(序)剪定のみわざから出発した一年
* 昨年のクリスマスの時には、一年の恵みを思い起こして感謝する時、それが私のクリスマスだと言ってきました。
* その時に与えられた御言葉を通して、この群を、ぶどうの幹であるキリストにつながる枝として見て頂き、実を結ばせるために、すなわち、神が養い育てられたきよい群として実を結ぶように、農夫である父は、深いお考えをもって剪定されたということを学びました。
* 剪定によって、痛みを覚えさせられたのですが、それによって弱るのではなく、キリストから流れてくる養分を十分に受け取ることのできる枝だけ残され、それによってぶどうの木全体が神の祝福を受け、豊かな実を結ぶように働かれたという、激しい、しかも、厳しい愛を実現なさったという点を受けとめて出発した一年でありました。
* 剪定された時には、残りの枝が本当に実を結ぶ枝となるのか、それとも剪定し損なって、木そのものが弱り、全く実を結ばないようになるのか、先が見えるわけではなく、厳しさ、つらさだけが残る働きかけであったと感じさせられたものでありました。
* ただ信仰によって、神のなさった剪定のわざは、すべてをご存知であり、先を見通しておられる神のお心に沿ったものであると信じて、みわざを進めて下さる主に期待と信頼を寄せて、再出発するように臨んで下さったのです。そのことは、私たちに対する、信仰を練りきよめるためのものであったのです。
(1)実を結ぶ枝に育てられたかを検証する
* それ故、今年のクリスマスは、練りきよめる働きかけを受けた、剪定後の幹であるこの私たちの群が、幹であるキリストによりしっかりと結びついて、養分を十分に受け、枝が強くされ、実を結ぶようになったかどうかを検証する時だとも言えます。
* 何を検証すべきか、それは剪定された後の、残された枝として、すなわち、実を結ぶ枝として霊が強くされていき、ますます幹にしっかりと結びついた確かな枝とされているかという点であり、そして、次の段階へと進み始めているかという点についてであります。
* こうして、豊かな実を結ぶことが、キリストにつながっている弟子としての歩みであり、それが剪定をして木を育てようとされた神の望んでおられることでありますから、私たちがその信仰を現すことによって、神は栄光をお受けになるのです。
* すなわち、私たちがその信仰を現すなら、農夫なる神の育てのわざが正しかったことが証明され、神がたたえられることになりますが、逆に、実を結ばず、神の望んでおられない結果になるなら、神の剪定のわざが失敗であったことを意味し、私たちの群の故に、神の名を引き落とすことになるのです。
* なぜ検証する必要があるかと言いますと、剪定のわざが神のみわざであり、群を、真の意味で大きく育てるために、農夫である神様が深いお考えの下でなさったことであり、現実にそれが神のみわざであったと判定できる確かな実証を得ることができたのか、このことを検証することが信仰であり、神をたたえていくことになるからです。
* 検証することによって、実証を得ることのできない信仰など、何の益にもならず、飾り物の信仰でしかありません。神の確かさ、私たちの立ち位置の確かさ、その向かい方の正しさ、私たちのあるべき姿の確認、これらが十分になされてこそ、キリストの弟子としての歩みをしていることになるのです。
(2)キリストの愛の中にとどまり続ける
* 農夫である神様のなさろうとしたことは、キリストを幹とし、そこにつながっているキリストの弟子たちが、実を結ぶ枝となっていくという、ぶどうの木全体の育成栽培が目的であったのです。
* 一人一人が、キリストの弟子として歩むことはもちろんのこと、キリストを中心としたキリストの弟子集団(ぶどう木)を育てることに、神の目が向けられていることを記したのがヨハネ15章のイエス様のお話の中心です。
* キリストの弟子集団とは、キリストの弟子が、バラバラにただ集まっているというのではなく、一つの集団としての深い結びつきの中で、互いに愛し合い、きよめられた集団となっていくように育成されていく群のことが考えられているのです。
* だから一人一人が、キリストの弟子集団の一部として受けとめ、自覚し、キリストの弟子としての生き方を現していくように導かれ、育てられていくことを求めて歩んでいくことが、神のお心とお働きとを辱めない向かい方となるのです。
* 父なる神が、子である私をどんなに深く愛して下さったことか、それと同じように私も私の弟子たちをどこまでも愛してきた。だからあなたがたのすべきことは、私の愛を喜んで受けとめ、その愛の中にとどまり続けることが大切だとイエス様は語られたのです。
* キリストの愛の中にとどまるとは、具体的にどのような勧めであるのかを考えて見なければなりません。10節で、それはキリストのいましめを守ることだと説明されています。更に12節で、キリストのいましめとは、信仰者が互いに愛し合い、友のために自分の命を捨てることだと言われています。
* ここから分かることは、キリストの愛の中にとどまるとは、キリストの愛の下にいる心地よさに浸りなさいというような消極的な意味ではなく、キリストの愛のすごさを本気で受けとめ、愛されている者として、自分たちにできる最大の愛を表していく努力をして愛し合い、きよめられた弟子集団が、深い一体感を持って向かう主の群として前進していくことを願って、全力を尽くせと言われているのです。
* このような勧めをなさったイエス様のお心を考えて見ますと、わたしとしっかりとつながっていて、実を結ぶ枝となれと言われたのが、信仰者として、伝道の実を多く結び、多くの魂を獲得していく枝となるようにという勧めなのではなく、集められた枝が、すべてきよめられた弟子集団を育成栽培していくために必要なものではないので、剪定され、選ばれた枝が、実を結ぶ枝として残され、神の望んでおられるきよめられた弟子集団としての実を結ぶものになると言われていることが分かるのです。
