖霊の導きは、私たちの感覚で感じ取れるものではなく、信仰を頂いた時、すでに御霊が内住して下さり、働き始めて下さっているのですから、肉の思いや肉の理解力で向かおうとしないように戒めていれば、そして聖霊が働いて下さっていると信じてさえいれば、聖霊の働きかけは、惜しまれず、どんどんと注がれるのです。そして霊を見分ける能力も育てていって下さるのです。


  (結び)悪霊が激しく働いている時代

* 手紙の宛先のクリスチャンたちは、にせ福音による働きかけがまだなくなっていたわけではないので、少し動揺している部分があったのでしょう。そんな彼らに対してヨハネは、どのような内容も、すべて霊の働きかけを受けて語られたものであると言って、その背後にあって動かし、語らせている存在がいることを明らかにしました。

* 一方は、神から出た聖霊の働きかけによって、語られてきた真の福音であるが、一方はサタンから出た悪霊のはたらきかけによって語られてきたにせの福音であって、そのことが見分けられないと騙されやすく、正しいと思って信じていても、終わりの日に主の御前に引き出された時、偽りの福音を信じた者として裁かれるならば、泣かなければならないでしょう。

* 悪霊が激しく働いており、真の福音から逸らせ、神から引き離そうと臨んでいるのです。そのことを知って十分注意を払わなければ、にせ福音に引き込まれる危険から逃れることができません。

* 現に多くの信仰者は、それがにせ福音であることに気づきもせず、聖書信仰だと思い込んで、にせ預言者の言葉をそのまま信じている甘さがあるので、悪霊にまんまとやられて、信仰でない信仰に歩んでいるのを思います。

* にせ預言者の言葉は、肉の思いに甘く、引き寄せる力があり、霊で深く考えさせないようにし、いかにも真の福音であるかのように見せかけます。そして、御言葉からうまく逸らしていき、人間の肉の感覚に訴えるのです。

* にせ預言者とにせ信仰者がますます多く現れてくる時代に突入していると言えるでしょう。

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