(序)この手紙の目的を示している意図は?
* ヨハネは、ここまで書いてきて、これまでの内容をまとめ、この手紙を書いている目的を示して、どのような思いでこの手紙を書いているのか、それを理解してほしいと訴えているのです。
* それは、福音を受け入れて、イエスを神の子キリストとして信じ歩んできたあなたがたは、神から永遠の命がプレゼントされ、その素晴らしさを味わい、確信して歩むように導かれている、ということを悟らせようとしたのです。
* そのことが分からず、偽の教えの方に心を奪われる者が出てきていたから、神が与えて下さった霊的な状態を、しっかりと受けとめてほしいと言うためでした。
* この手紙を書く側と、手紙を受け取る側との間に、大きな温度差があるのが感じられます。書く側は、その人たちの信仰状態がどのようであり、どこに注意が必要か、その状態を読み取って、どこに目を向けなければならないかを指摘し、諭し、励まし、しっかりと立ち続けるように示そうとして手紙を書いています。
* しかし、手紙を受け取る側は、自分の信仰状態に危機感を抱いてはおらず、何が問題であると言われ、どこに注意が必要だと言われても、なかなか受けとめられないのです。手紙を書く側は、その恐ろしさを知っていますから、訴え続けるのですが、受け取る側は、なぜそう言われるのか不思議に思うのです。
* 手紙を受け取る側の信仰者たちは、こうなってほしいという自分の思いが求めているものに目を向けていますから、その目線からしか見ていないので、自分の信仰状態を見ることはできません。
* 自分の目の位置から見える範囲内のものだけを見ていますから、神の目線から見た自分の信仰状態も見えないし、偽の教えの何が問題なのかも見えていないのです。
* それ故、どんなに鋭く、神の目線から見て明らかである信仰のずれを示されても、なかなかピンとこないで、なぜそこまで言うのかと思う程度で、正しく受けとめようとしないのです。
* たとえばイエス様が、パリサイ人や律法学者たちの信仰のずれ、受けとめ方のずれを神の目線から見られ、鋭い指摘をされていることが福音書に記されていますが、彼らは、それによってハッとするどころか、反発したり、逆恨みしたりして、神の目線から見る歩みの重要性に、全く気づこうとはしなかったのです。
* 低い信仰の目線から見る生き方がしっかりとこびりついていたから、いくら正しい指摘をされ、その目線が、神のお心から離れていると示されても、心を入れ替えようとはせず、ますますかたくなになって、神から離れて行っている姿を現していたのです。
* これはメッセージを語る側と、聞く側の温度差も同じだと言えるでしょう。聞く側が、自分の目線を変えようとせず、こういう話や、こういう解決方法を示してほしいという思いからメッセージを聞こうとしているので、自分の目線に合わない内容は全く心の中に入ってこず、自分の目線に合う僅かな内容だけを受けとめようとするのです。
* すべてをご存知である神を信頼し、自分の目線ではなく、神の目線で、この私の霊的状態を量り、神は何を示し、どのように育て、どこを形造ろうとされるのか、神からの霊性矯正プログラムをもって語りかけ、働きかけて下さるものとしてメッセージを受けとめようとするならば、永遠の命を頂いている者としての歩みをしていると言えます。
* それでは、この手紙に書いている目的を示して、ヨハネが何を語ろうとしているのか、神の目線から見た、信仰者のあるべき信仰状態からどこがずれていて、どこに目を向けていなければならないのか、その示されている内容から、今日の私たちにとって聞き取るべき神の御声をご一緒に聞いていきましょう。
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(1)なぜ信仰者は惑わされるのか
* 自分たちの中から偽の教えの方に走って行った人たちを目の当たりに見させられていた、この手紙の相手先教会の一員であった人たちの間に、少なからず動揺を与え、自分の信仰はこれでいいのだろうかと思わされていた人たちもいたことが、ヨハネには見て取れたのです。
* なぜそのように動揺するのでしょうか。それは、惑わされる要素を誰もが持っていると言えるからです。信仰に何の疑いも持たず、サタンの働きかけが見え、自分が持っている信仰の内容に強い確信を持っていたならば、全く動揺させられることはありません。しかし、霊的な事柄の確信というのは、目で確認できないだけに、本当に確かだろうかと思わされ、不安がついて回ります。
* 人間の思いは揺れ動きます。それ故、人間の思いを土台にしていれば、その上に載りかかっている信仰という建物は、人間の思いが惑わされたり、試練を受けたり、強く押されたりすると、その上に載りかかっている信仰は、激しく揺れ動き、時には傾いたり、壊れたりするのです。
