(序)天上人の言葉、地上人の言葉
* ヨハネが語っている今日の箇所を読んで、第1に感じたことは、天上人の言葉と地上人の言葉があって、信仰者はそれを聞き分けることができると言われている不思議な内容で、こんなことが実際にあるのだろうかと考えさせられるのです。
* ここに幾つかの疑問が起きてきます。6節で言われているわたしたちというのは、直接的にはキリストの福音を伝えている伝道者全体のことを指していると考えられますが、広い意味では聖霊の内住を頂いたすべての信仰者である天上人(天国人)のことだと言えるでしょう。
* それでは、信仰を頂いて天上人にされた者は、すべて天上人としての言葉を語るようになり、地上人とがはっきり区別されるようになるというのでしょうか。
* 天上人にされたと言っても、元々肉で生きてきた罪人でありましたから、救われたからと言って、急に天上人としての言葉を語るようになると考えられるでしょうか。
* 天上人となったことによって、地上人の時に使っていた言葉が全く使わなくなり、天上人の言葉だけを語るようになると言えるのでしょうか。
* また、天上人の言葉と地上人の言葉とはどのように違っているのでしょうか。使う用語が変わってくるのでしょうか。それとも用語はそれほど変わらなくても、言葉に込められている思いや香りが異なっているのでしょうか。
* 地上人は、地上人が語る言葉しか耳を傾けないが、神から出た者である天上人は、天上人の言葉しか耳を傾けようとしないと断言すれば、地上人と天上人とは全く接点はないということになるのでしょうか。
* ヨハネはここまで、神から出た者と、世から出た者とを明確に分けようとしていますが、明確な線引きができるのでしょうか。というのは、信仰者自身、自分の中に天上人とされたにもかかわらず、地上人としての強い思い、習慣、感覚、感情などが表れ出てくるのを抑えることができず、天上人としての言葉のみを語り、天上人の言葉のみ聞く耳を持っていると言い切れない存在であることを自覚しているのです。それをどう解決しているのか、無数の疑問が湧き起こってくるのをとどめることができません。
* できれば、天上人とされたことによって、天上人としての生き方に徹して、天上人である人からの言葉のみに耳を傾け、自分の中から地上人としての生き方や言葉や思いが出てこなくなって、きよい天上人として歩むことができるようになれば言うことがないのですが、そんなことは無理であることは認識させられます。
* それでは、ヨハネがこのように天上人と地上人とを明確に分類して示そうとした意図はどこにあったのでしょうか。このことは前回4:1〜3の所で学んだ内容の続きとして、手紙の読者に示そうとしたヨハネの思いを受けとめる必要があります。そこから、これらすべての疑問を解いていくことにしましょう。
(1)聖霊の働きかけか、悪霊の働きかけか
* 前回の所では、この地上では良い霊(聖霊)も働いていますが、それと共に悪い霊(悪霊ども)も無数に働いており、すべての人に取り憑いて動かし、その人の正常な人間性、理性、理解力、感覚なども汚染して狂わせ、肉の言動しか表せないようにさせている霊的な事実に目を向けさせていました。
* そのような悪霊に取り憑かれた人が表す神への反逆の思いは、真理を歪め、神のお心を虚しくさせようとする働きとして、最も顕著に出てきたのです。神の子イエス・キリストが肉体を取って人となられ、罪人が受けるべき罪の罰を身代わりに受けて死んで下さったという福音の真実を歪め、それを信じさせないようにと働きかけたのです。
* そのような働きかけは、強力で小さなものではなく、悪霊は多くのにせ預言者を生み出し、それに耳を傾ける多くの魂をも獲得して行ったのです。それは、聖霊の働きかけによるものか、悪霊の働きかけによるものかを見分ける霊的判別能力が育てられていなかったから、そのような罠に落ちていったのです。
* しかし、確かに多くの魂は惑わされかけたのですが、惑わしの教えに全く動じなかった人も、何とか踏みとどまった人たちも多くいたのです。そのような人たちへの励ましと、踏みとどまった人たちにその位置を確立していくように語り掛けているのが今日の箇所です。
* それ故、そのような人たちに対して、愛情込めた表現で,子供たちよと呼びかけています。あなたがたに対しても、反キリストの霊が取り憑こうと働きかけてきたにもかかわらず、あなたがたはそれを振り払い、真理の福音から外れなかった。これはすごいことだと言うのです。
