聖日礼拝メッセージ
2012年6月10日 更新

聖 書 Tヨハネ4:18〜21   (第28講)
 題 「神の完成された御心を受け取っていく信仰」


  (序)福音の約束と現実の状態とのずれ

* ヨハネが、異常なぐらい強調したことは、神の愛から出た働きかけは、すでに完成しているということでありました。

* きよい生き方ができない信仰者の生き方は、罪から解放されていないのではないかと思う心に支配されていた人たちは、御子イエスの血だけでは、すべての罪からきよめて頂けるとは思えなくなっていたのです。(1:7)

* 神の愛から出た働きかけがすでに完成しているならば、私たち信仰者は、終わりの日に完成された者となってキリストのように生きることができるという保証を頂いたので、すでに、終わりの日に結びついている今の時も、キリストのように生きて歩むことができると言ってきました。

* 御子イエスの血を信じるだけで、すべての罪からきよめて頂いていると思えない姿を見せられている信仰者にとって、御言葉に反する現実の姿をどのように理解し、解決しているか、これは非常に重要な鍵となります。

* ヨハネが3:1で言ってきたように、「わたしたちが神の子と呼ばれるためには、どんなに大きな愛を父から賜ったことか、よく考えて見なさい。わたしたちはすでに神の子である」との福音の恵みを信じてきたのです。

* しかし一方では、神の子らしく思えない自分の姿を見せ付けられ、結局罪から解放され、罪に対する恐れから完全に逃れるということはできないのではないかとの思いが残るのです。

* このことは、今日の私たち信仰者においても、ちゃんと解決を見出していないと、この当時の信仰者たちの陥った罠にはまってしまいます。神の愛から出た働きかけが、すでに完成しているということが、どんな意味を持つのか。現実の罪から解放されていない姿をどう受けとめているべきか、ご一緒に考えてみることに致しましょう。


  (1)罪を恐れないでおることができる方法

* 16節で、神が愛であることを明言し、17節で、この愛が私たちの上に全うされていると言ってきました。それ故、この愛とは、神の愛から出たあわれみに満ちた働きかけのことを指しているのが分かります。

* 神の愛から出た4つの働きかけが完成されたことによって、恐れがなくなった。完全な愛は恐れを取り除くと言いました。この取り除くという言葉は、締め出すとか、外に投げ捨てるという意味を持っていて、完全な愛には、恐れを不要なものとして投げ捨てる力があると言っているのです。

* キリストのあがないの恵みを信じ、罪赦され、神の子とされたのですが、その信仰に立ってもなお罪が内側から出続けるし、罪の思いから解放されない自分に嫌気が差すのです。これは、罪赦されたことを信じているのに、罪に対する恐れから解放されていないことを指しています。

* ヨハネは、神の愛から出た働きかけは、すでに完成している。完全な愛は罪に対する恐れをあなたから不要なものとして投げ捨てる力を持っており、現にそうして下さっている。もしそれを受けとめることができないのであれば、その人の上に、神の愛から出た働きかけが完成していないと言うしかない。

* 神の愛から出た働きかけが完成するかしないかは、4つの福音を本気で受けとめ、自分の上に完成して下さったと信じる信仰者次第であると言っていることが分かります。

* それでは、罪に対する恐れがなくなるというのは、どのような姿のことを言っているのでしょうか。それを考えなければなりません。

* 自分の中から2度と罪や罪の思いが出なくなれば、一気に解決できるのですがそれはあり得ません。この地上にいる間は、自分の中から出てくる罪や罪の思いと付き合わなければならないのです。それで恐れがなくなるということがあるのでしょうか。

* それでは、罪と付き合いつつ、罪を恐れないでおることができる方法が必要となってきます。そんな方法があるのでしょうか。唯一考えられる方法は、罪をなくすことはできなくても、罪に対して勝利していること、罪に振り回されないことです。

* もちろん勘違いしてはならないことは、罪に対して勝利するとは、罪に対して無感覚になったり、平気になったりすることではありません。それは単に罪に対する感覚が鈍くなっただけで決して勝利したのではありません。

