(序)聖書用語の理解が、信仰の基本
* お話をするに当たって、まず皆さんの信仰理解がどのようなものか分かった上で話しをしなければ、何の助けにもならないと思いますから、いくつかの質問をしてみたいと思いますので、挙手して頂けるでしょうか。他の人の目を気にした判断をされないように目をつぶって頂きましょう。
* 最初は、Uコリント5:17「だから、キリストと結ばれる人は誰でも新しく創造されたものなのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた」とあります。あなたは、あなたの内にある古いものが過ぎ去って、新しく創造された者になったということを、躊躇せずに信じていると言える人は手を挙げてみて下さい。
* 次に、ローマ8:9他「神の霊(聖霊)があなたがたの内に宿っている限り、あなたがたは肉ではなく、霊の支配下にいます」とあります。あなたの内に、間違いなく神の御霊が宿っていると信じている人は手を挙げて下さい。
* 最後に、ガラテヤ2:20「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです」とあります。あなたは自分が死んで、自分に代わってキリストが私の主人となって生きて下さっており、私イコールキリストだと言い切ることができる人は手を挙げて下さい。
* 私が、ここで話をすることになった理由を少し話する必要があるでしょう。信仰の友である霜尾共造君から、生前小谷先生が聖霊についてよく話して下さっていたのですが、もっと聖霊について、先生が普段教会で語っておられることを、この愛農会においても話をして頂けませんかと求められました。
* しばらくして係りの方である日高ヒサ子様から、聖書講話の依頼と共に、聖霊誌を数冊送って下さいました。送って頂いた聖霊誌を読ませて頂いて、これはあまりにも信仰理解のあり方の違いに信仰的違和感を覚えて、唖然としてしまいました。
* このような信仰に立っている方たちに、私が立ってきた聖書信仰をもって語ることに意味があるのかと考えさせられ、祈って出した結論が、私のような聖書理解に立っている者ではなく、他の方に話をして頂く方がいいのではないかと言うことでした。
* そして、電話を掛けさせて頂き、断ろうとしたのですが、そう思われたそのままお話し下さい、そのような見方を示して頂くことも、神が必要だと考えられたのかもしれませんと言われ、どのような形で神が用いようとされるか見当もつきませんが、そこにも御心が働いていると受けとめて受諾させて頂ました。
* ですから、聖書に語られているまま、オブラードに包むことなく、話をさせて頂こうと思わされました。もちろん批判したいためではなく、聖書の心を理解して頂きたいとの思いからであります。
* まず唖然としたことを取り上げます。以前から感じていたことですが、無教会特有の指導者を中心とした集まりからにじみ出てくる、人をあがめ、人をたたえる、人間崇拝しようとする肉的感覚の強さです。
* 背後におられる神よりも、語る人間に目を向けすぎており、文面では小谷先生や高橋先生ばかり目に付いてむかつきを覚え、これがキリスト教かと思わされました。神様は一体どこに行ってしまったのだろうと。
* 確かに信仰の導き手として、手助けされた先生方の労苦と尊い働きを思うのは仕方がないとしても、その先生方を用いて背後で語っておられる神を見るべきであって、語る人のことは早く忘れてしまう必要があるのに、その向かい方が全く感じられないのです。
* 人間は、見えないお方、実感できないお方を信じるのが難しい存在です。それ故、間にすぐ人を置こうと考えてしまいます。これが、肉の感覚で生きる人であります。それがコリント教会の問題でもありました。教会では、パウロ派、アポロ派、ケファ派、キリスト派と分かれていたと言うのです。
* 見えない神を信じ、実感できない聖霊のお働きを受けとめて信仰に立つことが難しいので、どの先生が神の権威を受けた先生で、誰を見ていれば大丈夫だと思えるのか、そんな向かい方をしていたコリントのクリスチャンたちを、パウロは、あなたがたは「肉の人」、「ただの人」ではないかと言いました。
* もちろんパウロやアポロの方に問題があったのではありません。間に人を置いて、神よりも指導者に依存しようとした信仰者たちの方に問題があったのです。
* 確かに、すべての信仰者は、最初から霊の人として歩むことができず、古い生き方を引きずる肉の人としての歩みを通されると言えるでしょう。しかしパウロは、肉の人としての歩みをしていく内に、信仰経験を積んでいけば、聖書理解も深まり、信仰的生き方も練られていって、いつかは霊の人になっていくとは決して言わないのです。
* 肉の人はいつまで経っても肉の人なのです。自分が肉の人として、見える存在にしか目を向けていない愚かさに早く気づかされ、その向かい方が砕かれることによって、初めて霊の人としての歩みが始まるのです。
