(序)3つの確かな信仰姿勢
☆ この詩篇の背景を特定することは難しく、捕囚期前の古い時代から捕囚期後の新しい時代までの多くの説があり、内容からも、具体的な背景を読み取ることはできませんが、背景を特定しなくても内容の理解に大きな妨げはないでしょう。
☆ この詩を書いた詩人が訴えようとしたことは、現実の苦境状態の中からの解放といったような切迫感がなく、日頃の信仰生活の中で、神が共にいて下さる幸いを感じつつ、異教とのかかわりが周りにあっても全く心が囚われず、主への信頼を崩さず、主を告白し、祈り続けている歩みを歌っていると言えます。
☆ そこに、3つの確かな信仰姿勢が力強く歌われており、この詩人の信仰がよく表れています。第1は1節〜4節、信仰の目がどこに向けられているか、祈りと告白の形で示されています。
☆ 第2は、5節〜8節において、自分に与えられた祝福と使命を歌い、どこに思いを置いて向かっているか、揺るがない信仰が歌われ、第3は9節〜11節において、主がどのようなお方だから喜び、楽しみ、安らぐことができるか、その拠り所を歌っています。今日はその第1部を見ていくことにしましょう。
(1)危急時信仰と平常時信仰との違い
☆ 神よ、お守りくださいという祈りから始まっていますが、この詩の内容には、切迫した苦境状態からの助けを願っている状況が感じられず、日々の信仰の歩みにおいて、神の守りなくして生き抜くことができないという強い信仰意識を持って歩んでいる者が、今日の歩みも神の守りの内に置いてくださいと、信頼を基にした祈りをしていると考えられます。
☆ この祈りは、どのような信仰に立っている者としての告白の祈りかを見てみますと、1節の後半で、「私はあなたに寄り頼みます」と言っています。寄り頼みますと訳している言葉は、「避けどころとする」とか「逃げ込む」という意味を持った言葉で、この詩人にとって神は、唯一の安全地帯だとの揺るがない信仰がありました。
☆ もちろん信じる者のために、問題などがなくなるようにしてくださるのでもないし、つらいことが起きないようにしてくださるわけでもありません。しかし、何があっても神という避けどころを持ち、そこに行けば安全で、神の大きな守りの内に置いて頂けるという信仰の思いが、彼の支えとなっていたのです。
☆ 苦しい状況に追い込まれて耐え難くなったから、主よ、何とかしてください、助けてくださいと主の守りを求めようとする危急時信仰になりやすいのが信仰者ですが、この詩人は、普段の歩みにおいて、神の守りの内に置かれているとの信頼が深く、今日も神の守りの内に歩ませてください。あなたのもとが私にとっては最高の避けどころ、安全地帯ですからと、その信頼を告白し続けている歌であることが分かります。
☆ 危急時信仰は、その苦境や、悪しき働きかけから助けてくださるようにとの切なる願いから出てくるものでありますが、平常時信仰は、この世が悪の世であり、自分の中にも悪魔が入り込み、信仰を引き落とそうと働いている状態に置かれているという強い認識がありますから、神の守りなくして、日々の歩みにおいて、信仰による生き方ができないと考えているのです。
☆ 危急時信仰と平常時信仰との違いは、危急時信仰においては、目の前に起きてくる事柄に目を向けやすく、平常時信仰であれば、起きてくる事柄の背後で働く存在に目を向けているという違いがあると言えるでしょう。
☆ ということは、平常時信仰の方が、この地上における信仰生活において、危機意識を強く持って生きており、そこに働く悪しき存在に対して、よく注意を払っていると言えるでしょう。
☆ 平常時信仰が確立していけば、危急時の時にも、出来事だけに目を向けず、その背後にあって働いている存在の目的を見つめ、正しく対応することができると考えられます。その意味で、この詩人は神の下を安全地帯だと告白し、強い信頼を置いていたので、危急時にも揺すぶられることはなかったでしょう。
☆ それでは、神の下を安全地帯だと信じて身を避けるというのは、具体的にどのような向かい方をすることなのか考えてみないと、その真意を把握することはできないでしょう。
☆ 日毎の礼拝、祈りをすることが、神の下を避けどころとすることだと考えるなら、本当に日毎の礼拝や祈りが神の下を避けどころとする信仰だとして、平安を得、喜びを得、力を得て、主の守りを信じて、そこから出発できるようになっているか、まず自らに問いかけて見る必要があるでしょう。
☆ 形だけの礼拝や祈りをしても、安全地帯に避けているという強い信仰意識を持つことはできません。礼拝や祈りが、神の守りを確信でき、力強く出発できるものにならない限り、悪魔の待ち構えている世に踏み出すことはできないでしょう。
☆ 神の守りを確信できないまま、悪魔が待ち伏せしている世に踏み出すことは、無防備なまま凶暴なオオカミの前に立つようなものです、パウロも言いました。「悪魔の策略に対抗して立ちうるために、神の武具で身を固めなさい」と。(エペソ6:11 新307)
