(序)罪問題の処理の難しさ
* ヨハネが取り扱ってきたいのちの福音の主題は、御父との交わり、御子との交わり、時空を超えたわたしたちの交わりについてでありました。
* 光なる父との交わりに入れられるためには、闇の中から光の中へ移し変えられる必要があるだけではなく、光の中へ移し変えられても、交わりを妨げるものとして付きまとう罪の問題が残り続けるので、これを解決する手引きを示す必要があったのです。
* たちの悪いことに、異端の教えは、この罪の問題を楽に考え、キリストによる罪からの救いが、全人格的な救いではなく、霊の救いに限定することによって、罪の問題から目を逸らせ、肉体の現す罪は、肉体が悪だからであって、それは当然犯すものであり、気にとめる必要がないと考えて、罪の問題をはぐらかし、神の目から見れば罪があふれているのに、罪のない者だとうそぶいていたのです。
* その誤りを指摘し、それはいかに、神の御心を無視するものであるかを示し、いのちの福音が示している、光なる父との交わりに程遠い考え方であり、自分さえ欺くくだらない教えであることを明らかにしてきたのです。そして、罪を犯したことがないなどと決して思ってはならないと言ってきたのです。
* それでは、光の中を歩むと言っても、罪から解放されることがないまま、生涯罪に悩み続けなければならないのでしょうか。
* 1:7の所では、御子イエスの血が、過去、現在、未来のすべての罪から、すでにきよめて下さっているのだから、素直に罪を告白することによって、罪が赦され、すべての不義から私たちをきよめて下さっていることを確認して喜び、悩む必要がないと言って勧めてきたのです。
* しかしそれなら、その度毎に罪を告白してさえいるならば、すべての罪が赦され、きよめられていることを確認できるので、罪の処理ができていることになり、罪はいくら犯してもいいと言えるのでしょうか。
* 弱さを持った人間にとっては、それは仕方のないこととして考えればいいのでしょうか、このような疑問に答えるために、私がこれまでのことを書いてきた。それは、あなたがたが罪を犯さないようになるためだと言ったのです。
* これは、信仰者は光の中を歩むようになっても、肉体を持ってこの地上に置かれている限り、罪を犯すという光なる父との交わりを破壊する姿を出さない歩みができないので、その度毎に罪を告白し、罪の赦しときよめとを受け取っていかなければならないと言ってきたのに、罪を犯さないようになってほしいから勧めてきたというのは、矛盾ではないのでしょうか。
* ここに罪問題の処理の難しさがあるのです。パウロはこの戦いをUコリント5:4で語っています。「この幕屋(肉体)の中にいるわたしたちは、重荷(罪の問題)を負って苦しみもだえており、それを脱ごうと願うからではなく、その上に着ようと願うからであり、それによって、死ぬべきものがいのちに飲まれてしまうためである」と言いました。
* ヨハネが手紙を書いている相手先教会の信仰者たちも、この問題に四苦八苦しており、ある人たちは横道に逸れて、人間的解決を得ようとしていたのです。
* このことは、今日の時代に生きる私たち信仰者においても避けて通ることができない事柄ですから、今日はその一部を共に考えていきたいと思うのです。
(1)神による何重ものあわれみと助け
* それではまず、「あなたがたが罪を犯さないようになるため」にこれまでの勧めをしてきたと言っている、この罪とは何を指しているかということから考えてみる必要があるでしょう。
* これまで語られてきた内容から考えますと、光なる父との交わりに生きることが、神に造られた人間としてのあるべき姿でありますが、神を神としてあがめない罪の思いが入り込んだことにより、光を避ける闇の部分を持つようになってしまい、その闇から出てくる思いと言葉と行いによって世的な生き方をするようになり、罪に生きるようになってしまったのです。
* 確かに、闇から出てくる思いと言葉と行い一つ一つも罪なのですが、言わば、それは罪の結果であって、その根本原因は光なる父を避ける闇の部分だと言えます。
* そこでヨハネが取り上げている罪を、「罪を犯さないようになるため」という言葉から考えて見ますと、罪の根源である光なる父を避ける闇の部分のことを指していることが分かります。
* なぜなら、罪の結果として、闇の部分から出てくる思いと言葉と行い一つ一つが出てこないようにという内容が、これまでの勧めで示してきたとは考えられないからです。
* 永遠性を持った御子イエスの血が、時間を超越した過去、現在、未来すべての罪を赦し、きよめて下さったので、神の目から見れば、私たちの罪はすべて処理され、闇の部分がなくなり、光なる父との交わりに何の支障もないようにして頂きました。
* しかし、肉なる体を持ち続けているこの地上での歩みは、闇の部分を残したままであり、パウロが言うように、この幕屋を脱ごうと必死にもがいているのです。死ぬべきものの上に、いのちを着て、死を飲み込んでしまうことはたやすいことではないからです。
