(序)逆境の中に置かれた詩人の訴えと祈り
* この詩篇は、厳しい逆境の中にあって、神の助けが全く感じられず、神に捨てられているのではないかとの思いが、更に詩人を苦しめ、詩人の信仰そのものが問われている、信仰の本質に迫っている内容だと言えるでしょう。
* その特徴的な表現が、この状態がいつまで続くのですかという、絶望の中に放り込まれた思いの中で、神様はなぜ助けて下さらないのかという、心の叫びというものが繰り返し歌われています。
* この詩人がこれまで、神が具体的に、信仰者としての私に対してどのように助け、守り、導き、養って下さったと信じてきたのか、ここで訴えている叫びの中から読み取っていく必要があるでしょう。
* 1節、2節において切なる訴えとして、いつまでですかと4度この表現を使って神に迫っています。これまでは、神の助けなどを感じて乗り越えて、信仰の励ましを受け取ってきたが、今の厳しい逆境は耐え難いばかりではなく、神から見放されているのではないかという思いが消えず、信仰においても無力感が感じられる状況が続いていたのです。
* この詩の理解の難しい所は、具体的にどのような苦しみを受けているのか、また、この詩人を苦境に追いやっている、この詩人にとっての敵とは、どのような人のことを指しているのか、目から光を奪われている状態とか、死の眠りに陥った状態とは病気のことか、それとも精神的な表現か、判断の難しい所であります。
* それ故、個人の嘆きの歌の模範例のようにして歌われたのではないかと見る学者もいます。確かに、具体的な状況が見えないので、そのように捉えるのはやむを得ないとも言えますが、それであれば、神の助けが感じられない状況を想定して歌っていることになり、そのように限定してしまうと、単に技巧的な詩になってしまいます。
* そうではなく、具体的な状況を示してはいなくても、現実にその戦いの中にあって、神に訴え、そこから逃れたいと必死になって、主のあわれみを求めて解決を得ようとしていた詩人が歌ったと考えるべきでしょう。
* この詩は、3つに区分することができます。?1節、2節 嘆きと訴え、?3節、4節、主が応えて下さることを求める祈り?5節、6節、信頼と感謝を表す祈り、この区分に沿って詩人の信仰から学び取りたいと思うのです。
(1)詩人を苦しめていた4つのとげ
* 1節と2節とは、詩人が自分の受けている苦境は、神から見放されている状態ではないかという、信仰問題として捉えていることが分かります。どれほどの期間その苦境の中にあって苦しみ戦っているのか詳細は分かりませんが、「いつまで」と言っている所から考えて見ますと、もう耐える限界を越えていると感じていた状態だったのでしょう。
* 私のことを永久に忘れてしまわれたのですかとの訴えは、一体私のどこが問題で、私を見放し、愛を持って働きかけることをやめてしまわれたのですか。もう永久に心にかけて下さらないのですかと言って、世において起きてくるすべての事柄を、神がかかわって下さる事柄だと受けとめ、神の働きかけによって乗り越えることができるか、神が見放されることによって苦境に耐え切れなくなるかどちらかだと考えていたことが分かります。
* この詩人にとって、世にあって生きるということは、神の助けなくして考えられないと思っていたのです。だからこそ、神の助けが感じられない状況が続いているこの状態が耐え難く、神が助けて下さらないのは、自分の信仰に何か問題があるからなのではないかと思わずにはおれなかったのでしょう。
* そして2つ目として、いつまでみ顔をわたしに隠されるのですかと訴えています。神様に顔があるわけではないですから、これは比喩的表現であります。
* 神がみ顔を向けて下さるというのは、愛し、養い、導き、祝福を持って手を差し伸べ続けて下さっている状態を指していることが分かりますから、み顔を隠されるとは、そのような働きかけを拒否し、祝福を注ごうとして下さらない状態を言っているのでしょう。
* どうして詩人は、神が意図的にみ顔を隠され、祝福を与えないようにしておられると感じたのでしょうか。神がご自分の気分によって、祝福を与えたり、与えないようにされたりする気分屋だと思っていたわけではないでしょう。
* 神が気分屋でないならば、どうして主を信頼して生きているこの私に対して、み顔を隠されるのだろうかと訴えずにはおれなかったのです。耐え難い状態が続いていることによって、詩人の信仰理解が大分狭くなっていたことが考えられます。
* 信仰者は、必ず同じ信仰理解に立つことができるとは限りません。その状態、境遇に応じて、狭くなったり広くなったりするものです。自分が理解している以外の受けとめ方ができなくなると、そのような状態に置かれると正しい解答を得ることができなくなります。
* すなわち、このような耐え難い状態に置かれることに、神の深い御心が働いていると考えて、そこから学ぶことが大事なのです。
* たとえ、神の助けと守りとが見える形で現れなくても、どのような形で示されているのか、信仰によって受けとめていくように導かれているという信仰的見方ができたならば、み顔を隠しておられると訴えることはなかったでしょう。