☆ 日毎の礼拝、祈りが、神の守りを確信する神の武具とならなければ、悪魔や、悪魔の策略に対抗するなど誰にもできないのです。日毎の礼拝や祈りを、世における歩みが神の守りの中に置かれていることを確信するためのものとして、強い自覚と意識とを持って向かうことが必要です。
☆ そして、信仰を告白し続けて行くことが大事です。神の守りを疑わずに、日毎の礼拝や祈る私たちの姿を見て、神は大きなみつばさの蔭に置いてくださるのです。
☆ 詩編36:7に、「神よあなたのいつくしみはいかに尊いことでしょう。人の子らはあなたの翼のかげに避けどころを得る」と歌っています。神の守りを本気で信じることです。そうすれば、神の守りの中に置いて頂いていることの素晴らしさが見えてくるのです。
(2)詩人が思い見ていたものは
☆ 神の守りに対する信頼を祈りで表しつつ、その確信に立っておることができた要因として、あなたの偉大さを私は疑うことはありませんと、2つの言葉で信仰告白し、自分の信仰の土台はここにありますと表明しているのです。
☆ その2つの信仰告白とは、第1は「あなたはわたしの主です」という、神の前における自分の立ち位置が、主としもべとの関係であることを明快に述べています。
☆ イエス様は、弟子たちに対してある時こう言われました。「あなたがたはわたしをだれと言うか」すると、弟子を代表してペテロが答えたのです。「あなたこそ、生ける神の子キリストです。」するとイエスは「シモン、あなたはさいわいである。あなたにこのことをあらわしたのは、血肉ではなく、天にいますわたしの父である」と言われました。(マタイ16:15〜17)
☆ 神の前における自分の立ち位置を、信仰によって告白するのは、肉の心ではできません。神がその信仰を起こさせ、告白するように導かれると語られているのです。
☆ ペテロに、その深い信仰的自覚があったというよりも、その時に神が思いを起こさせ、告白させられたと言われている所から分かることは、この詩人が、あなたは私の主ですと言った告白は、この詩人の肉の思いからではなく、神が起こされた霊の思いによる告白だと言えます。
☆ 私の主ですとの告白は、自分を神のしもべの位置に置き、主のお心に沿う生き方をさせて頂きたいのですという、強い信仰的意志を表していることが分かります。
☆ そこには、しもべをご自身の意にかなう働きをすることができるように主が愛し、養い、導き、育ててくださるとの信頼なくして言えない告白であります。
☆ 第2の信仰告白は、「あなたのほかにわたしの幸いはない」というものでした。これは詩人が信仰を第1に置いた生き方の中で見出した最高の幸福論と言えるものであり、その確信が、詩人の生き方を確立していたのでしょう。
☆ この詩人が思い見ていたものは、自分の肉の思いが喜ぶ状態や、楽しく思える状態ではありませんでした。この世に生きる人間の幸福論は、自分の思いを喜ばせ、楽しませてくれることに目を向け、それに向かって生きることだと言えますが、詩人は、この世の幸福を求めず、神の前における幸福を求めたのです。
☆ すると、詩人にとって幸福だと思えることは、物質的、精神的に満たされることでもなければ、世における成功や、自分の存在感を高めることや、達成感を得ることでもありませんでした。神が幸いそのものであって、神を見上げ、神にすがり、神の手の中にある人生を歩ませて頂けることが幸いであると受けとめるようになったのです。
☆ 自分の今の人生が、神の手の中にある人生であると確信し、自分の人生航路を主にお任せし、主にある幸いを味わわせてくださる最高の人生を用意してくださっていると信じ切らなければ、あなただけがわたしの幸いであるとは到底言うことができません。
☆ この詩人の歩みは、何の問題もなく平穏だったとは思えません。3節、4節を見ると、異教の神々に思いを向けている人たちに囲まれていて、唯一なる神を信じ続けることは、過去の遺物にすがる古い生き方をしていると見下げられており、力のない神にいつまでもすがっているくだらない者と見られていたのでしょう。それ以上の詳しい状況は分かりませんが、そんな惑わしに満ちた中で、神が幸いそのものだと告白し続けたのです。
☆ ここに、詩人の揺るがない信仰があったことが伺えます。神が私の主人であり、私にとって幸いそのものであると告白し続けることによって、神だけを見上げる生き方を確立し、すべての事柄、状況、自分の向かうべき姿などを、神を通して見る生き方をするようになっていたので、心を騒がせるようなことはなかったのです。
(3)異教の風習、習慣に同調しない決意
☆ 神の手の中に置かれている歩みの素晴らしさを、日々受けとめながら歩んでいた詩人は、自分の置かれている状態は、すべて神が導いてくださっている状態であり、神がかかわられない事柄は一つもないと信じていたので、すべての事柄を、神を通して見るようになっていたのです。
☆ そのような信仰に立っていた詩人にとって、この世は、神抜きの世界であり、人間の都合のいい、その時代の宗教を取り込んだ風俗、風習、習慣、慣例、仕来たりなどを大事にすることで、自己正当化しようとする世界であることが見えていたのです。
