(序)アブラハムの現した信仰に目線を合わせる
* 新しい年の新しい出発、新年は、そのような、思いを新たにさせる時でありますが、私たち信仰者においては、今年はどのようなことに目を向けていくべきでしょうか、今日はご一緒にそのことについて考えてみることにしましょう。
* パウロは、信仰の重要な法則を受けとめるために、信仰者はどこに目線を置かなければならないのか示そうとして、アブラハムの信仰に目を向けさせました。
* ここで勘違いしないようにしなければなりませんが、アブラハムという人間に目線を合わせよと言っているのではありません。そんなことをしても、時代も、置かれている状況も異なっているので、意味はありません。そうではなく、アブラハムの現した信仰に目線を合わせよと言っているのです。
* 新しい年に、全く新しい目標を立てようと勧めているのではありません。これまで、神がこの群に働きかけ、霊的に育て続けて下さった神の導きと祝福とを、私たち信仰者の側が、もう一歩前進して受け取っていくためにはどうあるべきか、年が切り換わったこの時に考えていくことが大事だと言うのです。
* 言わば、今まで受け取って、霊が育てられてきた状態を踏み台にして、新たな霊の恵みを受け取り、より育てられていくための、大きな一歩を踏み出していく必要があるということです。
* そこで神が示されたのは、これまで学んだ福音の基本をより確立し、踏み固め、固定した上で、その上に積み上げていくために、アブラハムの信仰に目線を合わせ、信仰の前進に役立てるようにということでした。
* もちろん今日1回で、アブラハムの信仰すべてを学び取ろうというのではありません。もっとも特徴的な、私たちの信仰の前進にかかわる大事なポイントだけを学び取っていきたいと思うのです。
(1)主が言われたようにいで立ったアブラハム
* アブラハムの生涯を大きく4つに分けて、その節目に現した彼の信仰がどのようなものであったかを見ることにしましょう。
* 第1は、アブラハムに対する神の選びと、人生の転機となる新しい出発。第2は、約束は受けても、その実現のきざしさえ見えない時での彼の信仰。第3は、不可能を可能にされる神を信じ切った信仰。第4は、内側に残っている肉の心に動かされず、惜しむ心を捨て去って、ささげた信仰です。
* それでは第1の、もっともアブラハムの信仰がよく現れている信仰を見てみましょう。彼がどのようにして確かな唯一神信仰に立つようになったか、聖書は全く語ろうとはしていませんから分りませんが、神がアブラハムを選ばれ、驚くべき約束を与えられた時に、彼が示した信仰を見ると、それは確固たる信仰を持って向かっていたことが分ります。
* 創12:4で、非常に短いひと言で語られていますが、この信仰の姿を現すために、人はどれだけ大きな決断と、覚悟と、確立された神への期待とを示さなければならないか、それを正しく受け止めていないと、ここに示されている信仰の大事さが見えてこないでしょう。
* 神は、まずアブラハムに対して、今までの安定していた世的生活を打ち切り、私が示す霊的な生き方を中心とする生活に踏み出しなさい。霊的な生き方は、世的な生き方とは違って、先の安定を、見える形で受け止めることができるような安心が与えられず、これからどのように進んでいくのか、すべて神のお心にお任せし、神の導きに対して信頼と、安心を置く歩みに切り換えるように求められました。
* アブラハムにとっては、慣れ親しんだ国を離れ、世的に支え合う母体となる親族からも離れ、安定が約束されているように見える父の家からも離れ、霊的な生き方に踏み出しなさい。世的安定、世的気楽さを求める思いを残さず、思いを切り換えて、霊で歩み出しなさい。そのためには大きな決断と、覚悟と、確立された神への期待とが必要になってくるとここで迫られたのです。
* 神の、そのような語りかけに対して、アブラハムは、神の期待を裏切らず、「主が言われたようにいで立った」のです。どうしてこのひと言で言い表し得るほど、悩みもせず、疑いもせず、不満をもらさず信仰を現し、行動に移すことができたのでしょうか。
* これは、思いの切り換えができたからだと言えるでしょう。世的な生き方が自分に与えてくれるものよりも、霊的な生き方が自分に与えてくれるものの方がはるかに素晴らしく、本物の人生となると判断したのです。
* こうして、世的な生き方から霊的な生き方へとスイッチを切り換えていたから、世的安定や、世的気楽さが失われるとしても、決断をし、覚悟をし、神に期待する方を選び取ったので、「主が言われたようにいで立った」のです。
