(序)当時の誤った教えの根底にあるもの
* 当時のある人たちは、イエスは人間であって、バプテスマのヨハネからバプテスマを受けられた時、天からハトのように御霊がイエスの上にとどまり、天から神による承認の言葉があった時から、神が宿り、神の子キリストとして公生涯を歩まれたという教えの方に引っ張られていたのです。
* すなわち、バプテスマを受けられるまでは、イエスは全くの人間であって、十字架にかかられる前までの公生涯の間だけ、神の霊に満たされ、神の力と知恵とを持って、人々を教えられたと言うのです。
* 神性を受けたイエスが、十字架につけられて死ぬとは考えられないので、十字架にかかられる前に神の霊がイエスから離れ、十字架につかれたのは人間としてのイエスであったと考えたのです。それ故、キリストによる身代わりの死が、私の罪の赦しのためであったという、キリスト教の重要思想である罪からの救済の教えを、完全に否定するものであったのです。
* その教えは、イエスが神の子キリストではないと否定するものではありませんでした。公生涯のイエスを、神の子キリストだと信じていたのです。しかし、肉体を取ってこられたイエス=神の子キリストであることを否定したのです。これを、ヨハネは、福音を根本から否定する悪しき霊による教えだと言ってきたのです。
* 神から生まれるという事柄が、罪人である人間にとって、唯一,神との交わりを回復して頂き、神に造られた人間の最も幸いな人生を得る道として示してきたヨハネは、神から生まれた者に造り変えられるために動かすことのできない条件は、人としてこられたイエスを、神の子キリストとして信じることだと、言葉を尽くして訴えてきたのです。
* しかし、今日の私たち信仰者は、この当時のような教えによる惑わしがあるわけではないので、自分たちとは無関係な内容に見えるのです。それでは、そこから私たちに対する神の御声をどのように聞き取っていくべきでしょうか。
* この当時の誤った教えの根底にあるものを考えて見ますと、人間の理性で受けとめにくい内容を、理性で理解し、納得できる内容に作り変えようとした心によるものだと言えるでしょう。
* 神の知恵によって示された福音を、人間の理性で理解しにくく、納得しにくいからと言って、人間の思いで受け入れやすいものに変えようとする誘惑は、いつの時代にもあり、いろいろな形を変えて迫ってくるのです。
* それ故、この当時の特殊な教えによる誘惑、惑わしから福音をどのように守り、福音に生きるということがどういうことなのか、示されている内容から、現代において生きる私たちにおいて、私たちは何に注意し、何を大事にし、私たちにとって受けとめなければならないことは何なのかなど、それらのことをご一緒に学んで行きたいと思うのです。
(1)水と血によってこられたお方
* それでは、これまで語ってきたことのまとめとして語っていた、前回の内容の補足とも言うべき今日の内容について、この当時の誤った教えの内容や、何に注意させようとしていたか、ヨハネの思いをも考えつつ見ていきましょう。
* 5節で、「イエスを神の子と信じる者が、世に打ち勝つ勝利者だ」と言った後、6節で、このお方は水と血とをとおってこられたお方であって、水だけではない、水と血とによってこられた、ということを強調しています。
* これは、この当時の誤った教えが、イエスは水によってキリストとなられたと言っていた言葉を用いて、そうではない、水と血と両方によってこられたお方であって、それがイエス・キリストだと示すのです。
* それでは、ヨハネが水や血という言葉をもって何を言おうとしたのか、そこから考える必要があるでしょう。この水とは、水につけられるバプテスマのことでしょう。すなわち、イエスが受けられたバプテスマは、神の子としての公生涯の始まりの合図であり、神からの承認を受けたみわざの出発点でありますが、それだけではなく、公生涯のお働きすべてを指していると考えられます。
* 誤った教えにおいて重要だと考えていたことは、神の霊を受けたイエスの宣教活動だけだと思いますから、公生涯において語られた内容、なされた行動だけに目を向けていたのでしょう。だから、イエスが水によってこられたと言っていたのでしょう。
