聖日礼拝メッセージ
2012年6月10日 更新

聖 書 Tヨハネ5:10〜12   (第31講)
 題 「キリストを信じるという言葉の持つ深みを知る」


  (序)信仰が難しい理由

* 人は、信仰を持とうとする時、自分の求めているものを与えて下さるようにと神に願ってしまいます。しかし、信仰とは、信じる者に対して、神は何を与えようとして下さり、どのように導こうとして下さり、どのように育てようとして下さるのか、その神の御思いの素晴らしさを知って、喜んで受け取っていくことなのです。

* このことが分からず、ずれたまま、最後まで自分の願い求めるものを第1に置き、それが満たされることばかり願い続ける道を歩み続ける信仰者がいます。

* それは、自分の内にある不安や思いわずらいからの解放であったり、自分の弱さや劣等感が解決されることであったり、悩みや苦しみから逃れる方法を求めたり、それらのことが満たされないと失望するのです。

* それが信仰だと思って向かっている人は、自分の思い通りに満たされないと、その教えに力がないと失望し、あきらめ、異なった教えの方へと目を向け、別の解決方法がないか捜そうとするのです。

* この手紙の相手先教会の、ある信仰者たちは、救われたら罪に悩まされない者にしてほしいと願っていましたが、信仰を持っても罪から解放されない状態が続くので失望してしまったのです。

* そこで、身体は悪だから、罪を犯し続けるが、霊は神から義とされ、受け入れられているので、身体が犯す罪に目を留める必要はないし、きよくなろうと無駄な努力をする必要もないという、気楽な他の教えの方に心を向けてしまったのです。

* 罪を犯さない者にはなることはできないが、それは仕方のないことだからと割り切ることによって、罪に悩まされない者になったので、それによって、思いの上で解決してしまったのです。

* このように、神のお考えよりも、自分の思いの方を第1にするという信仰の出発点がずれたままなので、自分の願いが満たされることだけを考えていて、それが信仰だと思い込み、神が何を与えようとして下さり、どのように導こうとして下さっているかなどには心が向けられないままで終わってしまうのです。

* なぜ、信仰とはこれほど難しいのでしょうか。信仰が難しいのではなく、神の御心をそのまま受け取ることができない肉の思いにあふれた人間の思いの方が問題なのです。肉の思いから出発せず、神の視点から信仰を考えるならば、そのまま信じるだけという非常に優しい事柄であるということが分かります。

* それ故、神の視点から見て、神が最も必要なものとして、私たち信仰者に与えようとして下さっているものが何であるか、どのように導こうとして下さっているのか、ヨハネが示しているものから学んでいくことにしましょう。
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  (1)気づかないことの恐ろしさ

* 前回の所では、人となってこられたイエスが、神の子キリストであることを証明するために、神が、あかしとして示して下さったのは3つあり、それは一致する。その3つとは、御霊と水と血であったと言ってきました。

* 肉の思いを納得させようとする人間のあかしの方が、受け入れやすいようになっていますが、それは信用できない。神のあかしは、肉の思いでは受け入れにくいのですが、信用の面から言えば、はるかに勝って信用できると言って、そのあかしの内容が示すものの素晴らしさに目を向けさせようとしていました。

* そして、10節において、神の子キリストを信じる者は、この神のあかしを自分の中に持っていると言うのです。自分の中に持っているとは、自分のものにしていると言うことです。

* すなわち、神のあかしによって示された神の御心を理解し、そのあかしに対する信仰が力となっていることを意味しているのでしょう。

* 神のあかしである、御霊と水と血が表している意味、それは、神による人類救済事業の要となるイエス・キリストが、神のご性質を持ったまま、人間の身体を取って、神性、人性を併せ持つキリストとして、水のバプテスマを合図に公生涯を始められ、ご自身が神の子であることを証言し続けられたのです。

