聖日礼拝メッセージ
2012年6月8日 更新

聖 書 Tヨハネ2:15〜17   (第9講)
 題 「自分の中に潜む世を、愛さない信仰人生」


  (序)神に属する者として、世と向き合う人生

* ヨハネが示してきたことは、神の一方的な恵みによって、闇の中に生きていた者が、光の下に移し変えて頂いたのだから、その時に与えられた驚くべき3重の交わりのすごさを味わいつつ、光の中を歩み続ける人生が、いのちの福音として示されているものであることを明らかにすることでありました。

* しかし、信仰者が、光の中を歩み続けるということが難しいこともよく分かっていました。それは、光の中を歩む道には、あらゆる惑わし、妨げの峠を通されるからです。そのために備え、訓練を積む必要があると、まず2つの点を取り上げてきました。

* その第1は、罪問題を正しく処理しつつ歩むことでした。これは信仰上の不備をなくしていくためには重要なことでありました。そして第2は、主が結び合わされた群の中において、互いに兄弟愛を重んじ、愛の道場において訓練を受けるということです、これは、訓練不足のまま世に出ることによってつぶされないためです。

* その上で、各々の信仰の状態に応じて、今立っている信仰の認識と、そこに立ち続けるようにという勧めがなされてきたのです。この信仰認識が崩されると、サタンの惑わしに引き落とされることになるからです。

* ヨハネは、そこにもう一つ、注意する必要な事柄があることを付け加えています。それが今日の箇所です。世に遣わされた信仰者は、世と世にあるものを愛する生き方をしてはならない、それは肉欲を引き出し、虚栄心を起こさせるだけだと示すのです。

* ヨハネが世のことを語る時、いつも心に思い起こすのは、イエス様の祈りであったでしょう。イエス様は、「わたしが世のものでないように、彼らも世のものではありません。…あなたがわたしを世につかわされたように、わたしも彼らを世につかわしました」(ヨハネ17:16,18 新170)と祈られました。

* 信仰者は世のものではなく、神のものであり、キリストによって世に遣わされている者であることが語られています。世のものではないとは、世に属していないと言うことです。

* すなわち、世において生きてはいるが、世に属する者として生きているのではなく、世からかけ離れて生きているのではなく、世において生活している。

* 世に同調し、世と同じ側に立つのではないが、世と向き合って生きるようにされている。それは対立する者としてではなく、世に生きていながら、神に属する者として、世と向き合う者とされているのです。

* 世に属さず、神に属する者として、世においてどのように生きていくことが、光の中を歩むことなのか、自分の立場認識と、世的世渡り上手になるのではなく、信仰的世渡り上手になることが大切であることを示しています。

* 世にありながら、世に流されず、世と向き合いながら、世と対立せず、世の生活をしながら、世的な生活をせず、サタンの支配圏におりながら、サタンに支配されず、神に属する者としての位置を動かさず、光の中を歩くという特殊な芸当が求められているのです。

* もちろん、小手先の芸当ではなく、真実な生き方による芸当が求められています。それは、特別選ばれた人しかできない芸当ではなく、3重の交わりを味わう生き方をする者ならば、誰にでもできる芸当です。そのことを理解した上で、今日の箇所をご一緒に見ていくことにしましょう。


  (1)世と世にあるものを愛するならば、神を愛せない

* 信仰者は、世において生かされているのでありますが、世も、世にあるものも愛してはいけないとヨハネは勧めました。それは、光の中を歩く生き方の妨げとなるから、世にも、世にあるものにも心を魅かれてはならないと示しているのですが、そんなことが可能なのでしょうか。

* このことを理解するためには、この愛するとはどのような意味で使われているのかを考えてみなければなりません。その前に、世あるいは世にあるものとは何かについても併せて考える必要があります。

* 世という言葉は、聖書では物質世界とその中に住む人類の事を指していますが、ヨハネにおいては、神に反抗的な罪の世界とそこに住む人類とを指しています。すなわち、世はサタンの支配下にあり、サタンの自由になる世界と、サタンに魅了された人類とを指しており、光の中に移し変えられた信仰者の思いの中にも、救われる以前に持っていた“世”が残っていると見ています。

* すなわち、光の中を歩む人生とは、救われる以前に闇の中を歩いていた時に身に着けていた“世”から解放され、神に属する者となったことにより、上からのいのちと光とが注がれ、それによって内に残っている世を抑え、光の子としての歩みができるようにされていくのです。

* 自分の中に残っている世から解放されていないと、一時的に光を喜ぶことはあっても、自分の中にある世の思いに沿わなく感じるようになると光を避け、闇の中に逆戻りするのです。自分の中に残っている世が、世や、世にあるものを大事に思っているからです。

* ここで言われている世にあるものとは、支配者サタンが、神から思いを引き離させるために与えようとするすべてのものを指していると言えるでしょう。ということは、サタンの支配の下で生きている人間が求めているすべてのものだと言っても過言ではありません。

