聖日礼拝メッセージ
2012年6月19日 更新

聖 書 詩篇14:1〜7
 題  「神を尋ね求める心が強くされていく歩み」


  (序)不信仰に陥る人たちの特徴

* この詩は、人間の側からの訴えとか嘆きとか感謝などを歌っている歌なのではなく、預言者的視点に立って歌った詩だと言えます。預言者的視点とは、神の側に立って、神がどのように判断しておられ、神のお心はどこにあるかを示す視点のことです。

* この詩人が置かれていた時代において、神の民イスラエル民族が、神の前にどのような姿を現していたかを明らかにしようとするのです。

* 7節の内容を、バビロン捕囚からの帰還と受けとめ、捕囚期後のBC6世紀後半に歌われたと考える学者もいますが、霊的に落ちてしまっていた民に救いが示され、霊的回復が与えられることを示した内容だと取ることもでき、この節によって、時代を特定するのは難しいと言えます。

* 詩人は、この歌を歌うことによって、神の民を主の前に引き出し、神からどのような判定を受けているか、神がどのようなかかわり方をなさるお方であるかを示そうとしたのでしょう。

* このことは、私たちの信仰人生においても、大事なことだと考えられます。人間はどうしても、自分の側から物事を見、判断し、進もうとする肉的な生き方を持ち続けているが故に、導きが見えなかったり、願い通りに行かなかったり、先が見えなかったりすると、神などいないのではないかと考えさせようとする闇の心が潜んでいます。

* 不信仰に陥る人というのは、この闇の心に覆われ、神の働きかけも、御心も見えなくなって、神に信頼して歩もうとする心が消えていき、頼ることができるのは、自分と自分の持ち物(物質的なものだけではなく、精神的なものも含めて)だけだと思うようになってしまうのです。

* 信仰とは、自分の側から物事を見、判断し、進んでいこうとする生き方をやめて、神の側から自分を見、自分の周りに起きてくる事柄を判断し、神の御心を見分けて進んでいこうとすることなのです。このことに気づかされないならば、いつまで経っても信仰が持てたり、持てなかったりする、上がり下がりの激しいエレベーター信仰になってしまいます。

* 詩人が、預言者的立場に立ってこの歌を歌ったのは、不信仰に陥っている神の民に、あなたがたも神の側に立って物事を見てほしい、そうすれば、そこに神の御手が見えてくる。決して愚か者の位置にとどまってほしくないと示そうとしたのでしょう。それは、私たちへの語りかけでもあると受けとめることができます。


  (1)即物的応答を求めようとする心

* 預言者的視点から民全体を見れば、今では愚か者の集団に成り下がっているのを見て、詩人は、信仰的な義憤に駆られずにはおれませんでした。彼らの性根は腐り切っていて、義を行う者、すなわち、神のお心に沿って歩む者は一人もいないと言われているのです。

* もちろん一人もいないという表現は、ゼロだと言うのではないでしょう。5節の正しい者、6節の貧しい者と言われている人たちは、愚か者の中に含んでいる表現だとは考えられないからです。一人もいないという表現によって、信仰に生きる者は限りなくゼロに近いと言っているのです。

* この愚か者というのは、人間の知能が劣っている者という意味ではありません。2節にある、神を尋ね求める賢さを持った人はいるかとの表現から、神を尋ね求め、神への信頼を表していこうとする、霊的に聡くされた者のことを賢い者と呼び、霊が閉ざされ、霊的知能が貧弱になっている人のことを愚か者と呼んでいることが分かります。

* 神に選ばれた民族として、何世代も神への信仰を重んじて歩んできた民であったのに、この詩人の生きていた時代の民は、ほとんどが愚か者と言われる範疇に入っている霊的知能の貧弱な人ばかりであったと言うのです。

* どうして、そのような信仰を受け継いできた家系の中に生きてきた人々であったのに、神が見えなくなって、神などいないと考えるようになって、神を悲しませるようになってしまったのでしょうか。

* それは、神を喜び楽しむよりも、人間的な喜び楽しみを求めるようになったからでしょう。なぜなら、神を喜び楽しむと言っても、神が見えないお方であり、その導き、助け、祝福なども見える形で与えられるわけではないですから、霊の目が曇り始めると神を喜び楽しむことができないようになり、手っ取り早い人間的な喜び楽しみの方へと走ってしまいやすいからです。

* 人間的な喜びや楽しみを求めるようになると、信仰者らしき姿は残るのですが、だんだん神が見えなくなっていき、神などいないと言うようになって、愚か者の範疇に入っていくのです。

* どうして信仰者であった人が、その人から神を尋ね求める賢さがなくなっていくのでしょうか。それは、人間の内側に強く残っている即物的な考え方、すなわち、神の導き、助け、祝福などを見える形として与えられることを求める心でありますが、それが見えないと頼りなく感じ、本当は、神などいないのかも、との思いが覗くようになるのです。