* 第3は、いつまで、わたしは魂に痛みを負い、ひねもす心に悲しみを抱かなければならないのですかという訴えです。魂に痛みとは、具体的には分かりませんが、思い煩ったり、先の希望が見えなくて不安になったり、悩みが押し寄せてきたりして、心が疲れていたのでしょう。
* しかも、悲しみを心に負い続けていると言っていますから、悲しくてつらい出来事が身の回りに起きていたのでしょう。具体的言及が全くないので、これ以上推測することができませんが、心が疲れ、精神的、肉体的にもどん底状態にあったことが伺えます。
* 更に第4は、いつまで敵はわたしの上にあがめられているのですかと訴え、あたかも神が、私の敵の方に味方して、勝利を与えておられるかのような状況に置かれて、信仰を持って向かうことが無意味なのではないのかと問われているのが耐え難くなっていたのです。
* 詩人にとって敵とは、どのような存在なのか、なかなか見えてこないですが、詩人の信仰を動揺させようとして働きかけている存在がいたのでしょう。それが、全く信仰を持っていない人であったのか、それとも信仰に失望して不信仰になっていた人であったのか分かりませんが、詩人の信仰による生き方が目障りで、何とか引き落とし、信仰から離れさせようとしていた人物がそばにいたのだと考えられます。
* その敵なる存在は、詩人と何かのことで競い合っていたのでしょう。その敵が、私の方が優れていると考えて、高ぶっていたと思われます。どうしてその状態を耐え難いこととして主に訴えているのでしょうか。
* 神を侮り、神に従う者を侮る人が勝利感を味わっているのは、神が低く見られていることになるので、あなたの名誉のために、主よ何とかして下さいと訴えているのです。
* これは、このようなことで神の名誉が傷つけられると考えるならば、神は、未信者、不信者の成功をみなつぶさなければならなくなってしまいます。
* この詩人にとってこれらの4つのとげは、耐え難いものとして、自分の信仰の状態に応じて、神に向かって全力でぶつかっていったのです。ごまかしたり、神にはできないと思ったりしないで、主に本気でぶつかっていった詩人の信仰が感じられるのです。
* ある意味で、詩人を厳しい境遇に置き続けられたのは、全力で、また本気で主にぶつかっていく信仰が起こされることを、神は求めておられたのかもしれません。それは今日の私たち信仰者においても同様でしょう。世における私の生き方すべてにかかわって下さるお方として、全力で主と向き合うことが必要だと言えるでしょう。
(2)4つのとげを取り除いて下さいとの祈り
* 3節と4節とは、4つのとげの訴えに対して応えようとして下さるように、主に求めた祈りであると言えます。その一つ一つに対して、祈り求めているのが、この詩の特徴だとも言えます。
* 第1は、いつまでわたしをお忘れになるのですかという、神に目を留めて頂いていないとの実感に対する祈りとして、口語訳では尊敬語でみそなわすと訳していますように、主よ私をご覧になって、私を哀れんで下さいと祈っています。
* これは、この詩人の信仰から出た祈りです。私の主は、信じる者に目を留めて下さるお方、決して見放されることなどないあわれみ深いお方だとの信仰が失われていなかったから、このように祈ったのです。主が目を留めて下さっても、私の境遇は何も変わらないと思っていたとしたら、祈らなかったでしょう。
* 第2は、神は、み顔を隠して、祝福を持って手を差し伸べられなくなったとの実感に対する祈りとして、「わたしの目を明らかにして下さい」と祈りました。これは、肉体的、精神的戦いが続くと気力が萎え、目の輝きが失せてしまいます。それ故、その戦いを乗り越えて霊的気力が回復し、目に輝きが戻るように助けて下さいとの祈りであることが分かります。
* 人間的に気力が萎えやすい、そんな自分に気づいていた詩人が、あなたの助けがあってこそ、この私は力を回復し、目の輝きも戻りますと祈り、神の助けによって乗り越えるしかない弱い自分を隠そうとしないで、主にすがる信仰をもって祈っているのです。
* 第3は、魂に痛みを負い、ひねもす心が悲しみに覆われている状態を実感していたことに対する祈りとして、わたしが死の眠りに陥らないようにと祈っています。思い煩い、悩み苦しみ、悲しみの中に浸かっていると心が疲れ果て、活動停止状態に陥ります。
* 自分の気力や頑張りで回復できるものではなく、ますます神から遠く離れ、霊も落ち込み、信仰まで活動停止状態に陥る怖さを感じ取っていたので、主よ私の霊が活動停止することなく、信仰が失われないように、私から手を離さないで下さいと祈っているのです。
* 第4は、詩人の信仰をあざけり、引き落とそうとしている敵の方が勝利感を持って見下しているのを実感していたので、いつまでも私の勝ちだと敵が誇り続けることがないように、私が動揺しているのを見て、敵が喜び続けることがないようにして下さい。このままだとあなたがあざけられてしまいますと祈っているのです。