* それだけではなく、血の十字架によって、永遠に亘る人類救済事業が完成され、永遠に有効であることを、御霊が証言して下さったのです。

* もちろん、御霊による証言と言っても、目に見える形や、耳で聞こえる形で証言して下さっているわけではありません。私たちの内側に宿って下さり、霊の思いを起こし、水のバプテスマを通して示されている神の子キリストの公生涯が、罪からの救済のための序章であり、血の十字架を通して示されている神の子キリストによる永遠のあがないが、罪からの救済のための終幕であることを悟ることができるようにして下さるのです。

* ヨハネは、このあかしを自分のものとして持っていることを強調しています。その表現を理解するために、たとえば眼鏡を持っているという言葉で考えて見ることにしましょう。もし持っていても、それを使わなければ何の助けにも、何の価値もないことになります。ただあると言うだけです。必要な時に、又、適切に使ってこそ、持っていると言えるのです。

* あかしを持っているとは、そのあかしの意味する深い恵みを自分のものとして受けとめ、それを喜び、罪からの救いがどんなに素晴らしいものかを十分に味わう信仰に立っていることを指していると言えます。私たちの思いの中に持っていることが、どんなにすごいことか、その事を教えてくれているのです。

* このあかしを信じていない者は、神を信じていないことになり、神をうそつき呼ばわりしていることになると言います。イエスを水によってこられた(公生涯の間だけ神が宿った)だけの存在だと信じるようになっていた人たちは、神様を本気で信じていたのです。しかし神は、彼らを、神を信じていない者と断定され、救いに無関係の者だと見られていると言い切っているのです。

* 神のお心が理解できず、自分の思いに納得しやすい教えの方を選び取った時点で、神をうそつきだとしてしまっている事実を、本人たちは気づいていないだけなのです。

* 自分の言動の愚かさに気づいていないと言うことほど恐ろしいものはありません。神を信じているつもりでいるのに、サタンの声に耳を傾け、神に従っているつもりでいて、サタンに従っているのです。御霊のあかしを受けとめられないということが、自らの意志で神から見捨てられる歩みの方を選び取ってしまったことになるのです。

* もっと、霊を敏感にさせる歩みをしていかないと、サタンの惑わしに気づかないまま引き込まれ、自分が見えなくなり、福音を受けとめられない者にされていくのです。よほど注意が必要であることを思わされるのです。


  (2)御子の内にも永遠の命の源泉がある

* 神があかしして下さったその恵みの内容を自分のものにし、味わう歩みをすることが大事だと示してきたのですが、それはなぜなのか、11節で語っていこうとしているのです。

* それは、神のあかしを自分のものにした人は、神が永遠の命を与えて下さったということが分かると言うのです。すなわち、神による3つのあかしが意味する神の御心を受けとめた状態が、神からの最高のプレゼントである永遠の命を頂いた状態だと言うのです。

* けれども、分かるようで分かりにくいのがこの永遠の命という言葉です。永遠とは、初めも終わりもないことで、時間が長くいつまでも続くというのではなく、時間という制約のある世の次元を超えた、時間を超越した状態を指すと考えられます。それ故、永遠の命とは、いつまでも生き続ける命というのではなく、時間の制約がなくなった命だと言えるでしょう。

* この永遠性は、神のみが持っておられる特別のものでありますから、その永遠の命を、神が与えて下さると言われているのは、永遠なるご性質を持っておられるご自身に結び付けて下さった命と理解すべきでしょう。

* イエス様は、「子を見て信じる者が、ことごとく永遠の命を得ること」(ヨハネ6:40)、それが、わたしの父の御心だと示されました。イエスを信じるだけで、神の側でご自身と結びつかせ、ご自身から流れてくる永遠の命にあずかる者にして下さると言われているのです。

