(序)神の愛し方を勘違いしていた人々
* これまで、福音の内容と現実のずれを正しく解決できず、受けとめることができなかった信仰者たちが、理性的に受けとめやすい他の教えの方に惑わされ、福音から逸らされているのに、それで正しい信仰に立っていると思い込んで、聖書信仰ではない信仰で歩んでいる愚かさを分からせようとして、ヨハネは必死になって語ってきたのです。
* それは、単に少しずれただけというのではなくて、それはキリスト教に見せかけたサタン教でしかなく、神から生まれた者の持つべき信仰とは全くかけ離れた、毒麦(マタイ13:25〜30)の教えでしかないと明らかにしてきたのです。
* 信仰者は、どうしてこうもたやすく惑わされてしまうのでしょうか。惑わされ、サタン教に引き込まれていることの恐ろしさをどうして理解することができないのでしょうか。
* それは、彼らの内に、真理の見張り番がいなかったからに他なりません。真理なる御霊がいて下されば、たやすく惑わされるはずがないのです。
* 結局、惑わされる人というのは、真理の御霊が分かってはおらず、真理の御霊の助けを頂いた系統的にまとめた福音体系を受けとめていないから、いとも簡単に落とされてしまうのです。神学者のように専門的に学ばなくても、福音体系を受けとめることができます.いや受けとめなければならないのです。
* Tヨハネ書で学んだ内容で言うならば、真理の御霊の助けを頂いて、4両編成の連接の福音を正しく受けとめ、理解しているならば、どんなに巧みな教えも、私たちを福音から逸らすことはできません。
* ヨハネの手紙の相手先である、教会の信仰者の中に、自分たちが巧みに惑わされているということにも気づかず、神を愛しているつもりでいて、神から遠く離れているということにも気づかない人たちがいたのです。
* この人たちが、不誠実な信仰者たちであったと言うのではありません。というよりも、誠実な信仰者であった可能性の方が高いのです。それでは、そのような人たちがどうして惑わされてしまったのでしょうか。
* それは、一つの大事なことを見逃していたからなのです。イエス様は、神の名によって預言したり、悪霊を追い出したり、多くの力あるわざを行なったりしていた人たちに対して、「主よ、主よと言う者が、みな天国に入るのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行なう者だけが、入るのである」と言われました。(マタイ7:21,22)
* 自分の思う誠実さ、真剣さを持って主に仕えていれば天国に入れてもらえるのではありません。主の御旨(福音)を大事に思い、主の御心通りに行なっていくことが何よりも大事なことであると気づいて、福音の示すまま生きることが、神に喜ばれる最も大切な向かい方であることを教えられたのです。
* この当時の人々は、神の愛し方を勘違いして、福音が示す内容を大事にせず、こうすれば神は喜ばれると考えた自分の思いの方を大事にして向かったので、福音から逸れてしまったのです。その愛し方のどこに勘違いがあったのか、又、そこから、私たちが何を学び取らなければならないかを見ていくことにしましょう。
(1)神から生まれた者の生き方をする
* 今日の箇所は、今まで語ってきたことをまとめるようにして語っています。イエスがキリストであると信じる者は、すべて神から生まれた者だと示し、神から生まれた者は、自分を生んで下さったお方を喜び、心から愛していこうとし、そのお方の思いを受けとめて、神が生んで下さった他の兄弟たちをも愛していくようになると言いました。
* 本来、愛すべき価値のない私たちを、神は、神から生まれた者に造り変えて下さいました。それは、私たちに神から生まれた者の生き方をさせるためであったのです。それは、罪の奴隷となっていた惨めな私たちに、神の祝福にあずかる最高の人生を与えるためでありました。
* そのためには、福音を、神の動くことのない御心として受け入れ、その福音に沿って生きていくことが求められたのです。それが、神から生まれた者に提供された生き方でありました。
* 自分を生んで下さった神を愛するとは、その戒めを守ることであると3節で語っています。ヨハネは、神を愛するというのは、思いの上で愛することではなく、戒めを守るという形で愛することだと言いました。
* 勘違いしていた人たちは、生んで下さった神を愛するということが、どういうことか分かってはいませんでした。というより、神を愛し、神に従っている自分たちを、神は喜んで下さっていると思い込んでいたのです。
* しかしヨハネは、神の御心である福音を大事にし、守っていくことを、神の戒めを守るという言葉に置き換えて言おうとしたのは、あなたがたは神を愛していると言っているが、神の戒めを大事なものとして守ろうとしていない、こんなおかしな話はないと言うのです。
* 神のお心である福音を大事にしないで、どうして神を愛するということができると言えるのか、との問いかけの思いを示しながら、神から生まれた者として最も大事にしなければならないことは、福音をそのまま、完全な神のお心として受け入れることだと示してきたのです。
