(序)神の望んでおられることを知る
* ヨハネはなぜ、同じことを異なった面から繰り返し言及しているのでしょうか。単なる性格的にくどいだけなのでしょうか。そうではありません。信仰の事柄は、すべて独立した内容として考えるべきものではなく、深い関連の中で理解し、消化して、前進していく必要があると考えていたのでしょう。
* 今日の箇所で理解していくように語り掛けているのは、兄弟愛についてでありますが、これまでにも2箇所で触れてきました。最初は2:7〜11の所で、光の中に置かれた者は、その人の内から闇がなくなったことにより、兄弟を愛することの大事さに目が開かれていくようになると示していました。
* 2回目は、3:11〜18の所で、死から命に移し変えられた者は、その人の内に永遠の命がとどまった状態になったので、愛の発生源である神の愛が注がれ、兄弟を愛するように導かれると示していました。
* 3回目の今日の箇所において、ここまでの内容をより深め、神からの良い霊である聖霊が内住し、働いて下さるようになった者は、真理の霊によって、神の御心を知るようになり、救われた人間を実質的に神の聖さにあずかる者にしていき、人間性を回復させていくことが、神の望んでおられる目的であると理解するように語るのです。
* というのは、神のかたちにかたどって造られた人間が、罪を犯したことによって失った人間性の第1のものは、愛でありました。愛を失ったことによって神を愛せなくなり、人をも愛せなくなり、自己中心の人間が出来上がってしまったのです。
* それ故神が、失われた神のかたちを回復させられるだけではなく、失った人間性をも回復するように望まれ、救いの道を用意して下さったのです。
* 神のかたちの回復は、キリストのあがないのみわざを信じることによって瞬間的に与えられるものですが、人間性の回復は、神のあわれみと人間の側の信仰的努力の2側面が必要となり、長い時間をかけて整えられていくものであるという、福音の根本教理を土台に置いて勧めが展開されていることが分かるのです。
* すなわち、神の聖さにあずかる信仰者の歩みの第1のことは、失った愛を回復させて頂くことなのです。なぜ愛なのか、しかもここでは互いに愛し合っていく兄弟愛の必要性が説かれているのですが、それはなぜでしょうか。
* これらのことについて語っているヨハネの言葉から、神の御心を受けとめ、神はどうなることを望んでおられるのか、しっかりと受けとめたいと思うのです。
(1)義に適う者とした上で受け入れて下さる愛
* ここでヨハネが勧めようとした本題は、互いに愛し合うことにより、群として前進してほしいと言うことでした。すでに3:18において、行いと真実をもってお互いに愛し合うように勧めていましたが、そこでは互いにというのは、さらっと触れていただけでした。
* しかし今日の箇所においては、失われた神のかたちを回復して頂いた者は、神から生まれた者と見られるようになったので、互いに愛し合うという兄弟愛を現していく必要があることを、その根拠を明らかにして勧めようとしているのです。
* その根拠とは、神の本質が愛であるから、神のかたちを回復して頂いて、再び神に結びついた人生を送るようにされた者は、愛でなければならないと言うのです。
* なぜ愛なのでしょうか。ヨハネは、神の本質は愛であると言うことによって、神がどのようなお方であるかを示そうとしています。私たち人間の目から見れば、罪を犯した人間をエデンの園から追放し、サタンの攻撃をもろに受ける世に追われたという事実から、神は厳しい義なるお方ではないかと思ってしまいます。
* しかし、もし義なるご性質であるだけならば、罪を犯した人間には希望が全くなくなってしまうのですが、神のかたちが回復されるチャンスは残されたのです。それ故、神の愛とは、何でも赦し、怒られることのないやさしい愛のようなものではなく、義に適う者へと導かれ、受け入れて下さる愛だと分かります。
* 罪を犯したことによって、神のかたちを失った時、神を愛する存在として造られた者であったのに、その愛が失われ、神を愛することができなくなったばかりか、その結果、人をも愛することもできなくなってしまったのです。
