(序)楽信仰に心を奪われた人たち
* 人間というのは、苦しみ、戦い、困難、つらい事柄などから早く逃れて楽になりたいという思いを持っています。ともすれば信仰者も、信仰を持つことによって楽できるのではないかと期待しています。
* これは、福音という言葉の持つ錯覚だとも言えます。福音とは、良きおとずれという意味ですから、自分にとって良い思いを与えてくれるものとの意味だと受け取ってしまいやすいのです。確かに良きおとずれでありますが、それは、私たちの肉の思いを満たしてくれる良きおとずれという意味ではなく、神の前に失った人間性の回復を告げるという意味での、霊的な良きおとずれの意味なのです。
* この錯覚から、肉的に良いと思えるもの、それは自分にとってつらく、厳しいことからの解放、楽させてくれる福音だと期待するのです。しかし福音とは、神の前に失った人間性を回復させようとされる神の愛の思いから出た真理ですから、それは、人間にとって祝福であると共に、厳しくつらい面をも併せ持っているものであることを覚悟する必要があるのです。
* ヘブル書の著者は、このような楽信仰を持っている甘さを持つ人々に対して、「あなたがたは、罪と取り組んで戦う時、まだ血を流すほどの抵抗をしたことがない」と戒めました。(ヘブル12:4 新356)
* 真理は楽できるものではなく、そこには、戦いが伴ってくることを覚悟していなければなりません。祝福を受け取ることを当たり前と思わず、神の側でどれほどの大きな犠牲が支払われた結果によって実現したものであるかを受けとめ、真理に沿って生きていく厳しい道のりであることを甘んじて受け入れていく必要があるのです。
* 異端の教えに引っ張られて行った人たちは、この楽信仰に心を奪われ、罪と取り組んで戦うことを避けたのです。確かにそれは、彼らに取って肉的な良きおとずれとなり、罪について考えなくても良くなり、楽してキリストによる救いだけを味わえると考えたのです。しかしいくら楽でも、真理でなければ、それは無意味なゲームに過ぎず、神の力による救いとはならないのです。
* 「真理はあなたがたに自由を得させる」(ヨハネ8:32)と言われていますが、ここで言われている自由とは、罪からの自由のことです。罪からの自由を与えて下さるのですが、罪との戦いから解放させて自由にして下さると言いません。
* ヨハネは、これまで光なる父との交わりの中に入れて頂いたことを喜び、光の中を歩く生き方をするには、難しい罪問題に取り組み、どのように処理していかなければならないかを示してきました。
* 根本的な罪からにじみ出てくる、結果としての肉の思いと言葉と行い一つ一つの罪について語ってきたのではなく、人間の内側に残っている闇の部分が作り出す信仰の揺らぎを、どのように処理していく必要があるのか、弁護者なるキリストのとりなしによって強力な助けを得て、勝利の信仰人生を歩むことができるかについて学んできました。
* しかしヨハネは、楽信仰の思いの誤りを指摘するだけではなく、罪問題に取り組みつつ光の中を歩み、父なる神との交わりを壊さない、信仰の揺らぎが終息していく信仰的生き方を確立してほしいと思っていたので、異端との違いを示しつつ真理に生きる歩みについて明らかにしていこうとするのです。
(1)偽りの道と真理の道の違い
* 最初に、いのちの福音のことを、なぜ戒めと表現したのかを考えてみることにしましょう。これまで、いのちの福音として示してきたその内容の中心は、御父との交わり、御子との交わり、時空を超えたわたしたちの交わりであり、その深い霊的結合による、神のいのちと光との注ぎであるということでした。
* しかしそれは、いのちの福音を受け入れるということが、人間の側においては、いのちの福音に沿って生きていかなければそれを受け取っていくことができないという、積極的行動が伴うことが求められていることを暗示しようとしたと考えられます。
* 神のお心であるいのちの福音をそのまま受けとめ、いのちの福音に沿って生きていく姿勢を現すことが、神からのいのちと光とが注がれる条件であったのです。
* すなわち、ヨハネにとって神を知るとは、頭で知ることではなく、神のお心を信じて受け入れ、そのお心に沿って従う歩みをしていくという行動まで伴っているものであったのです。
* それ故3節で、「わたしたちが彼の戒めを守るならば、それによって彼を知っていることを悟るのである」と言っているのです。私たちにとってなくてはならないいのちの福音を、神の戒めとして守り、御心に沿って歩んでいく姿勢を表すことができるならば、それが神を知っていることの保証となると言っています。
* ヨハネがこのことを強調したのは、異端の教えに引き込まれた人たちは、聞いて悟るということまではできても、それが自らの生活の中に反映されていくように、戦いがあっても従っていくという行動まで取ろうとはしなかったのです。それは楽信仰を求めていたからです。
* 分かりやすい例として、礼拝について考えて見ましょう。礼拝とは神に仕えることであります。すなわち、礼拝とは、神をほめたたえ、神に用いられるように自らを差し出して、神があがめられるために行動することが礼拝なのです。そのような礼拝をする者を神は励まし、強め、押し出して下さるのです。
