(序)書いてきた真理の福音の再確認
* ヨハネは、手紙を終えるに当たって、この手紙を通して心に留めてほしいと思っていた点を短く、3つの項目を取り上げて、特徴的な表現を持って書き記し、それを結びとしています。
* それと言うのも、偽の教えに惑わされた人たちが出る中で、何が真理であるのか不安になっていた人たちに対して、真実なる神から送られてきた真理の霊を通して、これまで示されてきた真理が何であったか確認させようとしたのです。
* 福音を聞いてきても、どれだけその福音が霊にしっかりと刻み込まれているかを考えてみますと、その人自身が飢え渇いて求めていた事柄については、心に残っていたとしても、多くは抜け落ちてしまっていたでしょう。
* それ故、日々起きてくる戦いにおいて、真理で対応できるだけの十分な把握ができておらず、偽の教えに対応できるだけのものを刻み込んでいるとは言えなかったのでしょう。言うならば、武器なしで、強力な武器を持った敵と戦おうとするようなものでありました。
* まして、相手先教会の心が揺れていた信仰者たちにおいては、信仰生活にあって、思いが満たされない不満や、すっきりとしない疑いの思いなどが残ったままであったと考えられますから、平安や喜びすら奪われかけており、信仰生活の危機とも言える信仰者たちもいたのでしょう。そのような人たちに対する真理の福音の確認と、信仰者が立っている位置を確認させたいと思ったのでしょう。
* これは決して、この当時の信仰者たちだけのことではなく、現代に生きる私たち信仰者においても、自分が生かされている真理の福音の十分な確認と、自分たちが立つように導かれた信仰的位置を十分に確認していないと、起きてくる戦いに信仰によって対応できないばかりか、不満や疑いを解消した、すっきりとした信仰生活を送ることもできないでしょう。
* そこでヨハネは、自分が書いてきた手紙の内容を3つの点にまとめ、それを、非常に重要な真理の福音として、私たちのすでに知っていることだと強調して、これらの事を理解することが、どれほど大事なのかを訴えようとしているのです。この手紙全体のまとめとして、この内容を学んでいくことにしましょう。
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(1)神から生まれた者を守られるキリスト
* それでは、まとめとして示した第1の真理について見ていきましょう。ヨハネは、信仰者を神から生まれた者と示して、出生地が神であり、製作者が神であることをすでに3:9において明確に示してきました。
* すなわち、神から生まれた者は、罪を犯さない者として神に見て頂いていると言うのです。神が製作者であるのに、罪を犯すはずがない、もし罪を犯す者として造られたとしたなら、神は恥を受けることになると言うのです。
* そこでは、神から生まれたことにより、神の遺伝子を受け継ぎ、義の性質を受け継ぐ者とされたと言ってきましたが、このような真理の福音を聞いても、現実には罪を犯さない生き方ができず、自分の中に罪の激しさが見られる度毎に敗北感を感じ、無力感を感じてきた人たちの思いが、まだ解消されていないと、ヨハネは感じ取っていたのです。
* それ故、この真理が彼らの霊にしっかりと刻み込まれ、勝利感に溢れた信仰人生を送ってほしいと考えていたので、もう一度触れずにはおれなかったのです。
* このことを私たちはよく知っています、と言うことによって、この信仰内容がもし事実でないなら、真理はどこにもないことになる。間違いなく私たちは神から生まれた者であり、神の義を受け継いで、罪を犯さない人間として神に造って頂いたのである。このことを私たちは疑いのない事実として信じてきたと告白しているのです。
* ヨハネも、肉の弱さから来る罪を犯さない信仰人生を送ることができたわけではありません。にもかかわらず、罪を犯さないと言い切ることができたのは、キリストによる永遠のあがないにより、私たちが罪を犯す度毎に、あがないの効力が発揮され、罪赦された者の位置に立ち続けることができるようにされていることを確信していたので、罪を犯さないと信仰によって告白できたのです。