* 自分がいかに、肉人間であるかに気づかされて頭打たれる経験、すなわち、パウロの表現で言うならば、口ふさがれるという砕かれ方をして(ローマ3:19)、初めて霊の人としての歩みが始まるのであって、砕かれなかったなら、ずーっと肉の人のままなのです。
* 今日は、どのような向かい方をする人が肉の人であり、どのような向かい方をする人が霊の人であると言えるのか、信仰理解の基本から学ばなければ、正しい理解ができませんから、最初から紐解いていきましょう。
(1)福音の構造をしっかりと心に刻む
* まず、人間がどのような存在として造られたかということから考えてみましょう。人間は、天地創造の時に、神によって、神のかたちにかたどって創造されたと言われています。(創世記1:27)
* もちろん、神が見える形を持っておられるわけではありません。神は霊的な存在でありました。(ヨハネ4:24)ですから、ここで言う神のかたちとは外形のことではなく、霊を持った存在として造られたという意味であることが分かります。
* このことは創世記2章において、主なる神は、人を土の塵で形づくり、その鼻に命の息(この言葉は霊という意味も持っている)を吹き入れられた。こうして人は生きる者となったと言われていることからも分かります(2:7)。霊なる神から、霊を吹き込まれて、人として生きるようになったのです。
* もちろんこの霊とは、日本人が考えるような、霊が漂っているというような、肉体に宿ったり、離れたりする精神的実体(精神を形にしたようなもの)ではありません。
* 神が霊であるというのは、目には見えないけれども実存しておられることを意味し、その神のご性質の一部が人間の中に吹き入れられ、人間は霊を持った生きた存在となったのです。
* 人間には、この霊の部分があるので、霊なる神と結びつくことができるのです。他の動物には霊が吹き入れられてはいませんから、神と結びつくことも、神を知り、神を礼拝することもできないのです。
* そんな霊的な存在として造られたのが人間でありました。もう少し詳しく言うならば、霊と魂(心)と体とを持った存在とされたとあります。(Tテサロニケ5:23、新共同訳では魂と訳していますが、これは、自己、自我を形成するものであって思考し、情緒を感じ、意志し、行動する主体→心のことです。この箇所では霊と分割して語られている所から、魂と訳するよりも、心と訳する方が理解しやすいでしょう)
* そんな霊的存在であったにもにもかかわらず、罪を犯したことによって、人間として重要な霊の部分は閉ざされてしまい、神と結びつく部分は完全休業してしまったのです。これが神のかたちの喪失です。
* 神はそんな人間をあわれみ、神のかたちを回復させ、神との正しい関係を取り戻させようとして救済事業を始められ、最高の救済計画として、キリストを遣わして下さり、罪をあがなって下さったのです。そのあがないを信じることにより、閉ざされていた霊が再び活動し始めたのです。
* 神は、それだけで完全にご自身との関係を回復したものとして受け入れて下さり、義と看做して下さったのです。これが救いです。けれども人間の側においては、一度罪によって汚れてしまったということは、救われても、罪の影響を完全に消し去ることはできず、神との結びつきの回復も僅かずつであり、まして心と体とは汚れたままなのです。
* 人間の霊が十分に回復したならば、心と体も、霊の力によって徐々にきよめられていくのですが、そう簡単にはいきません。そのためにキリストは、人間の霊を強めるために、聖霊を送って下さり、聖霊の助けを得て霊が活発に活動するようになっていくならば、霊の力によって汚れた心と体とがきよめられていくようになるのです。
* まず、この福音の構造をしっかりと心に刻んで頂きたいのです。このことが分かっていないなら、信仰は勘違いしたままそれ以上前進することはないからです。
(2)古い人と、新しい人との違いを理解する
* それでは、コリントのクリスチャンたちはどうだったのでしょうか。パウロの伝えた福音を聞いて、イエス・キリストによるあがないのみわざが、人間の罪を解決する唯一の方法であることを聞いて、それを素直に信じて霊が回復したのです。
* にもかかわらず、彼らは肉の人であり、ただの人でしかなかったと言われています。これはどういうことでしょうか。これを理解するためには、パウロが使っている言葉の意味をよく理解しなければ分からないでしょう。これを図によって説明していくことにしましょう。
* すなわち、古い人とは、霊が閉ざされ、活動不能状態となり、心と体とを罪から守ることができず、思いと言葉と行いにおいて、罪に汚れた者となった状態の人のことを指しています。
* それでは、新しい人とはどういう人のことでしょうか。それは、キリストによる十字架のあがないのみわざを信じることによって、神との断絶状態は解かれ、霊が回復し、活動し始めます。しかし心と体とは罪に汚れたままであり、元通りになるわけではないと言います。