* それ故、愛なる神は、義に適わないままでは愛し受け入れることができないので、罪人を義に適う者にするためにひとり子を世に遣わし、彼を私たちの罪のためのあがないの供え物としてささげて下さり、神のかたちを回復させることによって、義に適う者とした上で愛する道を示して下さったと言うのです。
* これは非常に手の込んだ愛し方ではありますが、それは義に適うはずのない罪人を見捨てることをせず、何とか神のかたちを回復させて義に適う者にした上で、ご自身の本質である愛を持って受け入れようとして下さる愛し方であったと言っているのです。
* それ故、これは人間的な愛の現し方ではなく、神ご自身の義なるご性質に結び合わせることのできる存在、すなわち、義なる存在でなければ愛することのできないという限定愛だと言っていいでしょう。義にふさわしくない者は愛せないし、神に結びつくことはあり得ないのです。
* くだらない、愛する価値のない罪人を、義にふさわしい者にするために、神は御子イエス・キリストに犠牲を強いて、その身代わりの死によって信じる者を義とし、愛を持って受け入れて下さり、神の子として下さったと言うのです。
* なぜそこまで神は愛されるのでしょうか。ヨハネは、神の根本的なご性質が愛だからであって、他に理由があるわけではないと言います。
* なぜ神の本質が愛なのか。それは、なぜ神は唯一で永遠なる神なのかという質問と同じで、説明できるものではありません。そのまま理解し、そのまま真実として受け入れるべき事柄なのです。
* ヨハネがこのことをあえて語ったのは、本質が愛である神と結びついて生きるように造られた人間が、愛なる神の下から離れて、罪の中に落ちてしまったのです。
* しかし神は、そんな罪人さえ愛のご性質があるが故に、不義なるままでは愛することができないので、御子の身代わりの罪の罰を受けさせ、信じる者を義とした上で、徹底して愛し、はぐくみ、育て、養おうとして下さった。これは神の本質が愛だからだと言ってきたのです。
(2)交互方向としての真の兄弟愛
* 神の本質が愛だからこそ、その神と結びついて生きる人間には、失った神のかたちを回復させ、それに合わせて失った人間性の第1のもの、すなわち、愛が回復していく歩みをしていくことを求められるのです。
* もちろん、キリストによるあがないの恵みを信じるだけで、神のかたちが、すなわち霊が回復して活動し始めたならば、それだけで神との結びつきを回復させて頂いたことになるのです。
* すなわち、第1段階の神のかたちの回復により神の愛を味わい、神から流れてくる愛を受け取って、心から神を愛し、その結びつきを喜んで生きる者にされるのです。
* しかし、神が求めておられるのはそれだけではなく、第2段階として、愛の発生源となる神の愛を受け取っていくことにより、失った人間性を徐々に取り戻していくように、聖霊が内にあって働いて下さり、霊が回復された同じ兄弟として、群の中にあって互いに愛し合う歩みをし、愛の思いを取り戻していくことを求めておられるのです。
* それ故ヨハネは、わたしたちは神のかたちを回復して頂いた者同志であるから、神と結びついて神の愛を注ぎ入れられた者同志として、互いに愛し合おうではないかと勧めているのです。
* 愛は神から出たものだと明言して、人間の中に愛はないが、神の愛が、私たちの内から愛を滲み出させる発生源となるために注入して下さったことを示しているのは、人間的に愛せるか愛せないかではなく、愛の発生源を頂いて、それを用いて愛を現していくかいかないかが兄弟愛の根拠だと言うのです。
* 信仰者が集まれば、自然と兄弟愛が発生して互いのことを思いやるようになるかと言えば、そうではありません。人間の内側から自然発生するほど、人間は愛なる存在ではないからです。愛は、失ってしまった人間性の第1のものと言っていいものですから、神のかたちが回復された後に、徐々に愛が内側からにじみ出てくるように訓練され、育てられ、養われていかなければならないものです。
* このことを自覚して、主にある兄弟姉妹と向き合い、まず主を通して相手を見、主にあって大切な兄弟、大切な友であるとの思いを抱くことが大切です。これが、兄弟愛が訓練され、育てられ、養われていく準備体操であります。この準備体操が十分なされないで、本番の兄弟愛を望むことはできません。