* それでは、水と血とによってとヨハネが言ったこの血とは何を指しているのでしょうか。イエスが十字架につけられ、血を流されることは、イエスの活動の終わりを意味するのではなくて、流された血によって、それは、罪からの救済活動の始まりの合図となり、イエスがキリストであることを信じる者の上に、救いのみわざがなされ、永遠に至るまでの救いのみわざが進められていくことのあかしとなると言っているのです。
* すなわち、水を通して始められた人類救済のみわざが、血を通して永遠に至るまでの人類救済のみわざとして実現し続けることになった、これが、イエスが神の子キリストでなければならないことの意味であり、御霊がそのことを証言して下さっていると話をまとめているのです。
* ヨハネは、そのことを、イエス様のお言葉として福音書で明らかにしています。「わたしが父の御許からあなたがたに遣わそうとしている助け主、すなわち、父の御許から来る真理の御霊が下る時、それはわたしについてあかしをするであろう」と。(ヨハネ15:26)
* 血を流し、永遠に至るまでの人類救済のみわざを実現して下さっているイエス・キリストをあかしし続けるお方として、御霊が一人一人に注がれると言っているのです。そのことが、ペンテコステ(聖霊降臨日)において実現したのです。
* 聖霊が、一人一人の内側にあって、イエスが紛れもない神の子キリストであることを、霊の目を開くことによって見えるようにして下さり、疑いのない事実であることを明らかにして下さるのです。
* もし、イエスが、水によってこられただけのお方であるなら、公生涯における神の子キリストの偉大さ、その卓越した教えとみわざの価値のすごさを示すことができても、それ以上の存在ではなく、過去の偉大な偉人と同列の一人で終わってしまいます。
* 血によって、すなわち、神の子として流される血の驚くべき効力によって、全人類に罪から救済される道が永遠に開かれることになり、イエスをキリストと信じるだけで実現することを神があかしして下さったのであるから、このお方は、水と血とによってこられたお方であるとの信仰なくして、神から生まれた者に造り変えられることはないと言ってきたのです。
* 現代において、水によってだけこられたイエスを強調する教えが同じようにあるわけではありませんが、人間の心の中に、イエスを神なる存在として見ることができず、人として見ようとするサタンの心が残っている人があります。神として流された血の効力を、正しく受けとめることなくして、その信仰に立ち続けることができないなら、神から生まれた者とは言えないことを、よく理解している必要があります。
(2)神のあかしとしての御霊と水と血
* 6節では、この方が水と血によってこられたお方であることをあかしして下さるお方は、真理なる御霊だと言ってきたのですが、7節と8節において、御子キリストについて、神があかしして下さっているものが3つだと示し、御霊を最初に持ってきて、御霊と水と血であって、この3つによって一つのことをあかししていると言い換えているのです。
* これは、イエスが、人でありつつ神であるという信じにくい内容を、信じやすくするために、神によるあかしという形で、神は3つのものを用意して下さったと言っているのです。
* 御霊を最初に持ってきたのは、水と血という内容におけるあかしを決定づける保証は、御霊によるあかしだと考えていたからでしょう。
* 一つのあかしだけではなく、どうして3つもあかしが必要だと神は考えられたのでしょうか。それは、ご自身が律法において「ただひとりの証人によって定めてはならない。ふたりの証人の証言により、または3人の証人の証言によって、その事を定めなければならない」(申命記19:15 旧274)と定めておられるからです。
* 少しでも偽証の疑いが残らないようにし、より精度を高めた証言となるように定められておられることを、御自身も実行しておられるとヨハネが言っているのです。
* もちろん、神が偽証されるはずがありませんが、人間の側がそのあかしを疑わず、確信できるように、3つのあかしを示し、人としてのイエスが、神性を持った神の子キリストであることが疑いのない事実であることを確信し、その信仰から動かないようにさせようと配慮して下さった、とヨハネは示しているのです。