* 古い人が過ぎ去ったとは、動かなくなった「霊」+罪に汚れた「心」と「体」という古い人の構造は、信仰を持ったことによって消滅したと言うのです。これが古い人が過ぎ去った人の構造です、
* キリストのあがないを信じることにより、神との結びつきが回復し、霊が再稼動し出し、回復した霊+罪に汚れた「心」と「体」という新しい人の構造に取って代わったと言います。古い人の構造は消滅した。見よ、すべてが新しくなったというのは、このことです。
* キリストを信じただけで私たちの古い人はもうなくなり、全く新しい人としての構造に転換したのです。このことをまず理解することが信仰に生きることです。
* このことが分かっていないと、キリストを信じて救われたと思っているのに、自分の中には、赦されたはずの罪がなおうごめいている事実に釈然とせず、これで私は本当にクリスチャンと言えるのか、もっときよくならなければクリスチャン失格ではないかと、自分を責め続け、自虐趣味の姿を現そうとするのです。
* 信仰を持ったからと言って、心と体まで一気にきよくなるのではありません。霊は回復しても、思いと言葉と行いはそのままです。霊が回復したといっても、まだ心と体とを正しくコントロールしていく力が発揮できていないのです。
* 霊が強化され、霊の活動が活発になって、神との交流が正常化し、神が注ごうとしておられるいのちと力と祝福とがどんどんと流れてくることによって、輝くようになっていき、それによって、強化された霊が、汚れてしまっている心と体とを徐々にコントロールしていくようになるのです。これがきよめと言います。
* しかしそれは、人間の能力や頑張りでできるものではありません。ガラテヤのクリスチャンはどうしてそのような勘違いをしたのか、頑張ってきよくなるように考えたので、パウロから、「霊によってはじめたのに、肉によって仕上げようとするのですか」と言われたのです。(ガラテヤ3:3)
* 霊が強化され、心と体とが徐々にきよくされていくためには、聖霊の助けと、御言葉を通して聖霊が働いて下さることなくしてあり得ないのです。すなわち聖霊が私たちの内に実を結んで下さることによって、私たちの内になかったきよさが作り出されていくのです。このことを図式によって理解して頂きましょう。
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(3)肉主導の人生から霊主導の人生へ
* 古い人、新しい人という分け方だけではなく、パウロは、ある人たちを肉の人と呼び、他の人たちを霊の人と呼んでいますが、これはどのような分け方なのでしょうか。
* 勘違いしてはならないことは、肉の人は未信者のことで、霊の人が信仰者だと言うのではありません。古い人とは、心と体から出てくる肉の思いのままに生きる不信仰者のことでありますが、肉の人も、霊の人も、キリストを信じる新しい人の領域に中にある人たちなのです。それでは新しい人が、どうして肉の人と霊の人とに分かれているのでしょうか。
* 霊が閉ざされて古い人として生きてきた人が、イエス・キリストを信じることによって救われて、霊が回復され、神との結びつきが戻って新しい人にして頂いたのです。しかし、一度罪に汚れてしまった心と体とは変わらずそのまま残っているが故に、罪に汚染された心と体とから出てくる肉の思いが、信仰者をなお肉の生き方へと引っ張るのです。
* 霊が再稼動し始めたけれども、まだ助け主と真理の御霊のお働きを十分に受け取ってはいないので、罪に汚れた心と体とをコントロールするだけの力を持ってはいないのです。
* すなわち、心と体とから出てくる肉の思いの方が強く、回復された霊をまだ抑え込んでおり、力を維持している状態であって、信仰を持ってもなお、肉で生きようとする思いが強いのです。
* 本来なら、神の前に立たせて頂くようになった人間として、霊が支配しなければならないのに、まだ心と体の方が支配している状態でしかないのです。
* 霊がまだ強くない時には、霊が信仰者の思いを引っ張ることができず、肉の思いに引っ張られ、いつも肉の思いでものを考え判断し、霊で生きようとはしないのです。このような状態の人を、パウロは肉の人と呼んでいるのです。
* 信仰者は必ず、瞬間的には肉で生きようとしていることに気づいている必要があります。それは信仰を持つ以前、肉で生きることがごく自然だったからです。その生き方を、信仰を持ってもなお続けようとするのです。
* 人が何かを考えたり行ったりする時、すぐ肉で行動しています。これは救われる以前からの習慣が残っているからです。そこで一度肉の思いを断ち切って、霊によって考えるようにし、行動していく生き方をしていかなれば、いつまで経っても肉の状態のままなのです。もちろん人間の思いで切り替えなさいと言っているのではありません。
* 聖霊の助けを頂き、御言葉に生きるようになると、人にではなく、神にのみ目を向けて生きていこうとする霊が徐々に強くされていき、その人の生き方をリードし始めるようになるのです。