* それは、あなたがたの意志が強かったからだというのではなく、あなたがたが悪霊に心を開けずに、聖霊の内住の事実を僅かも疑わず、神からの者、すなわち、天上人として聖霊が内に働いて下さっているという信仰を崩さなかったから、真理の福音から外れないでおることができたことを確認させようとしたのです。
* 人は、信仰が分からなくなってくると、真っ先に聖霊の内住信仰が薄れ、聖霊のことが分からなくなって落ちていきます。それは、悪霊の教えに心が惹かれるという悪霊の導きに一旦心を開けてしまうと、悪霊がまずなそうとすることは、聖霊の導きを感じ取れないようにし、聖霊のことを分からなくさせてくるからです。
* しかし、真理の福音から外されず、踏みとどまったということは、悪霊の働きかけに心を開けずに、聖霊が働いて下さっていることを信じ続けた結果であり、それによって世に打ち勝つ勝利者となったということだよと、ヨハネは愛情を持ってやさしく語りかけているのです。
* 多くの人が、異なった福音に引っ張られている様子を見て動揺したり、異なった福音の方が納得しやすく、心が惹かれやすいものだと感じたりしても、あなたがたが真理の福音に踏みとどまったという事実は、一つのことをはっきりと示していると言うのです。
* それは、世にある者たちの内に働いている悪霊よりも、あなたがたの内に働いて下さっている聖霊の方が、はるかに偉大で、力があり、あなたがたを正しく導き、信仰の喜びに溢れさせ、動揺しないものにして下さったからだと言うのです。
* このことを確認させようとしたのは、見える形で聖霊のお働きが分かるわけではないが、間違いなく聖霊は私たちの内に働いて下さっており、神の示して下さった真理に立ち続けるように導いて下さっており、信仰を強くして下さっているので、惑わしの働きかけという風が吹いてきても倒れないようにされたのは、聖霊の力強い働きかけを頂いている証拠だと言って、このことを十分認識するように語りかけようとしたのです。
* いかに聖霊が働いて下さっていても、それを信仰によって認識していないなら、悪霊の働きも認識できず、どのような働きかけが聖霊によるものか、悪霊によるものか見分けることができないので、巧みな惑わしの罠にかかる危険性を残すことになってしまうのです。そのことについてもう少し考えて見ることにしましょう。
(2)聖霊が内住して下さった者の状態
* 5節で、彼らは世から出た者であると言っていますが、この彼らとは、悪霊あるいは反キリストの霊に取り憑かれてにせ福音を信じ、宣教しているにせ預言者たちとその教えに引き込まれた人たちの事を指していると分かります。
* 世から出た者とは、世出身者であるということです.世において罪人として生まれ、世において育ち、世の環境の中で、世的生き方がしっかりと身について生きてきた者です。それ故、世出身者の言葉は、世の思いを土台としたものであり、世の感覚に沿ったものであることは言うまでもないことでしょう。
* しかし、神から出た者と言われている私たちも、元は世から出た者でありました。けれどもイエス・キリストを信じ、世から救い上げられ、神の子としての身分が与えられたことによって、神から出た者と変えられたのです。元世出身者でありますが、今では神出身者に変えられたのです。
* それではどう変えられたのでしょうか。神出身者に変えられたのだからと言って、その人から世的雰囲気がなくなり、世的思い,世的言葉が出なくなり、世的生き方を全くしなくなったと言えるのでしょうか。そこまで断言できない思いを残してしまうのです。
* ヨハネはそういう観点から見て、世から出た者、神から出た者という分け方をしてはいないのです。もし世的雰囲気、思い、言葉、生き方において世的香りが全くなくなったかどうかという観点から見ていたならば、ヨハネも決して世から出た者、神から出た者という分け方はできなかったでしょう。
* それでは、ヨハネはどのような観点から、世から出た者、神から出た者という分け方をしているのでしょうか。それがここで語っている主眼点であることが分かります。ヨハネは、悪霊に取り憑かれた者は、世から出た者、イエス・キリストを信じ、神の子としての身分が与えられ、聖霊の内住を頂いた者は、神から出た者だと言ったのです。