* ということは、永遠の命を頂くとは、時間の制約のある世から解き放たれて、永遠なる神の世界に結びついたという、驚くべき命に造り変えられたと言うことです。

* 古い命を持ったまま、神と結びつかせて頂くのですが、そのことによって、神の偉大なエネルギーにより、永遠の命が入り込んできて内に満たされ、満ち溢れ、それまで内側を占めていた古い命を押し流して下さるのです。

* 別の時にイエス様はこうも言っておられます。「永遠の命とは、唯一の、まことの神でいますあなたと、また、あなたが遣わされたイエス・キリストとを知ることであります」(ヨハネ17:3)と。

* ここにも明らかにされていますように、唯一の神と、イエス・キリストとを、神であり、救い主であると信仰によって受けとめた時、神の側においてご自身に結び付けて下さり、神の内に溢れている永遠の命が流れ込んできて、古い命を飲み尽くすのです。

* ヨハネは、神が永遠の命の源泉でありつつ、御子もこの父から出られたお方であるから、御子の内にも永遠の命の源泉があると言うのです。

* ここであえて、御子の内に永遠の命があると言ったのは、イエスが公生涯の間だけ神が宿られたというような教えは、全くくだらない教えでしかなく、御子は、神性を持ったお方としてこの地上に遣わされたのだから、神の内に溢れている永遠の命の源泉が、このお方の中にも分散されており、満ち溢れていると言っているのです。

* このように、神の内にあり、御子の内にある永遠の命が、神を信じ、御子を信じることによって、神とのパイプがつながり、永遠の命が力強く流れ込んでくることが語られているのです。

* もちろん、これは霊的な事柄でありますから、そのつながりも、流れ込んでくる命も、目に見えるわけではありません。けれども、その命のすごさを霊で感じ取り、永遠の命に満たされるということが、どんなに信仰の喜びに溢れるものであるか、霊で受けとめることができるのです。

* もし、このことが分からなければ、永遠の命が与えられていると言っても、それは、絵に書いた餅で終わってしまい、その素晴らしさを味わうことができないでしょう。


  (3)御子を持つという表現で示そうとしたこと

* ヨハネは12節で、神のあかしに込められている御心を受けとめ、神の子キリストを信じる者は、御子を内に持つことになり、御子を持っていることが、永遠の命を頂いていることの保証だと言うのです。

* 御子を信じるということを、なぜ御子を持つことだと言い換えているのでしょうか。そこにヨハネが示そうとしている意図が感じられます。

* この「持つ」という言葉は、神のあかしを持つと言われている箇所でも見ましたが、この言葉は、所有するとか、身に着けているとか、抱くという意味を持った言葉ですから、キリストを自分のものとして頂いている、キリストをしっかりと身に着けているとの表現であることが分かります。

* このように、言葉を言い換えているのは、神の子キリストを信じるという言葉だけでは、神の意図する所を十分に捉え切れないかもしれないと考えたからでしょう。言わば、言葉を言い換えることによって、その真意を正しく汲み取ってほしいと思ったのでしょう。

* 信じるという言葉の弱点は、信じたり、信じなかったり、人間の側の思い次第だと思われやすい表現だと言うことです。本来は、そんなに軽い表現ではないのですが、自分の思いから、神や神の御心を見ようとする、人間の肉的対応しやすい心が強いが故に、人間の側の思い次第のように感じてしまうのです。

* ヨハネが、言葉を言い換えて補足しようとしたことは、神の子キリストが、私の人生にとって、すなわち、罪赦され、神の御前に立って生かされるという真の人生にとって、なくてはならない存在であり、このお方をしっかりと身に着けていなければ、不信に引き落とそうとする働きかけから守られることはできない。だから、神の子キリストを信じるということは、決してひと時も身から離すことができないものとして、身に着けているべきだと言うのです。

* パウロの表現で言うならば、「あなたがたは、主イエス・キリストを着なさい」(ローマ13:14)と言うことです。今日の私たちにおいて、もっと分かりやすい表現で言うならば、主イエス・キリストを、あなたの上に強力な接着剤で2度と離れることのないように貼り付けなさいと言うのです。