* 御霊と水と血、これがどうして、イエスが神の子であることのあかしだと言うのでしょうか。その事をもう少し考えてみる必要があります。それを一つ一つ見ていくことにしましょう。
* まず御霊でありますが、目には見えなくても、神が、信じる者の内に、神からの霊を注ぎ、神の知恵を悟ることができるようにして下さいました。そのことは、パウロもTコリント2:10〜13の所ではっきりと語っています。
* すなわち、信じる者の内に、御霊を内住させて下さったという神による恵みの事実は、イエスに対する正しい認識を持つことができるようにさせ、キリストのなして下さったみわざのすごさ、神性を持っておられたがゆえの、そのあがないの測り知れない効力、神と一体であられた神の権威による言動などを悟ることのできる道を与えられたことを示しています。
* 言わば、神とその御思いとを知り、神との交わりの人生に入るために必要なことをすべて知るために、御霊を内住させて下さったことにより、それは、イエスが神の子キリストであると確信できるようにして下さった神のあかしだと言うのです。
* ヨハネが言おうとしたポイントは、真理を悟らせて下さる真理の御霊抜きで、イエスが神の子キリストであることを知ることも、信じることもできない。信じることができない者は、真理の御霊がその人の内にないので、神の知恵を理解することができない結果だと、聖霊信仰の欠如を指摘しているのです。
* 次に水でありますが、聖霊によって、神の子として生まれたイエスは、30数年の準備期間を経て、バプテスマのヨハネによって水をくぐり、そこからあがないのみわざに向けた公生涯が始まり、ご自身が神の子であることを宣言される歩みが続けられたのです。
* なぜ水を通ることが重要な区切りだと考えられたのでしょうか。これは、先ほども見ましたように、公生涯の始まりの合図でありますから、公生涯のイエス様のお姿そのものが、神の子キリストであることのあかしであり、イエス様ご自身、「わたしを見る者は、わたしをつかわされたかたを見るのである」(ヨハネ12:45)と言われ、神と同質の存在であることを宣言され、イエスが神の子キリストであることは疑いのない事実であることを示しているのです。
* 神のあかしとして示されたイエス様の公生涯は、シメオンの預言によれば、「イスラエルの多くの人を倒れさせたり、立ち上がらせたりするため」(ルカ2:34)、すなわち、人類を2分するためにこられると言いました。
* 水を通ってこられたイエスが、神の子キリストとしての公生涯を歩まれたことを見ることができない者は、神のあかしを受け入れない、霊の目が塞がれた者であることが明らかにされるのです。現に多くのイスラエルの民は認めず、キリストを十字架につけてしまったのです。
* 次に血でありますが、イエス・キリストの十字架が、イエスが神の子キリストであることを明らかにされる、神のあかしだと言われているのです。
* 十字架上で叫ばれたイエス様のお言葉を思う時、神の子として全人類の罪の刑罰を代わって受け、神から見捨てられた悲痛な叫びを上げられた姿が記されており(マタイ27:46)、又、神の子としてのみわざが完成したことが宣言されており(ヨハネ19:30)、それらが、神のあかしによるものだと言われているのです。
(3)肉の思いの納得ではなく、霊の思いの納得を
* 神のあかしは、人間のあかしよりも勝ったものであることを示しているのは、あなたがたが信用した教えは、人間のあかしによるものであって、それは頼りにならない。真実しか語ることのできない神によるあかしの方を信用すべきだと言うのです。
* 人の思いを納得させようと語りかけてくる人間のあかしは巧妙で、心の奥底を突いてくる教えに、人は動かされ、惑わされます。そうでなければ、偽りの教えが力を持ち、広がっていくわけがありません。肉の心を捉えることに長けているからです。それがサタンの巧妙な手ですから。
* しかしヨハネは言うのです。自分の心を納得させようとする心がどんなに信仰の思いを歪めるものあるか、よく知っている必要があります。自分の心が罪に汚染されていることに気づかない人は、救われたと思っていても、自分の心を納得させようとする思いを取り外していないのです。
