(序)肉の処理の仕方を間違うならば
* ヨハネがこれまで示してきたことは、私たちが唯一の真理として伝えてきているいのちの福音だけが、御父との交わり、御子イエス・キリストとの交わりを持つことのできる唯一の手掛かりであり、時空を超えた私たちの交わりの中に入れて頂き、喜びに満ち溢れる道だと言うことでした。
* 闇の中から光の下に移し変えて頂いた者として、神からいのちと光とを受けて、それを反映する者とされ、光の中を歩むならば、なお内に残っている罪をも、御子イエスの血はきよめ続けて下さると言って、肉の処理の正しい仕方を示してきたのです。
* これは、間違った肉の処理の仕方をしている異端の教えが、いかにくだらないものであるかを明らかにするためでありました。
* 異端の教えは、どのような肉の処理の仕方をしていたのか、8節に、自分には罪がないと言っている人々がいたことを取り上げている所から、悟りを得た者は、霊が完全になり、肉体は罪を犯しても霊は罪から解放されているので、もはや罪がなくなったと考え、罪を犯す肉体は、決してきよめられることはないので、切り捨てるという処理の仕方をしていたことが分かります。
* いのちの福音に触れてきたはずの人々が、どうしてこのような教えに心を惹かれてしまったのでしょうか。それは、いのちの福音が、その人々にとって神からいのちと光とが流れ込んでくる、力ある福音とはなっていなかったからでしょう。
* それは、肉の処理の仕方が分からないから、いのちの福音に対して不満を持ち、その信仰に立ち続けることができず、異端の教えの示す肉の処理の仕方の方が、楽に受け入れることができると思うようになって、衣替えしようとしたのでしょう。
* この問題は今日においても、正しい解決を得ていなければ、いのちの福音のすごさが分からなくなり、力のない信仰になってしまうと言えるでしょう。
* 信仰者は、神の子キリストのあがないの恵みを信じることによって罪赦され、罪のない者とされました。しかし、それは飽くまで神の目から見てそのように見て頂いているということであって、霊と体とを合わせた全人格的に言うならば、罪赦された罪人に過ぎないのです。救われてもなお、肉体を持ってこの地上に生きている間は、罪からは解放されないのです。
* 人は、もっとすっきりとした形で救われ、もはや罪を感じなくて済む生き方をしたいと願う心を持っています。それ故、いのちの福音が示す罪の赦し、罪からの救いは、中途半端に感じられて、救われた気がせず、救われた後も、罪と戦い続けることを示す福音に、物足りなさと不満を覚えているのです。
* それ故、異端の教えは、全人格的な救いなどはあり得ない、肉の体は悪だから罪はなくなることはないと考え、悟ることによって霊は救われ、罪のない者にされたと理解することによって、罪から救われたことを自分に言い聞かせ、不満を解消させたのです。
* ヨハネは、その人間的な解消の仕方は、自分を欺いているに過ぎないのだと言って、その考え方の虚しさを説いていくのです。
(1)真理を知らない自分の思いに頼るな
* 罪はないと言い張る異端の教えにはまってしまった人々のことを、どうしてヨハネは、自分を欺いていることになると言ったのでしょうか。自分を欺くとは、それは、自分で自分の思いを惑わし、それが正しいと思い込ませてしまうことです。
* 彼らは、自分を欺いているなどと思いもしていないのに、ヨハネはどうしてそう断言しているのでしょうか。人は、自分で自分にうそをついて騙す必要があるのでしょうか。
* パウロは、ローマ7:15で「わたしは自分のしていることが、わからない。なぜなら、わたしは自分の欲する事は行わず、かえって自分の憎む事をしているからである」と言いました。これは、自分の思いと行動に大きなずれがあって、自分のしていることが分からないと言っているのですが、この所では、自分で思っていることが自分で分かっていない、それが人間だと言っているのです。
* ヨハネは、彼らが罪はなくなったと教えられた教えを受け入れながら、こんなに肉の体において罪を犯しているのに、本当に罪がないと言えるのかという疑問を、完全に払拭することができていなかったのでしょう。だから、何とか自分に言い聞かせて、自分を欺くことによって自分を納得させようとしていると見たのです。
* 人間というのは、正確な答えのある数学のように、人生において何が正しくて、何が意義のあることかすべて分かるわけではありませんから、何とか自分を納得させ、これが正しくて、これが意義のあることだと自分に言い聞かせながら生きているものです。
* 自分の思いが考え付いたことを、自分に言い聞かせて生きるということは、全く見えていない盲人の手引きによって歩むようなもので、その先は穴に落ち込むとイエス様も教えておられます。(マタイ15:14 新24)
* 全く見えていないそんな自分の思いを、自分の人生の案内人にすることほど危ういものはありません。それは幼児に道を尋ねるようなものです。このようなことを、異端の教えに引き込まれた人たちはしていると言っているのです。