* 繰り返しこのことを示してきたのは、神の戒めである福音を大事に守っていくことは、現実とのずれがあまりにも大きいので実行困難なことだから、少し内容を変えて、現実に即したものにする方が、正直な向かい方だと、内容を変えて受けとめようとした人たちに、それがいかに、サタンに心を奪われた向かい方であるかを明らかにしようとしたのです。
* その上で、福音を大事に守っていこうとすることは、難しいことでも何でもないことだと言って、難しい、困難なことだと考える考え方の方に問題があることを指摘しているのです。
* というのは、神から生まれた者とされているという事実が、正しく受けとめられてはおらず、その結果、世に勝利している者にされているという事実が飲み込めていないからだと言います。
* この2つの事実が、自分の事柄として分かれば、福音をそのまま守っていこうとすることは難しいことではありません。というより、福音をそのまま守っていこうとすることが、何よりも大事なことであることが当然のように分かってきて、福音の内容を変えようと考えることなどできないようになると言おうとしているのです。
* 人間の努力で守ろうとするから難しいのであって、神から生まれた者としての向かい方をし、すでに世に勝利している者としての深い自覚を持って対処しようとするなら、信仰的努力は必要であるが、決して難しいものではないと諭しているのです。これがどういうものかもう少し考えて見ることにしましょう。
(2)自分の中にある世に対して勝利している者
* 誰でも、イエスがキリストであると信じるなら、その信仰によって、私たちを神から生まれた者に造り変えられたと言われています。
* ヨハネは、これまでの所で、罪を犯さない者、犯すことができなくなった者として、神から生まれた人の状態を示してきました。(3:9)
* そこで学んだことは、罪を犯したくないと思いつつも、罪を現してしまう者のために、義なるイエス・キリストがいて下さり、永遠のあがないのみわざによって処理して下さっていることを信じ続けているならば、その人は、神の目から見れば、罪を犯さない者、罪を犯すことができなくなった者と見られ、神から生まれた者、神に義として頂いた者となっていると言うことでした。
* すなわち、義なるイエス・キリストが、永遠のあがないのみわざによって、私たちの罪を処理し続けて下さっているという約束のお言葉(神の種)が内にとどまっているなら、悪魔に引き落とされることのない、神から生まれた者としての信仰に立ち続けることができるというものでした。
* この5:1においては、この永遠のあがないのみわざによって、私たちの罪を処理し続けて下さっているイエスが、神の子キリストであると信じる者は、神から生まれた者である。この一点が崩れれば、罪の解決はなく、私たちは神から生まれた者に造り変えられる事はないと言うのです。
* 神から生まれた者として、これまでの罪が赦されただけではなく、これから犯すであろう未来の罪も、神の子キリストによる永遠のあがないのみわざによって処理されており、神の目から見て罪を犯さない者,罪を犯すことのできない者になった。この霊的事実は、福音をそのまま守っていくことができる者に造り変えられた事を保証するものだと言うのです。
* それだけではなく、神から生まれた者になったという事実は、世に対して勝利している状態になっていると示しているのです。それ故、ここで言う世に対する勝利とは、罪の激しい力に汚染されて、福音のままに、福音に沿って生きることができないようになってしまった自分の世的状態を指していることが分かります。この、自分の中にある“世”に対して勝利をしていると言っているのです。
* 福音の素晴らしさ、御心の奥深さ、その完璧なまでの神による知的構造物のすごさを受けとめられなかった者が、御霊の助けによってそのすごさを理解し、福音を喜び、福音を守り行なっていく力さえ与えて下さると信じて進む者に変えられたのです。
* これが、神から生まれた者のことであり、自分の中にあって最大の妨げとなっていた世に対して勝利をし、罪の自分に負けない、神による勝利者、罪から解放された神の作品だと言うのです。
* 自分の中にある世に対して、勝利をしていない者は、罪を犯し続ける自分の姿を見せられて失望させられ、罪から解放されることなど無理だとあきらめさせられ、罪の自分に勝つことなどできないと思わせて、福音をそのまま守り行なうことなどできないと思わせてくる働きかけをもろに受けるのです。
* その結果、肉体は悪だから罪を犯すのは当然で、心にとめる必要はない。霊さえ義とされていればよいというような人間的な教えに引っ張られたり、ごまかしたりしようとするのです。
* 自分の中にある世に対して勝利できていない者は、何の解決もなく、平安もなく、新しく生まれ変わったという自覚も持てないのです。そのような人は、自分の中に居座っている世に負け続けている人なのです。
* ヨハネは、「私たちの信仰こそ、世に勝たしめた勝利の力である」と言いました。罪に対する勝利、世に対する勝利を知り尽くしたこのヨハネの言葉は、私たち信仰者においても、勝利を得るための神の種として、しっかりと持ち続けている必要があります。