* そして、神がどのように私たちを愛して下さったかを覚えながら、兄弟姉妹と向き合い、相手のために祈り、心を尽くして仕えようとし、相手からのお返しを求めず、主が報いて下さることだけを望むのです。
* 相手のために心を尽くして仕えるといっても、相手の望んでいることがすべて分かるわけでもなく、また押し付けにならない保証もなく、どのようにすれば仕えることになるのか分からないのが現状です。主の助けと導きとを求めて仕えていこうとすることが大切なのです。
* 仕える愛のわざが、すべて実を結ぶとは限りませんが、実を結ぶか結ばないかが重要なのではなく、内側から兄弟愛の思いが起こされ、それを実践していこうとする意志が働き、具体的に兄弟を大切に思って向き合っていくことが大事なのです。
* 以前にも引用しましたが、ローマ12:15,16(新249)に記されているように、ある時は、共に喜び、共に悲しみ、共に戦うという、主にあって一つとされているという信仰によって向かうことそのものが、兄弟愛を現していくことになるのです。
* 愛は、相手からのお返しを求めず、主からの報いだけを望むものですが、兄弟愛の最も重要な形態は、お互いに愛することだと言っています。各々がお返しを求めるのではなく、自分を与えるようにして愛していくものであることは3:16ですでに学びました。それが互いになされてこそ真の兄弟愛が成立するのです。
* それはまた群として集められ、導かれている神の御意志であり、教会建設の重要な柱として示されているので、11節で互いに愛し合う大事さを語っているのです。
* ヨハネは、イエス様から聞いた教えが心の奥底にしっかりと刻み込まれていたのでしょう。「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」(ヨハネ15:12)と。一方方向ではなく、交互方向として、真の兄弟愛を成立させるように言われたのです。
(3)神の愛という発生源を持つ者に造り変えられる
* ヨハネは、ただ信仰者は兄弟愛を現していくことが大切だと言っているのではありません。兄弟愛を現そうとしない者は、本質が愛である神に結びついている者とは言えず、神を、霊において知っている者とは言えない。神を知らない者は神から生まれた者とは言えないと3段論法を持って、兄弟愛の大事さを知らない者は神と無関係だとまで言い切っているのです。
* ヨハネが言おうとしている点をまとめて見ますと、キリストを、あがないの供え物としてささげて下さった神のあまりにも深い愛を受けとめて、神のかたちを回復して頂いた者は、その人の内に神の愛が注がれて兄弟愛を現していくように導かれるので、もし兄弟愛を現そうとしないならば、愛による神の働きかけを拒むことになり、神を知らない者になると言うのです。
* それだけではなく、神が進めておられる人類救済事業は、神の愛によって始められ、神の愛によって完成に至る事業であって、神の愛の始まりとは、ひとり子を世に遣わし、あがないの供え物とすることであり、神の愛の完成とは、神のかたちを回復された者同志が互いに愛し合うようにすることだと示しているのです。
* 兄弟愛が見られないで、神のみわざは完成しないとは、どうしてそこまで言われるのでしょうか。霊性が正しく整えられ、育てられ、神の僕として忠実に生きるようになっていかない限り、神のみわざの完成である兄弟愛へ向けられることがないからです。言わば、兄弟愛は最も高度なレベルのものだと言っているのです。
* それ故、互いを愛し合うという兄弟愛は、住宅建設にたとえると、建築の総仕上げの部分だと言っていることが分かります。もちろん、総仕上げがなされなくても、ある程度建築が終わり、住むことができる状態になっていますから、信仰がないと言っているのではありません。しかし施工主である神が求めておられるのは、総仕上げまで済んでいることです。
* ヨハネは、どうしてここまで兄弟愛を現すことの重要性を、くどいほどまで語り続ける必要があると思っていたのでしょうか。
* それは、本質が愛である神は、信じる者の中にご自身の愛を注入して、愛の発生源を持った存在に造り変えて下さり、互いに愛し合う兄弟愛を現すようになった時、その愛の働きが完成するとご計画されたからです。
* 神を知り、神の愛の奥深さを知れば知るほど、神の愛の力によって、互いに愛し合おうとする歩みがいかに重要な事柄であるかを思わされずにはおれないのです。