* それでは、聖霊が内住して下さった者の状態はどうなっていると見ていたのでしょうか。イエス・キリストを信じたという一点によってのみ、キリストの中にいる者とされ、神から生まれ、罪を犯さない者に変えられたと、神から見て頂く者となったのです。
* しかし、それは神のお心に適ったきよい存在になったから、キリストの中にいることができるようになったのではなく、汚れと、弱さと、足らなさとを持ったままキリストの中に入れて頂いたという恵みの事実を信じたことによって、キリストにあって神から生まれた者、罪を犯さない者と見て頂くようになったのです。
* ということは、信仰を持ったとしても、私たちの中から世的雰囲気、世的思い、言葉、世的生き方が全く出なくなるというのではなく、それどころかなお出し続ける状態は変わらないと言えるでしょう。それでは、何が変わったのでしょうか。
* それは、これまで悪霊が入り込み、悪霊のなすがままに動かされ、世的生き方を良しとし、神に忌み嫌われる姿を平気で現していた者が、悪霊の関与を嫌うようになり、聖霊が私の内に臨んで下さって、神の子としての生き方に向けようとして下さる働きかけを大事に思い、それに沿って生きていこうとするように変えられたのです。
* これは、人間の目から見れば、世的雰囲気も世的思いも、世的言葉も世的生き方も大きな変化が見られるわけではないので、変わったようには見えないのですが、聖霊が入って下さったという事実が人間のすべてを変え、全く異なった存在にしてしまったと言い、神の目から見て、正反対の存在に変わったと見て頂くようになったと言い切っているのです。
* 私たち信仰者も、自分や他の兄弟たちに対しても、この観点から見る必要があるのです。そして世から出た者か、神から出た者かを見分けて、自分に対してであるならば、自らを戒め、他の兄弟に対してであるならば、注意して接しなければなりません。
* ただ難しい点が残ります。それは、神から出た者とされたにもかかわらず、その人の内から、世から出た者のような姿を、ある時は、自分の内にも、他の兄弟の内にも見させられることです。この点についてもう少し考えなければならないでしょう。
(3)天上人の語る言葉をどのような点で見分けるか
* 世から出た者は世のことを語り、世の人々も、世から出た者の言葉を好んで聞くとヨハネは言いました。前半の、世のことを語るという内容は、世の事柄についてということではありません。神から出た者であっても、世において生かされているが故に、世の事柄について思い、語ります。
* それ故、ここでは、世から出た者とは、すでに2:15で語っていたように、世と世にあるものとを愛する世的生き方に没頭し、自分の思いを大事にし、人間の都合のいい福音に作り変えた、にせ福音を伝えている人たちのことを語っているのです。すなわち、彼らの語る内容は決して神のことではなく、人間の都合のいい世のことだと言うのです。
* それと対照的なのが私たちの宣教だと言って、自分たちの宣教は神から出た者として、神のことを語っていると言い、その違いを明確にしようとしたのです。パウロはそのことを違った表現でこう言っています。「今わたしは、人に喜ばれようとしているのか、それとも、神に喜ばれようとしているのか。あるいは人の歓心を買おうと努めているのか」と。(ガラテヤ1:10 新293)
* このことは、後半の内容にも通じています。世的生き方をしている人が、その生き方を変えることもなく、世的生き方を激励する内容として、世のこと(にせ福音)を語っている。その内容は、神に喜ばれようとするものではなく、人に喜ばれようとし、人に媚びようとする世の思いでしかないと言い切っているのです。
* ヨハネが言いたかったことは、キリストの福音は、世と世にあるものを愛する世的生き方に没頭している者にとっては聞こうとする思いさえ起こらず、興味を持たれることもないものであって、世受けしない福音だが、にせ福音は、世のことを語っているから、世受けするもの、信じる人々が多く起こされるのが当然だとまで言い切っているのです。
* ここに、神から出た者である天上人の語る言葉と、世から出た者である地上人の語る言葉は、根本から異なっており、その内容は、一方は神に喜ばれようとして語る言葉であり、一方は人に喜ばれ、人に媚びようとして語る言葉であると言うのです。
