(序)警告してきたヨハネの目的
* ヨハネがこれまで示してきたことは、罪の中に落ちていた人間を、驚くべき3重の交わりの中へ回復させようとして、キリストの血が流され、闇の中から光の中へ移し変えて下さったという、光の時代における驚きの光景でした。
* そのような光の時代にあって、光の中を歩むことが、この地上に置かれた信仰者にとって、大事な、欠かすことのできない務めであることを示すことが、この手紙を書いている目的であったと言えるでしょう。
* そのような光の中を歩く者にとって、心に留めるべきことの第1は、罪問題を正しく解決していること、第2に主によって結び合わされた群の中において、互いに兄弟愛を重んじることが重要であると言ってきました。
* もしこのことがおろそかにされているなら、光の中を歩いているつもりでいても、いつの間にか闇の中に逆戻りさせられている危険性があることに、注意しなければならないことを警告してきたのです。
* 光の中を歩くことは、簡単ではなく、難事業だと言ってきたヨハネは、偽りの教えの方に落ちていった人たちの例を示しながら、信仰者として、気をつける必要があることを示してきました。
* しかし、難しいからと言って怖がらせることが、ヨハネの目的だったわけではありません。一人一人が、いのちの福音にしっかりととどまり、真の交わりを得ている者として歩むことができると、励ますことが目的だったのです。
* そこで初心者、成熟した大人、中間層と大きく3段階に分けて、各々の状態に応じた励ましを与えようとしたのです。それは、各々の状態にある者が、自分の立っている所を知って、しっかりと踏みとどまってほしいと願っていたからです。
* すべての信仰者の内に、惑わされる要素を持っているのは確かです。だからと言って、光の中を歩むようになった信仰者のほとんどの人が、闇の中を歩く生き方に逆戻りすると言ってきたわけではないのです。
* これまでの勧めを聞いてきた者たちが、自分たちも闇の中を歩く生き方に逆戻りする危険があると思われている。そう受けとめてほしくなかったヨハネは、そんなことは決して思ってはいないということを、示しておく必要を感じたのでしょう。
* 確かに惑わされる人たちがいたから、このように語らなければならなかったが、ヨハネは、惑わされる人は少数であって、大多数はその惑わしさえも乗り越え、揺るぎのない信仰に立ち続けていると見ていたのです。
* どのような人たちが惑わされるのか、どのような人たちが惑わされることなく、信仰に立ち続けることができるのか、この違いは、信仰年数や、信仰的習熟度によるものではなく、自分の立ってきた信仰の位置を見失うか、見失うことなく立ち続けるかの違いであることを示そうとしたのでしょう。
* 惑わされる要素を持っている私たちが、惑わされることなく、信仰の喜びと感謝にあふれて歩み続けることができるのか、このことは、今日の私たち信仰者においても問われていることだと言えるでしょう。
(1)比喩的表現の意味するところ
* ヨハネは、惑わされた人たちのことを考えると、胸が痛くなる思いがしていたのですが、その反面、そのような、偽りの教えを用いたサタンの惑わしにも揺さぶられなかった人たちのことを思うと、感謝で一杯だったのです。
* そこで、揺さぶられなかった大多数の人たちが、なぜ偽りの教えに惑わされなかったのか、信仰者たちを3つの層に分けて、その状態に応じて、その立っている所を確認させようとしたのです。それは、今受けている恵みの状態を確認することが信仰を強くし、惑わされない信仰の確かさを得るために重要なことだと示すためだったのです。
* この3つの層を、ヨハネは、子供たち、父たち、若者たちという比喩的表現を使って言い表しました。それ故、これはどのような人を指している表現なのか、学者によって意見は大きく2つに分かれています。
* ある人たちは、子供たちというのは、全クリスチャンの事を指し、父たちと若者たちで、その中の信仰歴の深い者と信仰歴の浅い者と2つに分けて語っていると捉えています。
* 確かに2:1や2:18などでは、ヨハネが、自分が教えてきた霊の子という意味で子供たちよと呼びかけ、全クリスチャンたちに対して語られていることが分かるのです。
* しかし、2:12〜14においては、父たち、若者たちと並べて書いている所から考えてみて、同じ呼びかけでも、異なった対象に対して語られていると考える人たちもいます。
* すなわち、子供たちとは、信仰を持って日の浅い初心者たちのことを指していると見、父たちとは、成熟した霊的大人だと見、若者たちはその中間に位置する人たちだと見るのです。