* 彼らは、自分で自分を意識的に欺いている訳ではありませんが、何も見えていない自分の思いを頼りにして、それを正しいと思い込もうとすることは、自らの欺きに落とされていることだと言うのです。そのような人の内には真理はないと言います。
* すべてをご存知であり、先を見通すことができ、どんなご計画をも実現させる力を持っておられるお方は、光の根源である神と、そこからこられた御子だけであることを明らかにし、真理を知らない自分の思いに頼らず、たとえ人間の思いから見ればすっきりせず、物足らなく感じようとも、真理なるお方を自分の人生の案内人にし、案内人の示して下さるいのちの福音を自分に教え、言い聞かせる時、自分を欺かない人生を歩むことができると言うのです。
* ヨハネが、異端の教えに引き込まれている人たちや、そのような人たちが起こされることによって動揺している教会の人たちに対して、自分の頼りない思いで自分を納得させたり、言い聞かせたりすることによって向かう向かい方は、真理から遠く離れた、自分を欺く行為であることを分からせようとしたのです。
* 私たち信仰者も、自分の思いで納得させたり、言い聞かせたりする不確かな歩みをするのではなく、真理なるお方から受けたいのちの福音だけを頼りとし、それを真理として自分に言い聞かせて歩もうとすることが大事なのです。
(2)罪を軽く見ようとする人間の浅はかさ
* 自分の頼りない思いで、自分に言い聞かせて、悟りによって、霊は肉体の悪から完全に解放され、罪はないと言い聞かせて歩んでいた彼らの自己欺瞞を示すだけではなく、救われた後も、罪と戦い続けるという、一見、救われた気がしない向かい方ですが、ここでは、いのちの福音を自分に言い聞かせるという真理に従う歩みが、正しい解決方法であることを示していくのです。
* いのちの福音の示す救いは、霊の救いだけではありません。全人格的な救いでなければ、ごまかしでしかないのです。キリストのあがないを信じることによって罪赦され、救われて、罪のない者になったと、神に見て頂く者とされたのですが、肉の体を持った人間には、なお罪の汚れが残ったままであり、肉の弱さから解放されていない状態でしかないのです。このような状態で、どうして全人格的な救いを得ることができると言うのでしょうか。
* ヨハネは、決して肉の体から罪はなくなるとは言いません。いのちの福音による救いが、そんな完璧な人間性への回復を即座に与えるとは教えてはいないからです。
* 本当は、霊の救いにおいても、神の側では、時間を超越したキリストのあがないの故に、神の目には完全な回復を頂いた者として見て頂いているのですが、時間の中に生きている私たち人間の側においては、霊の完全な回復へ向けて、受け取り続けていく信仰人生を歩むことになるのです。
* しかし、肉の体においては、過去と現在における罪の赦しは、キリストのあがないの恵みによって処理済にして頂いているのですが、これから歩む地上にある信仰生活において現すであろう罪は、神の側においては、キリストの故にすでに赦して頂いている罪でありますが、私たちの側においては、その時々に行った罪、思った罪、肉の汚れなど、その都度罪を告白し、罪の赦しときよめとを受け取っていくのです。
* 神の側では、キリストによるあがないによって未来に犯すであろう罪の分まで処理済にして下さっているのですが、人間の側では、自分が気づかされたその度毎に罪を告白し、赦しときよめとを受け取っていくことによって、肉の処理をしていくようにするのが、全人格的救いを頂いた者の現すべき姿だと言うのです。
* なぜこのような複雑な方法を示されたのでしょうか。すべて分かる訳ではありませんが、一つ言えることは、罪を軽く見やすい人間の性質をよくご存知であられる神は、罪深い罪人が、罪の赦しを頂くということがどんなに考えられないことなのか、また、罪を犯した人間が、罪を犯さない人間に回復して頂くということが、どれほど不可能極まりないことであるか、神は、そんな不可能なことを可能にするために、救いの道を切り開いて下さったという真理を教えられるためであったことが分かります。
* 私たち人間は、自分の側から罪を見ようとする甘い心を持っていますが、その見方は、罪をそれほど重いものだと見ようとはしません。しかし神の側から見れば、罪を犯した人間は、全く無価値な、くだらない廃棄物、有害物質でしかないと見ておられるのです。
* そんな罪人の罪を赦し、罪から救うという神の行為を小さく見てしまい、簡単に救って、今後、罪に悩まされない人間にしてくれと要求する浅はかな者であることを知っておられます。
* しかし神は、その要求通りにはされません。救われた後も、罪の思いと行為を現し続ける者でしかありません。それ故、その度に、罪を告白し続けることによって、罪の赦しときよめにあずかることができるという、神の恵み深さを感じ続けなければならない信仰人生を送らせるようにしておられ、喜びと信仰とを持って立ち続けるようにと導いておられるのです。
