(序)誤った自己承認は、目明き盲人を生み出す
* なぜ、人は勘違いをしていながら、平然として神に従っていると思い込むことができるのでしょうか。異端に引き込まれた人たちも、今心を奪われそうになっている人たちも、自分たちは、神を否定しているとは思ってはいませんでした。それどころか、自分たちこそ忠実に神を信じていると考えていたのです。
* 当人たちは勘違いしていても、見る者が見たならば、闇の中を歩んでいるということが一目瞭然なのに、ある考え方を吹き込まれた人たちは、その考えで自分を納得させ、これでいいんだと思わせてしまっているので、おかしいとも何とも感じなくなってしまっていたのです。
* ある意味で、世において歩むすべての人々も、神抜きの世的な考え方を、生まれた時から吹き込まれて生きており、これが、人間として忠実な生き方だと教えられるだけではなく、自分で自分を納得させ、これでいいんだと自己承認を与えてきているので、その生き方が、人間としての生き方からはずれていることを、おかしいとも何とも感じなくなってしまっていると言えるでしょう。
* 人間というのは、自己承認を与えてしまうと周りが見えなくなり、自分自身の姿も見えなくなり、見えていると言い張り続けたパリサイ人たちのように、目明き盲人になってしまうのです。
* 相手先教会の異端に惑わされた人々は、なぜか、これでいいのだと自己承認を与えて、目明き盲人になってしまっており、そのような自分の姿を、客観的に見ることができなくなってしまっていたのです。
* ヨハネは、それが間違っていることを、神のご性質が光であるという点から明らかにしていこうとするのです。そして最も勘違いしていることが、光の持っている性質を正しく理解できていないので、誤った自己承認の生き方をする結果となり、神から遠く離れた闇の生き方に落ちてしまっていると指摘していくのです。
* このことを指摘しているのは、第1に異端の教えに惑わされている人々に対してでありますが、第2には、そのような異端の教えに走る人たちが出て、動揺させられている相手先教会の信仰者たちに、何が真理であり、異端の教えのどこがおかしいかを示すためであったのです。
* 根本的な、大事な真理に対する無知は、サタンの侵入口を開放したままの、危険極まりない歩みをしていることになります。異端の教えにつけ込まれた人は、無知であったがゆえに、言われたまま自己承認まで与えて、目明き盲人となってしまったのです。
* それでは、真理の知識を得ることは難しいことなのでしょうか。決して難解な知識なのではありません。ただ本気で、自分を造り変えて下さる御心を受け取っていきたいと飢え渇く霊の思いさえあれば、真理は私たちの上にとどまるのです。
* 惑わされた人々は、これがなかったので、真理の侵入口を自分のかたくなな思いで蓋をしてしまっていたので、真理が宿ることはなく、偽物を宿してしまったのです。この当時の人々だけではありません。今日の私たちにおいても同様です。真理を宿すのか、偽物を宿すのか、それによって生き方が根本から変わるのです。
(1)自分の思いで納得しやすい方を選び取った人々
* それでは、ヨハネがここで示した真理は何かを見ていきましょう。ヨハネが、ここにおいて初めて明らかにした真理であったとは思えません。ただ、今もなお真理が彼らの上に宿っていないのを見て、再確認させようとして示していると思われます。
* それは、イエス様から直接聞いた真理だと強調した上で、神は光であるという真理を提示しました。しかしイエス様は、ご自身が光であることを教えられたとヨハネの福音書には記されていますが、(8:12、12:46)神は光であると教えてはおられません。
* これは、イエス様の語られたお心を汲んで、光の根源なる父の許からこられた光なるお方、御子について語られた内容だと、ヨハネは受けとめ、父と子が一体であること(10:30)も語られていることから、御父と御子を合わせてここで神と呼び、神の本質が光であることを示されたと受けとめるべきでしょう。
* 光の持っている性質が、神の本質を現しているとして語られていることが分かります。この表現で示そうとしていることは、救いというものが、闇の中から救い出されて、主にあって光となり、光の子として生きるようになることだと示したパウロの表現と同じものだと言えます。(エペソ5:8 新305)