* 自分の中に残っている世と、その世が求めているすべてのものを愛してはいけないと言うのです。これはどういうことでしょうか。この愛とは、自分にとって尊重すべき大事な対象に対して、大事に思う思いでありますから、神を愛するという時にもこの言葉が用いられています。

* 本来なら、神を大事に思い、御手の中に置いて、愛を持って養い導いて下さる神に対して、心から尊敬の念を持って応答する態度、何よりも大事に思う態度を指す時に使う言葉でありますが、その愛を、自分の内に残っている世と、世の思いを引き出そうとする世にあるすべてのものに向けてはならないと言うのです。

* 相手先教会のクリスチャンたちは、大多数の人が偽の教えに惑わされることなく、各々に与えられた信仰に立ち続けていたのですが、自分の中にある世と、世の思いを引き出そうとする世にあるすべてのものに対して、十分な注意が払われていなかったと見ていたのでしょう。

* この部分がおろそかにされていると、光の中を歩む歩みにとって、それは大きな妨げとして残り、偽の教えに惑わされることはなくても、いのちと光とに満ち溢れて、内に残っている世を抑えるということができず、神に属する者としての霊的勝利感が培われないので、力のない信仰の歩みにされてしまうのです。

* それ故、もし自分の内に残っている世を処理する道を選び取らず、世を愛する向かい方をしているならば、父への愛は彼の内にはないと断言しているのです。

* イエス様も、「あなたがたは神と富とに兼ね仕えることはできない」と教えておられます。(マタイ6:24 新9)このお言葉を、ヨハネ流の言い方に換えるならば、あなたがたは自分の内に残っている世を抑えていく歩みをしていくべきなのに、世を愛するならば、同時に神をも愛するということはできない、それ故、父に対する愛はその人の内にはないことになると言っているのです。


  (2)肉の欲、目の欲、持ち物の誇り

* ヨハネは、更に16節で、今世にあるすべてのものは、父から出てきたものではなく、すべてサタンの支配を受けている世から出てきたものだと言い切るのです。この断言は、ある意味では理解しにくいものです。

* 神が天地万物を造られ、それを治めさせるために人間にお与えになりました。確かに、人間が罪を犯したことによって、この世界とそこに住む人類とは、サタンの支配下に移ってしまいました。しかし元は神から出てきたものであるのに、そうではないと言っています。

* この表現から考えられることは、ここで言われている世とは、物質世界のことを指しているのではなく、サタンが人間の心に植えつけた、神への反抗心のことだと分かります。

* こうして、全人類の心の中に神への反抗心が植えつけられたので、この世のすべてのものは、この反抗心から出てきたものであって、神に対して従順に従う心から出てきたものではないと言うのです。

* このことを示して教えようとしていることは、世にあるものを求める心は、神への反抗心を求めているのと同じだと言いたいためなのです。

* 相手先教会のクリスチャンたちは、自分たちの内側になお残っていて、潜んでいる世を正しく受けとめていなかったので、自分の思いを満たしたいと求めることが、神への反抗心を知らず知らずの内に培っていることになると気づいていなかったのです。

* 今見ている16節の表現は、行間を正しく読み取らないと、理解しづらい表現になっています。世にあるすべてのものは、肉の欲、目の欲をかき立てるものであり、持てる者の心におごりを引き出すためのものだから、神から出てきたものではなく、世から、すなわち神への反抗心を持っているサタンと、サタンに囚われた人々の心から出てきたものだと言うのです。

* 肉の欲、目の欲とは、罪に生きる人間性の本質として、自分の願望を神とし、その欲望を満たし、追求することに精力を費やそうとする生き方に出てくるものです。肉の欲、目の欲と分けているのは、肉の欲で、内側に起きてくる神のお心に沿わない一切の悪しき欲望を示し、目の欲で、見ることを通して引き起こされる悪しき欲望を示そうとしたのでしょう。

* ペテロは、肉の欲、目の欲も含めて、「たましいに戦いをいどむ肉の欲を避けなさい」(Tペテロ2:11 新368)と勧めています。それは、この世の旅人である信仰者にとって、回復して頂いた霊的いのちを危機的状況に追い込むことになりかねず、信仰者としての旅を続けなくさせる恐ろしい結果となると警告しているのです。

* ヨハネは、肉の欲、目の欲だけではなく、持ち物の誇りも、世が引き出そうとするものだと言います。持てることが、人間として価値が高いと思う肉の考え方が、世において根強くあります。そして持てることによっておごり、人を見下し、実体がないのにうぬぼれるのです。