* そうなっていくためには、日々の生活において、瞬間的に汚れた心と体とが反応し、肉の思いが出ようする、そんな自分の肉の姿に気づかされ、自分の中にあるものがこんなにもくだらないものでしかないということを知らされ、聖霊が起こして下さる霊の思いを大事にし、それによって考え、判断し、行動していこうとする。これが、霊が強くされていく、霊の人としての生き方をすることなのです。
* このように霊の人とは、霊が十分に稼動して、助け主、真理の御霊としての聖霊のお働きを頂いて、霊が強化されていき、霊が、罪に汚れてしまっている心と体とを徐々に支配し始め、霊主導ですべての物事を判断し、生活し、神直結の生き方をしている人の状態を指していることが分かります。
* コリントのクリスチャンたちは、この意味で、キリストを信じる信仰によって、霊が回復されたにもかかわらず、霊主導の生き方をしないで、いや、その重要性に気づこうともしないで、肉の思いで人を見、人間に依存しようとし、分派争いに明け暮れていたのです。
* だからパウロは、あなたがたは肉の人でしかない、なぜ人間に依存しようとして私はパウロにつく、私はアポロにつくと言っているのか。
* パウロもアポロも、あなたがたを信仰に導くためだけに、神が遣わされた存在ではないか、どうして遣わされた本元である神にのみ目を向けようとしないのか。
* 遣わされたパウロもアポロも、自分を持ち上げ、自分に依存してほしいと思って福音を伝えてきたのではありません。ただ神のためにだけ働いてきたのです。それ故パウロは、彼らに対して肉の思いから離れよ。語ってきた人間を早く忘れなさい。神にのみ目を向けよと言うのです。このことが分かったら、人間は変わります。一切人に目を向けなくなり、ただ神に用いられた人かどうかだけを見るようになり、神にのみ信頼を置く霊的な信仰者になるのです。
* ○○先生がどう語ったかではなく、○○先生を用いてその背後にあって神がどう語られたかということだけが重要になってくるのです。
* 霊の人として生きるようになった時、神のお心が見えてきます。神の導きも、助けも見えてくるのです。なぜなら、聖霊がそれを私たちの内に見させて下さるからです。
* せっかく、聖霊が私たちの霊に働きかけて、霊を強くし、神の子としての歩みをすることができるように、私たちの内に聖霊を内住させて下さっているのに、その聖霊に十分に働いて頂こうとしないなら、神から与えられた最高のプレゼントを無駄にするだけではなく、救われてもなお、汚れた心と体からにじみ出てくる肉の思いによって生き続ける肉人間から抜け出ることができないのです。
(結び)神の畑、神の建物
* 今日学んだ所は、古い人から新しい人に転換して頂いたということはどういうことか、肉の人から霊の人に代えて頂くとはどういうことかについて考えてきました。もちろんこれは理屈ではありません。キリストの福音をそのまま受け取っていく向かい方がなされないと、神の力を受け取る歩みができないのです。
* キリストが、ご自身の代わりに聖霊を送って下さって、私たち信仰者が、聖霊によって、私たちの霊が強くされていく信仰人生を送らせようとして下さっているという、驚くべき恵みの福音について学んできたのです。
* コリントのクリスチャンたちのように、その聖霊の働きかけを受け取っていこうとせず、自分の知恵で考え、自分の頑張りで歩み、人生を切り開いていこうとし、人間に依存しようとするならば、その人は肉の人状態から一歩も抜け出せないのです。
* これは、いつの時代の信仰者においても通される道です。救われてもなお、肉の思い主導の生き方を続け、それに何の違和感も覚えないようになってしまうならば、肉の人状態から抜け出すことはできず、真の福音の喜びも、楽しみも知らない貧弱な信仰者で終わってしまいます。
* 神と直結信仰に立つように、そのためにキリストは聖霊を送って下さり、私たちの霊を強くしようと臨んで下さっているのに、私はパウロの畑だ、私はアポロの畑だと言い合っているようでは、霊は居眠りしたままでしかありません。
* イエス様が栄光のお姿に一時的に変容された時、ペトロが幻としてモーセとエリヤを見て非常に驚き、ここに住んでもらいましょうと言ったところ、雲の中から神の声があって、「これは私の愛する子、私の心に適う者、これに聞け」と言われたのです。(マタイ17:1〜8)これは、モーセに頼ろうとするな、エリヤに頼ろうとするな、イエスだけを見よ、このお方の声だけを聞け、それで十分なのだと言われたのです。
* あなたがたは神の畑、神の建物だと強調しているパウロの思いもここにあることが分かります。この私は、神が御言葉を持って耕し、種をまき、育てて下さっている畑だと言って、状況を用い、人を用い、わざを進めておられるのは神だと強調されているのです。このことをしっかりと受けとめている必要があります。