* 神は光であると言うだけではなく、神には闇の部分が全くないことを示し、闇の中から、神の光の下に移し変えられるというのは、闇の部分を仕方がないこととしてごまかし、それでいいのだと自分に承認を与えて、納得させようとしていた人々の考えが、いかに神の下にある者にそぐわないことであるかを明らかにしようとするのです。
* というのは、異端の教えでは、霊は善であるが、肉は悪であって罪を犯すものであるから、救いとは、そのような悪の牢獄である肉体から、霊が解放されることであって、もはや肉が犯した罪は、必然のこととして責任を感じる必要はなく、仕方のないこととして気にとめる必要がないと考えていたのです。このような彼らにとって都合のいい考え方がいかに愚かであるかを指摘しているのです。
* キリスト信仰において、罪から救われると言うのは、彼らの言うような悪の牢獄である肉体から、霊が解放されることなのではありません。光なる神に結びつくことによって、闇の中に閉じ込められていた状態から、光の中に移し変えられ、光の中で生きていくようになることだと言うのです。
* すなわち、光の中で生きるとは、光の性質に照らし出される光の子としての生き方をするようになることであって、そこには闇の部分はどこにもないと言って、肉体が犯す罪は仕方がないと、闇の部分を認めるような向かい方は、光の子としての生き方ではないと明らかにしていくのです。
* それでは、光の中へ移しかえられ、光の子として歩む歩みには、全く闇の部分が残っていないと言うことができるのでしょうか。光の中へ移し変えられたからと言って、罪を犯さない肉体に変えられるわけではありません。
* 肉体はそのままですから、罪を犯す要素は残っていて、闇の部分がなくなるわけではありません。けれども、光の中に移し変えられたことによって、光のただ中に置かれ、闇を嫌い、光を喜ぶ生き方をするようになって、闇の部分を仕方のないこととして承認することは決してありません。
* ヨハネは、肉体がある限り、闇の部分は残るが、それを仕方のないこととして承認することは闇の中を歩くことであり、神から遠く離れた罪の生き方であると言うのです。
* 肉体がある限り、闇の部分は残るのですが、神との結びつきを大事にし、光の下で生きようとし、闇の部分を仕方のないこととして承認せず、きよめられていく必要のある部分として差し出していくことが、光の中を歩くことだと語っていくのです。
* 異端の教えに惑わされた人々は、どうして闇の部分を仕方のないこととして承認する教えの方が正しいと思うようになったのでしょうか。それは、救われたなら、もはや罪を犯さず、闇の部分がなくなるというのであればいいのですが、肉体がある限り、罪から解放されない現実の前に、神の救い方に不満を覚え、もっとすっきりさせてほしいと考えたのでしょう。
* そこで肉体と霊とを切り離し、肉体は悪であるから、罪を犯すままであっても仕方がないものだと割り切って承認し、罪の責任を感じる必要はなく、肉体の牢獄から解放された霊は、完全にきよいものと受けとめるほうが、思いがすっきりとしたのでしょう。
* 自分の思いで納得しやすい方を選び取ろうとしたので、異端の教えの方をよしとしたのでしょう。しかしそれでは、光の中に移し変えられた者としての生き方をすることができず、神と結びついた歩みをすることはできないことを示してきたのです。
* 今の時代には、この当時の異端の教えがそのままあるわけではなく、形や内容は全く別ですが、いつの時代の信仰者でも、同様の分岐点に立たされることは変わりません。自分の思いで納得しやすい、思いがすっきりする方を選び取ろうとするか、すっきりせず、納得しにくいものであろうと、神が光であり、神に従う者はその光の中を歩くこと、と示された真理の方を選び取ろうとするか迫られるのです。
(2)より深い交わりへと前進していく
* それでは闇の部分が残りながらも、光の中に移し変えられた者として、光の中を歩むということが、具体的にどのようなことなのかを考えなければなりません。ヨハネは、ここで2つの実を結ぶ者となっていくと書いています。
