(序)光の中を歩く者としての大事な第2の事柄
* この箇所は、突然全く別の勧めをし始めたかのような唐突な感じがする箇所ですが、ヨハネの思いの中では、前後の深いつながりがある内容として説いているのです。
* というのは、1:7において、光なる父との交わりの中に入れて頂いた私たち信仰者は、光なる父と結び合わされることによって、上から注がれるいのちと光とを受けて、光の中を歩むようにされた者として、第1に、光の子とされた者同志、深い交わりを持つようにされたという事実に触れ、第2に光の中を歩む者として、罪問題の処理をちゃんとしていることが重要であることを提示していました。
* 罪問題の処理が正しくなされていない相手先教会の現状、偽りの教えに惑わされている現状などを踏まえて、この事柄の方が緊急の課題だと考えたヨハネは、1:8からそのことについて取り上げてきたのです。
* その後、もう一つのこととして、私たちの互いの交わりについて述べていこうとしているのが今日の箇所です。これも、光の中を歩むように導かれた者にとって重要であり、神の深いお心にかなう事柄だから、神からの戒め、神のお言葉として示すと言うのです。
* ヨハネは、これまでの所において、本物であるいのちの福音を、真理として受け取っていくことによって、今私たちが持っている交わりの中に、あなたがたもあずかることができるということを明らかにし、その交わりとは、御父との交わり、御子との交わり、時空を超えた私たちの交わりという、驚くべき3重の交わりを持つ者にされたことを示してきました。
* これは、いのちの福音を通して与えられた交わりですから、神による一方的な恵みによって、その交わりの中にあずからせて頂いたものです。言うならば、私たちの意志によって持ったものではなく、神からの一方的なプレゼントとして与えられたものです。
* 御父との直結、御子との直結によって、闇の存在でしかなかった者の内に、神からのいのちと光が注入され、内からその輝きがにじみ出てくる者へと造り変えられたのです。この直結信仰が、信仰の根本であることは言うまでもありません。
* 御父との直結、御子との直結によって、それまでは別々の存在でしかなかった一人一人が、御父と御子とに結び合わされることによって、自然と間接的に結び合わされた者とされ、時代を超え、場所を超えた、時空を超えた私たちの交わりを持つようにされたと見てきました。
* しかし、時空を超えた私たちの交わりと言うのは、直接的な形がないが故に、育っていくという要素がありません。その要素を持っているのは、その一部である、今の時、今の場に集められた群の中における交わりです。ヨハネはこれを取り上げ、光の中を歩む者として、互いの交わりにおける兄弟愛の重要さを示そうとしているのです。
* 相手先教会は、これまで聞いてきているはずなのに、この大事さが分かってはおらず、好き嫌いの激しい肉の思いのままに人と向き合って、主によって結び合わされている兄弟にされているという意識が薄く、肉の思いで人を見、兄弟を憎んだり、避けたり、無視したり、平気でしていたのでしょう。
* そのことが、いかに光の中を歩く者の妨げとなっているかを示そうとしているのです。今日の私たちにおいても、兄弟愛を重んじることが何を意味するか、考えてみる必要があります。
(1)古くて新しい戒め
* ヨハネは、戒めを書き送ると言いながら、その戒めの内容についてはなぜか明言していません。ここでは、それは、あなたがたが初めて聞く新しい戒めではなく、すでに聞いてきた戒めをここで再び取り上げると強調しているのです。
* しかも、すでにあなたがたが聞いてきた戒めだから古いとは言えるが、聞いても守られてこなかったので、今初めて語る新しい戒めとして、あなたがたに提示すると回りくどい表現で言っています。
* これは、神による戒めは、聞くことは当然であるが、聞くだけではなく、行わなければ戒めの意義は消えてしまう。あなたがたはすでに聞いたはずなのに、頭だけでとどめ、素通りさせてしまって、行うことの大事さを学び取ってこなかった。だから、今新しい戒めとして聞き、そして行ってほしいというためであったことが分かります。この戒めとは、神やキリストによって命じられていることです。
* 人間というのは、いくら大事な戒めだとして教えられても、自分の側でそれほど大事だと思えないなら、聞き流してしまいやすいのです。それは神が、今必要だと示されても、自分の側に自分の思いを置いて聞いているから、神の豊かなお取り扱いを十分に受けることができないのです。
* けれども神は、何度も働きかけて下さり、神が取り扱おうとして下さっている時、すなわち、神の側に自分の思いを置いて聞こうとする時には、新しい戒め、新しい御言葉として、私たちを造り変える力として働くのです。
* それ故ヨハネは、本当に神のお取り扱いを受けて、育てられ、強められ、根底から造り変えられていくためには、自分の思いで御言葉に向かうのではなく、神が今、この私のどの部分を造り変えようとして、御言葉を示され、働きかけて下さっているか、神の御思いに立ってほしいと、少し回りくどい表現で言おうとしたのでしょう。
