聖日礼拝メッセージ
2012年7月8日 更新

聖 書 詩篇12:1〜8
 題  「信仰者のために立ち上がって下さる神様」


  (序)口の罪に鈍くなっていく恐ろしさ

* 今日は、なぞなぞから始めることにしましょう。軽いものは相手を重くするが、重いものは相手を軽くします。これは一体何でしょうか。

* 答えは、言葉です。軽い言葉は相手の心を傷つけて重くさせ、重い言葉は相手の心を慰め、軽くさせてくれます。

* 私たち人間は、人の言葉でどれほど思いが振り回され、時には傷つき、時には打ちのめされ、心乱され、苛立ちと憎しみとが引き出されるか、すべての人は経験させられてきているはずです。

* それほど言葉というものが大きな力を持ち、人を左右する力を持っているが故に、慎重に扱わなければならないことが分かっているはずなのに、多くの人は口に門番を置かず、軽い言葉を垂れ流しています。

* 詩篇141篇の詩人は、その怖さをよく知っており、軽い言葉が出やすい口であることを自覚していましたから、主に「わが口に門守を置いて下さい」(141;3 旧873)と願い、口の罪を犯さないようにと助けを求めています。

* 軽い言葉の怖さを自覚していた12篇の詩人は、神の民であるはずのイスラエル民族の中で、真実な、誠実な言葉が聞かれなくなり、うそと騙し合いと、こびへつらいの言葉と、二心の言葉と大言壮語とが激しく飛び交う、寒々とした退廃した民の姿を見て憂えていたのです。

* これは、老人が “今の若い者は”と言って嘆いているような歌ではありません。人間の罪の本質を悟ろうとせず、神の前に立とうとしない民が、口の罪に鈍くなっていく恐ろしさを見させられた詩人は、彼らをあわれんで下さるようにと、神の助けを願うしかないと考えて歌った歌です。

* これは、各々の立てられた時代における堕落した民の姿を見て、神がどれほど怒りと悲しみを覚えておられるか、神のお心を伝えずにはおれなかった預言者たちと同じ所に立って歌っている、願いを込めた祈りだと言えるでしょう。

* これは、口の罪を意識し続けていなければならない新約の時代に生きる私たち信仰者においても、預言者たちと同じ所に立って、人間が吐き出す軽い言葉を嫌われる神の怒りと悲しみとを覚える重要さを学び取るべきでしょう。それではその内容をご一緒に見ていくことにしましょう。


  (1)落ちる所まで落ちてしまっていた民の状態

* 歌の最初から、主よ、お救い下さいと祈り、民のあまりにもひどい状態を告発し、そのひどさにあきれて、主が見捨ててしまわれることがないようにと願っているのです。

* そのひどい状態の第1は、神に対して忠実に、心底敬う心を持って神に向き合おうとする者が絶え果て、絶滅危惧種に指定され、生存している可能性が限りなく低い状態になっていたと言うのです。

* どうして信仰を持つ人々が消え去るようなことになってしまったのでしょうか。それは、偶像に目を向ける信仰的外来種の繁殖が激しく、忠実な信仰者たちを端に追いやり、住めなくさせていったからでしょう。

* どうして外来種がはびこるのか、それは、神の前における罪を意識せず、口を制御せず、内から肉が出るままに放置し始めると、それは外来種がはびこる環境作りを無意識の内に最高の状態で作り出していることになるのです。

* この詩人は、偶像に目を向けるようになっている民の姿を、目に見える偶像だけではなく、自分の思い、自分の口を自分の主人、神としていた偶像崇拝者だと見ていたことが、4節の表現から分かります。

* そのひどい状態の第2は、うそ、騙し合い、誠実さのない言葉が平気で飛び交うのが異常なことではなく、それが人間の本性だから仕方のないこととして認めており、騙されるのは、騙される方が悪いと見るようになってしまっている状態です。

* そこには真実は意味を成さず、真実に生きようとする者は馬鹿を見、貧しい生き方しかできず、更に口のうまい人間によって、気のよさに付け込まれ、なけなしの財までかすめ取られたり、しいたげられたりして、口がうまく、ずるがしこく立ち回ることができる者だけが生き残るような社会になってしまっていると分析しています。

* これは、罪の世界である日本の社会においても、弱者、老人などの金を狙って、言葉一つで騙し取る人々が、雨後の筍のように無数に出てきていることを思う時、もはや人間性がどん底まで堕落していると感じるのですが、神の民であるはずのイスラエル社会の中においても、信仰者はごく僅かとなり、落ちる所まで落ちていると詩人は見ていたのです。

