(序)安易な避難場所か、安全な避難場所か
* 人は、強い風雨が吹きつけてくるとどうするでしょうか。普通、一時的に身を避け、風雨が収まるまで待つものです。それは、長く続かないで収まると思うから、身を避けるのです。もしこれが全く収まる気配のないものであったら、その避難の仕方で大丈夫なのかと考えるでしょう。
* この詩人の置かれていた状況は、風雨が激しく、今いる場所の土台をも押し流しそうな、洪水をももたらす程のものであったのです。それ故、今のような避難の仕方で大丈夫なのかと不安と恐れの心を引き出そうとする、精神的、信仰的迫りを覚えるものでありました。
* ある意味では、すべての信仰者が通されることだと言えます。神の下に避難するのが一番いいと考えた詩人に対して、友人たちは、そのような一時的な、安易な避難では乗り越えることができない、もっと現実に目を向けた方がいい。
* そのような安易な避難に頼るのをやめて、できる限り遠く山の方へと逃れ、確かな安全を確保するという正しい対処をしなければ、今の危険を乗り越えることができないと助言するのです。
* 普通なら、自分の信仰的考え方を信用する方がいいのか、それとも現実に即した友人の助言に耳を傾けた方がいいのか心が迷うものです。
* この詩人はどちらを選び取ったのか、また、どうしてそちらを選び取ったのか、この詩を通して告白している内容から、そのことをご一緒に学んでいくことにしましょう。
(1)詩人の苦境を案じる友人たちの理性的助言
* 表題には、ダビデの歌とありますが、作者がダビデであったかどうか決める手掛かりはありませんから、ダビデだと決定付けることはできません。ダビデが逃避行を繰り返していたから、同じような背景を考えることもできますが、この詩の情景は特殊なものではなく、誰もがダビデと同じ戦いを通され、どちらを選ぶか問われることがありますから、ダビデと同じ信仰に立つ者の歌と見ていいでしょう。
* まず彼は、自分に言い聞かせる思いをも含めて、私が避け所とするのは、主の下だけだと言い切るのです。この詩人がこれまで、どのような信仰に生きる人生を送ってきたのか、その背景を知ることができませんが、今詩人が立っている信仰がどのようなものであるかは、この歌の内容によく表れています。
* 詩人が、現在どのような状況に置かれているのか、この歌の内容から考えて見ますと、悪しき者が暗闇の中で、今にも弓を射ようとして待ち構えているという表現で、心のまっすぐな者に向けているということですから、詩人に何の落ち度もないのに、ねたみ、逆恨み、八つ当たりなど、詩人に対して悪意を持って襲い掛かっていこうとしていたことが分かります。
* 1節から3節の内容は、1節1行目の詩人の告白に対する1節3行目から3節までは、あなたがたと呼んでいる友人たちの助言と見られています。というのは、その助言に悪意は感じられず、そのような避難の仕方では、悪しき者たちからの攻撃に耐えられなくなるから、鳥のように山に逃れた方が賢明だと親切心から言ったのでしょう。
* 確かに、世的な見方によれば、それが当然な助言であり、神の下に逃げ込むのは、弱い人間がする宗教的逃避だと見え、正しい対応だとは言えないと考えられたのでしょう。世の人の視点から、その状況を見れば、その方が正しいと言えます。しかし詩人は、その方を選び取らず、確かな避難場所として、神の下を選んだのです。
* 襲い掛かるとあるのは、何も暴力だけとは限らず、悪口、偽証など、害毒を含んだ言葉の攻撃も含めて、詩人の信用や、神への信仰を引き落とそうと仕掛けてくる、あらゆる攻撃が激しく襲い掛かっている状態であったのでしょう。
* 3節の基が取り壊されるとは、信仰者にとって礎だと考えられるものは、4節において聖なる宮にと歌われている内容から考えますと、エルサレム神殿の土台が崩されることを意味していると考えられます。
* それは、神殿における礼拝を重んじている神殿信仰の崩壊が起こりつつあるという意味ならば、神にすがる正しい者は、どのように対抗できるだろうかとの意味でしょうか。
* すなわち、友人たちの助言は、あなたに襲い掛かっている悪しき人たちは、あなたが逃げ込んだエルサレム神殿の、その礎を崩そうとしており、あなたが頼りにしているものはつぶされるのが必至だ。あなたが頼りにしている神は、対抗する力がないのではないか。もっと知恵を働かせて、自力で遠い山の方に避難する方が懸命な対処法ではないかと言うのです。
* もし詩人が、神は無力で、ご自身の住まいであるエルサレム神殿さえ守ることができず、礎まで崩されそうになっているのに、何の手出しもできないお方でしかないと思っていたなら、友人たちの言葉に言い返すことのできず、無力感が漂うようになっていたことでしょう。
* 確かにこの詩人は、エルサレム神殿を、神と向き合うことのできる大事な場としていたと考えられますが、神は、エルサレム神殿に目を留めておられることを信じていたのですが、そこに住んでおられると見ていた訳ではないのです。
* そのことは、4節において、主の御座は天にあると言っています。これは、ソロモン王がエルサレム神殿を神に奉納した時に、真実な信仰を持って祈った信仰内容と同じものであったと言えます。