* ただ頭で聞いてきたことを、私を取り扱うために新しい戒めとして、今示して下さっていると受けとめ、神の御思いのままに料理して下さいと御言葉の前に自分を差し出すことが、御言葉に対する向かい方なのです。
* この当時の相手先教会の一人一人も、まだ十分に神の前に自分を料理してもらおうと、自分を差し出していなかったので、神の力によって形造られていく揺るぎない信仰に立つことができず、偽りの教えに動揺させられる人たちがいたのです。
* 光の中を歩むとは、神が私たちを御心に沿って料理し、時には厳しく、つらい道を通されたり、戦いを覚えることもあったり、励まされ、強められたりしながら、私たちを育てるために御言葉を持って取り扱おうとして下さっているのです。そのような私たちの信仰人生設計者に対して、自分を明け渡していくことが必要なのです。
* 神は、一人一人の状態をご存知であります。その一人一人の時と状態に応じた育て方をされるために、御言葉という最高の道具を持って私たち一人一人にふさわしい働きかけをして下さっていることを本気で信じ、信頼していくことが重要なのです。
(2)暗闇の時代は終わり、光が輝く時代の到来
* ヨハネは、神が、今のあなたがたに対して示して下さっている戒めは、あなたがたを取り扱おうとして示して下さった新しい戒めとして受けとめることが重要であると書いてきましたが、この新しい戒めは、キリストにあって真理であり、またあなたがたにとって真理であるからだと言っています。これはどういう意味でしょうか。
* ヨハネにとって真理とは、神のお心そのものであり、真理は、人間を造り変える力であると理解していますから、キリストにあって真理だというのは、キリストのお心としての真理、すなわち、真理としてのキリストが命じておられることを意味し、あなたがたにあって真理だというのは、光の中を歩む者として、あなたがたを造り変えていく神の力だと言っているのでしょう。
* このように言えるのは、あなたがたが光なる神と結び合わされるようになったことによって、あなたがたにとって暗闇の時代は終わり、まことの光が照り輝いている時代に突入しているからだと言うのです。
* このことを、相手先教会の信仰者一人一人に思い起こさせようとしているのは、暗闇からまことの光が輝いている道へと移し変えられたという恵みの事実を、彼らがつい見失いがちになっていると感じたからです。
* 光の中を歩むとは、自分の力や決断で光の道を選び取って、その道を歩み続けることではありません。御子イエスの血によって、一方的に罪から解放して頂き、暗闇に生きるすべしか知らなかった者を、まことの光が輝いている道へと恵みによって移し変えられ、光なる父と結び合わせて頂いた恵みを喜びつつ歩むことなのです。
* これは、簡単な歩みのように見えるのですが、闇の中に生きる歩みが染み付いている歩みを、即座に打ち切って、光なる父との交わりを最優先して、光の中を歩むということは、なかなかできることではありません。
* まして、光の中を歩むと言っても、世とかかわりのない所で生きていくのではなく、現実には、この地上において生きなければならず、闇の生き方に染み付いた生き方を平然として歩んでいる世の人々の中において、また自らの中に染み付いた闇の生き方を切り捨てることの難しさを感じさせられつつ、光の中に移し変えられた者として歩むということは、難事業だからだと言えます。
* 主はそのために、大事なこととして、互いに愛し合うようにと兄弟愛の戒めをここに示しているのです。なぜかこの箇所では明言しなかった戒めの内容は、3:23において明らかにされていきます。それは、互いに愛し合うことが、神と一体化された者としてのあり方だと言うのです。
* ヨハネはこのことを、弟子の1人として従っていた時に、イエス様から直接聞いていました。「わたしは、新しい戒めをあなたがたに与える、互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」(ヨハネ13:34 新164)それが私の弟子としてのあるべき姿だと言われたのです。
* なぜ、光の中を歩むように導かれた者として歩むために、兄弟愛が大事だと言われているのでしょうか。それは、光の中を歩むというのは簡単ではないと言いました。それは闇の中に生きている世の人々の中に置かれている現実と、自分の中になおこびりついている闇の生き方から解放されていないという事実があるからだと見てきました。
* そんな私たちが、この地上において、光の中を歩む者としての姿を現すためには、訓練も受けず、世に放り出されたら、ほとんどの人は、つぶれてしまうか、いい加減な歩みでお茶を濁すか、クリスチャンの振りをするだけで終わらせたりするでしょう。
* それ故まず、教会(群)の中に置き、そこを愛の道場として、互いに愛し合う向かい方をさせ、訓練を積ませた上で、世に遣わそうとされるのです。