* どうして神は、即物的応答をして下さらないのでしょうか。そうしてもらう方が、人間には神のすごさが分かりやすく、信仰を持ちやすいので、神にとっても悲観されずに済むと思うのですが、神は時に応じて応答されることはありますが、ほとんど即物的応答をなさらないのです。

* これは、人間の側が考える理屈です。神の側から見ますと、そのような信仰は、人間に求めておられる信仰ではありません。その信仰では、仰ぐお方が神でなくても、願望を実現してくれさえすれば誰でもいいと考える、肉の思いでしかないのです。

* 神が求めておられるのは、神を神として仰ぎ、神の前にぬかずき、神を神として信頼し切ってゆだねる歩みをする者を求めておられるのです。

* それ故、即物的応答の考え方から解放されて、物ではなく、神を尋ね求めていくことが信仰なのです。この意味で即物的考え方を残している私たちも、愚か者の範疇に入る要素を持っていますから、人間の側から見て判断するという過ちを犯してしまうのです。

* 預言者エレミヤは、主のお言葉としてこう語っています。「あなたがたはわたしを尋ね求めてわたしに会う、もしあなたがたが一心にわたしを尋ね求めるならば、わたしはあなたがたに会うと主は言われる。」(29:13,14 旧1094)

* 日々主を尋ね求める向かい方をしているならば、霊の目が開かれて賢くされ、心底、神を喜び、神を楽しむ歩みができるようになっていくのです。


  (2)神肯定の思いが強くされていく

* 神を尋ね求めるのではなく、即物的応答を求める霊的愚か者ばかりだ。彼らは神の前に立とうとしないから、肉欲の思いに従って、肉のまま生きるので、神の目には腐り切った回復不能な人間にしか見えず、この世は、そのような人間に満ち溢れている、と人間の現状を明らかにした上で、神の目にはすべてが明らかであることを示すのです。

* すべてをご存知であるお方の存在を認めたら、その目が怖いので、彼らは、神などいるはずがないと自分に言い聞かせています。このように言い聞かせなければならないということは、逆に、心のどこかに、もしかしたら神がいるかもしれないという思いを完全に打ち消すことができないでいるとも言えます。

* ただ神が、天から見渡されるのは、悪い人間の罪を暴くためではなく、一人でも二人でも神を尋ね求める賢い者がいないかを捜し、救い上げたいとあわれみの心を働かせておられる点を取り上げています。

* これは、自分の中にも、腐り切った部分が全くないと言い切れない詩人の自己裁定が土台にあると考えられます。神の前に立たされるなら、私の中にある愚か者の要素があることを見抜かれていると分かっていたのです。

* しかし神は、愚か者の要素を持っていることを見抜くことに重きを置かれているのではなく、神を尋ね求める賢い部分の方を見ようとして下さり、時には、神などいない、神は力なしで働いて下さらないなどと思う、愚か者の思いが抑えられ、神にとってできないことはない、神は私の助け手として伴って下さっていると思える、そんな、神を尋ね求める部分の方が強いかどうかを見て下さっているのです。

* 人間は、完全に神否定できないし、完全な神肯定をすることもできません。愚か者の要素と、神を尋ね求める者の要素とを併せ持っているのです。この詩人の預言者的視点は、神肯定の思いが強い人は僅かで、ほとんどの人間すべてが神否定の思いが強いと判定しているのです。

* 神否定する思いが強い人は、神の前に立とうとしないから肉欲のまま生き、汚れに満ちていて、脇道にそれてしまっており、自分の利のためには民から平気で搾取し、神の目を意識しないように生きていると言います。

* この詩人は、神の民についてのみ取り上げているのですが、新約の時代におけるものとして、パウロは、神の民だけではなく、異邦人に向かっても、人間が罪の下にある状態がどのようなものかローマ3:10からの所で、この詩を引用して語っているのです。

* パウロが示す罪の下にある状態とは、この詩人が預言者的視点を持って示している愚か者の要素のことであることが分かります。神を神としてあがめようとはしない罪の心は、神否定の思いが強く、神の前に立つことができず、無益な人生を送っている状態なのです。

* キリストのあがないによって、神否定の思いが処理され、その思いから解放され、神肯定の思いが強くされるのです。その時、日々神を尋ね求める者として整えられ、汚れがきよめられていき、神の前に立って生きることの幸いを味わうようにされていくのです。

* この詩人の預言者的視点は、パウロがこれを引用して示している福音的視点と同じものであることが分かります。人間の側の視点に立たず、神の側の視点に立ち、神が私たちの内側に強くされ始めた神肯定の思いを見て救い上げ、御手の中に置き、霊的安全地帯として、私たちの避け所となって下さると示しているのです。


  (3)人間の側の視点から神の側の視点に

* この詩人が示したもう一つのことは、愚か者も、完全に神否定し切れない所を持っているので、ある一面、心の中で神を恐れていると言います。それは、神などいるはずがないと否定しながらも、神に従う者たちの集まりの中に、神がいるのではないかと感じる思いを、完全に否定し切れないのが見えていたのです。