* 罪を意識しながらも、罪に振り回されたり、罪に取り込まれたりしないために、罪に対して勝利していなければならないのです。

* もちろん、私たちの力で罪に対して勝利できる力はありませんから、いつもキリストの十字架をかかげ、罪に、思いが囚われそうになったら、キリストの勝利の宣言をかかげることです。

* 具体的に、その内の一つの勝利の宣言を例に挙げてみましょう。「神はわたしたちの主イエス・キリストによって、わたしたちに勝利を賜ったのである」(Tコリント15:57)罪が私を覆いそうになったら、この御言葉を前面に掲げ、私は罪に対して勝利を得ている。罪よ、お前は私を打ち負かすことができないと宣言するだけで、罪に対する恐れは消えるのです。

* 私たちの内側から、罪と罪の思いがなくなることはなくても、罪を恐れず、罪に対して勝利者としての位置を崩さないでいるならば、罪に振り回されることがなくなります。これが神の子として、罪から解放された者の生き方であります。

* 見た目には、罪から解放された者と、解放されていない者との違いは変わらなくても、霊においては、罪に対して勝利者として立っている者と、いつまでも自分の罪に嘆き、振り回され、勝利感がない者との間には、天と地ほどの違いがあるのです。


  (2)兄弟愛を重んじない者は、神を愛してはいない

* 神の愛から出た働きかけが、その人の上に完成していないと、罪に対する恐れがなくなることはないと言ってきたヨハネは、話を本題の方へと引き戻していきます。

* それは、あなたがたは4両目の福音をおろそかにしているので、キリストの血だけでは罪から解放されず、恐れがなくならないと言うのです。

* しかも単に兄弟愛が大事だというのではなく、兄弟愛を現すことが、必然的になすように導かれていることだと示していくのです。口語訳では「わたしたちが愛し合うのは」と訳していますが、ここの原文は「私たちが愛しているのは」と目的語のない表現になっていて、神を愛していることなのか、互いに愛し合っていることなのか、どちらとも言えません。

* どちらにしても、ヨハネは、神がまず私たちを愛して下さったという事実に目を留めさせようとするのです.それは、神の側による愛の働きかけがまずあったからこそ、私たちは罪から解放され、恐れからも解放されたということにより、神の側に主導権があるという当然のことに目を向けさせているのです。

* これは、キリストの血だけでは完全な罪からの解放も、罪を恐れる思いからの解放もないと思うようになってしまっていた人たちに、神の愛から出た働きかけは完全なものであり、私たちを本気で愛し、罪と罪の思いを恐れることのない神の子にして下さったということが、動かし難い事実であることを強調しようとするためであったと思われます。

* 彼らは神を愛していました。しかし、兄弟愛は重要なものだとは考えませんでした。それでは彼らの神を愛する愛し方はどんなものだったのでしょうか。それは、啓示された神から、いつの間にか自分の思いの中で作り上げた神になってしまっていたのです。

* 信仰者は、最初から啓示された神を正しくイメージすることはできません。啓示された御言葉を通して、私を愛して下さった神を徐々に正しくイメージしていくことになるのですが、そこに人間の感覚や、自分の思いなどを入れ込むことによって、神を信じ、神を愛しているようでいて、真実なる神からかけ離れた、自分の思いが作り上げた神を信じ、神を愛していくことになるのです。

* これは、決してこの人たちだけの事柄ではありません。御言葉からかけ離れたキリスト教を作り出す名人は、いつの時代にもいます。神を信じ、神を愛していると言いながら、啓示された神が分かってはおらず、御言葉に記されていない神を求め、神を信じ、神を愛していると思い込んでいるだけなのです。

* それはあたかも、出エジプトの民が、モーセが山にこもったまま、なかなか姿を見せないので、アロンの許に行き、「わたしたちに先立っていく神を、わたしたちのために造って下さい」と要求して、金の子牛像を造らせ、これを拝したようなものだと言えるでしょう。(出エジプト32:1~6)