* ソロモン王はこう祈りました。(列王記上8:27〜30 旧489)「しかし神は、はたして地上に住まわれるでしょうか。見よ、天も、いと高き天もあなたを入れることはできません。…あなたが『わたしの名をそこに置く』と言われた所、すなわち、この宮に向かって夜昼あなたの目をお開き下さい」と。
* 神は神殿に住んでおられるのではないが、神殿において主に向かう者に目をとめて下さっている。だからたとえ人の力で神殿の基が崩されるようなことがあっても、それは神が無力であることを意味するのではなく、それは単に建物の崩壊でしかなく、人間の力の及ばない天の御座において、神は、ご自身に向かう者に目を留めて下さっている事実に変わりはなく、神への信頼は崩されることはないのです。
* 目に見える神殿を大事にしてはいますが、見えるものに信頼を置いているのではなく、天の御座において目を留めて下さっている主を信頼している。これが詩人の揺るぐことのない信仰であったのです。
(2)理性的、知的判断を越えた信仰的判断に生きた詩人
* 友人たちの助言に対して、詩人は、心を揺さぶられることはありませんでした。それは、神がすべてのことを見抜かれるお方であり、その行いに応じて正しい裁きをなされる力あるお方であると信じ切っていたからです。
* それでは神は、どのような者を悪しき者として裁かれ、炭火と硫黄とを降らせ、完全に焼き尽くされると言われているのでしょうか。
* それは、神を信じない不信仰な人のことでもないし、世を楽しみ、自らの欲望のままに生きる人のことでもないでしょう。もしそうであるならば、信仰者以外の者を全部滅ぼし尽くさなければならないことになります。
* 神が、恐ろしい刑罰を与える必要があると見ておられる悪しき者とは、主の下にいる心の直き者を引き落とそうとして、悪しき策略と、暴力と、汚れた口を駆使して働き続けているサタンの手下となってしまっている人々のことだと分かります。
* 信仰者に刃を向けることによって、神に刃を向けていることになり、神の怒りを引き寄せ、その裁きを積極的に受けようとしていることになるのです。新約においては、キリストの福音に立っている者を、そこから引き摺り下ろそうとした人々は、神の呪いを受けるようにとパウロは語っています。(ガラテヤ1:8 新293)
* 神に信頼を置いて生きている者に牙をむく者は、わたしに牙をむくことになり、わたしに牙をむく者は、わたしを遣わされた方に牙をむくことになる(ルカ10:16 新104)とイエス様も教えておられます。
* すなわち、神に信頼を置いて生きる信仰者の中にキリストがおられ、そのキリストの中に神がおられるという霊的真理を明らかにして下さっているのです。
* そのことを信じていた詩人は、友人たちが親切心を持って、世の状況を見極める理性的判断によって示してくれた助言は、世的には当然な助言だと分かるのですが、詩人は理性的判断によらず、信仰的判断によって決断を下したのです。
* ともすれば、信仰的判断というと、理性的、知的判断を無視した偏った向かい方だと考えられやすいのですが、理性を無視するのではなく、理性を越えた判断をするのです。
* 理性を越えるとは、世における理性的判断は、人間の能力の範囲内でしか下せないものですが、信仰によって、そこに力ある神が働いて下さることによって、人間の能力を越えた判断を下すことができるのです。
* もちろん、自分の思い通りに神が働いて下さる訳ではありませんから、人間の能力を越えたすべての判断を下すことが信仰的判断だと言うのではなく、神の偉大な御力を信じ、神が正しい判断を下されると信じ、最もよい働きかけをなして下さると信じる、理性を越えた信仰的判断を下すことが大切なのです。
* 友人たちは、親切心を持って、理性的判断による助言をしてくれていたのですが、それは偉大なる神を否定するものでしかなく、信仰的判断をもって進もうとしていた詩人にとっては、信仰を引き落とそうと理性に働きかけ、世的考え方を持つように迫ってくるサタンの働きかけでしかなかったのです。
(3)霊で神の方をまっすぐに仰ぎ見る
* この詩人は、自分をも含めて、信仰に生きる者のことを、心の直き者と呼んでいます。これは、心に少しのゆがみもない、欠点のない正しい人々という意味ではなく、神の方に思いがまっすぐに向けられている者のことを指しています。
* それ故、7節の所では、まっすぐな者は、主の御顔を仰ぎ見ると歌っています。これは、神が偉大なお方であり、すべてのことをご存知であって、正しい裁きをなさることのできるお方だと信じる心を持って、主を仰いでいる者のことを指しているのです。
* 主にまっすぐに向かっている者に対して、主は愛して下さり、その歩みを支えて下さり、導いて下さるというのが、この詩人の信仰であったのです。
* すなわち、倫理的な意味でのまっすぐさではなく、信仰的な意味でのまっすぐさのことです。私は、主の御顔を仰ぎ見ていますと信仰を持って告白しているのです。