* 偽の教えの方に走ってしまった人たちは、彼らの肉の思いを土台にしていたから、激しい揺れに耐えることができず、信仰が壊されてしまったのです。しかも性質の悪いことに、彼ら自身、自分たちの信仰が壊されたとは決して思ってはおらず、より深く、より確かな信仰を打ち建てることができたと思い込んでいたのです。
* このような人たちの方が、肉の思いを納得させてくれる内容を信じていたから、くすぶっていた疑問も解け、強い確信を持って歩んでいる姿を現しているので、惑わされやすい要素を持っている信仰者は、それを見て、自分の信仰は大丈夫なのかと揺さぶられるのです。霊的な事柄を確信していく信仰は、この意味で難しいと言えるのです。
* ヨハネは、人間の思いを土台にした信仰という建物では、激しい揺れに耐えることができない、神の目線から見た確かな信仰状態とは、神の思いを土台にしたその上に建てた信仰の建物である場合だけ、激しい揺れにも全く動じない確信に立ち続けることができると示してきたのです。
* そのためには、神の御思いを知っていなければなりません。神は、私たちをどのようにしたいと思っておられるのか、どこに立って歩むように導こうとしておられるのか、何に目を向けて歩ませようとしておられるのか、その事を正しく受けとめていないと、その上に信仰を建て上げていくことができないのです。
* 自分の中に惑わされる要素を持っていようと、神の御思いの上に信仰を建てているならば、周りに激しい揺れが起きても、人間の思いとは地盤が異なっているので、その揺れにつぶされることなく、それは又、自分の立っている所が確かであることを確認できる機会にもなるのです。
* すなわち、偽の教えに惑わされる人があっても、何ら動揺させられることなく、そのことがかえって福音の正しさを確認する機会とされるのです。
* ヨハネは、一人一人の内に惑わされる要素を持っていると分かっていたので、少々動揺したり、疑いの思いがフッと出てきたりしていた人たちの姿を見て、一人一人に、自分の立っている所を福音によって確認させようと、この手紙を書き、手紙を書いた目的が、イエスを神の子キリストとして信じていることが、神としっかりと結びつき、神からの命エネルギーが注ぎ込まれ、永遠の命を頂いている状態であることを確信させることであると言ったのです。
* 神の目線から見た、自分の上に形造られた信仰状態をしっかりと見詰めることのできる信仰の目を持つことができたならば、どんな惑わしにも、揺さぶりにも動じない確かな信仰に立ち続けることができるということを、ヨハネは示そうとしたのです。
* 今の時代に生き、今の時代における惑わしや揺さぶりのある中で、私たち信仰者も、この信仰の目を持って信仰の歩みができるかどうかが、非常に重要なポイントとなるでしょう。この目が曇らされると必ず平安を奪われてしまうのです。
(2)神の目線から見た祈りの聞かれ方
* 偽の教えに惑わされた人たちの根本原因は、神の御思いに心を置こうとせず、自分の思い、自分の願いを中心に置いていた点でした。それ故、その思いがかなわないと自分の信仰に問題があることに気づくこともせず、神には力がないと思ったり、福音に問題があるのではないかと思ったり、神の御心に不満を覚えてしまったのです。
* その隙間に、偽の教えが入り込んできて、自分の思いをある程度納得させてくれたので、これだ!これこそ新しく示して下さった神の教えだと本気で思って、そちらに走って行ったのです。
* そこでヨハネは、神に祈り願う祈りが、肉の思いから出ているのが問題なのだと指摘した上で、自分が抱いている確信について述べていくのです。
* 「わたしたちが何事でも神の御旨に従って願い求めるなら、神はそれを聞き入れて下さる」と言いました。なんでも聞いて下さると言いながら、神の御旨に従って願い求めるという条件がつけられているのです。
* この条件は簡単なものではありません。御旨に従って、すなわち、御旨に基づいてという条件だと、私たちが御旨をどこまで知っているのかと思わされるのです。御旨をよく知っていないと、御旨に基づいた祈りや願いを言い表すことはできません。私たちは、御旨をどこまで分かっていると言えるでしょうか。
* ひょっとしたら、これは信仰者に無理難題を吹っ掛けられる意図で言われているのでしょうか。確かにイエス様は何でも祈り求めなさいと言われています。(ヨハネ14:14)もちろんそこにも、「わたしの名によって」という言葉が付け加えられていますから、これは、肉の思いで求めるものでもいい、何でも聞いてあげようと言われているのではないことが分かります。
* この当時の教会において問題となっているのは、罪の問題という霊的な事柄のように見えて、肉の思いが満たされることを求めた自己中心の延長とも言える彼らの思いが満たされないので、失望したことから、偽の教えの方に目を向けるようになったのです。それ故、神が彼らの思いを満たされなかったのは、求める内容、あるいは求める思いの方に問題があったことをヨハネは示してきたのです。
