(序)問答形式で歌われた詩篇
* この詩は問答形式となっており、神殿参拝者はどのような者でなければならないか、その資格を問いかけている歌であります。どのような者として神の御前に出れば、神が受け入れて下さるのか、礼拝する者にとっては、避けることのできないテーマです。
* この詩人が、なぜこのような問答形式にしたのか、その理由として多くの学者が推測したことは、巡礼者が神殿の前に来て、神の御前に出る礼拝者としての資格について神に問うと、それに対して神からの答えとして、祭司が神殿の門において答える情景を描いたと見るのです。
* しかし、そのような祭司の答えは、即座に審査できるものではないから、礼拝者自身の自己申告になるか、儀式的なものとなってしまうかになり、意味のあるものとは言えないから、そうではないと言う学者もいます。
* 必ずしも、このような儀式的背景に結び付けなくても、教理問答の一つとして見ることも可能です。どちらにしてもここでは、礼拝者としての姿勢を問われており、礼拝者としての資格なくして神の御前に出ることは赦されず、神のお心を知らずして、自分の思いで出ることになり、礼拝の意義が失われると示そうとしているのが分かります。
* 旧約における礼拝者としての姿勢と、新約の福音に生きる礼拝者としての姿勢には大きな違いがありますが、その違いを理解した上で、神の御前に出るために重要なことは何なのか、この詩が示している点について共に考えてみたいと思うのです。
(1)神の御前に自分を差し出す
* 詩人は、まず2つの問いかけを示しています。第1は、主よと呼びかけた後、誰があなたの幕屋に宿ることができるのですかと言い、第2は、誰が聖なる山に住むことができるのですかと問い、礼拝者としての資格がこの私にありますかと、神の審査を求めているのです。
* この幕屋とは、イスラエル定住以前の移動式幕屋の聖所を指している表現です。ここでは、実際にはエルサレム神殿を指しているのは間違いありませんが、それは契約において定められた神の御前に出る聖なる幕屋が、後に荘厳な建物になったとの連続性が常に意識されていたのでしょう。
* あなたの聖なる山とは、幕屋と同じ意味で、神殿のあるエルサレムを指し、そこに神が臨在して下さっている場所という意味の表現であることが分かります。
* ここに「宿る」、「住む」という表現で、神に招かれた者として一時的に寄留する、あるいは留まることを意味し、長い巡礼の旅を経て、神から招き寄せられ、神の御前に出て安らぐ様子が描かれているのです。
* どうして礼拝者の資格審査が必要だと言われているのでしょうか。人間の側が出たいと思ったら、御前にいつでも出ることができるというのはありません。神の側で審査され、許可された者だけが御前に出ることができると言われている、その真意をまず探る必要があります。
* 詩篇118:20(旧853)に「これは主の門である。正しい者はその内にはいるであろう」と言われ、主の御前に出る神殿の入り口にある主の門から内に入ることができるのは、主が正しいと見られる者だけだと言っていることからも分かります。
* 神は誰でもみな御前に出るように求めておられるのではなく、主が正しいと見、よしと見られる者だけを招き寄せて下さるという、神の御心が働いていることを示しているのです。
* それでは、神の御前に出ることが礼拝者の最も大事なことでありますが、なぜそれが重要だと受けとめている必要があるのでしょうか。神の御前に出る礼拝とは、神をたたえ、赦しを願い、祝福を求め、感謝を表し、神のいのちに満たされる時としてささげるものです。
* それは、神の御前に自分を差し出すことであり、神の御心のままに調理して下さり、取り扱って下さいと願うためであり、そのためには、取り扱われるための条件というか、資格が必要だと示されているのです。
* 神の御前に出る礼拝の重要性が分かっていない者にとっては、自分の思いや気分で神の御前に出て、自分の人生にとって益となると思えるものをそこから受け取っていこうとする自己都合信仰や、自己満足信仰の域を出ようとはしません。
