(1)信仰人生の扉を開いていく鍵
* 人生というのは、人間が計画した通りに、なかなか事が進まないものです。いろいろな状況、問題、立ちはだかっている壁などがそれを妨げるからですが、神を信頼して歩むということは、そこに神が働いて下さっていると信じて前進していくことだと言えます。
* 現実に思い通りに行かない道を通されている時も、事がスムーズに運んで調子の良い時も、また、うれしい時も、悲しい時も、いろいろな状況がいろんな形で降りかかってくるのが人生であります。
* それ故、信仰人生にとって大切なことは、結果に左右されることではなく、目の前に起きてくる事柄に対して、それをどのような目を持って見、判断して歩むかが最も大事なことであり、それが人生において切り開いていかなければならない扉の鍵となるのです。
* すなわち、見たままの状態にしか見ることができない目でしかないのか、それともその状態の奥にある何かを冷静な目で見ることができるのか。その一点は大きな分岐点になると言えます。
* 今日のダビデの記事は、非常に有名な箇所で、教会学校の生徒でもよく知っている話でありますが、そこに記されている御心全体を一度で見ることは不可能ですが、この時、少年ダビデの目が見ていたものは何であったのかを見ることは、今日の私たち信仰者においても大事なものだと考えさせられるのです。
* 少年ダビデが語ったいくつかの言葉から、巨人ゴリアテをどのように見ていたのかが伺えます。そしてそこから、ダビデがどのような信仰の目によってその状態を見ようとしていたかが分かるのです。それでは全体のあらましを理解した上で、その言葉を見ていくことにしましょう。
(2)巨漢ゴリアテと少年ダビデとの代表戦
* イスラエルの最初の王サウルの時代は、近隣の国々との間に争いは絶えることのない時代で、特に強国ペリシテとの争いは、イスラエルにとって厳しい状況であったのです。
* 17:1には、ペリシテの側から争いを仕掛けてきたとあります。ペリシテは、エペス・ダリムに陣取ったので、イスラエルも向かいの山に戦列をしいたのです。その時、ペリシテの陣営からガテのゴリアテという身の丈3メートルもある巨人が出てきて、1対1の代表による戦いを挑んできたのです。
* その勇ましい様相を見て、イスラエルの兵士はびびって恐れをなし、誰一人それに対抗して戦おうと名乗りを上げる者がいませんでした。その巨漢とやり合って、到底勝てるはずがないと思えたからです。
* そうした所へ、兵士として加わっていた兄たちの所に、父からの届け物を持ってきたダビデが、ゴリアテが叫ぶ挑戦の声を聞き、それに対して誰一人答えようとしないイスラエルの兵士たちのふがいなさを感じたのです。
* その時、漏らした言葉は、「生ける神の軍に戦いを挑む割礼なきペリシテ人をなぜ恐れるのか」と言ったのです。それを聞いた人から、その言葉がサウル王に伝わり、ダビデは王の許に呼び寄せられたのです。
* そのように語った者が、まだ少年であることが分かったサウル王はがっかりし、いくら勇敢でも任せられるはずがないと思ったので、だめだと言ったが、それに対してダビデは、「ライオンや熊からわたしを救い出された主は、このペリシテ人から救い出されるでしょう。」と確信を持って語ったのを聞き、王は任せることにしたのです。それは、彼の中にとてつもない勇気と信仰とを見たからです。
* 王から与えられた大人のよろいが身に合わず、武器も重たかったので、よろいも着ず、武器も持たず、ただ杖と石投げ器とを持ってゴリアテに立ち向かおうとしたのです。
* 名乗りを上げる者が出てこないイスラエルを馬鹿にしていたゴリアテは、やっと出てきた人間が、未熟な少年であり、武器も持たずに立っている姿を見て、拍子抜けして、あざ笑うしかなかったのです。
* 「俺は犬ころなのか。お前を鳥のえさにしてやる」と言った時、それを聞いたダビデは、「わたしは神の名によっておまえに立ち向かう。この戦いは主の戦いであって、主がわれわれの手にお前たちを渡される」と確信を持って答えたのです。
* それを聞いたゴリアテはかんかんになってダビデに近づいてきた時、ダビデは石投げ器に石を入れて一振りしたところ、それがゴリアテの額に命中したのでゴリアテは倒れたのです。そこでダビデは、彼の剣を取ってこれを殺したと言うのです。神が勝利して下さると信じ切って戦ったダビデに軍配が上がったのです。