☆ この世は、その生き方に同調しない者を、協調性のない人間としてはじき出そうとします。この詩人の周りには唯一神信仰に失望し、世にどっぷりと浸かっていた人々が多くいたようです。
☆ 3節の「聖徒」と訳されている言葉を、同じ信仰に立っている神の選民と見る説が多いのですが、別の学者は、地上の聖なるものたちと訳し、偶像の神々を指すと解して、過去において、その神々を力強い存在として喜んでいた詩人の姿が描かれていると受けとめる説があります。
☆ 前者であるならば、たとえ神抜きの世界の中に置かれようと、自分と同じ信仰に立ち、神を主人とし、神を自分の幸いとして力強く生きている人たちがいて、そのことが喜びだと言い、詩人の励ましになっていることを歌っていると見ます。
☆ 後者であるならば、今は唯一なる神を信頼して生きているが、以前は偶像の神を、愚かにも大事に思って生きてきたし、喜びとしてきたと過去の愚かさを振り返っていることになります。もしこちらであるならば、異教からユダヤ教に改宗した詩人が作者であることになります。
☆ この文面だけではどちらとも言い切れませんが、特別な体験があって異教の神から唯一神へと改宗したという変化は、全体の文面から見られませんから、若い時から神を主人とし、神を自分の幸いとする生き方を崩すことなく歩んできた詩人として見る方が、妥当ではないかと思います。
☆ この詩人の生きてきた時代は、神の民がみな信仰に立って生きている時代ではなく、多くの民が不信仰になり、異教の神々や、神抜きの世界にのめりこんでいた時代であったと推測できます。
☆ たとえば預言者イザヤの時代などでは、神が良いぶどう畑を作られたにもかかわらず、神の民は、神に逆らっていました。そんな民に対して、「良いぶどうの結ぶのを待ち望んだのに、どうして野ぶどうを結んだのか」と責めておられることが描かれています。(イザヤ5:4 旧948)
☆ エレミヤでも言われています。「生ける水の源であるわたしを捨てて、自分で水ためを掘った。それは、壊れた水ためで、水を入れておくことのできないものだ」(エレミヤ2:13)。このように、他の神々や、世にのめりこんでいた民がなんと多くいたことでしょうか。
☆ そんな神抜きの世が主流となっている中にあって、助けてくださらない神、力のない神にいつまでもすがっている時代遅れの人間と見られながらも、神を主人とし、神が幸いそのものであると信じて生きている者が、他にもいることを見て喜んでいたのでしょう。
☆ そこで詩人は、世における自分の立ち位置を明確にし、信仰が世に浸食されてしまわないように、はっきりとした生き方を示しているのが4節だと言えるでしょう。
☆ 他の神々を選ぶ者は、主から苦しみを増し加えられる。私は異教の習慣、風習、仕来たりなどで取り囲もうとする世にあっても、それに同調もせず、形を合わせることもしません。まして異教の名や、それに結びつく言葉を口にすることもしませんと言いました。
☆ これは、世に置かれている信仰者の、強い信仰的な決意であります。これは世の影響の強さを肌で感じ取っており、信仰を蝕もうとするあらゆる働きかけが満ちているのを感じ取っていたからこそ、強い決意を持って立ち向かおうとし、神への信仰告白としていたことが分かります。
(まとめ)神の手の中に置かれた人生
☆ この詩人の信仰は、危急時信仰ではなく、平常時信仰で向かっていたので、目の前に起きている出来事だけを見るのではなく、その背後にある2つの存在を見つめて歩んでいたことが分かります。
☆ 一方は、悪しき存在で、どのように信仰を引き落とそうと働きかけているか、もう一方は避けどころとなってくださる神で、すべての事柄を用いて正しく導いてくださり、その信仰を養い、育てようとしてくださっているかを見ていたのです。
☆ 神の働きかけを受け取っていくためには、どれだけ神に期待と信頼とを寄せているか、ここに、信仰告白の形で述べているのです。あなたは私の主人です。あなたのお心が一番大事です。あなたにどこまでも従います。あなたは私の幸いそのものです、と。
☆ 詩人は、自分の思いが求めているこの世の幸福を求めないで、神の前における幸いを求めたのです。それは自分の人生が、神の手の中に置かれた人生だと信じていたから、そこにこそ真の幸いがあると信じていたのです。
☆ これらのことから、この詩人は、すべての事柄の背後にいてくださる神を見ながら、すべての事柄を、神を通して見、判断し、生きるようになっていたことが分かります。
☆ これは簡単なようでいて、なかなか難しいことです。というのは、神抜きの世界に置かれ、異教の風俗、風習、習慣などに満ち溢れている世に取り囲まれているので、肉の思いが引き出されやすく、世に歩調を合わせて摩擦がないようにしようとする心が働くからです。
☆ この詩人がはっきりと打ち出したように、神を私の主、神が私の幸いそのものだと大胆に告白していきたいものです。