* 神を本気で信じて従っているこの私が挫折しているのを見て、私の信仰をあざけり、私を見下げ、私が信頼するあなたに何の力もないと勝ち意識を持って見下げているのは、あなたがあざけられていることですから、耐えられません。そうならないようにと主の助けを祈っているのです。
* 世において、世の人の方が、信仰者より世的勝利感を得ることがありますが、それは当然あり得ることです。神が世の人を力で押さえつけることをなさらないからです。しかし世の人が神をあざけり、神に従う者をあざけるままにしてほしくないというのが、この詩人の願いであったのです。
* たとえ世の人から見下され、低く見られても、神が与えて下さった霊的勝利感を持っているならば、信仰は崩されることはありません。ある意味で、この詩人が願ったことは、敵が落ち目になるようにということではなく、敵の言動に左右されず、動揺させられず、あなたが下さった霊的勝利感をしっかりと持ち続けることができるようにということだったのかもしれません。
(結び)祈りの中で成長していく
* 詩人は、自分の置かれている境遇を思い、どうして主は、主を信じる者をいつまでもこの状態に放置しておられるのだろうかとつぶやく思いがなくなりませんでした。もっと早く助けの手を伸べて下さってもいいのではないかと要求する心も消えなかったのです。
* しかし、それが不満となっていき、不信になっていく歩みにはなりませんでした。これがこの詩人のすごい所だとも言えるでしょう。そのつぶやきを持って神に直接ぶつかり、神から答えを引き出そうとする飢え渇きの心がなくなる事はなかったからです。
* 詩人は、祈ることができる人でありました。もちろん形だけの祈りではなく、ヤコブが神の人と(ホセヤ書12:4では天の使いとなっている)相撲を取って、勝つまでは決して相手を去らせなかったように(創32:24〜32 旧45)、答えを得るまでは神を離そうとはしない祈りをする人であったのです。
* もし神に失望し、神は力なしだと思う心が僅かでもあれば、本気で祈ることはしないでしょう。祈りは、その意味で、どこまで神を信頼し、神のすごさを認識し、神のみ力を信じ切っているかが問われるものであり、その信仰がなければ祈りほど虚しいものはないでしょう。
* 詩人にとって、あまりにも耐え難い状況が、いつ終わるともなく続くので、気力が萎え始めていたのですが、その戦いも、この詩人から祈りの信仰を奪う所までは行かなかったのです。
* 勝負事ではありませんが、本気で神と取り組み、去ろうとされるのを決して離さず、粘り強く祈ったのです。そうすると、見た目に良い結果が出てきたわけではありませんが、祈りの中で、神のいつくしみ深さが思われてきて、結果が見えないまま、神の偉大さと御心の奥深さと、いつくしみの広さとに対する信仰の思いが強くされてきたのです。
* そこで詩人は、主への信頼と、神による救い、ここでは神の豊かな助け、導き、養い、祝福などを指していると考えられますが、それが感じられ、思いの中にあふれてきて喜びに満ち、主が私のことを忘れることはなく、責任を持って守り導いて下さったと思うことができ、信仰を告白しつつ歩むように向かわせて頂いたのです。
* 主は、私のことを忘れておられるのではない。意味なくしてこのような境遇に置かれているのでもない。見た目に必ず世的に勝利させて下さることが神の助けではない。
* 祈りの中で神のお心が思わされてきて、神がどのような思いで私に向き合って下さっているかが見えてきたのです。だから、詩人は、よい結果を与えられたからではなく、主と主のあわれみ深さを信頼し、私の上に救いを実現して下さっていると告白の祈りをすることができたのです。
* 主が豊かにわたしをあしらわれたとの表現は、私の苦しみに応じた報いを与えて下さったとの意味ですが、現実に思い通りになって、苦境から脱することができたというのではなく、祈りの中で、神の深い愛と心配りとが感じられ、霊が平安になり、敵のあざけりも気にならなくされ、霊的勝利感が湧き上がってきたのです。
* この詩人の祈りは、最初は耐え難い苦痛がいつまで続くのかという神へのつぶやきと訴えであったのが、応えて下さる主への願いとなり、その願いがいつの間にか感謝と告白へと変わっていったのです。
* 祈りは、本気で神と向き合う場であり、神が信仰者の思いを作って下さる場だと言えます。この詩人はそれを経験し、力を得たのです。
* 私たちは祈りにおいて全力で神にぶつかっていっているでしょうか。必ず聞かれるとの確信がない祈りは、お題目に過ぎません。目に見える結果を見ない限り安心できず、喜べないなら、それはご利益宗教に近くなってしまいます。結果は主にお任せして、必ず聞かれると確信して祈ること。これが祈りの信仰なのです。
* 祈りの中において信仰を堅くして下さり、喜びに溢れさせ、苦境を恐れず、大胆に主を告白して進むことができるように導いて下さると分かるのです。神が聞いて下さっているので、祈りの中で私たちは成長していくのです。