* 神の御心のまま、この私を取り扱い、私を形造り、あなたの道具として用いられる者にして下さいと自分を差し出す、御心実現信仰の域に入るならば、神の御前に出る礼拝の時は、神が、ご自身の製品を製作される最も重要な時となります。神は力を惜しまれず、手を尽くして下さるのです。
* しかしここでは、どんな材料でもいい、神がご自身の作品として製作して下さると言っておられるのではありません。その材料は、神の作品として形造るためにふさわしい、良い材料でなければならないことが条件として示されているのです。
* たとえて言うならば、良い料理を作るためには、新鮮な良い材料でなければならないように、材料が良くなければ、いくら神の御前に出ても、神による良い料理は作られないのです。それ故、神のお心のままに造って下さいと自分を差し出すことが、良い材料となる前提条件なのです。
(2)信仰的完全さ、信仰的正しさ、信仰的真実さ
* 良い材料としての条件、それはまず3つの表現で言い表されています。直く歩み、義を行い、心から真実を語る者と言います。
* 直くとは、「完全な」とか「健全な」という意味を持った言葉で、ここでは神の御前に出る時の条件ですから、倫理的な意味における完全さを求められているのではありません。もしそうであれば誰一人完全な人はいませんから、無理な要求となってしまいます。そうではなく、ここでは信仰的な意味における完全さが求められていることが分かります。
* このことは、申命記18:13(旧273)などの御言葉からも理解できます。そこでは異教的行為、魔術的行為などを取り込む信仰的不完全さは神の忌み嫌われるものであり、神にのみすがる信仰的完全さがなければ、神の御前に出ることはできないと言われています。
* 列王記上9:4(旧492)では、あなたの父ダビデが歩んだように、全き心をもって正しくわたしの前を歩みなさい」とソロモンに勧められていますが、ダビデが何度も罪を犯して神から罰されていることが分かっています。しかしダビデは、信仰においては神以外に目を向けることはなく、完全であったと言われているのです。
* 完全な人であるというだけでなく、義を行う人だと言いました。聖書で義とは、神との正しい関係を得ている状態を表す言葉ですから、神と結びついていることを喜び、神にのみすがろうとする人のことを指し、完全な人であることの別表現であるとも言えます。
* もう一点は、心から真実を語る人だと言いました。真実は神のご性質であり、人間は、エレミヤが語っているように、「心はよろずの物より偽るもので、はなはだしく悪にそまっている」者ですから、(エレミヤ17:9 旧1075)性質において真実な者は誰一人いません。
* それ故、ここで言う真実を語るとは、性質としてではなく、心の奥底までご存知である神の前に隠そうとせず、ありのまま主に向かい、うそをつかないことを心がけ、主に仕えていこうとする信仰的真実さであることが分かります。
* 礼拝する者として、神の御前に出るということは、信仰的完全さ、信仰的正しさ、信仰的真実さをもって主に向かい、主がこの私を、お心のまま取り扱って下さると信じて、自分を差し出す姿勢を示すこと、これが礼拝者としての条件、神の作品として形造っていこうとされる材料のあるべき姿だと示しているのです。
* 礼拝者の最も大切にしなければならないのは、自分の都合、自分の思い、自分の願い、自分の求めではなく、神がこの私をどのように取り扱い、神の良い作品として造ろうとして下さっているか、その神のお心を全面的に信頼し、何も疑わず、自分を差し出していくことに他ならないと示しているのです。
* 旧約においては、礼拝者に対して厳格な資格を求められていると言えますが、キリストの恵みによって御前に大胆に出る特権を与えられた新約時代に生きる私たちにおいては、信仰的完全さ、信仰的正しさ、信仰的真実さを表すことのできる恵みの中に置かれた者として、聖霊の助けを頂いて向かえるようにされている者としての立場を確認してさえいるならば、誰でも神の御前に出ることができるようにされているのです。
(3)それ以外の資格として