* しかし、キリスト信仰の基本は、神は信仰者の祈りを聞いて下さるお方であるということです。けれども、このことの意味を勘違いしてはならないことは、私たちの信仰の助けにならないこと、肉の思いを引き出すだけの事柄、神の御心に適わないことまで、神がその通りにして下さると言っているのではありません。
* 神は、すべて先まで見通された上で、どのように祈りに答えることが、信仰者の真の益になるのか、ご自身のお心に適うのか、すべてを判断され、ご計画された上で聞いて下さるのです。
* 人間の目から見れば、祈りが聞かれていないのではないかと思ったとしても、神は、信仰者の祈りを聞いて下さるお方であるという真理に変わりはなく、神の深いお考えによって答えて下さっているのです。
* これも人間の側から見て、願い通りに答えて下さるかどうかを計って、祈りが聞かれた、聞かれなかったと判断すべきではありません。神の目線から見て、信仰者の祈りにどのように答えようとされるのか、それを受けとめる霊の目を持って信じることです。そして神のお考えにすべてお任せしてしまうことです。自分の思い通りになる願いから離れられない人は、信じているとは言えません。
* 具体的な例を考えて見ましょう。肉の思いではなく、霊の思いによって、家族が救われることを真剣に願ったとしましょう。人間の肉の目線から見るならば、家族が救われる事実を見るまでは、祈りが聞かれていないと思うのです。果たしてそうでしょうか。
* 神の目線からそれを見てみましょう。家族の救いが、信仰者の霊を高め、キリストの証人としての歩みを整え、神が偉大な力を持ってみわざを進めて下さるという、激しいまでの信頼を現すことになるならば、実現することが、神のお心にかなったものになるでしょう。
* しかし、そこまでまだ霊性が高められてはおらず、キリストの証人としての歩みが整えられていない状態のままで、祈ってすぐに実現し、家族の救いを見ることができるならば、神が祈りを聞かれることは、信仰者の益にならないどころか、傲慢になるだけであり、信仰の害にさえなると言えるでしょう。
* まず私たちが神にすがり、御霊の導きを頂きながら、家族の救いを心底飢え渇いて求め、祈り続け、神が必ず働いて下さるとの確信に立って向かうようにされたならば、家族の救いを現実にまだ見ていなくても、神は祈りを聞いて下さっているということが分かり、後は神の定めておられる時を待つことだと分かるのです。
* ヨハネはその意味で、15節において、神が信仰者の祈りを聞いて下さるお方であるとの信仰に立っているならば、神に願い求めたことは、人間の願っている時とは異なっていても、神の思いの中ではすでにかなえて下さっているということを信じることができると言ったのです。信仰者に、この信仰を持たせようとされているのが神のお心だと、ヨハネは示しているのです。
(3)聖霊をけがす罪の恐ろしさを知る
* ヨハネは、祈りにおける、微妙で、難しい問題に触れていこうとしています。それは、偽の教えの方へと走って行き、さらに他の信仰者たちを惑わそうとしている、偽キリストの証人となってしまった人たちのために、私たち信仰者は、彼らが悔い改めて立ち帰るようにと、とりなしの祈りをしていくべきかどうかという点に目を向けさせています。
* 偽の教えの方へと走って行った人たちの罪は、死に至る罪なのか、ここで使われている死に至る罪とは、この死は魂の滅びを指していると考えられますから、滅びに至る罪に当たるのか、それとも滅びに至らない、あわれみの中にある状態の罪に当たるのか、罪には2種類のものがあることを示しているのです。
* 滅びに至る罪とは、決して神が赦されることのない罪、悔い改めて立ち帰るチャンスが全く与えられていない罪のことだと言い、それと対比して、肉の弱さ、信仰の薄さから犯してしまう罪、犯したくないと思いつつも、犯してしまう罪、それらは神の赦しの範囲内に置かれた、滅びに至ることのない罪だと言うのです。
* しかし、この見分け方はそうたやすいものではありません。そのことについて語られているイエス様のお言葉から考えて見なければならないでしょう。マルコ3:28,29において、「人の子らにはその犯すすべての罪も、神をけがす言葉も、ゆるされる。しかし聖霊をけがす者は、いつまでも赦されず、永遠の罪に定められる」と言われています。
* もちろん、罪はすべて神の忌み嫌われる不義ですから、どんな罪であっても、罪には変わりはないのです。けれどもイエス様は、すべての罪も、神をけがす言葉も滅びに至らない罪であるが、その中の一つだけは例外であって、聖霊をけがす罪だけは、滅びに至る恐ろしい罪であることを明らかにしておられるのです。
* なぜ他の罪は、赦される可能性のある罪であるのに、聖霊をけがす罪だけは、その罪を犯せば、赦される余地が全くない、即地獄行きだと言われているのでしょうか。