* 神に従う者たちは、世的には貧しい状態にあって、世的権威者から見下げられる位置に置かれているが、神が避け所となって彼らを守り、支え、祝福しておられるのではないかと感じて、神を恐れる心を消すことができなかったのでしょう。

* そのことを歌って、ここで何を示そうとしたのでしょうか。愚か者でさえ、神などいるはずがないとうそぶきながら(豪語しながら)、やはり神がいて、彼らを守っているのではないかと感じ取るものがあるという事実を示すことにより、神の助け、守り、導きは目に見えなくても、その人の内にある愚か者の心を抑え、もう一方の、神を尋ね求める心の方を大事にし、本気で信頼して進むこと、それが信仰だと示そうとしたのでしょう。

* そして、この詩人が祈りによって、神を尋ね求める心の方がより強くされ、神の働きかけを確信して、心底神を喜び、楽しむことができることを願うことによって、勝利したことを示そうとしたことが分かります。

* 7節のシオンとは、この当時、神の御座がある丘の名称として使われており、それはエルサレムやエルサレムの住民をも現す表現として用いられていました。この詩人も、神の御座からイスラエルの救いがでるように、民を回復して下さるようにと祈ったのは、単なる願望ではなく、内にある愚か者の心から解放され、神を尋ね求める心が強くされる神の救いのみわざを求めたのです。

* これは、詩人の思いを超えた預言として見ることもできます。神から遣わされたイエス・キリストによって救いが実現し、愚か者の心から神を尋ね求める心への回復がなされた時、神の民は、神を喜び、神を楽しむことができると歌っているのです。

* 神がなして下さった救いのすごさが分かった者は、神を喜び、神を楽しまずにはおれなくなります。イザヤもこう歌っています。「わたしは主を大いに喜び、わが魂はわが神を楽しむ。主はわたしに救いの衣を着せ、義の上衣をまとわせて、花婿が冠を頂き、花嫁が家宝をもって飾るようにされたからである」と。(61:10 旧1034)

* 見える形で、神の働きかけや助けが与えられることを求める肉の心を放置していてはなりません。人間の側の視点から祈り求めず、神の側の視点から祈り求める信仰は、見える形を喜び楽しむのではなく、私をあわれみ、御手の中に置き、避け所となって下さる神を喜び、神を楽しむのです。これが、この詩人が立っていた預言者的視点だったのです。


  (結び)神を喜び、神を楽しむ向かい方

* 7節の表現を、捕囚からの帰還と限定する必要はないでしょう。ここでは、神の民であるはずのイスラエル民族の中に、神を尋ね求める誠実な信仰が見られなくなった時代の歌だと考えられるでしょう。

* 彼らの不信の原因は、見える形での神の導きや助けが与えられないので、信仰が薄れていき、神を尋ね求める信仰に喜びと楽しみを見出せなくなったことであると分かります。

* そのようなサタンの手の中に取り込まれた不信仰者たちの信仰を回復させようとして、神の御座であるシオンから救いが来ることを求めたこの詩人の祈りは、新約の福音を予感させるものでありました。

* 神などいるはずがないとまで言うようになってしまっていた愚か者の心が大部分を占めていた人々は、神がいるかもしれないと感じる思いを完全に否定し切れないまま中途半端な歩みを続け、神を恐れる心がありながらも、見える形での神の働きかけや導きや祝福が与えられないことで信仰を失い、神の前に立つ生き方をやめてしまっていました。

* これは、彼らの信仰が、自分の側から神を見るという視点で判断していく歩みをやめて、神の側から自分を見、すべてを見るという視点で判断する生き方に交換されていなかったから、即物的応答して下さらない神を頼りなく感じ、喜び、楽しむことができなくなったのです。

* このような信仰は、自分の思いを満たし、事が順調に運ぶという形で神が助け、病気や苦しみから解放させて下さるという主の助けを実感した時には、喜び楽しむことができるのですが、そうでなければ不満と不安と物足らなさが喜びと楽しみとを奪ってしまうのです。

* イザヤが語っていたように、神を喜び、神を楽しむ向かい方ができるようになった時、信仰の喜びと楽しみとはなくなる事はありません。確かに、事は思い通りに行かないこともあり、戦いもあり、苦難、悲しみなどもなくならず、必ずよい解決に導かれるわけでもありません。

* しかし、神を喜び、神を楽しむ向かい方はできます。神のすごさ、偉大さ、その愛の大きさ、導きの深遠さなどを思うことによって、その神にすがることができる人生を喜び楽しむことはできるのです。神は、この私たちの避け所となって、御手の中に握り締めて下さり、必ず何とかして下さると信じることができるからです。

* シオンからの救いは、イエス・キリストにおいて実現し、内にある愚か者の心から解放され、神を尋ね求める心が強くされ、神を避け所とする生き方ができるようにされたのです。このことを、神の側からの視点で見続ける信仰に立ち続けたいと思うのです。



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