* 主の御顔を仰ぎ見るとは、旧約においては、人間が神の御顔を見ることができず、特別その神秘的体験を赦された人だけが御顔を見ています。預言者イザヤは、エルサレム神殿におられた神を見た時、「わざわいなるかな、わたしは汚れたくちびるの者で…あるのに、わたしの目が万軍の主なる王を見たのだから」と言いました。(イザヤ6:5 旧950)
* それでは、この詩人は、どのような意味で主の御顔を仰ぎ見ると言ったのでしょうか。これは、直接目で見るという意味ではなく、臨在して下さっている霊なる神をイメージして、信仰によって仰ぎ見るという意味であることが分かります。
* あらぬ方向を見ることではなく、霊で神を見るのです。悪しき者が信仰をつぶそうとして、どのような働きかけをしてきても、霊で神の方をまっすぐに向いているならば、それを人間の正しさと見られ、義なる神はそのような信仰による正しい者を、徹底して愛して下さると言うのです。
* 詩人は、この信仰に立っていたが故に、悪しき者の働きかけにも、理性的な友人たちの助言にも心を動かされることはなく、まっすぐ神を見つめて、安心していることができたのです。
* 新約の時代にいる私たち信仰者においても同じです。霊で神の方をまっすぐに見つめることによって安心できる、そんな信仰に立ち続けることができるでしょうか。
(結び)信仰的な自分と不信仰なもう1人の自分
* 詩人の信仰をつぶそうと仕掛けてくるのは、はっきりと敵と分かる悪しき者たちの働きかけだけではありません。世における友人だと思える人々による親切心から出た助言の中にも、見ることができるというものでした。
* この詩人の場合は友人たちでありましたが、人によっては伴侶であったり、家族や親族であったりする場合もあり得るでしょう。この地上において、主を仰ぎ見る信仰者以外の人は、すべて世において形造られた理性によって生きていますから、その口から出てくる言葉は、すべて理性的判断によって発されるものです。
* 理性的判断が正しいと思っている人は、偉大なる神がおられることを前提として、信仰的判断をしようとしている人を見れば、宗教的逃避をしていると見たり、空想、作り事の世界に思いを向けて現実を見ないようにしていると考えたりするでしょう。
* それは、理性的判断と、信仰的判断の土台が、天と地ほども違うからです。ただ信仰者の思いの中にも、救われる以前に持っていた理性的判断を土台とする判断、生き方がなお残っており、信仰的判断に100%切り換えることができていないことも事実です。
* 言うならば、信仰を持つことによって、理性的判断によらない信仰的判断をしていこうと切り換え続けていくことで、最初の内は、理性的判断がまだ強く支配している状態が続き、なかなか信仰的判断に切り換えられないもどかしさを感じるのですが、神をまっすぐに見つめて歩む信仰に向かうことにより、理性的判断を越えた信仰的判断によって進むことができるようになっていくのです。
* 友人であれ、家族であれ、親切心からなされる理性的判断による助言や、時には苦言や、時には非難を受けることがあるでしょう。それは彼らにとって、私たちの信仰的判断を甘い考え方だと感じたり、現実逃避だと感じたり、不可解に感じたりするからです。
* それだけではなく、私たちの内側にも、信仰的判断よりも、理性的判断の方に引っ張られる要素を残しているという事実を決して忘れてはなりません。それが残っているから、悪しき働きかけや、理性的な助言、苦言、非難などを聞く時、信仰的判断に立ち切れず、心が揺れ動かされたりするのです。
* この意味で詩人は、それを断ち切るだけの信仰的判断の方が強くされていたことが分かります。神をしっかりと、まっすぐに見つめていたから、現状の戦いはなくならないが、神の守りを本気で信じ、御顔をまっすぐに仰ぎ見る者を神は御手の中において、どこまでも愛して下さると信じることができたのです。
* 現状は必ず良い方向に向いていたとは言えないでしょう。しかし、主の下に身を避けるよりも優れた避難場所はどこにもない、ここだけが唯一の安全が保証された所であると信じ、理性的に見ればそう見えなくても、信仰的判断で、それを信じ切って向かったのです。
* 時代も背景も状況も異なっている私たちの歩みに置いても、理性的判断と信仰的判断を併せ持った信仰者であるという点は変わりません。どちらの判断がその人の生き方の中心になっていくかで、信仰的な自分が強くされていくか、それとも不信仰なもう1人の自分の方が強くされていくか、大きな分岐点となるでしょう。
* もちろん、ここで言う不信仰なもう1人の自分と言っても、全く信仰を持っていない、神に反逆している姿を指しているのではなく、疑いや不満が残り、信じ切れず、理性的判断の強さに負けてしまう状態のことを指しています。
* 御言葉に生き、主によりすがり、主のしもべとされている喜びと感謝にあふれて、信仰的判断によって進もうとする信仰的な自分を大事にするのか、信頼し切ることができず、理性的判断に惑わされる不信仰なもう1人の自分を大事にするのか、今の私たちにも問われていると思うのです。
* 確信があるかないかではなく、確かな神を信頼し、理性的判断を越えた信仰的判断によって大胆に進んでいくことにより、信仰的な自分が強くされていき、サタンに揺さぶられることがなくなっていくのです。