* 罪を軽く見ようとする心があるから、救われたらもう苦しまなくてもいいように、もっと簡単に罪から解放されるようにしてほしいと要求し、それが満たされないと神に不満を言い、福音がおかしいと言って変えようとするのです。信仰者は間違っても、このような愚かな姿を現すことがないようにと示しているのです。
(3)神をうそつき呼ばわりしている人々
* このような、いのちの福音に込められた神のお心が分からず、罪を犯したことがないとうそぶく人々、福音から離れた人間の、都合のいい罪の判定基準によって罪から解放されたと言い切っている人たちが、更に罪を増し加えて、神をうそつき呼ばわりしていることになるとヨハネは言うのです。
* 言葉で、神をうそつき呼ばわりしていなくても、自分は罪を犯したことがないと言い、罪を犯しているのに、これは、罪とは言わないとごまかしの言い訳をして、平気で罪を重ね、神の前に砕かれようとしない姿は、意志で神をうそつき呼ばわりしていることになるのです。
* 神は罪を激しく憎み、嫌われるお方であります。罪を犯しながら、神との交わりの中に置かれることはないのです。もしそこに罪の赦しときよめの道が用意されていないなら、人間は誰一人神との交わりを持つことはできず、人間性を回復することはできません。
* 神が、罪を激しく嫌われると言うことは、罪を犯していることを認めようとしない者を赦されるはずがないと言うことです。
* これは、罪が何かと言うことが分かっていないと言うか、間違って受けとめているから、罪を犯したことがないと言えるのです。神は、何を罪だと判定されるのでしょうか。パウロは、「肉の欲にしたがって日を過ごすこと、肉とその思いとの欲するままを行うこと」(エペソ2:3 新302)だと言いました。
* すなわち、肉の体と思いとをもって生きることそのものが罪であり、神の怒りの対象となっていると言うのです。そのような、神の罪判定に異議を唱え、これは罪とは言わない、神の罪判定は厳しすぎると言おうと、神は罪の汚れを赦されず、激しい怒りを持って臨まれるのです。
* ただ、その激しい神の怒りを避けることのできる唯一の道が、キリストと共に死に、キリストと共によみがえる歩みだけであって、それでも罪を犯さない歩みができるわけではないから、罪を認め、告白しつつ、赦しを頂き続けるという光の中を歩むことが大事になってくるのです。
* ヨハネは、罪を犯したことがないという人たちの内側には、神の言葉はないと言いました。すなわち、いのちの福音がもはや内に宿ってはおらず、全く別物にすり替えてしまっており、神のお心よりも、自分たちの思いの方を重んじるようになったという、神への敵対という大きな罪を犯すようになってしまっていると言ったのです。
* 神のお心よりも、自分の思いの方を優先するようになったならば、もはや福音の恵みにあずかる道から完全に遠ざかってしまっている状態だとして、立ち帰ることのない道へと突き進んでしまったことを示しているのです。
* 今日の信仰者においても同様で、神のお心よりも自分の判断、思いの方を優先するようになったならば、自ら、サタンの差し出している甘い蜜に手を出して、とりこにされてしまう罠に落ち込んでいくのです。
* ヨハネは、彼らに警鐘を鳴らしているというよりも、この道の先に待っているのは滅びでしかないことを示して見放しているのです。罪を軽視することの恐ろしさを示さずにはおれなかったのでしょう。
(まとめ)
* 神の思いよりも、自分の思いの方を優先し、肉的に罪を処理する方法を取ることによって、罪の呵責から解放されたいという思いを納得させ、自分に言い聞かせることによって、内に残る疑問を振り払おうとして、罪のない者となり、もはや罪を犯すことはないと言い切っていた人々の浅はかな考え方を指摘してきたヨハネは、正しい罪の処理の仕方をしなければならないことを示してきたのです。
* いのちの福音からはずれた向かい方をするならば、どんなにいい解決方法に見えたとしても、それはサタンの差し出している甘い罠だと言うことに気つかなければなりません。
* 神が、罪をどれほど憎み嫌っておられるかを知り、再生不可能な罪人を、何としてでも再生させようとして、驚くべきリサイクル事業を展開して下さった神によるいのちの福音が、人間の思いでは納得し難い方法だと感じられようと、物足りなさが感じられる方法であろうと、すべてを考えられた上で、最良の方法として神が示して下さったものに対して、人間は、文句を付けることができる立場にもないし、権利もないのです。このことを肝に銘じておく必要があります。
* 神のお心だけが、人間性をリサイクルする事業を実現できる唯一のものであることを信じ、自分の思いをそこに少しも挟むことなく、キリストによって与えられた全人格的救いを受け取り続けていく信仰者としての歩みを突き進んでいきたいと思わされるのです。