* この後の、「神から生まれた方が彼を守って下さる」と言っている言葉の代名詞は誰のことかはっきりせず、神から生まれた方とは誰のことか、彼を守って下さると言われている彼とは誰のことか、分かりにくいのです。
* 神から生まれた方をキリストと理解するには、キリストを神から生まれたと表現されている箇所は他になく、神から生まれた方を私たち信仰者だと受けとめると、彼を守るとは、自分自身を守るという表現になります。
* すなわち、神から生まれた方を信仰者のことだと受けとめると、神から生まれた者とされた信仰者は、罪を犯さないとの信仰によって自分自身を守り、サタンに手出しさせない強い霊を持つことができるという意味になります、
* しかしこれは3:6で語られていた「彼(キリスト)におる者は罪を犯さない」という表現から考えて見ますと、神から生まれた方をキリストと解し、罪を犯さない歩みをする信仰者をご自身の中に置いて、永遠のあがないによって罪からの解放を実現させつつ、サタンの働きかけによって現実に犯し続ける罪に惑わされたり、罪に対して敗北感を持ったりすることのないように守って下さるキリストを指し示していると考えるべきでしょう。
* 罪から解放された信仰に立ち続けるということは、いかに大変なことか、ヨハネもよく分かっていたのです。罪を犯さない者になりたいと願いつつ、外からの誘惑、内からの肉の思いに惑わされ、内からにじみ出てくる罪と戦わされる信仰人生において、罪を犯さない者にして頂いた、それが神から生まれた者だと告白し続けることの大切さをしっかりと霊に刻み込むように語っているのです。
* しかも、ともすれば、日々罪に負けているのではないかと感じさせられる信仰人生において、キリストが守って下さり、サタンに手出しさせないようにして下さっていると言っているのです。
* サタンに手出しをさせないようにとは、具体的にどのようなことを言っているのかを考えて見ますと、サタンにつかまれないように、捕えられてしまわないようにとの意味ですから、どのように惑わし、どのように引き落とそうとしてくるか、そのサタンの働きかけが見えるように霊が鋭くされていって、サタンの手をさっとかわすことができるようにさせて下さると言っているのです。
* それは、信仰生活において、キリストがその歩みに伴って下さり(マタイ28:20)、くびきを共にして下さってリードして下さることによって(マタイ11:29)、キリストに学ぶ歩みをさせて下さり、サタンの手をかわすことができるようになるのです。
* サタンは、世がある間はいなくなることはないし、策略をやめることもありません。しかし、それを恐れる必要もないし、やられることもありません。キリストの永遠のあがないによって罪を処理し続けて頂いている者として、罪を犯さない者にされていることを確信して歩んでいるなら、サタンは手出しができないのです。
(2)神からの者としての霊的身分を確信する
* ヨハネがまとめとして示した第2の真理は、私たち信仰者は神からの者でありますが、世はすべて悪い者の支配の中に置かれている。それ故、この世に存在する者は、神からの者と、サタンの手の中で寝そべっている者との2種類の人々で構成されていると言うのです。
* このことは、3章においては、神からの者と、悪魔からの者とに分けて示しており、4章では、真理の霊によって生かされている者と、迷いの霊に取り憑かれて生きている者とに分け、世にいる者は、この2種類だけであって中間はいないと断言してきました。
* これは、信仰者が霊の目を持つことによってよく見分け、世に惑わされたり、世に取り込まれたりすることのないように、注意を促すために語っていることが分かります。
* それ故、神からの者か、悪魔からの者かどちらかしかいないのだから、福音から少しでも外れる内容を示してくる者は、すべて悪魔からの者による惑わしだと気づく必要があると示しているのです。
* この真理を再び示す必要があるとヨハネが考えたのは、信仰者にとってなくてはならない武器である、偽の教えに対応できるだけの真理把握が十分でない人たちが、キリスト信仰から外れていった人たちの姿を見て動揺を覚え、自分たちの信じている福音が真理だと言えるのだろうかと迷いを覚えだしている信仰者の思いが、まだ解消されていないと感じていたからでしょう。