* そのことは、預言者エレミヤの時代においても同様であったことが示されています。(9:2〜6 旧1,061)「…彼らはみな姦淫する者、不信のともがらだからである。(他の神々に心を向ける霊的姦淫者、神を裏切る者の集まりだと言っている。)彼らは弓を引くように、その舌を曲げる、真実ではなく、偽りがこの地に強くなった。…人はみな、その隣り人を欺き、真実を言う者はいない。…偽りに偽りを積み重ね、わたしを知ることを拒んでいると主は言われる。」

* そのひどい状態の第3は、へつらいと二心と大言壮語が吹き荒れる、虚飾の世界にしてしまっていると言います。そこで権力、財力、その他世の求めるものを持っている人々にへつらう下等な人間があふれ、いとも簡単に信頼に背く二心を現す人間が増え、虚栄、傲慢な人間が幅を利かす社会になっていると指摘しています。

* それらが示しているものは、正直者、誠実に生きる者が貧しくなり、しいたげられ、見下され、神に信頼を置いて生きようとすることは、人間性の低い、弱い者のすることであるという見方が定着し、自分の舌を自在に操って、勝ちを得ることが人生の勝ち組だと見る、全く世と同じ有様だったのです。

* どうして神の民の作り出した社会が、このような世と全く同じ社会に堕落してしまったのでしょうか。それは、自分の本当の主人が誰であるか分からなくなってしまっており、自分の舌、自分の言葉を神とする偶像社会になってしまっていたからです。


  (2)真実のない人間の言葉と真実な神の言葉

* 自分の本当の主人を見失ってしまった堕落した社会の中に置かれた真実な信仰者たちは、どのように生きていくべきでしょうか。この詩人は、神が語って下さっている約束の言葉を聞き、そこに信頼を置いて生きていく以外にないことを示しています。

* 5節で、主が言われると言っている言葉は、この詩人が今耳に聞こえる形で主の語りかけて下さっている声を聞いたと言っているのではありません。6節の、主の言葉は清き言葉であると言っている内容から考えますと、この詩人は、神からの約束のお言葉を読むことができたのでしょう。

* この詩人が読むことができた聖書は何であったのか分かりませんが、たとえばイザヤ書の次のような言葉に似たものであったのでしょう。(33:10,15,22 旧987)「主は言われる。『今わたしは起きよう、いま立ちあがろう、いま自らを高くしよう。』…正しく歩む者、正直に語る者、しえたげて得た利をいやしめる者、手を振って、まいないを取らない者、耳をふさいで血を流す謀略を聞かない者、目を閉じて悪を見ない者…主はわれわれの王であって、われわれを救われる」と。

* この詩人にとって、神の民の社会の中に、ここまで信仰的外来種がはびこり、世と全く同化してしまっている様を見ても、神は大多数の堕落した民の故に、全部を見捨ててしまわれるようなお方ではなく、ごく少数となっていても、正直に、誠実に神の御前に歩もうとしている者たちのために立ち上がって下さり、救いの中に置いて下さると、約束のお言葉に対する信仰は動かなかったのです。

* 口語訳では「慕い求める安全な所に置こう」と訳していますが、これは新共同訳のように「彼らが仰ぎ望む救いを与えよう」と訳す方が原文の意味からも、話の筋からも分かりやすいでしょう。

* この当時においては、民全体の救いが主要テーマであったにもかかわらず、詩人は個人的救いが排除されることはなく、民の大多数が堕落し、神の怒りと悲しみとを買う姿を現していても、個人の救いのために神が立ち上がって下さるという信仰に立っていたのです。

* それは、主の約束のお言葉は、最終的には、神と個人の間における契約関係に基づくものであるという新約の信仰に流れていく信仰理解が、この詩人においては、それを受けとめることができる信仰に立っていたと考えられます。

* 主の約束のお言葉は、炉で七たび精錬された銀のように、そこには偽りや虚飾が全くない、真実な、神の御力に満ちた驚くべき力あるものであることを示そうとしています。

* なぜここで、御言葉の真実を強調しようとしたのでしょうか。それは、自分の舌、自分の言葉を神として歩んでいた傲慢な人々の虚言、真実のなさと対比しようとしたのでしょう。神の約束のお言葉に、うそ、偽りはどこにもないことを明言しようとしたのです。

* その確かさを、預言者イザヤの言葉で言うならば、「このように、わが口から出る言葉も、むなしくわたしに帰らない。わたしの喜ぶところのことをなし、わたしが命じ送ったことを果たす。(イザヤ55:11 旧1025)と語られている通りであり、神は真実なお言葉どおり、約束を守って下さるお方であるとの詩人の信仰告白となっています。


  (3)霊的取り扱いの確かさを見る

* このように詩人は、正直な者、誠実な歩みをする者は、世においてはしいたげられたり、騙されたり、貧困を味わわされたり、人々の口によって傷つけられたりすることはあるが、神は信じる者に目を留め、立ち上がって下さることを信じていたのです。