* 「あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない、自分のために刻んだ像を造ってはならない」とあれほど明確に啓示された神の御思いをすぐに忘れてしまい、自分たちが考え出した神をイメージして、その神を愛そうとしたのです。

* どれだけの人が、自分の思いを入れ込まない啓示されたままの神を信じ、神を愛そうとしていると言えるでしょうか。この当時の人たちは、兄弟愛を重要視するように示されてきたにもかかわらず、それを意味のないものであるかのように受けとめたことによって、啓示された神を愛していることにはならないとヨハネは言うのです。

* 「神を愛していると言いながら兄弟を憎む者は、偽り者である」と言いました。兄弟を憎むというこの言葉は、嫌悪するという意味と共に軽視する、捨てて顧みないという軽い意味もあり、兄弟を愛していくべき対象として見ていない者のことまで含んでいると考えられ、そういう人は啓示された神を愛してはいない偽信仰者であるとまではっきりと言うのです。

* すなわち兄弟愛を重んじない者は、神を愛していない偽信仰者であるということによって、神を愛する信仰者の生き方とは、互い主にある兄弟として愛し合う大事さに気づいて信仰的努力をしていくことだと言い、それは神を愛する向かい方の重要な部分を占めると言うのです。


  (3)神の側で霊的交流を作って頂いた者同志

* この後、「現に見ている兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することはできない」と言いました。神を愛することと、兄弟を愛することとは不可分の関係で、切っても切れない関係にあることを記すのです。

* もちろん同等だというのではなく、神を愛することと、兄弟を愛することとは深く結びついている事柄であって、兄弟を愛することをしない者は、神を愛しているように思っていても、神を愛していることにはならないと断言するのです。

* ヨハネがこのように言い切るのは、主イエスから大事な戒めとして受けていたから、この大事な戒めを無視してはならないと、イエス様が語られた戒めに触れているのです。「わたしは、新しい戒めをあなたがたに与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」と言うものでした。(ヨハネ13:34,15:12)

* その後の13:35で語られているのは、互いに愛し合うことが、キリストの弟子としての姿だと言っています。イエス様が教えられたことは、わたしがあなたがたをどれほど愛したか、わたしの思いが分かれば、わたしに愛された者同志、互いに愛し合う努力をせずして、キリストの愛を受けた弟子とは言えないと言うことです。

* それ故ヨハネにとって、神の愛を受けて、神の子として頂いた者は、感謝の心から神と神の御心を愛する者となり、神のお心である大事な戒めをも守ろうとするのが当然で、必然的に兄弟愛を重んじるようになるはずだと言うことにより、神を愛することと、兄弟を愛することとを切り離して考え、一方は不要だとまで思ってしまっている人たちに、その考え方が、いかに神のお心からかけ離れているかを示そうとしたのです。

* どうして、この当時の人たちは、兄弟愛を重要視しない向かい方になってしまったのでしょうか。確かに、同じ主に愛され、神の子として頂いたから言って、人間の性格も、社会的環境も、境遇もみな異なっており、主にある兄弟として愛し合うというのはきれい事ではできないと感じたから、無視するようになったのでしょう。

* このことは、時代が異なっている今日においても、大筋では同じようなもので、互いに愛し合いましょうと言っても、表面のきれい事で終わらせてしまいやすく、神を愛するように、兄弟を愛することなど考えられないことだと言えるでしょう。

* そんなに大変なことを、主はどうして大事な戒めとして語られたのでしょうか。これは、私たち信仰者が神に結びつく者にして頂ける福音の恵みは、神と私との一点結合ではなく、他の信仰者も神と結合し、神の側において、霊の交流を持つようにされたからなのです。

* 神の側において霊的交流を持つようにして下さったということが分かったならば、兄弟愛を重んじ、互いに愛し合おうとするようになるのです。

* 確かに人間の性格の違い、社会的環境、境遇の違いは大きな壁となりますが、性格で向き合うのではなく、霊で向き合い、神の側において霊的交流を実現して下さっていると信じて、相手を大事に思い、神が合わせて下さった兄弟姉妹として、パウロが語っているように、「兄弟の愛を持って互いにいつくしみ、進んで互いに尊敬し合いなさい。…互いに(霊において)思うことを一つにし」ていくことが大切だと言うのです。(ローマ12:10,16)