* 第1の実は、わたしたちは互いに交わりを持ち続けるようになると言い、第2の実は、御子イエスの血がなお残っている闇の部分である、すべての罪からきよめられた生き方をするようになると言いました。
* 第1の実から考えて見ましょう。いのちの福音を受け入れたことによって、同じ光なる神に直結しているすべての信仰者と、時空を超えた「わたしたちの交わり」の中に入れられていることを、ヨハネは示してきました。
* しかし、光なる神に直結する者とさせて頂いたという事実だけで話が終わるわけではありません。それから先の、この地上における歩みが重要だとして、光の中を歩むように導かれていることを示しているのが分かります。
* すなわち、光なる神と直結することによって、神から流れてくるいのちと光とを受け続けるようにして頂いたのは、それを用いて歩み続けるためなのです。これを、光の中を歩むと表現しているのです。
* それでは、神から流れてくるいのちと光は、私たちをどのように変えてくれるのでしょうか。闇の部分をなお残し、闇人間の残像を残してはいても、神のいのちと光とを帯びることによって、闇の部分が抑えられ、光の持つ性質がにじみ出てくるようになっていくのです。
* パウロは、先ほどのエペソ5:8では、「以前はやみであったが、今は主にあって光となっている」と明言しています。すなわち、神のお心に逆らう闇の人間でしかなかった者が、今では、主に結びついたことによって光の性質を持つ者になったと言うのです。
* これからきよくなって、徐々に光となっていくというのではなく、主と結びついたその時点で、光の存在とされ、主から流れてくる光を放つ存在になったと言っているのです。
* もちろん、だからといって、完全に闇の部分がなくなったとは言いません。けれどもそのままで、主にあって光となっている、光の根源である主の光を反映する者となっていると教えているのです。
* 光となっているのですから、光の性質が表に表れてこないはずがありません。同じ5:9では、光はあらゆる善意と正義と真実との実を結ばせると解説しています。
* ここから分かることは、光となったということは、光の性質である善意と正義と真実を現していく者となっていくので、それによって私たちは互いに交わりをも続けるようにされると言うのです。
* ここでは互いにという言葉を付け加えていることから、これは時空を超えた交わりのことではなく、今与えられている群の交わりのことで、同じ光なる神と直結した者同士として、互いに深く結び合わされている交わりのことを指していることが分かります。
* しかし、神のいのちと光とが反映していく光の中を歩む生き方をしていかないならば、時空を超えた「わたしたちの交わり」の中に加えられたという段階でとどまり、そこから前進することはないのです。その交わりは、神のいのちと光とが反映されていくことによって、より善意と正義と真実のある交わりへと前進していくのです。
* 光が結ぶ善意とは、それは人を受け入れていく親切な心のことであり、光が結ぶ正義とは、キリストによって義とされた信仰を重んじ、神を前において生きていこうとする心のことであり、光が結ぶ真実とは、御心に沿って真っ直ぐな心で神に対しても、人の対しても向き合おうとする心のことですから、「わたしたちの交わり」の中に入れられた者同志として、真剣に愛と信仰とをもって向き合おうとする、より深い交わりが育てられていくと言うのです。
(3)私たちをきよめ続けて下さる御子イエスの血
* 光の中を歩む生き方をしているならば、すなわち、神のいのちと光とが反映していく者とされているという自覚を持ち、光が内側からにじみ出てくるようにされていると確信しているならば、互いの交わりは、神が結び付けて下さった交わりとして育てられていくのです。
* 私たちが互いに交わりを持って歩むと言うことは、「時空を超えたわたしたちの交わり」の中の一部として、互いに向き合うことであり、それは互いをキリストの体の一部として結び合わされている神の意図を受けとめて歩むことであって、それは、信仰の重要な要素だと示されているのです。
* 神は、「わたしたちの交わり」あるいはその一部としての互いの交わりを、キリストの体として愛し、父と子が一体であるとの御言葉から、父なる神は、御子イエス・キリストを愛するように、キリストの体である「わたしたちの交わり」をご自身と一体となっているものとして愛し通されるのです。