* そして、立ち上がってして下さることを7節では2つの言葉で言い表しています。第1は、そのような激しい世の流れに飲み込まれないように、私たちを保って下さると言い、第2は、これらの人々の放つ害毒から免れさせ、守って下さると言うのです。

* 7節にある、われらを保ちとある“われら”という言葉は、原文では彼らという3人称複数にも読むことができ、どちらが正しいとは言えない難しさがあるのです。詩人が自分をも含めて主に祈っているのか、それとも信仰による弱者たちの事を指して祈っているのかの違いとなります。

* どちらにしても、誠実に主の御前に生きている者がしいたげられ、乏しい状態に置かれ、更に困窮に陥らせようと騙し、混乱させ、その信仰を引き落とそうとしてくる世の流れの強い状況の中で、詩人は、神が信仰者をどのように取り扱っておられるのか、信仰の目で見て告白しているのがこの7節であって、単なる願いというより、そうして下さるお方だとの信仰告白だと言うことができます。

* それでは、目に見える状況が変わらず、つらく厳しい状態が続いているにもかかわらず、詩人はどうしてこう言えたのでしょうか。神はそうして下さると信じて願うことができたのはなぜでしょうか。

* 主への信頼を現すことで歌を終わらせず、この詩の最後においても、現実が全く変わらないことを明らかにし、悪しき人々がやりたい放題にしている様をなお見なければならず、詩人の信仰を揺さぶろうとする状態が続いていることを示して歌い終えているのは、一体どうしてでしょうか。

* 信仰の勝利といつも隣り合わせにそれを惑わし、疑わせようとする事実がついて回ることを示そうとしているのでしょう。パウロも同じような結び方をしています。ローマ7:25(新242)「わたしたちの主イエス・キリストによって、神に感謝すべきかな。このようにしてわたし自身は、心では神の律法に仕えているが、肉では罪の律法に仕えているのである。」信仰の勝利というのは、何の問題もなくなった状態のことを言うではなく、負を抱えつつ勝利を得ているという事実を示しているのが分かります。

* ここにこの詩人の冷静な、見た目に惑わされない確かな信仰を見ることができます。それでは詩人が見ていた神のお取り扱いとはどのようなものだったのでしょうか。

* 目に見える状態がいかなる状態であろうと、神は悪しき人々からの恐ろしい口の攻撃を受けても崩されないように保って下さり、そのような人々の投げる網から守って下さると言うのです。

* これは一体どのようなことでしょうか。主は信じる者を、最後まで養い守り、神の大きな御手の中に包まれて、主から注がれる恵みと平安と喜びが失われないようにして下さるという霊的取り扱いをして下さっているということを、この詩人はしっかりと見つめていたのでしょう。

* そのことを見ることができない者にとっては、現状がよくならない限り、神の守りも、保って下さる働きかけも信じることはできないでしょう。どうして詩人は、それを見ることができたのでしょうか。

* それは、七たび精錬されたと表現されている、完全に聖く、わざを成し遂げられる力ある御言葉を、しっかりと握って離さなかったからです。御言葉の持つ驚くべき力を味わうことのできない者は、霊的取り扱いの確かさを見ることはできないのです。




  (まとめ)

* 詩篇12編の詩人は、神の民の位置から落ちてしまっていた民が、口を巧みに操って生きるように堕落してしまっている様を目の前に見させられ、しかも信仰を持っている者の方が、神からの祝福にあずかっていないような貧困と弱さという現実を負い、しかも、しいたげられ、騙され、いいことのない人生を送っているように見える中で、主の助けを願うしかない状態でした。

* しかし詩人は、神に失望せず、厳しい戦いの中にある信仰者たちが不幸であると見ていたわけではありませんでした。確かに世の流れは強く、大多数の民は、思いが神から離れ、世と全く同化してしまっているばかりか、ごく僅かの誠実な信仰者が、社会的に苦しみの中に置かれているのを見ていても、神の守りを疑わなかったのです。

* 確かに、目に見える形で解決があるわけではないが、神の豊かなお取り扱いはなされており、神の御手の中で守られ、落とされないように保たれていることが見えていたのです。

* これは詩人が神の御言葉に心を置くことができていたからです。だからつらい現実を突きつけられても動かなかったのです。

* 詩人にとっての拠り所は、御言葉であり、わざを成し遂げられる神の真実でありました。私たちはどうでしょうか。よりどころとなる御言葉をしっかりと握っていて、厳しい現実を突きつけられても動じないでおれるでしょうか。この私たち信仰者のために、神が立ち上がって下さると本気で信じているでしょうか。



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