* 兄弟愛の詳しい内容については、3:23からの所で記そうとしていますから、ここでは、まず教会の中において、愛し合う訓練が必要なものとして与えられていることを、新しい戒めとして示し、それがおろそかにされるならば、強くて恐ろしい感染力を持っている世に遣わされるのですから、闇の生き方に逆戻りさせられる危険性があることを警告しているのです。
(3)愛の訓練を受けて育てられていく必要
* 御子イエスのあがないにより、罪赦され、光なる父との交わりが与えられ、闇の中から光の中へ移し変えられました。このように、光なる父との交わりを与えられた者が、今の時、今の場において見える形で集められ、そこを、世に遣わされる前の訓練の場、研修の場として与えられているという意識を十分に持っていなかった相手先教会の信仰者たちは、肉の思いで互いに接している様子が見えたのです。
* 闇の中においては、一人一人が自分の肉の思い、肉の性格などで人と接し、人を判断し、自分の好き嫌いで人を見て接しています。もちろん巧みな人は、心で悪く思っていても、表面に出さないで接することができる人もありますが、すべて肉の思い、肉の性格で接しているものです。
* まして、当時の偽りの教えに影響されてか、肉は悪だから、好き嫌いの思いが出てくることは当たり前だと、これを正当化し、あの人とは合わないと、他の兄弟を避けるだけではなく、自分に嫌な思いを与える相手として兄弟を憎んでいる人がいたのです。
* 教会が、愛の訓練と研修の道場であり、そこで十分に育てられない限り、世に遣わされて光の中を歩むことはできないと見られていたのです。その教会において、お互いが肉の性質を丸出しにして接し合っているならば、その訓練の場は無意味であるどころか、闇の中へと逆戻りするための場にしてしまうと言うのです。
* どうして、兄弟を憎むことが、闇の中を歩く生き方への逆戻りだと言われるのでしょうか。それは、一人一人が光なる父と結び合わされ、神からいのちと光とが注がれ、互いが光なる父と結び合わされた者同志ですから、間接的に一つに結び合わされている者として、神が合わされたのです。
* その神のお心を大事にし、合わされた兄弟として互いに向き合い、大事に思い合っていくようにすることが、光の中を歩く基本であることが示されているのです。
* この、神の御心を受けとめようとせず、肉の性質のまま向き合うならば、近い色であれば合いやすいですが、異なった色同士であるならば、ぶつかり合うものです。
* 光の中を歩くということは、簡単ではありません。すぐに内側から出てこようとする、世に感染している肉の性質を抑え、主が深いお考えとご計画を持ってひとつの群として合わせられたという交わりの意義を受けとめ、その神の御心を何よりも大事にして向かおうとするには、内面の戦いが必ず伴います。訓練は楽なものではないのです、
* しかし、その訓練を受けず、肉の性質のまま向かうとするならば、主が深いお考えとご計画を持って、ひとつの群として合わされた交わりの意義をないがしろにすることになり、兄弟を憎み、愛の訓練を受けて育てられようとしないことによって、闇の中を歩く向かい方をすることになると言われているのです。
* ここから、闇の中を歩くとは、神の御心を受けとめようとしない歩みすべてを指していることが分かります。パウロはエペソ5:8で「あなたがたは、以前はやみであったが、今は主にあって光となっている」と言いました。(新306)
* すでに、神からのいのちと光とが注がれて、光を放つ存在となっているのに、それを意識せず、兄弟を憎むという闇の生き方をしているなら、神が与えて下さった恵みを投げ捨てて、元の世の生き方に逆戻りする方を選び取ったことになることを明らかにしているのです。
(まとめ)
* そして最後に、闇の中を歩く者は、自分がどこへ進んでいくのか見えていません。闇が彼の目をくらませしたからだと言います。闇の中を歩いている世の人は、みな魂の滅びに向かっていそいそと進んでいるのに、それが全く見えていません。
* それがいかにも素晴らしい道、輝かしい道であるかのように勘違いして突き進んでいます。神が提供して下さっている光の中を歩く道が見えず、つまずいているのです。
* 肉の性質を丸出しにして、兄弟を憎むという姿を現したことが、闇の中を生きている歩みに逆戻りしていることになると言い、神が一つに集められた教会を愛の道場として、兄弟愛を表していく訓練の場として受けとめ、兄弟愛が育てられることによって、光の中を歩く生き方が確立していくようになると言ってきたのです。
* ヨハネは、世の人だけが、目をくらまされて闇の中を歩んでいるのではないことを示してきたのです。すでに光とされていながらも、兄弟愛が育てられない人も目がくらまされて、闇の中を歩いていることになると示してきました。
* 私たちも、この戒めを大事なものとして受けとめていなければならないと思わされました。光なる父との交わりに生きようとする時、間接的に他の兄弟とが結びついており、その間の潤滑油となる兄弟愛は、自然と生まれてくるものではなく、群の中において訓練され、育てられていく必要があるのです。
* 相手を大事に思い、配慮し、受け入れ、祈り、共に手を携える、それらの一つ一つのことが訓練され、育てられていく必要があるとつくづく思わされるのです。