* あなたがたは、真理の福音を受け入れたことによって、それまではサタンの支配下に置かれ、罪の奴隷とされていて、無意味な人生を送るしかない者であったのに、一転して神からの者にして頂いたという、せっかく神によって与えられた驚くべき身分を、見失ってしまってはならないよと示そうとしたのです。
* 神からの者にして頂いたのは、私たちの価値や、人格の高潔さや、高い能力によったのではありません。ただ神によって示された真理の福音を受け入れたという一点によったのであるから、この福音から外れるならば、その恵みは即座に失われてしまい、与えられた身分も消滅してしまって、サタンの支配下に逆戻りしてしまうということを、私たちはよく知っている。このことをしっかりと心に留めてほしいと言うのです。
* 神からの者にして頂いたという霊的事実、それは4:6の所において語っていましたが、世的雰囲気、世的思い、世的言葉、世的生き方などが全くなくなった者になったということではなく、真理の霊である聖霊が宿って下さったことにより、悪霊の関与を嫌い、世的なあり方をよしとしなくなり、聖霊が神の子にふさわしい生き方をするように働きかけて下さるのを喜び、それに沿って生きていく者に変えられたということです。
* このように、神からの者にして頂いたという事実が、どんなにすごい変化であり、惨めなサタンの支配下にいた者に対して与えられた、とんでもない身分であるかを知ったならば、2度とサタンの支配の下で、罪の奴隷に逆戻りしたいとは思わなくなります。
* このことを、ヨハネは過去においても語ってきたし、この手紙の4章においても触れてきました。それでも再び念を押す必要を感じたのは、余程、霊の目が開かれない限り見えないのがこの霊的身分であるからです。
* と言うのは、自分の中になお残っている世的雰囲気、言葉、思い、生き方などがたえず見え隠れする現実を日々突きつけられ、これでは神からの者だと断言するのは無理だと思わされる人間的弱さを抱えていたからです。
* 最初は、語られたまま素直に信じてきたが、一向に罪から解放されない自分の姿を見せ付けられ、不満と疑いの思いが再び強くなってきて、これで神からの者、天国人だと言えるのかとの思いに揺れ始める信仰者のパターンを、ヨハネは見続けてきたので、ここで念を押しているのです。惑わされてはいけない、あなたがたは神から出た者なのだよと言うのです。
(3)聖霊によって与えられる天的理解力によって
* ヨハネがまとめとして示した第3の真理は、神の御子がこられたことによって、私たちに真実なお方を知る理解力を授けて下さったという事実です。これは、人間の理解力では真実なるお方を知ることができないという前提で語られていることが分かります。
* 神の側で、真実なるご自身を知ることのできる理解力を、御子を遣わして下さることによって私たちに与えて下さり、その理解力を持って真実なお心を受けとめ、信じ、信頼して歩むように導いて下さると言うのです。
* 神の子がこられたという表現は、単に過去においてこられたと言うのではなく、「こられた」という動詞は、すでにやってきて、今もなおここにいて下さるという存在継続状態を表しています。それでは、今はどこにいて下さっていると言うのでしょうか。それは、私たち信仰者の内側に入って下さっており、御心を教え続けて下さっているのです。
* 具体的には、神の御子からバトンタッチを受けた神の御霊が一人一人の内にいて下さっていることを指し(ヨハネ16:7)、キリストの内にあふれている知恵と知識との宝によって(コロサイ2:3)、真実な神の御心を悟る理解力が、御霊によって注がれると言われているのです。
* このことを私たちはよく知っていると言って、これまでも語り、確認し、その恵みを味わってきた。あなたがたもそうであったはずだと、素直に受けとめていた時の事を思い起こさせているのです。