* キリスト教の用語を使っていれば、天上人の語る言葉となるというのではありません。にせ福音を語る人たちもキリスト教用語を使っていたと考えられるし、今日においてもキリスト教会と名がついていれば、キリスト教用語はふんだんに使われていると言えるでしょうが、しかし、必ずしも聖霊のお働きによって語られているとは限りません。それどころか悪霊さえキリスト教用語を巧みに使ってキリスト教らしく見せかけようとします。
* パウロは、その様を、Uコリント書11:14(新289)で、「サタンも光の天使に擬装する」と言い、さらに「サタンの手下ども(悪霊ども)が義の奉仕者のように擬装する」と言っています。
* それでは、語られている言葉を聞いて、それが天上人の言葉か、地上人の言葉か、どのようにして見分けることができるのでしょうか。それだけではなく、一人の人の中から天上人の言葉も出るが、地上人の言葉も出るということがあるとすれば、どのように見分ければいいのでしょうか。
* それは、その人が真理の福音によって生きており、神だけを見上げて語っている言葉であるのか、それともその人が世や人の方に向いて、肉の思いによって語っている言葉であるかどうかで見分けていくしかないのです。
* 真理の福音によって生きる生き方に向かっていないと、人はすぐ、世や人の方に目を向けて、その口から地上人の言葉を吐こうとするのです。ヤコブは同じ口からさんびとのろいとが出てくる怖さを示しています。(ヤコブ3:9,10 新363)私たち信仰者もうっかりすると、天上人の言葉を語る一方で、地上人の言葉を垂れ流しているという怖さを感じるのです。
* それではどうすればいいのでしょうか。真理の御霊が働いて、天上人の言葉を聞き続けることによって、天上人としての言葉を語る者にされていくのです。そこにしっかりとチャンネルを合わせる歩みをすることです。
* 天上人としての言葉とは、その根底に神への深い信頼と期待とがあって、そこから香ってくるものは、神様の素晴らしさを思わされずにはおれないものです。しかし地上人の言葉は、世の臭い、肉の臭いがぷんぷんとしており、そこに世の毒が強く感じられるのです。
* ヨハネは、自分たちの言葉が天上人の言葉であって、世の臭いは入り込んでいない、しかし彼らの言葉は地上人の言葉であって、世の臭いしか感じられないと手前味噌的な言い方をしています。これは単なるうぬぼれか、傲慢にも聞こえる言い方をしていますが、決して傲慢な言葉ではなく、聖霊の導きに対する動かない確信と、強い信仰がにじみ出ている表現なのです。
* ヨハネは、自分で自分を持ち上げているのではなく、内に働いて下さっている聖霊に対する激しいまでの信頼が、このような表現となったのでしょう。逆にこの確信がなければ、神に喜ばれるように願って語るということなどは、罪ある人間にとっては、言うことのできないことなのです。
(まとめ)聖霊にできないことはない
* 私たち信仰者は、神の目から見て罪を処理して頂き、救われて神の子としての身分を与えられた者でありますが、現実においては肉の思いが残っており、天上人として生き、天上人として言葉を語るということは無理だと思わされるのです。
* しかしヨハネは、人間には無理でも、あなたがたの内に宿って下さった聖霊によってそれが可能になる、天上人として生きることができるし、天上人としての言葉を語ることができると言うのです。
* ただ、自分の内から世的雰囲気、世的な思い、世的な言葉が全くなくなり、世的な生き方をしなくなるという、見た目において状態が変わらないので、なかなかそのように言い切れない部分を残しているのです。勘違いしてはなりません。見た目の状態を変えて下さるとは約束されてはいません。
* 見た目に大きな変化はなくても、聖霊が宿って、内に働き続けて下さっているという天上人としての状態は、人間を根底から変える事柄でありますから、天上人として確信しておることができるし、神への深い信頼と期待が根底にある天上人としての言葉を語ることができるようにされているのです。後はいかに、聖霊に信頼して歩むかにかかっているのです。
* 確かに、私たちの内に残っている肉の思いに、悪霊は働きかけてきますから、地上人としての姿を引き出そうとしてくるのをとどめることはできません。けれども真理の御霊への強い信頼と、御霊の働きによって、天上人としての歩みが保証されているという事実を見失わないことが大切なのです。
* 聖霊にできないことは何一つないのです。聖霊が救えない魂は一人もありません。このことへの信頼が失われなかったならば、サタンも、サタンの手下である悪霊たちも、私たちを引き落とすことはできないのです。