* この勧めの仕方から見て、3つの層に分けて語りかけ、各々の状態において、どこに立っているのか確認させようとしたと見る方がいいと思われます。もちろん、もう一つの見方であっても、それほど大きな内容の変化はないと言えますが、2つの層に分けるより、3つの層に分ける方が細やかなヨハネらしいと考えられるからです。
* しかも続けて、ほとんど同様の勧めを2回繰り返しているのは、一体なぜなのか、理解しにくい所でありますが、どこに立っているかという認識を持つことが、非常に重要であることを強調しようとする思いが、そのような、繰り返しの表現になったのでしょう。
* ヨハネから見れば、偽りの教えの方に引き込まれて行った少数の人たちは、自分がどこに立っているか認識できていないという認識不足が、サタンの揺さぶりに負けてしまった原因だと見ていたのです。
* 信仰者にとって認識不足は、信仰の弱さにつながり、肉の思いで突き進もうとする余地を残すことになるので、耐震強度が低く、サタンの揺さぶりに、いとも簡単に崩されてしまうのです。なぜなら認識不足は、意識不足につながっており、意識不足は自覚不足にもつながっているからです。
* 自分の立っている場、状況など認識していないなら、意識が薄く、その結果持つべき自覚が足らないので、サタンの働きかけにフラフラさせられてしまうのです。
* それではどのように、何に対して深く認識している必要があると示しているのでしょうか。ヨハネは、各々の信仰の状態に応じて認識しているべき内容を示しているので、その一つ一つについて、ご一緒に考えてみることに致しましょう。
(2)立つべき位置を認識しているか
(その1)子供たちが立つべき所
* それでは、惑わされないで信仰を守り通している相手先教会の信仰者たちを3つの層に分けて、各々が立っているべき所を、指し示している内容を見ていきましょう。
* 自分の立っている所がどこであろうと、初心者が必ず立ち続ける所、成熟した大人が立ち続ける所、中間層の若者たちが立ち続ける所、それらはすべて、信仰者として認識しなければならない事柄として理解している必要があります。
* 初心者は、すべて自分の知恵で納得できたから信仰を持ったのではなく、自分が、罪赦されて、神の前に新しい命を頂いて生きるためには、キリストのあがないによって救われる必要があると信じて、信仰によって生きるようになったのです。
* そこでヨハネが示したことは、「御名の故に、あなたがたの数々の罪が赦されたこと」、これが、初心者にとって動かしてはならない大事な霊的事実として、看板を掲げなさいと言うのです。
* 偽りの教えに引っ張られた人たちは、確かに最初、罪赦されたと信じていましたが、いつまで経っても、残っている肉の心が罪を吐き出し続けており、罪赦されたという事実が、あやふやになってきたのです。
* 人間的感覚で、罪赦されて解放されたと思えるようになることを求めていたから、そう感じることができないので失望し、開き直って肉は罪を吐き出し続けるものであり、肉体は悪だから仕方がないと考える異端の教えの方を選び取ったのです。
* このことが崩れると、キリストの福音は骨抜きになってしまいます。御名の故に、すなわち、キリストのあがないの血の故に、私たちの罪は神の前に赦され、罪のない者にして頂いたという霊的事実を認識し、その上に立ち続けることが信仰だと示されてきたのです。
* 自分の感覚を前に置かず、いつまで経っても残っている肉の心から罪が吐き出され続けたとしても、キリストの血は私の過去、現在、将来のすべての罪を全部赦して下さり、神の前に義とされた者として立つことができるようにして下さったとの認識を深め、赦された者としての深い意識と自覚を持って進むことが、信仰の土台だと示したのです。
* 14節では、「あなたがたは父を知ったからである」と言いました。それは罪深くて救う価値の全くない私たち人間を、ただキリストのあがないを信じる事によって罪赦され、神の前に価値ある存在として生きることができるようにして下さった、父の大きな愛を知って喜ぶ者となったことを取り上げています。
* ヨハネが示していることは、キリストの福音の基本は難しいことではない。ただ信じるだけ、示された神の御心を認識するだけだと言うのです。これは簡単なことではありますが、これが崩れたら信仰ではなくなるのです。偽の福音に惑わされないためには、この認識から動かないこと、この一点が信仰の命綱だと言うのです。
(その2)霊的大人たちが立つべき所
* 次に、成熟した霊的大人となっている人たちを父よと呼び、12節と14節で全く同文の勧めで、「あなたがたが初めからいますかたを知ったからである」と言いました。