* もし十分な思いの切り換えをせず、世的安定も残し、霊的な祝福をも得たいと考えたとしたら、主が言われた通り前進することができず、「2兎を追うものは、1兎も得ず」のことわざ通り、世的祝福も、霊的祝福も逃がすことになるでしょう。
* もちろん人間の決心で、思いを切り換えることなどできません。神の助けを頂いて、霊的な生き方に切り換え、神のご計画の中に歩ませて頂く人生に、大きな期待と信頼とを寄せることが、信仰のもっとも重要なポイントとなるのです。
(2)神の時を信じて待ったアブラハム
* アブラハムの信仰において、第2の節目と言えるものは、特別なことが起きないという、平々凡々とした日常の生活にあったのです。
* 最初に驚くべき約束が与えられ、それを信じて、霊的生き方に突入し、何年も時を経たにもかかわらず、その約束の実現を信じ続けていても、わずかのきざしすら見えない状態で、無駄に時が流れていくように感じさせる日々でありました。
* その時主は、約束の実現を見させて下さるのではなく、その約束がいかに確かなものであるか、約束の確約だけを示して、なお信じ続けるように求められたのです。
* これは不思議なやり方です。アブラハムが、その約束を疑い始めていた訳でもなく、早く実現すると、アブラハムの信仰にマイナスとなるというのでもありませんでした。
* ここには、人間には理解できない、神のご計画の時があるとしか言いようがないのでしょう。「神のなされることは皆その時にかなって美しい」(伝道3:11)と言われているのですから、そこには深い意図があり、もっともふさわしい時が考えられているのでしょう。
* アブラハムにとって、約束の確約よりも、今、実現を見させて下さいと求めたくなる状態でもあったのです。しかしアブラハムは、自分の思いを神に押し付けようとせず、星の数ほど子孫が与えられるとの語りかけに、何の不満も、あせりも持たず、主のなされることはすべて善だと受け止めて、信じたのです。
* 神は、そのアブラハムの信仰を見て、彼の義だと認められたと言われています。(創15:6)神の時を待つ、それは確かな信仰が求められます。
* アブラハムは、なぜ神の時を信じて持つことができたのでしょうか。それは、約束の実現がなかなかなされなくても、霊的な生き方に切り換えた状態が保ち続けられていたからです。
* もし肉の思いが強くなっていれば、不満とあせりと疑いが頭をもたげてきて、霊的な生き方が崩れてしまうことになったでしょう。
(3)不可能を可能になさる神を信じ切ったアブラハム
* 第3の節目と言えるものを見ていきましょう。アブラハムが99歳、サラが89歳になって、普通に考えれば約束の実現が不可能な状態になっていた時に、神は約束を実現に移されたのです。
* その時のアブラハムの信仰を、パウロはローマ4:17〜21でこう表現しています。「死人を生かし、無から有を呼び出される神を信じたのである。彼は望み得ないのに、なおも望みつつ信じた。…彼は、神の約束を不信仰のゆえに疑うようなことはせず、かえって信仰によって強められ、栄光を神に帰し、神はその約束されたことを、また成就することができると確信した」と。だから彼は義と認められたのだと結論づけているのです。
* 不可能なことを可能になさる神を信じ切ったと言っているのですが、この言葉は、誰でも簡単に告白することはできないでしょう。それは内側にある肉の思いを完全に断ち切らなければ言えない言葉だからです。
* 霊的な生き方をし始めても、人間の心の中には肉の思いがしつこく残っており、活動し続けています。そして、いつも肉の思いの方へと引っ張る強い力が働いているのです。
* どうしてこんな状況が続くのか、どうして神はもっと明確な働きかけを見させて下さらないのか、どうして神の力のすごさを味わい続けさせて下さらないのか、霊的生き方に切り換えて向かう者に対して、日毎の信仰生活は、後押しよりも、強い向かい風を感じさせられることが多いので、疑い、不満、脱力感、悲壮感、虚無感など引き起こさせ、肉の思いの方へと引っ張っていこうとするのです。
* アブラハムにもそのような肉の働きかけがなかった訳ではないでしょう。パウロの解説によれば、「不信仰のゆえに疑うようなことはせず、かえって信仰によって強められた」と言っています。
* すなわち、内側に起きてくる肉の思いを、これは肉の思いだと認め、それを排除し、死人を生かし、無から有を呼び出される神を信じるという霊の思いを前面にかかげて、信仰を保ち続けたと言うのです。これは簡単なようで難しいことです。
(4)信仰的冒険心を持っていたアブラハム
* 不可能を可能にされた神の驚くべき約束の実現が、アブラハムの信仰を更に強固にしたのは言うまでもないことでしょう。神の御言葉に対する絶対信頼が彼の信仰の特徴となっていたのです。