* しかし礼拝の意義が分かっていない人は、神に仕えることが中心なのに、自分に仕え、自分を励まし、力づけてくれる話を求め、自分にとって益となる交わりを求めることだけを考え、それ以上の行動は伴わない人が多いのです。これは、受けとめ方が本末転倒しているのです。神をあがめ、神の栄光を帰す姿勢で、礼拝に臨んでいないならば、それは礼拝とは言いません。これ以外の事柄も同様だと言えるでしょう。
* だから、4節でヨハネは、神を知っていると言いながら、神の戒めを守るという、御心に沿った歩みを積極的にしていこうとしない人は、偽り者であって、神を知らない者、真理を持っていない者だと言ったのです。
* 御心に沿った歩みとは、光の中を歩み続けるために、その妨げとなる罪の問題と本気で取り組み、父なる神との交わりを何よりも大事にし、いのちの福音の中に自分の考えを入れ込まず、神のお心のみが救いであることを確信して、楽信仰の思いを退け、光の子として歩み続けようとすることです。
* 異端に走った人たちは、楽信仰の思いから抜け切れず、信仰のいい所取りをしようとしたことが、彼らの偽りとなったのです。信仰とは、自分にとっていいと思える所だけ取ろうとする、いい所取りの向かい方はないのです。そこにセットとしてついている戦いも、本気で向き合わなければならない問題も、つらく、苦しい道を通されることも避けることはできないのです。
* ヨハネは、これを偽りの道と、真理の道という2つの道として示し、一方は闇の中を歩む生き方であり、もう一方は光の中を歩む生き方であると、その大きな違いを明らかにしているのです。
(2)神の内にある状態の素晴らしさ
* ヨハネは、2つの道の違いを示した上で、神の戒めを守って生きていこうとする真理の道を歩んでいる者に対して励ましの言葉を続けています。
* 5節では、神の戒めを守ると言わないで、神の言葉を守ると言い換えています。これは、いやいやではなく、心の底から喜んで神の御心を受け取り、その御心に沿って歩んでいこうとする者の姿を描こうとして、言葉を言い換えているのでしょう。
* そのような、御心に沿って歩んでいこうとする思いは、肉の思いでは持てるものではありません。なぜならその歩みは、良いことばかりではなく、併せて困難、苦しみ、戦いをも飲むように求められているからです。
* しかし、御心に沿って歩んでいくことが、失われた人間性回復の唯一の道であり、神からいのちと光とが注がれる注入口なのです。なぜそのような厳しい道を用意されたのか、深い御心すべてが分かるわけではありませんが、それが神の愛の実現として示された道なのです。
* それ故、肉の思いでは、このような厳しい御心に沿って歩んでいこうとする思いは起こされることはないので、御心に沿って歩もうとしている姿を現そうとしているということは、人間性を回復させ、最高の信仰人生を送らせようと導いておられる神の愛が完成されていると言えるのです。
* もちろん、完璧に御言葉を守ることのできる人間がいるわけではありません。神が求めておられるのは完璧さではなく、肉の思いでは起きてこない霊の思いによって、人間性の回復というものが、人間にとって最上目標であることを悟り、父なる神との交わりによって、それが頂けることを確信して歩み始めたならば、神の側では完全なものと見て、受け入れて下さるのです。
* 実際には、終わりの日が来て、世が清算され、御国に入れて頂く時に完成するのですが、神の側では、信仰者が霊の思いで、御心に沿って歩み始めたならば、測り知れない愛を持ってご計画なさったことが、そこに実現したものと看做して下さっているのです。
* それ故、その状態にある者を、神の内にある状態だと言い換えているのです。これは、旧約から新約に至るまで、神が語り続けておられることの実現だと言うのです。「あなたがたは、わたしの民となり、わたしはあなたがたの神となる。」(出エジ6:7、エレミヤ30:22、ゼカリヤ8:8、Uコリ6:16他)
* ヨハネは、『あなたがたは神の内に住まわせて頂き、神からの恵みを受け続け、神の守りの内に置かれて、神のものとされている。神もあなたがたの神と呼ばれて恥じられることはない』と言って、神の内にある状態の素晴らしさを味わいつつ生きる者にされていることを示しているのです。
* 神の内にあることの素晴らしさを知っていたヨハネだからこそ、その力強い証しとして語っているのが感じられます。それはまた、神の内にある素晴らしさを知ることができない異端の教えの虚しさを、訴えようとしていることが分かります。
(3)終わりの時と、今の時を2重写しで見る
* そして6節において、神の内に置かれていると言う者は、キリストが歩まれたように、その人自身も歩くべきであると言いました。キリストが歩まれたように歩むとはどういうことか、あえてこのような難しいと思える表現を使ったのはなぜか、そのことを考えてみる必要があります。
* キリストが歩まれたように、一歩一歩ならって歩むという意味だとは思えません。そんなことは不可能だからです。キリストがどのような思いを持って、どのように歩み通されたのかと言うことが考えられているのでしょう。