* 長い信仰人生を経て、キリストの福音の深みを味わい、時には喜びと平安に満たされ、時には厳しい戦いと訓練を通され、信仰の危機に遭遇したこともあったと思われますが、それを信仰によって乗り越え、主の恵み深さをますます味わい知って、信仰が確立していくようにされた人たちのことを、ヨハネはただ一言、「初めからいますかたを知った者」と表現したのです。
* 世の始まる前から私たちを選び、(エペソ1:4 新301)救い上げて使命を与え、神の義の器としてこの世に遣わし、神の深いご計画の中の大事な一つの駒として、ご自身のみわざを進めるための大事な存在として、養いつつ用いて下さるお方を知り、その認識を動かすことはなくなっていたのです。
* 初めからいますかたと言って、時間を超越し、変わることなく、最後まで責任を持って支え、守り、助けて下さり、導きを惜しまれず、聖霊による援護を与えて下さるお方であることを示しています。
* また、多くの証人に雲のように取り囲まれて、信仰の導き手であり、またその完成者であるイエスを仰ぎ見つつ走ることができるようにして下さった(ヘブル12:1 新356)あわれみ深いお方を、頭によってではなく、霊で知り、味わい、体験してきたのです。
* 長い年月を経て、父なる神のお心の奥深さを知り、味わい、体験し、父のお心から離れることがなかったということは、その信仰が、自分の思いで神を捉えたのではなく、神によって捉えて頂いたことを経験してきたことを「初めからいますかたを知った」と表現したのでしょう。
(その3)若者たちが立つべき所
* 中間層である人たちのことを、ヨハネは若者たちと呼びました。彼らは成長途上にあり、霊的大人となっている人たちが成長途上で通ってきた所を現在通されています。
* それを13節では「悪しき者に打ち勝ったからである」と言い、14節では「あなたがたが強い者であり、神の言があなたがたに宿っているから」との理由を付け加えて、悪しき者に打ち勝っている姿を示しているのです。
* 信仰の成長途上においては、サタンの多くの働きかけを受け、信仰が試されます。その経験を通して信仰が更に強くされていき、いのちの御言葉が持つすごさを味わい続けていくのです。
* いのちの御言葉が持つ、測り知れない神の力を受け取っていく歩みをしていくならば、サタンがどれほど強い力を持って働きかけてきても、崩されることなく、勝利者とされている歩みであることを体験しつつ、前進していくことができるのです。
* どこに立つ者とされているかを認識し、神の御言葉を食べ続けていくことで(エレミヤ15:16 旧1073)信仰が強くされ、確立されていくことを信じて歩み続けているならば、崩されないだけではなく、サタンに打ち勝つ歩みとなるのです。
(結び)今立たせて頂いている信仰認識を深めていく
* 初心者であれ、成熟した霊的大人であれ、中間層の若者であれ、自分の今立たされている信仰をしっかりと握っているならば、そしてその歩みが、神が養い、育てて下さる歩みであることを信じて向かっているならば、サタンによるどのような惑わしがあっても、脅かされることも、不安にさせられることもないのです。
* それどころか、今与えられている信仰の喜びが更に増し加えられ、いのちの御言葉を食べる歩みがどれほど力強い歩みであり、父なる神のお心の深さを知り、味わい、体験し続けていくように導かれている、保証された信仰人生であることを知って、喜び踊る日々であることが分かるのです。
* 今どの段階にいるかがポイントなのではありません。今どこに立たせて頂いているかという認識を深くさせて頂き、その意識を持って歩み、自覚して向かうならばサタンの惑わしを何一つ恐れる必要がないのです。
* 今まであなたがたは偽の教えに惑わされてこなかった。それは神があなたがたをしっかりと握って下さっていたからであったことを覚えていてほしい。それ故、今立たせて頂いている信仰をより確立し、いのちの御言葉を食べ続け、父なる神の深いお心に感動しているならば、これからの歩みも支えられ、最後まで守られると示してきたのです。
* ヨハネが示してきた惑わされない信仰、それは働きかけてくるサタンにおびえながら、うまく逃れていく歩みなのではありません。サタンの働きかけを恐れることなく、打ち勝っていく勝利者としての歩みであり、いのちの御言葉によって強くされ、信仰によって前にある障害を乗り越えて進んでいく歩みなのです。
* そのためには今立たせて頂いている信仰をしっかりと握って離さないこと、その認識を深めていくことが何にも増して重要なのです。