* 人はどうしても、目に見える部分で左右されますから、霊で向き合うと言っても、なかなかできることではありません。肉で向き合わないようにし、キリストを通して霊で向き合うようにするためには、信仰的努力が必要でしょう。

* 神に愛され、神の子として頂いた恵みを喜び、本気で神を愛するというのであれば、同様に神の子とされた者との間で、神の側において霊的交流が与えられた者同志として、古い肉で向き合わず、キリストを通して霊で向き合う向かい方が求められていると言うのです。


  (結び)第1の高いハードルを乗り越える大事さ

* ヨハネが、くどいほど強調してきたのは、神の愛から出た4つの働きかけは、すでに完成しており、受ける信仰者の側において、それをすべて受け取って完成するならば、それは最高の恵みとなるのですが、その内どれが欠けても、完全は打ち破れてしまい、意味のないものとなるというものでした。

* 確かに、イエス・キリストを信じるだけで、神に対する罪が赦され、神の子としての身分が与えられるという福音を受け入れて、信仰を持って歩み始めたのに、罪から解放されていない現実の自分の姿を見せ付けられ、キリストの血だけでは、罪から解放されないのではないかとの思いがうごめき、多くの人は、神から見るならば闇の教えの方へと目が向き始めるのです。

* これが信仰者の第1の高いハードルです。これを正しく乗り越えず、横道に逸れるならば、それはサタンの思う壺です。この時にこそ、現実の自分の姿をなお見せ付けられながらも、罪から解放される方法を御言葉から見出し、第1のハードルを越える必要があるのです。

* もちろん、それから後も、いくつかのハードルがありますが、この第1の高いハードルを正しく乗り越えさえするならば、後のハードルはそれほど難しくないものです。

* この当時の信仰者たちのある人たちは、この高いハードルの前に立ちすくんでしまい、受け入れやすい福音だけを受け入れて、あまり重要だと自分の思いでは思えないものは無視しようとしたのです。彼らは、神の完成された御心を受け取らず、不完全な自分の思いの方を大事にしたのです。

* このことによってヨハネは、彼らのことを悪魔から出た者、惑わしの霊に取り憑かれた者だと言って、神の愛の手から落ちてしまった者たちであることを示してきました。今日のキリスト教会に対して、ヨハネが判定を下すとするならどうでしょうか。御言葉をそのまま信じることのできない多くの教会、余分な教えを入れ込んでしまっている教会はすべて悪魔の教会と言われるでしょう。

* これは、ヨハネが厳しいのではなく、神のお心として示された福音を少しでも崩したならば、神の御心は完成しないという、神の驚くべき計算し尽くされた福音のすごさを、ヨハネは知っていたからこう言い切るしかなかったのです。

* ヨハネの黙示録の最後のところにおいて、これは黙示録のまとめでありますが、あたかも聖書全体のまとめのようにして語っている言葉も、神のお心の完全さを示しています。「…もしこの書に書き加える者があれば、…災害を加えられる。また、もしこの預言の書の言葉を取り除く者があれば、…取り除かれる」(黙示録22:18,19)

* しかし、この完全な福音を、人間の側でいじくろうとする悪魔的な人間が、サタンからたえず送られてきており、教会を引き落とす働きかけをやめることはないのです。

* この教会にまで、何度かサタンから送り込まれて、多くの人を惑わし、引き込んで行ったのです。悪魔から出た者が送り込まれてくる怖さをつくづくと知らされました。

* 神の福音として示された4両編成の連接の福音が、すべて完成されたものとして与えられたのですから。それをそのまま大事な福音として受け取り、私たちの上にも完成されたと信じることにより、第1の高いハードルも正しく乗り越え、主の助けと導きとを頂きながら、天国人としての人生を歩み続けていきたいと思うのです。

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