* 具体的に、神の愛の具現化として、聖霊を私たちの内に送って下さり、聖霊が神の愛のすごさを教え導いて下さり、その愛がエネルギーとなって、私たちの内に愛の実を結んで下さり、兄弟愛を現す者にしていって下さるのです。
* しかし、神の愛を私たちの内に注入して下さり、私たちの内から愛の思いを引き出し、愛を現していく者にして下さるという語りかけは、言葉としては分かっても、現実に実感できるものではないので、愛のない私たちが本気で互いに愛し合うことができるものにして下さるのかという思いが残ってくるのです。
* 実感がなくても、一つのことでそれを確認する方法があります。それは、神がこんな私のために、御子を犠牲にしてまで愛し、神の子にして下さったという、神の愛を感じ取る霊性は、肉の人間の中にはないのです。神の愛を受けとめることができる思いを、神の側が、私たちの内に働いて起こして下さったから、霊が活動停止していたにもかかわらず、神の愛の素晴らしさを感じ取って、信仰を持つことができたのです。言わば、信仰は神によるものです。
* このことが分かって信仰を持った人であるならば、愛のない私たちの内に、神が、神の愛を注入して下さって、まず最初に神を愛する思いを起こして下さり、主の御許に集められた者同志、互いに愛し合うように導いて下さることを信じるのは、それほど難しいことではありません。
* ここには触れられてはいませんが、更に隣人を愛し、隣人が神の御許に引き寄せられるように、宣教の働きをするように働きかけ、その思いを起こして下さるのは、もう一段先の事柄になります。
* 神の愛が注がれていることを聖霊が受けとめさせて下さり、その実が結んでいくように助け導いて下さいます。ですから、互いに愛し合おうとする思いは、聖霊のお働きかけによるものであり、聖霊が私たちを用いて実現させて下さることなのです。
(結び)まず神が私たちのことを知って下さっていた
* 互いに愛し合いなさいとの勧めは、神の子とされた者同志仲良くしなさいというような表面上の勧めではありません。ヨハネは、神の愛によって始められたみわざが完成するための大事な項目であり、これがなされていないと、神から生まれた者としての生き方をしていないことになると言ってきました。
* この当時のクリスチャンたちは、兄弟愛をそこまで重要なものだと考えてはいませんでした。神のお心を知らず、自分の思いから出てきた思いを大事にしていた人たちは、兄弟愛について考えることもしなかったのです。
* 神のお心は、神の愛が完成しなければ、すべてのことは中途半端で終わってしまい、意味のないものになってしまうので、罪人を救い上げるだけではなく、聖霊を内住させ、教会の一部分として組み込み、互いに愛し合う群となっていく愛の完成図を見ることができるように働き続けて下さっているのです。
* そのために、神のなさったことは、破格の恵みと言える、キリストに罪人の身代わりとならせるあがないみわざ、神ご自身を人の中に送り込むという驚愕の働きかけである聖霊の内住、すべての信仰者をかしらなるキリストの下に集められ、一つからだとされるという驚嘆すべき御旨、ご自身の愛を注入してまで愛なる存在へと、人間性を回復させ、兄弟愛を現させるために、物惜しみされることなく、完成させようという強い御意志、神のなさることはただただ驚くばかりです。
* これは、神の本質が愛だから、ここまでなさるのであって、それは、私たち人間の思いをはるかに越えており、理解できることではありません。私たちができることは、その事実を、こんな私のためにご計画し、実現して下さっている神の愛を喜び、感謝し、信じて導かれるまま従い、前進していく他ありません。
* 「私たちが神々の奴隷であった時から、神に知られていた」とパウロは言っています。(ガラテヤ4:8,9 新297)私たちが信仰を持つ以前から、それどころか生まれる前から神は私たちのことを知って下さっていたのです。
* 私たちが神のすべてを知ったから、神を信じ、従うようになったのではありません。神の方が私たちのことを知り、私たちを捉え、私たちの内に必要なエネルギーを注ぎ、神の子としてふさわしく生きるように導いて下さっていることを喜び、神が私たちを用いてみわざを完成し、愛を完成して下さると信じて従うことが大事なのです。