* なぜこのような勧めがなされているのでしょうか。それは、イエス様があるたとえ話の結論においてお語りになった言葉に、「招かれる者は多いが、選ばれる者は少ない」(マタイ22:14 新36)と言われたお心を考えて見ますと、どれだけ愛を持って招かれ、キリストの下に来たとしても、人間の心は不安定で、心変わりしやすく、だまされやすく、招かれたことの喜びを保つことができず、キリストの弟子集団の中に選ばれ、キリストを中心としたぶどうの木として実を結ぶものとはなっていかない枝が必ず出てくると見られていたことが分かるのです。
* だからこそ、私につながり、私の中にとどまりなさいと繰り返し勧められており、とどまっている枝同士、互いに自分の命を捨てるほどに愛し合っていくという実を結ぶ歩みをしていくことが大切であって、そうでないと不要な枝として切り捨てられてしまうと言われたのです。
* 招かれた者の中から少数の選ばれた者を残されるのは、人間の思いによるものではなく、神のお心によるものですから、人間の情によって、どうして?と考えるべきではないのです。
* これからも多くの魂が招かれるのですが、その中から実を結ぶ枝だけが残され、少数の選ばれた者を弟子集団に加えていかれ、神のみ栄えを現す、時間、空間を超えたぶどうの木を完成に導こうとされるのです。
(3)何の実を結ぶ必要があるのか
* このような神のみわざが進められていると理解した上で、私たちの群に進められていることは何かを考えて見る必要があるのです。
* まず、実を結ぶとは何かを考えますと、それは第1の実として、一つ一つの枝が強くされ、成長していくことです。もし、神が剪定なさっても、残された一つ一つの枝が強くならず、成長していかなかったならば、剪定の意味は失われてしまいます。
* 無駄な枝を切り、養分が余分な方に流れないようにされ、残された枝に十分に行き渡るようにされることによって、大きく成長し、実を結ぶ最初の段階をクリアするようにされてこそ、剪定された意味が見られることになるのです。
* 一つ一つの枝がどうなっていけば、強くされ、成長していると言えるでしょうか。イエス様が11節で、「私の喜びがあなたがたのうちにも宿るため、また、あなたがたの喜びが満ちあふれるためである」と言われています。すなわち、霊の喜びが内側に溢れるようになり、それが失われないようになることだと示されています。
* イエス様が言われた「わたしの喜び」とは一体どのようなものなのでしょうか。それは、父なる神との親密なる結びつきからくる喜びであり、それはまた、神に服従し、み栄えを現す歩みから来る喜びであり、与えられた使命を果たす喜びであり、神に信頼し、期待し、ゆだねきっている喜びであり、神の御思いとご自分の思いとが一つにされている喜びであります。(ヨハネ10:30 新157)
* このような喜びが、幹なるキリストから、一人一人の枝に流れてきて、キリストの持っておられる同じ喜びを共有する者になっていき、消えることのない喜びに満ち溢れさせて下さると言うのです。
* 実を結ぶ必要のあるもう一点(第2の実)について考えますと、それは、キリストの弟子集団としてのぶどうの木全体の成長であります。そのことは、パウロがコロサイ書で語っています。(2:19 新316)「このかしら(キリスト)から出て、からだ全体は、節と節、筋と筋によって強められ結び合わされ、神に育てられて成長していくのである」。
* 一人一人が、キリストの持っておられた喜びを共有し、ぶどうの木全体として、霊において深く結び合わされ、互いに愛し合って強められ、神に育てられて成長していくという、実を結ばせようとされるのです。
* 確かに、互いに愛し合うとは、一言で言えるほど簡単なことではないし、しかもそれが、自分の命を捨てるほどのものだと言われると、一層楽に実を結ぶことは難しいと思わされます。しかし、だからと言ってあきらめるのではなく、そのために強い意志を持って信仰的努力をしていく必要があるのです。
(まとめ)空の鳥が羽を休めようとする群
* この第1の実と、第2の実とが結ばれていくなら、ぶどうの木は大きく成長していきます。そうすればイエス様がからし種のたとえ話で話されたように、「天国は、一粒のからし種のようなものである。ある人がそれをとって畑にまくと、それはどんな種よりも小さいが、成長すると、野菜の中でいちばん大きくなり、空の鳥がきて、その枝に宿るほどになる」のです。(マタイ13:31,32 新21)
* 木が成長すれば、自然と空の鳥が羽を休めるためにやってきます。そのように、神が選ばれる弟子は自然と集められるのです。集めることを先立つものと考えて向かうと、空の鳥が宿るほどの木になっていないので、羽を休めるためにくることはないでしょう。
* だからこそ神は、ぶどうの木を、実を十分に結ぶ木に育てることに心を傾けて下さっているのです。
* 友のために命を捨てるほどの愛を持って、互いに愛し合おうとしていくことが、今の私たちにおいてどんな向き合い方をすることなのか考え、努力し、どんなに小さな群であっても、からし種のように大きく実を結ぶ群とされ、空の鳥が羽を休めようとする群れとなることを真剣に求めて歩みたいと思うのです。
* 同じキリストにつながっている友として、大事に思い、いつも覚えてとりなし、主を中心とした交わりを大切にし、一緒に主に向かい、共に喜び、共に前進していく友として、証しし合っていく向き合い方が求められているのでしょう。