* それ故、その戦いは、この地上にある間は続き、死ぬべきものの上にいのちを着ていく歩みをしようと向かわなければならないのですが、罪の根源である闇の部分はどうなっているかと言いますと、光なる父を仰ぎ、父との結びつきを喜び、光の中を歩んでいる間は、キリストのあがないによって闇の部分は処理されており、罪のない状態にして頂いているのです。
* しかし、キリストのあがないの恵みが効力を発揮することができるのは、信仰者がキリストのあがないの恵みを信じ、父との結びつきを重んじ、光の中を歩んでいる時だけであります。
* それ故、主の導きや助けを疑い出し、父との結びつきを軽く考えるようになり、光の中を歩むことをしなくなったならば、せっかく信仰を堅く保っている時には、闇の部分は処理して頂いていたのに、その効力が無効となり、闇の部分が復活するのです。
* ヨハネが、罪を犯さないようになるためと言ったのは、別の表現で言い換えるならば、キリストのあがないの恵みを無効にしないように、あるいは、いのちの福音に対する信仰を落とさないようにという意味であることが分かります。
* キリストのあがないの恵みをそのまま受け取って、罪を犯さない状態が続くように、信仰に揺らぎがないことが重要になってくるのですが、サタンの惑わしを受け続けるこの地上における歩みでは、この信仰が揺らぎ、父との結びつきが軽くなり、光の中ではなく、元の闇の生き方に思いを向けてしまったりすることが起きてくるのです。
* だからヨハネは、「もし、罪を犯す者があれば、父のみもとには、わたしたちのために助け主、すなわち、義なるイエス・キリストがおられる」と言いました。信仰を持ってもなお肉の弱さを持ち続けているが故に、神に信頼し切れず、サタンの惑わしによって平安を奪われ、心落ち着かず、神への疑いとつぶやきと不満の心が出てきたりすることによって、キリストのあがないの恵みが一時的にではあるが、効力を失い、闇の部分をよみがえらせてしまうのです。
* しかし根底から神を疑い、神に背を向け、神に反逆しようとしているわけではないので、そのような信仰の揺らぎが、ここでヨハネの言う「もし罪を犯すなら」に当たり、父のみもとには助け主キリストがいて下さるので、その罪をあわれみの心を持って一時的に見逃して下さるようにと、とりなして下さることによって、父との交わりが途絶えないようにして下さると言われているのです。
* 人間の弱さを知り尽くした、神による何重ものあわれみと助けが込められた救いの恵みだと言うことができます。人間の側も、一度信じたら、2度と揺らぎがないのであればもっといいのですが、信仰を持っても、罪と世が染み込んだ人間の弱さが残っているので、どうしてもこの揺らぎが出てくるのです。
* けれどもそれをさえ、交わりの断絶にならないようにと、神の側で手を尽くして下さっていることを思う時、ただただ感謝せずにはおれないのです。
(2)助け主キリストのとりなして下さる範囲内
* ここで、罪を信仰の揺らぎとして見たのですが、どこまでの揺らぎであれば、父との交わりの断絶にならない罪として、助け主キリストがとりなして下さるものだと言えるのか、また、助け主キリストはどのようにその罪を処理して下さるのか、そのことを理解している必要があります。
* まず揺らぎの度合いから考えてみることにしましょう。これまでのヨハネの表現から考えてみて、闇の中を歩いていた私たちが、光の中に移し変えられ、光なる父との交わりに生きる者として頂いたことを喜び、光の中を歩く生き方をする者にされたのが、信仰人生であると言うことでした。
* けれども、光の中を歩むようになったと言っても、神の目から見て、闇が処理済の、罪のない者として見て頂くことができるようになりましたが、闇の部分がなくなったわけではなく、肉体を持ってこの地上に生きている限りは、せっかく父との交わりを持つことができたにもかかわらず、罪を犯して、その交わりを壊そうとする信仰の揺らぎができてくるのを完全にとどめることができないのです。
* この信仰の揺らぎを放置していると、その揺らぎは徐々に大きくなっていって、サタンの働きかけを受けやすくなり、主を疑い、主への不信を募らせていき、信仰の喜びが消えていき、回復できないものになっていくのです。
* 異端の教えの方に走っていった人たちも、最初から神の示されたいのちの福音に激しく盾を突き、反旗を翻したわけではありませんでした。
* 最初は小さな揺らぎから始まったのでしょう。その揺らぎを回復しないで放置し、他の教えの方に目を向けることによって、回復させようとしなくなったことによって、その揺らぎは決定的なものとなって、ヨハネの表現で言うならば、闇の中に逆戻りしてしまったのです。
* それでは、わずかの信仰の揺らぎと、父との交わりを断絶してしまうほどの揺らぎとの違いはどこにあるのでしょうか。元は同じなのです。後者は、出てきた信仰の揺らぎを回復させて頂く道を選び取らず、内側に起きてくる肉的不満、疑い、不信を放置する方を選び取ったのです。