* もしこの交わりが、神のいのちと光とを反映していない欠けた交わりであるならば、「わたしたちの交わり」の中に入れて頂いたという、その段階でとどまってしまい、それ以上成長しないのです。
* 光の中を歩くことが、「わたしたちの交わり」あるいはその一部としての互いの交わりが育てられていくことであり、その交わりの妨げとして残している闇の部分も、御子イエスの血が、すべての罪からわたしたちをきよめ続けて下さるので、妨げはなくなると言うのです。
* 少し難問なヨハネの語りかけを、もう少し分かりやすくまとめる必要があるでしょう。光なる神は、闇の中を歩くことしかできなくなっていた罪人を、光の中へと救い上げ、「私たちの交わり」という時空を越えた交わりの中に置いて下さったというのが第1点です。それはすごい恵みです。
* その「わたしたちの交わり」の中に入れて頂いた者が、そこから光の中を歩む生き方をしていくことによって、神から流れてくるいのちと光とを反映する者として育てられ、目に見える交わりが成長していき、神はご自身の大事な一部として養い導いて下さるというのが第2点です。
* 御子イエスのあがないの血によって、光の中に救い上げられ、霊的には完全に罪赦され、罪のない者と見て頂く者とされたが、肉的にはなお闇の部分を残しており、罪から解放されていないかに見えるが、光を反映し、光の中を歩もうとするならば、信仰者にとって、また交わりにとって妨げとなる、その闇の部分をさえきよめ続けて下さり、ご自身にとってかけがえのない存在として見て下さるようになるというのが第3点です。
* すなわち、神は、闇人間であった私たちを、一方的な恵みによって、光の中に置くだけではなく、光の中を歩む者として導いて下さり、交わりを互いに深め、すべての罪をきよめ続けて頂く歩みができるようにして下さっていると語ってきたのです。なんという深い配慮でしょうか。ただただ感謝という他ありません。
(結び)信仰者にとって理解しているべきこと
* 罪を犯している自分を、肉体は悪だから、罪を犯すものであり、仕方のないことだ、霊さえ肉体の牢獄から解放されて、きよく生きているならそれでいいと考えることによって、救われた後も、なお罪を犯し続けること言い訳をし、自責の念から解放させようと自己承認を与えた人々を、ヨハネは、それは闇の中を歩んで、神に背を向けている姿に他ならないと指摘してきたのです。
* 救われたと信じても、なお残り続ける闇の部分、これは信仰者にとって解決しておかなければならない最重要の課題であります。これを、人間の思いによって都合のいい解決をして、自己承認を与えてしまうならば、神の前に引き出された時、神のお心を無視した者として見捨てられてしまうでしょう。
* 神は、私たちを救って、光の中に移し変え、闇の部分を持ったまま光の中を歩むようにされたのです。闇の部分が残っていることが問題なのではなく、闇の部分を正当化し、仕方のないものとしてしまうことが問題なのです。
* 御子イエスの血の効力は2つあるとヨハネは言います。第1は、血によって私たちの罪は神の前に完全に赦され、罪のない者とする力を持っているのです。しかしそれはあくまでも、神の目から見てそのように判断して頂いているということであって、肉体を持っている間は、肉的には闇の部分が残り、罪を犯し続ける者でしかありません。
* 御子イエスの血の効力の第2は、光の中に移し変えられたことを本気で信じ、光の中を歩み続けていこうとするなら、残っている闇の部分も、きよめ続けて下さる力を持っていると言うのです。
* 第1の効力によって、「わたしたちの交わり」の中に入れて頂いたのですが、第2の効力によって、すべての罪がきよめられていき、今置かれている群の交わりが深められ、育てられていくのです。
* 神が、私たち信仰者に求めておられることは、光の中に移し変えて頂き、「わたしたちの交わり」の中に加えられたことを喜び、その恵みに感謝し、更に、神から流れてくるいのちと光とを反映して、光の中を歩み続けることができるようにされている幸いを味わい続けていくことでしょう。これが光なる神が整えて下さった道だからです。