* 詩人は、神の御前における、神に対する姿勢だけではなく、信仰共同体としての自覚を持って神の御前に出ることの重要性をも示しているのです。特に自分の周りにいる友のことを、舌を制御せずに悪口を言ったり、友に災いをもたらしたり、親しい人をあざけったりしてはならないと歌っています。
* これは礼拝者にとって、神の御前に出ようとする時、一方で、神が信仰共同体として、私たちの周りにおいて下さっている友や親しい人たちを、自分にとって気に入らない部分があるからといって裁いたり、あざけったりすることは、神の導きを大事にしないことになり、神の御前に出るのにふさわしくないことだと示すのです。
* ヤコブは、舌は大きな森さえも燃やす火であり、制しにくい悪であり、死の毒に満ちていると言っています。(ヤコブ3:5〜8 新362)確かに、舌を制御するのは難しいのですが、制御しようと努力し、神が与えられた信仰共同体を壊す舌にしないように心がける必要性が示されています。
* 新約の時代においては、民族によらず、ただ信仰によってのみ集められたキリストのからだとしての信仰共同体とされているのですから、友や親しい人をそしったり、あざけったりすることは、一つからだとされているがゆえに、自分をそしり、あざけっていることになるのです。
* たとえ一瞬心の内にそのような思いが起きてきたとしても、それを、舌を用いて言葉に出そうとせず、サタンが起こした思いとして舌を制しなさいと言うのです。
* また4節では、神の御前に出る礼拝者は、神のご判断によって見捨てられた者を軽蔑し、主を恐れる人に対して尊敬の心を持つようにと言っています。
* これは、世的な価値基準で人を判断せず、神が存在価値を認めておられるかどうかを基準として判断するようになることだと言っているのでしょう。
* 自らの意志によって神から離れ、神に対して信仰を現そうとしなくなった人は、たとえ世的にもてはやされる人であろうと、神にとっては無価値な存在として見られ、逆に、世的に優れているように見えなくても、神に対する篤き信頼を表している人は、神が受け入れておられる者として尊敬するように示し、世的価値判断から信仰的価値判断に切り換えた者であることが、神の御前に出る者に必要な資格だと言うのです。
* 4節cと5節a bにおいて、主に誓うことがいかに重要なことか、その結果損をこうむることがあっても、誓ったことは変えてはならないと、神に対する誠実な向かい方について語り、世においても、損得ばかり考える人間になるなと示しています。
(まとめ)
* ここに示されていた神の御前に出る者としての資格は、神に対するあり方だけではなく、自分の周りにいる信仰共同体に置けるあり方、世の人に対するあり方まで求められているのはなぜでしょうか。
* これは、神の御前に出るということは、神によってこの地上に遣わされている者として、その生き方すべてを背負って出ることであって、この地上での歩みから切り離して、神の御前に出ることではないということを示しているのでしょう。
* 神の御前に出る時としての礼拝は、自分を差し出して、神の作品として形造って頂くことだと見ましたが、それは信仰共同体の中に遣わされ、この地上に遣わされるためであって、信仰共同体や世から完全にかけ離れたところで、神の御前に生きるためではありませんでした。
* すなわち、神の御前に出るという信仰者にとって非常に重要なテーマをもって歌ったこの詩人は、その基本姿勢として信仰的完全さ、信仰的正しさ、信仰的真実さをもって主に向かい、自分を差し出すことによって、神のお取り扱いを受けることを示してきました。
* そして、それを土台として信仰共同体の中において、口の罪に十分注意する生き方が求められ、また、これまで損得勘定で生きてきた世的生き方から解放されて向かう姿勢が整えられてくる必要があると言おうとしたのでしょう。
* 神の御前に出る礼拝の大事さを考えた詩人は、神が、私たちをご自身の作品として形造ろうとされるためには、私たちの側に、御前に出る者にふさわしい資格が伴っていなければならない。それ故、神のお心に任せよ、自分を差し出せ。自分の思いに囚われるな、自分を握り続けるな、神に明け渡せと言い続けているのです。