* ということは、信仰者は、闇の部分が残っているが故に、出てくる信仰の揺らぎからのがれることはできず、それを正しく処理しながら、前進していくか、放置してはずれていくか分かれるのです。
* それでは、どの程度の揺らぎであれば、助け主キリストのとりなしによって、父との交わりの断絶にならないものだと言えるのでしょう。具体的な一つ一つの肉的な不満の程度、疑いの程度、不信の程度を示すことは無理でしょう。
* それ故、別の面から言うならば、光の中を歩く中で起きてくる信仰の揺らぎは、すべて助け主キリストのとりなしによって、父との交わりが断絶することがないようにして下さる範囲内のものだと言えるでしょう。
* けれども、神に対する肉的不満、疑い、不信をとどめようとせず、せっかく光の中に移し変えられ、光の中を歩くことができるように導かれたのに、闇から出てくる思いと言葉と行いに引っ張られ、闇の中を歩く向かい方をするようになってしまえば、それは助け主キリストのとりなしの範囲外のものであるから、父との交わりが断絶してしまうのです。
* それ故、ここで示していることは、罪を犯さないようになってほしいとの表現は、信仰の揺らぎをなるべく最小限でとどめるように、揺らぎをできる限り早く回復するように語っている表現であることが分かります。
* そしてそれが、助け主キリストのとりなして下さるあわれみの範囲内を生きることになり、恵みを無駄にしない歩みをすることになると言っているのです。
(3)弁護者キリストのとりなし方
* もう一つのことは、助け主キリストは、どのように私たちが犯した罪を処理して下さるのかを考えて見ましょう。
* ここでヨハネは、キリストのことを助け主と言っています。ヨハネによる福音書では、助け主は御霊になっています。14:16を見ると、そこには別の助け主を送ると言っていますから、キリストが第1の助け主であり、御霊は別の助け主と呼んでいることが分かります。
* この助け主と訳されている言葉は、弁護者という意味を持った言葉ですから、本人に代わって傍らに立ち、弁護を引き受けるという形で助けて下さると言うのです。
* それでは、私たちが光の中を歩く中で罪を犯し、信仰が少し揺らいでしまった時、実際にイエス・キリストはどのように弁護して下さると言うのでしょうか。
* 2節で、わたしたちの罪のためのあがないの供え物となって下さったと言っています。もちろんこれは、十字架上で神への供え物としてご自身を一度限りささげられた、キリストのあがないのみわざのことを指しているのですが、キリストが昇天なさって60年以上経ったこの時、今では父のみもとにおられるキリストのこととして語られているのですから、その意味で考えてみる必要があるでしょう。
* 考えられることは、光の中を歩む上で、信仰に揺らぎが出てしまった時、イエス・キリストは御父の下で私たちのことを弁護し、「父よ、私がすでにあがないの供え物となったのですから、それに免じてお許し下さい」とその度毎に、永遠に有効なあがないの供え物を引き合いに出して、とりなして下さっているとヨハネはイメージして語っています。
* しかも、このイエス・キリストは義なるお方だと言うことにより、ただ何でも赦してやって下さいととりなして下さるというのではなく、「彼らは値なしに神の恵みにより、キリスト・イエスによるあがないによって義とされるのである」(ローマ3:24 新237)とパウロが言うように、信じる者を義として下さるお方がとりなして下さっていることを示しているのです。
* この天上の光景をヨハネと共に、私たちも霊の内に思い描いて、私の弱さを承知の上で、その度毎にあがないの供え物となられたご自身のみわざを引き合いに出して、とりなし続けて下さっているキリストを思い浮かべる必要があるのです。そしてこれが、私たちが犯した罪を処理して下さる弁護者キリストのとりなし方だと言うのです。
(まとめ)
* ヨハネは、このようなとりなし手、弁護者キリストのことを思い浮かべ、ただ私たちの繰り返して犯す罪のためばかりではなく、全世界の罪のためにあがないの供え物になって下さったとわざわざ言い換えているのはなぜでしょうか。
* これは、キリストが、ご自身をあがないの供え物としてささげられたその有効性は、時間的に、永遠に有効であるというだけではなく、光の中を歩く全世界の人の罪を処理する能力を持った驚くべきものであることを示そうとしたのでしょう。
* 私たちが、光なる父との交わりに生き続けることができるように主は願って下さっているのですが、私たちは肉の弱さを持ち続けているが故に、信仰が揺らぎやすく、父との交わりを壊そうとする要素がなくならないのです。
* けれども、御父の下にあって、あがないの供え物となって下さったという永遠の真実を引き合いに出し、とりなし続けて下さるということは、これほど心強いものはないと言えるでしょう。
* それ故、自分の弱さに嘆き続ける必要はなく、とりなして下さっているキリストによって父との交わりが保たれ、神から流れてくるいのちと光にあふれていることができるのです。