* 30節のイエス様の説明によれば、「イエスはけがれた霊につかれている」と言った律法学者たちの言葉を取り上げ、聖霊の働きかけを、けがれた霊の働きかけだと指摘したその罪は、滅びに至る罪だと言っていることが分かります。
* それでは、聖霊をけがす罪とは具体的にどのようなものかを考えて見ましょう。イエス様が復活後昇天されてから、ご自身の代わりに働かれる神的存在として、聖霊が送られると言われました。(ヨハネ16:7)それは、イエス様が形を変えて私たちの中に宿って下さり、大いなる働きをなして下さると言うものでした。
* ここまで明確に示され、導こうとしておられる聖霊に対して、全く無関心であり、無知な人は、聖霊をけがしていると言えるでしょうか。
* 又、聖霊については知っていても、そのお働きを信じていない人はどうなのでしょうか。又、聖霊の導きが分かるようになってきたが、時々期待する程度の人はどうなのでしょうか。又、聖霊によらなければ信じることも、神の子として歩むこともできないとまで思うことができない人はどうなのでしょうか。信仰人生の歩みは内住の御霊によらなければ一歩たりとも歩むことができないし、神の声を聞き取って力を受ける歩みをすることができないとまで思っていない人はどうなのでしょうか。一体どこからが聖霊をけがす罪を現している者だと言われているのでしょうか。
* 確かに、この線引きは難しいでしょう。ただ考えられる明確な線引きは、聖霊について聞いても信じないで、聖霊について否定する人や、聖霊のお働きをけがれた霊の働きかけだと言って、聖霊信仰を拒否する人は、聖霊をけがす罪を現していると見られているのでしょう。
* それでは、聖霊について聞いていても、なかなか信じることができない人から、時々しか聖霊信仰に立つことができない人まで、これらの中間の人はどうなのでしょうか。それは、聖霊をけがす罪の一歩前にいる状態だと言えるでしょう。まだ聖霊をけがしてはいないが、いつ惑わされて聖霊を拒否し、けがれた霊の働きだと言う者に落とされるか分からない所に立っていると言えるでしょう。
* 聖霊をけがす罪を犯している人たちのためには、とりなしの祈りをするな。それは、聖霊をけがす罪の恐ろしさに気づいていない人のすることで、すでに地獄に落ちている人を助け出そうとするようなものだと示しているのです。
* こういう言葉を聞くと、神はもっと寛容で、父を見捨てて好き勝手に生きていた放蕩息子でさえ、立ち帰るのを待ち続けられるお方だと思うのに、どうしてこんな冷たい神の姿を、ヨハネは示すのかと思わされるのです。
* これは、絶対に犯してはならない神の領域というものがあって、どんな罪でも赦される可能性は残っているが、聖霊をけがす罪だけは赦されることはない。信仰者を導くための神による、神の最高の知恵を結集した、神のご計画を完成させるための神の取って置きの手として示された、聖霊の内住であり、聖霊の働きかけであったのですから、このことなくして人間の救いは完成しないのです。
* 聖霊をけがすことは、神のお心と知恵とを全否定することであるから、赦される可能性は全くないとまで言い切っているのです。
(まとめ)神の恐ろしい一面
* 人間は、惑わされやすい存在ですから、惑わされたり、揺さぶられたり、信頼できなくなったりして、信仰がふらついたり、薄くなったり、弱くなったりします。その意味で言うならば、信仰がふらついて他の教えに走った者にも、立ち帰るチャンスは与えられていると言えるでしょう。
* しかし、ヨハネが滅びに至る罪について記していることから考えてみて、この時離れて行った人たちは、ただ福音に満足できずに、他の教えの方に心を向けたと言うのではなく、聞いてきた聖霊を強く否定し、聖霊の働きかけをサタンによるもの、悪しき霊によるものだと言っていたのでしょう。
* もし彼らが、そのように、聖霊と聖霊の働きかけとを強く否定していたならば、神の寛容が届かない領域に入り込んだことになり、それは、聖霊をけがす、滅びに至る罪となり、もはや立ち帰るチャンスすらなくなると言っているのです。
* ヨハネがこのことを示したのは、神が恐ろしい一面を持っておられることを明らかにするためです。神の愛と寛容なお心から外れる領域に入り込んだ者は、自ら滅びを選び取ったことになり、神も救いの手を伸ばされることはないと言って、警告を発するためであったことが分かります。
* この意味で、内住して下さっている聖霊に信頼し、働いて頂くように、自分を明け渡していく歩みが育てられていくように向かっていないなら、信仰者の内側にも、聖霊への信頼が薄れ、聖霊を否定する歩みへと引っ張られていく可能性があるのです。
* そうならないために、聖霊の内住を喜び、聖霊の働きかけを信頼し、飢え渇いて求め、聖霊信仰を確立していくように心を傾け、私の思い通りにならなくても、神が祈りを聞いて下さっていることを疑わないで、すでに聞かれていると確信し、永遠の命を頂いている者として、信仰の目を持って歩んでいきたいと思うのです。