* キリストは、光なる父との深い交わりの中で、父からこの地上においてなすべき務めが与えられていましたから、その与えられた務めとして、使命を果たすことに全力を注がれたことが分かります。
* その使命とは、イエス様が語っておられますが、「人の子がきたのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、また多くの人のあがないとして、自分の命を与えるため」(マルコ10:45 新69)だと明らかにしておられます。
* ヨハネは、このことを思って、キリストが光なる父との交わりを重んじ、神に仕え、人に仕え、そのために自分のいのちを差し出すことによって、使命を全うされたように、あなたがたも光なる父との交わりを重んじ、神に仕え、人に仕える者として置かれており、そのために自分を差し出して向かうという、使命を果たすことに全力を注ぎなさいと勧めているのです。
* 罪赦され、闇の中から光の中へ移し変えられた者と言っても、闇の部分がなくなったわけではなく、この地上にあって罪と戦い続けなければならない信仰者が、キリストが歩まれたような、与えられた使命を果たすことに全力を注ぐことができるのでしょうか。また自分を差し出して神に仕え、人に仕えることができるのか、それが可能なのかと考えさせられます。
* ヨハネが記す表現の難しさがそこにあります。神の内に置かれた者であるならば、当然そのように歩くことができるはずだとでも言っているかのように聞こえるのです。現実には、肉の思いを絶えず出し続ける弱い者であり、キリストのような使命を果たす覚悟と、いのちを差し出す完璧な犠牲心など望めないでしょう。
* それでは、なぜこのように言うのでしょうか。父との交わりがより完成へと進んでいくならば、キリストが歩まれたように歩くことができるようになっていきます。しかし、その完成は、終わりの日が来るまでは待たなければならないのですが、神の側においては、父なる神との交わりがなされるようになった時点で、終わりの日に用意されている完成を受けている者と看做して下さっているのです。
* それ故、現実には完成していない者、弱さを持ち続けているが故に、キリストのような使命を果たす覚悟と、いのちを差し出す完璧な犠牲心など持つことはできないのですが、終わりの日の完成をすでに受け取っている者と看做して頂いていると、ヨハネは霊の目で見ていたのです。
* 言わば、終わりの時と、今の時を2重写しで見ることができる信仰の目を持っていたから、このような表現で語っていると言えます。
* ということは、ヨハネのここでの勧めは、神の内に置かれた者として、父なる神との交わりを重んじている者は、キリストのような使命を果たす覚悟と、いのちを差し出す完璧な犠牲心を持っている者とされていると確信して進めと言っているのでしょう。
* 現実の不完全さに囚われる必要はなく、父なる神との交わりをより大事にしていく、霊の思いが起こされ、キリストが歩まれたように歩みたいという思いが起こされているならば、それは、終わりの日の完全を望みつつ、今を生かされているという素晴らしい生き方となることを示しているのです。
(まとめ)ヨハネが示す2重写し技法
* ヨハネは、異端の教えが、人間の内側に残っている楽したい思いを引き出し、楽信仰に落ちていく偽りの怖さを持っていることを示し、真理でなければ何の意味もないことを明らかにしてきたのは、異端の教えの方に走って行った人たちに示すだけではなく、すべての信仰者の心の中にも、なお楽信仰へと引っ張られる要素が残っていることの怖さを警告する必要があったからです。
* 楽することを求めず、いのちの福音と本気で向き合い、罪問題について血を流すほどに取り組み、父なる神との交わりを重んじる生き方を確立していく歩みに向かおうとしないならば、神の戒めを守っている者と看做されず、神を知らない者となります。
* イエス様はこう言っておられます。わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけがはいるのである」と。(マタイ7:21 新10)
* 主を信じている振りをして、自分の思いを重んじ、真理と向き合おうとしない者は、終わりの日に主から『はっきり言うが、わたしはあなたがたを知らない』と言われるのです。(マタイ25:12)
* 確かに私たちの信仰は完璧なものではなく、完全に御心に沿った歩みができるわけでもなく、完全な形で、神の内にいるとは言えません。ましてキリストが歩まれたように歩むことなどできるはずがありません。
* にもかかわらず、神の側においては、父なる神との交わりを重んじて生きるようになった時から、すでに完成している者として見て下さり、神にある者、キリストが歩かれたように歩くことができる者と見て頂いているのです。
* 現実にはまだ、父なる神との交わりが完成していないが故に、弱さ、無知、不十分さなどが妨げとなって、神の内にある者とは言い切れないのです。
* けれども、ヨハネが示す2重写し技法で見る生き方ができる者になることによって、神の内にある者とされていることを大胆に告白することができるのです。