* 神の子キリストを信じるというのは、いつでも取り外しができるというような粘着度の弱い付箋(ふせん)のような信じ方を指しているのではありません。一度貼り付けたら、2度とはがれることのない、大きな負荷がかかってもはがれない、そんな信じ方を指しているのです。

* 人は、自分の状態が思い通りではなく、厳しいことや、つらいことが多くなったりすると、粘着度の弱い付箋のように、すぐ取り外したり、はがれやすい状態にしたりするのです。このような人を、パウロは信仰の弱い人と言いました。(ローマ14:1)

* ヨハネが示している、神の子キリストを信じる者とは、2度と取り外しが不可能な、強力な接着剤で、あなたの上に主イエス・キリストがピッタリと貼り付けられている状態だということを、御子を持つという表現で言い表したのでしょう。

* 信仰とは、自分の都合や、その時の自分の状態によって付けたり外したりするような軽いものではありません。自分の人生を賭けて信頼し、神が示して下さった御心を本気で信じ、納得できるかできないかではなく、信仰に自分をあずけてしまうことなのです。


  (まとめ)完全な永遠の命に向けての歩み

* 人となられたイエスが、神性と人性とを持った神の子キリストであると信じる信仰が、神の求めておられる信仰であり、それは、自分の都合や状態で付けたり外したりするようなものではないことを示してきました。

* その信仰が、自分の生き死ににかかわるものとして、キリストを強力な接着剤で自分に貼り付け、2度とはがれることのないように、その信仰に、自分をあずけてしまうことがキリスト信仰だと、ヨハネは示してきました。

* このような、御子を持つとの表現で示している信仰に立って向かうことが、永遠の命を持ち、神と結びついて、神からの驚くべき命エネルギーが注ぎ込まれ、永遠の命に満ち溢れ、古い命を飲み尽くして、罪に振り回される古い命から解放されて生きることができると示してきました。

* しかし、この当時のある信仰者たちは、このような、御子を持つという信仰の向かい方をせず、自分の思いに適う他の教えの方に心を奪われることによって、御子を持たない信仰になり、その結果、永遠の命を持たない、神からの驚くべき命エネルギーが注ぎ込まれるパイプを、自らの意志で外してしまった信仰者に成り下がったと、ヨハネは指摘しているのです。

* このように、信仰のずれについて、懇切丁寧に説いたとしても、自分たちの思いの方が神に忠実に従っていると思い、神が喜んで下さっているはずだと思い込んでいる人たちの心の奥底には、なかなか届かなかったことでしょう。

* 気づこうとしないこと、すなわち、思い込みという病の病巣は深く、癒されることはまれだと言えます。それでもヨハネは、気づいてくれるようにと、訴え続けるしかなかったのです。

* 永遠の命を持つことができるようにされたその幸いが分かる者は、何と祝福されていることでしょう。そのような人は、永遠の命を味わい、神と結びつき、溢れるまでに注ぎ続けて下さる神の命エネルギーのすごさを受けとめ、絶対はがれることのない超強力な接着剤でキリストを貼り付け、キリストと共に生き、キリストに信頼し、キリストによりすがり、キリストにあることの幸いを味わうようにさせて頂いているのです。

* 神から流れてくる命エネルギーが、古い私の命を押し流すと言っても、この地上にある間は、完全になくなるわけではありません。絶えず見え隠れするでしょう。

* しかし、古い命に囚われ、縛られ、振り回されることはなくなっていきます。神から流れ込んでくる永遠の命が、私たちの霊を強くし、力に満ち溢れさせ、喜びと希望に溢れさせて下さるのです。

* そして終わりの時には、古い命から完全に解放され、妨げるものが全くない、神と直結された完全な永遠の命にあずからせて下さると信じることができるのです。すなわち、今の歩みは、完全な永遠の命に向かって歩む歩みだと言っているのです。

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