(3)自分の思いから解放され、神の知恵を信頼する
* 5節において、問答形式でこう言っています。(問)「世に勝つことができる者は誰か」(答)「イエスを神の子と信じる者ではないか」。ヨハネは、よどむことなく、一言で明確な答えを出しています。
* 自分の内にある罪に負けない、罪から解放された、神から生まれた者として歩むことができる者はいるのか、確かにいる。それは、イエスを永遠のあがないのみわざを成し遂げて下さった神の子キリストとして信じる者、この人々だけが勝利者だと言うのです。
* このことが、ヨハネが語ろうとしてきたことの結論だと言えるでしょう。そしてこのことを言ってきたのは、兄弟愛を不要な福音、困難な福音として排除し、自分たちの都合のいい福音に作り変えて、それで本気で神を信じ、神を愛していると思い込んでいた人たちに対して、あなたがたは自分の内にある罪の思いに負けた者、罪から解放されていない悪魔から出た者だと指摘することであったのです。
* 彼らは、キリストによる罪の赦しを信じていたし、唯一の神を愛していました。しかし、彼らは紛れもなく悪魔から出た者であるから、神のお心である福音を全部受け取らず、自分たちの思いで選別して、兄弟愛についての福音を不要なもの、困難なものとして捨てた。それは、キリスト信仰ではないと言ってきたのです。
* 救われてもなお自分の思いから解放されず、自分の思いという“世”に対して勝利できていない者は、神の福音を、人間が救われるために練りに練って考え出された、神の最高の知恵が結集したお心だと受けとめることができないので、神の知恵よりも、自分の思いの方を重んじ、悪魔から出た者の位置を離れようとはしなかったのです。
* 一部分を信じていても、他の部分を受け入れなかったならば、神の最高の知恵を否定し、神を無知な存在としてしまっていることになり、神よりも私たちの思いの方が優れていると主張していることになり、神を見下す傲慢極まりない人間になることを示してきたのです。
* 彼らは、神を愛そうとしていたから、決して神を見下していたわけでも、馬鹿にしていたわけでもなかったはずです。しかし、実質的には神を見下して、自分の思いを神の上に置いたことになることに気づかせようとしたのです。
* ヨハネが強調してきたことは、一番の世は、あなた自身だよ。この“世”に対して勝利している者でなければ、神から生まれた神の子だとは言えない。大事なことは、世から解放されることです。けれども、自分の力で世から解放された者となれるわけではありません。イエスを神の子と信じることによって、神から生まれた者に造り変えて頂いたと確信することが、世から解放されることであり、自分の思いから解放されることだよと言ってきたのです。
* このことは、今日の私たち信仰者においても、そのまま当てはまる真理であります。一番の世が、私自身であること、この“世”に対して勝利している者でなければ、神から生まれた者だとは決して言えないことなど、そのままです。
* 神の最高の知恵である救いの福音を、自分の思いで選別したり、作り変えたりせず、そのまま信用し、そのまま受け入れ、語られている通り、罪赦されたことを信じ、群として集められ、互いに兄弟を、神から生まれた者同志として愛し合っていくことができるようにして下さっていると信じ、神の御心を全面信頼してついていくことが信仰なのだと分かるのです。
(まとめ)サタンの見えない束縛から解放された者として
* ヨハネが語ってきたことを整理して見ますと、神から生まれるという、神の側における再創造の働きかけなくして、私たちの中に染み込んでいる“世”から解放されることも、世に対して勝利することもできない、それを妨げているのは、私たち自身だと言ってきたのです。
* イエスが、神の子キリストであることを否定することも、体は肉だから罪を犯すのは仕方がないこととして、罪に対して平気になっていくことも、兄弟愛はそれほど重要なことではないと排除したり、困難に思ったりすることも、聖霊以外のあらゆる悪しき霊を信じることも、すべて、その人の内に染み込んでいる“世”がしていることなのです。
* 自分という世から解放され、世に対して勝利者とならなければ、サタンの見えない束縛から解放されることはなく、神から生まれた者に造り変えられることはないのです。
* このことが分からないままであると、信仰を持ってはいるが、世から解放されず、自分の思いをいつまでも一番上に置き、信仰者のようでありつつ、悪魔から出た者としての生き方を続けるようになります。
* 私たちは、そんな信仰者でありたいと思っているはずがありません。罪から解放され、神の恵みに満たされた、神から生まれた者として生きていきたいのです。そのためには、自分の思いから、私たち自身から解放され、勝利し、神の知恵のみが正しいとして向い、神の戒めを守り行なっていくことができるようにされていると信じて向かっていきたいと思うのです。
* 神から生まれた者としての歩みを貫き通していくことだけが、サタンに惑わされることなく、自分の内にある“世”に振り回されることなく、主が導き入れて下さった最高の勝利の人生を歩むことができるのです。