* 信仰とは、霊の思いを納得させることなのです。神のあかしは、霊の思いを納得させ、神のお心が真実であると受けとめているので、そのあかしの一つ一つの真意を理解し、霊で受けとめ、イエスが神の子キリストであるという真理をそのまま受け入れるのです。
* どうして人は、人間のあかしの方が受け入れやすいのでしょうか。それは、信仰を持ったとしても、肉の思いで納得しようとする心を強く残しているからです。そこをつかれ、肉の思いを納得させることによって福音から引き離そうとする巧妙なサタンの働きかけに、いとも簡単に落とされてしまうのです。
* それでは、神のあかしはどうして受け入れにくいのでしょうか。それは、肉の思いを納得させようとするあかしではなく、人間の思いを満足させようとするあかしでもないからです。
* それは、真理を明らかにし、人間の罪の惨めさを指摘し、人間の思いにピタッとくる解決方法ではなく、神がよしとされる解決方法を示されるものでありますから、それでは人間の思いはすっきりせず、霊の思いで受けとめない限り、受け入れにくいのです。
* ヨハネは、人間のあかしよりも、神のあかしの方がはるかに勝っていると語っていますが、受け入れやすさや、人間の思いに近い点から言えば、人間のあかしの方が勝っています。それでは、神のあかしの方が勝っているとはどのような意味でしょうか。それは真実と効力の観点から語っているものだと言えるでしょう。
* 霊の思いで受け取ることができなかった人にとって、神のあかしとして示された御霊と水と血は、すべて分かりにくく、この当時の人たちにとっては、人間イエスに、一時的に神の霊が乗り移った時だけ、神の子キリストとなられたと見た方が理解しやすかったのです。
* まして、血によってこられたキリストは理解できず、御霊によるあかしを理解することなどは、さらに不可解にしか思えなかったのです。
* 肉の思いを納得させようとする向かい方から、霊の思いを納得させようとする向かい方へとスイッチを切り換えない限り、神のあかしは、人には何の役にも立たないのです。
* 人間のあかしよりはるかに勝った神のあかしである、御霊と水と血について、私たちも霊で受けとめ、すなわち、神との深い交わりの中で、神の御心を重んじる思いで、神のあかしを受けとめるなら、そこに示されている恵みの深さが分かり、イエスが神の子キリストであるという事実がどんなにすごい、神の愛の働きかけであるかが見えて来るようになるのです。
(まとめ)罪人人生から、神から生まれた者に
* 人は罪に生きていた所から抜け出し、神から生まれた者に造り変えられない限り、何の平安も、喜びも、希望も持つことはできません。あるのは絶望だけです。
* そこでヨハネが示したのは、神から生まれた者になる唯一の条件として、人としてのイエスを、神の子キリストだと信じることによってそれが可能だと言ってきたのです。
* 神から生まれた者に造り変えられる道を歩むには、イエスを神の子キリストと信じる道、これしかないのです。信じるための助けとして示された、神のあかしである御霊と水と血を受けとめるのは、霊によってしかないと言うのです。
* 人間のあかし(教え)は、全部知ることのできない、目で触れた部分だけの、知恵不足による不確かな判断と、推測を入れ込んだ、人間的限界のあるうそのあかしである場合を否定することができません。
* しかし、神によるあかしは、限界のない、すべてをご存知である目撃内容であり、正確無比な判断と、推測を必要としない真理把握による正しい証言でありますから、これほど確かなものはありません。
* ただ一点、人間にとって目で見、耳で聞き、肌で感じることができない霊的な事柄であるという以外は、疑う余地は全くありません。それでも、神のあかしを受けとめられないというのは、物質世界に閉じ込められ、霊的世界を受け入れられない狭い人間に落ちてしまっているからだと言えます。
* これを抜け出るのは、唯一つ、霊で受けとめる向かい方へとスイッチを切り換えることしかありません。霊で神のあかしを受けとめ、理解し、味わい、イエスが神の子キリストであることを信じ、そのあがないのすごさを味わって歩み続ける道、これが神から生まれた者の生き方なのです。