* これは、持てることが問題だというのではなく、持てることによって引き出されるおごり、うぬぼれなど、神への反抗心が生み出したものだと言うのです。

* このことは、裕福さだけを指しているのではなく、権力や容姿、あらゆる技能、知恵に至るすべてのものを含んでいます。神は身分の高い者、知恵ある者などを価値ありと見られず、主を誇る弱い者、身分の低い者、無きに等しい者をあえて選ばれ、持てる者が表すおごりを嫌われるお方であることが語られています。(Tコリント1:26〜31 新257)

* それは、神にすがり、神の助けと導きとを頂いて歩む光の子としてのあり方を根底から覆し、世のものに心を置き、そこに保証を求め、価値を見出そうとする、そんな神への反抗心をあおろうとする恐ろしい働きかけであるからです。

* これらの言葉を聞いただけで、そのような恐ろしい働きかけから、簡単に身を避けることができるものではありません。世にあるものを愛し、求めようとする心が引き出されないように、十分な警戒が必要だと言うのです。

* 自然と出てこようとする欲望を垂れ流しにせず、神が喜ばれない思いであるかどうか、十分に吟味しつつ進む必要があるのです。


  (3)光の中を歩む歩みでの一番の強敵

* 自分の中に残っている世と、世にあるものを大事に思うことが、光の中を歩む歩みにとって、前に立ちはだかる巨大な壁となることを言ってきたヨハネは、最後に、世と世にあるものを大事に思う生き方は、過ぎ去ってしまうものだとの表現で、何も残らない、消滅してしまう歩みだとそのむなしさを示しているのです。

* この17節も、行間を読み取らなければ理解しにくい表現になっています。言葉を補って見ますと、「世と世の欲を大事に思って生きる者は、光の中を歩む道から外れて、滅びに向かうことになる、しかし3重の交わりを喜び、世と世の欲とを避けて歩むという、御旨を行う者は、永遠まで生き続けると言っています。

* すなわち、神の御旨を行うという一言で、これまで勧められてきた内容をまとめて言っていることが分かります。罪問題を正しく処理し、兄弟愛が育てられていくように訓練を受け、受け取った信仰認識に立ち続け、世と世にあるものから解放された者として歩むことが、神の御旨を行う者だと言うのです。

* 光の中を歩むということは、その歩む道の途上で、惑わしの落とし穴に注意し、妨げの岩をかわし、自分の心の中に残っている世に引き込まれず、欲の心が引き出されないようにし、永遠の御国に至るまで、手を引いて下さる主を仰ぎつつ歩むことだと示してきたのです。

* ヨハネにとって、すべての信仰者が、光の中を歩み、御父との交わり、御子との交わり、時空を超えたわたしたちの交わりに入れられている喜びと感謝にあふれ、力に満たされ、その歩みを妨げようとする一つ一つのことに注意して、思いがそらされることなく、歩み続けてほしいと切に願っていたのです。

* その歩みにおける一番の強敵が、サタンが産みつけた、自分の中に残っている“世”であることに気づいているようにと示してきたのです。どうすれば自分の中に残っている世という強敵にやられないで、勝利の行進を続けることができるのでしょうか。

* それは、自分の思いのままに生きることをやめることです。それは、世が生み出している思いだからです。御言葉を用いて、御霊が私たちの内に働いて下さり、私たちの内に起こして下さる思いに従って生きていこうとすることなくして、世という強敵に勝つことはできません。


  (結び)十分な覚悟と注意

* ヨハネが、光の中を歩む道を歩み通すことがいかに難しいことか、余程の覚悟なくして歩めないものであることを示してきたのは、その大変さを示して恐れさせるためではなく、あきらめさせるためでもありませんでした。

* 十分な覚悟と注意とを持って向かわなければ立ち向かえないほどの強敵である“世”が、自分の中にどっかりと居座っているという事実を知ることなくして、勝利の歩みがないからです。

* 確かに、難しいことだと示していますが、無理だとは言わないし、勝利できないとは言いません。それどころか、神の御旨を行う者にされ、永遠に生き続けるという、人間性を回復して頂いた者にとって、永遠の御国に迎え入れて下さるという希望を示し、その保証となるものが、与えられた3重の交わりであると明らかにしてきたのです。

* 人間の頑張りで勝利を勝ち取れと言うのではなく、光の中を歩み通す力が、御父との交わり、御子との交わり、時空を超えたわたしたちの交わりを回復して頂いているという事実によって、勝利が保証されていると言うのです。

* 確かに、自分の中に、サタンの嫌な置き土産としての世が居座っており、世にあるものを求めさせようと欲を引き出し、持てる者が表すおごりを持たせようとし、闇の中へ突き落とそうと働きかけてくる力は強力ですが、神から注がれているいのちと光とは、それを排除し、勝利を得させるものとして与えられていることを忘れなければ、負けることはないのです。

* あらゆる惑わし、妨げにやられないために、十分な覚悟と注意、これが、自分の中に世を残している者が、光の中を歩むために、心に留めておかなければならないことだと言えるのです。

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