(3)ダビデの目は何を見ていたか
* これらの情景を把握した上で、この戦いが、ダビデの目にどのように映っていたかということを考えてみることにしましょう。見た目には勝つ可能性は全くなかったこの戦いにおいて、どうしてダビデは勝利できると信じることができたのでしょうか。
* 26節において、ゴリアテは、生ける神の軍に戦いを挑んでいると言っています。ダビデにとって、ゴリアテのしていることは、神と戦おうとしている無謀なものだと見ていたのです。
* イスラエルの兵士の中に、このような見方をすることができる兵士は一人もいなかったのですが、ダビデにとってこの戦いは、神とゴリアテとの戦いだと見ることができたのです。
* どうしてそう見ることができたのでしょうか。それは、神を信じる者のために、神は何としてでも救い出して下さると信じていたからです。その信仰は、自らの信仰経験に基づくものだったのです。
* 羊飼いとして、羊を飼っていた時に襲ってきたライオンや熊から、主はわたしを救い出して下さったという経験です。それがどのような助け方であったのかこの言葉だけでは分かりませんが、奇蹟のような助け方ではなかったでしょう。
* それは、この時のゴリアテに対するように、自分の持っている技術力を生かして立ち向かった時、そこに神の力が働いて、奇蹟に見えるような勝利を得たのでしょう。ダビデはそれを自分の力ではなく、神による勝利だと信じていたのです。
* その信仰に立っていたダビデから見れば、ゴリアテの挑戦は、勝ち目のない戦いを、いかにも勝てると考えた無知で度し難い愚か者と見えたのです。
* 威圧感のあったゴリアテを目の当たりに見ていながら、どうしてこのように思うことができたのでしょうか。ダビデの目は世的な見方とは全く異なった目を持っていたというしかありません。
* ダビデの目は、神の偉大さを信じ、神を愛し、信頼する者をどこまでも守って下さる真実さを疑わず、神を信じる者の盾となり、とりでとなって下さるとの確信、それは詩篇91篇の詩人のように、神を信頼し切った目で、その状況を見る目を持っていたのです。
* そのような特別な目を持っていただけではなく、神を武器とし、盾とする戦い方をすることができた少年であったのです。すなわち、万軍の主の名、イスラエルの神の名によってゴリアテに立ち向かったのです。(45節)
* このことは言葉では簡単ですが、目の前に立ちはだかる恐ろしい敵を前にして神が私の武器となり、また盾となって下さると信じ切って立ち向かっていくのは無謀に思えるものです。
* しかし、ダビデは特別な目を持っていたから、恐れることなく、神が武器となって下さり、盾となって下さることを疑わず、ゴリアテに立ち向かうことができたのです。
(まとめ)神の名によって立ち向かう
* ここから私たちは、神にすがる生き方がどのようなものであるのかを学び取る必要があります。私たちの信仰人生において、その進む道は、ともすれば恐れを覚えさせられるほどの重荷、痛み、問題、先行き不安などが降りかかってくることがあります。
* ゴリアテに恐れをなして震え上がっていたあのイスラエルの兵士たちのように、私たちも、人生の重荷、痛み、問題などを見て、また先行きの見えない人生の不安などを思って、その背後にいてすべてのことを操り、引き落とそうとするサタンの力を感じ、なすすべがなく、おびえるしかないのでしょうか。
* それともダビデのように、特別な目を持ってそれを見、神に挑戦してきているサタンに対して、「神の軍に戦いを挑むとはなんと愚かなことか」と神による勝利を信じ切った信仰に立ち、神の名によって立ち向かうのでしょうか。
* それでは神の名によって立ち向かうということは具体的にどうしていくことなのか考えてみることが重要でしょう。神の名によって立ち向かうとは、勝利して下さる主の力を信じ、どこまでもよりすがることだと分かります。ダビデはこの信仰を、どんな困難の前においても崩すことはなかったのです。
* もちろんよりすがると言っても、自分は何もしないでじっとしていることではなく、自分の持てるすべてのものを神から与えられたものとして最大限発揮する時、神はそれを用いてわざをなして下さるのです。
* すべての物事に対して、神の名によって立ち向かっていくならば、私たちの力によらず、神の力によって歩むことができる、これが信仰人生だと言えます。