* 長い戦いの時を経て、すべてが順風満帆であったアブラハムに対して、神は、その愛息イサクを全焼のいけにえとしてささげるように示されたのです。
* 神が約束を実現して下さったのに、その神が、約束の実現を反故にされるのはなぜか。アブラハムの思いの中でどのような葛藤があったか、聖書は何も記さず、結果的に、神の御言葉に従順に従った姿が描かれています。
* ヤコブの手紙の著者ヤコブは、そのアブラハムの行動を、神が義とされた(ヤコブ2:21)と言っています。ヘブル書の著者は、アブラハムは、神が死人の中から人をよみがえらせる力があると信じていたから、イサクをささげることができたと言っています。(11:9)
* 肉の思いに立っていたら、到底そんな思いにはなれなかったでしょう。子供イサクが生まれてからも、アブラハムは決して肉の思いをもてあそぶことをせず、霊的生き方を保ち続けていたから、死人をさえ生き返らせることのできる神を信じていたのです。
* これが、この時のアブラハムの持てる最高の信仰でありました。というのは、神の約束の実現が、イサクをささげて死なせることによって、崩されてしまわないためには、イサクをささげても、神が死人の中から生き返らせられることによって、その約束が生き続けるようにされる筈だと考えたからです。
* しかし、これは信仰の冒険であることは間違いありません。確かにそう信じてきてはいても、今までそれを実際に見た訳でもなく、人間的には全く不可能な事柄であったからです。けれども、それさえも受け入れ、従ったのは、アブラハムにその信仰が確立されていたからに他なりません。
* 人を死人の中からさえ生き返らせることのできる神の全能の力を信じることができたなら、人間から不安は完全に拭い去られるでしょう。
* しかし、現実に目で見なければ信じることのできない肉の心を持っている人間が、どうしてこの信仰に立つことができるでしょうか。
* しかし信仰者は、肉の心がどれだけ動き回ろうが、どれだけ叫ぼうが、それを断ち切り、霊的生き方によって進もうとする、この信仰的冒険心を持つ以外に、前進の歩みはないのです。
(結び)信仰的前向きな生き方をしたアブラハム
* これらの姿から、アブラハムの生涯において、アブラハムが貫き通した信仰がどのようなものであったか見えてきます。それは、肉的生き方から霊的生き方に切り換えて前進し始めたアブラハムは、主が語られた通りに生きる道を選び続けたということです。
* 彼の内側に、肉の思いが全く起こらなかった訳ではないでしょう。しかし、肉の心に従って生きるよりも、神のお心に従って霊的生き方をしていく方が、どんなに祝福された人生であるかを判断し、霊的生き方の方を選び取ったその決断をした時から、アブラハムは後ろを振り返ろうとはしなかったのです。
* 肉の心が残っているので、霊的生き方がもたらす損と思える部分や、不確かな約束や、現実的ではない信頼の仕方や、世的安定すらないことに目を向けさせ、それは損な生き方ではないかと、後ろ向きに考えさせようと働くのです。
* 疑い、不満、脱力感、悲壮感、虚無感など、これらはすべて、霊的な生き方をとどめ、後ろ向きの考え方をさせようとする肉の心です。この心に捉われていると、神の導きに従って、すべての物事を前向きに考え、霊的な生き方の方を選び取り、肉の心を断ち切っていくという生き方はできなくなります。
* もちろん前向きにと言っても勘違いしてはいけません。世の人が言う前向きとは、前向いて歩いていけば、きっとよいことが待ち受けているだろうという願望の裏返しにしか過ぎないものです。
* しかし信仰者にとって、前向きに考えて前進していくというのは、そこには導いて下さる神が不可能を可能にされる力をお持ちであるから、その神を本気で信じ、たとえ肉の思いが出てきて、そんなことあり得ないと思おうと、そんな後ろ向きの思いに惑わされず前進し、神にすがって平安でおれるのです。
* これが、前向きな、霊的生き方であり、神の力を受け取っていく生き方のです。
* 信仰の前進。これがないならば、信仰生活の中で、いつも霊が上がったり下がったりして堂々巡りして、決して育てられていくことはないのです。
* 前向きに進んでいこうとしない限り、信仰は大きく前進していかないのです。後ろ向きの思いをもてあそんだり、それにいつまでも捉われていると、肉の心を断ち切ることはできなくなり、霊的な生き方がとどめられてしまいます。
* 不可能を可能にされる全能なる神を本気で信じる、信仰的冒険心を現していくことができないならば、信仰は何の力にもならず、内に残っている肉の思いで潰されてしまうのが落ちです。