* このように、聖霊によって与えられた理解力を持って、神を知る者にされていき、その状態が真実なる神の中にいる信仰状態であり、それはまた御子イエス・キリストの中にいる状態なのだと言って、話を元に戻し、1:3の所で、「わたしたちの交わりとは父ならびに御子イエス・キリストとの交わりのことである」と示した内容へと結び付けているのです。
* ここに話を結びつけたヨハネの意図はどこにあるのでしょうか。罪を犯さない神からの者は、神の驚くべき愛の支配の中に置かれている最高の祝福された存在であり、それはまた、御子イエス・キリストの支配化に移し変えられ、永遠のあがないの恵みから落ちることのない勝利の信仰人生を送ることができる位置に立たせて頂いていることに気づくように、諭すためであったことが分かります。
* このかたは真実な神であり、永遠の命の源泉ですと言いました。このかたとは神を指しているのか、それとも御子イエス・キリストを指しているのか、意見が分かれる所です。文法的には、直前の主語である御子イエス・キリストのことでありますが、これまでの話の流れから言えば、信実な方として、神を指すとも言えます。
* ヨハネがこの手紙を通して示そうとした内容から言えば、御子イエス・キリストが本物の神であり、永遠の命の源泉であることを明らかにしようとしたと言えるでしょう。一時的に人間イエスに神が宿ったと言うのではなく、キリストは神として来られ、永遠の命を授けるために来られ、神として天に昇られ、聖霊となって再び来て下さった。私たちの信じるキリストはこのようなお方だと言って話を結んだのでしょう。
* これらのことは、人間の理解力で受けとめることのできる内容ではなく、神の知恵と知識とを持ったお方、聖霊なる神が私たちの内に住んで下さり、天的理解力を与えて、霊で受けとめて行くように導いて下さることによってのみ分かることなのです。
(結び)真理の福音を身に着ける大事さ
* ヨハネは、この3つの真理を全体のまとめとして示し、私たち信仰者は、この真理の福音の上に立たせて頂いている者だとの確かな信仰を持って歩んでほしい、そう強く願っていたのです。
* 神が与えて下さった揺るがない真理の土台の上に立って歩んでいるのか、それとも不安定な人間の思いや感覚の上に立って歩んでいるのか、それは天と地ほどの違いがあると言おうとしているのです。
* 手紙の相手先教会の揺れ動いていた信仰者たちの問題点は、福音をその場限りのものとして聞くだけにとどめてしまってきた点にあると言えるでしょう。確かに素直に聞いて信じてきたのですが、その時の励ましだけを求め、それが彼らの身になっていなかったのです。
* だから、思いが満たされなかったり、疑いの思いが出てきたりした時、真理の福音が自分のものになっていないから、真理の福音という道具を用いることによって、自分の心の中に起きてきた不満や疑いや不安をうまく処理することができなかったのです。
* 誰でも聖書の専門家になれるわけではありません。しかし、信仰人生を歩むために必要な真理の福音を身に着けることはできます。いや身に着けなければならないのです。そうでなければ、信仰人生は不確かなものとなってしまいます。
* 聖霊が、私たちの内に与えて下さる天的理解力を本気で求め続ける必要があります。必要に応じて与えて下さる聖霊の助けを信じ、大事な真理の福音を身に着けさせて下さいと真剣に願って向かうことです。そうすれば、自分の思いから出てこようとする不満や疑いはその時々に処理され、喜びと感謝に満ちて歩むことができるのです。
* ヨハネは手紙の形式で結ぼうとせず、最後の勧めとして、「子たちよ。気をつけて、偶像を避けなさい」と言いました。ここでいう偶像とは、真理の福音以外のすべてのものを指しています。偽の教えなどは自分の考えや思いを偶像化していたのです。
* ヨハネは、真理の福音に立てと勧めてきました。それは、真理の福音から外れた偶像信仰に注意せよとの勧めとは表裏一体の勧めだと言えるでしょう。
* 今日の私たち信仰者も、ここから神の語りかけを聞く必要があるでしょう。サタンに引き落とされないように、真理の福音の大事さを認識し、それを味わい、それを身に着ける歩みをすることによって、日々起きてくるすべての事を信仰によって処理し、喜びと感謝に満ちた歩みをしていきたいと思うのです。