(序)信仰の思いを起こさせられる神のすごさ
* 前回の所において、この詩人の信仰は、危急時信仰ではなく、平常時信仰として、目の前に起きている事柄だけに心を奪われず、その背後に働く2つの存在に、一方は信仰を引き落とそうと働きかける悪しき存在に、もう一方は避けどころとなってくださる神に目を向けていたと見ました。
* しかも2つの明白な信仰を告白し続けることによって、世的な幸福を求める者ではなく、神の前における幸福を求め者として、神の手の中にある人生であると確信して歩んでいた姿を現し続けていたのです。
* 周りに何も問題がなかったわけでも、信仰上の戦いが起こらなかったわけでもありませんでした。しかし、自分の信仰を前面に打ち出し、異教の風習や、神々の名を口にしない信仰的決意は、世においては摩擦を生むことが目に見えているので、そう簡単なことではありませんでした。
* けれどもこの詩人は、その信仰と決意とを曲げない生き方を通そうとしたのです、それは性格が、初心を貫き通す強い性格であったからでも、依怙地だったからでもありません。信仰によって私は何を頂いた者になったのか、何に思いを向ける者になったのか分かる者とされていたから、その信仰が動かないものになっていたのです。
* 信仰によって何を頂く者になったか分からない人、何に思いを向けて生きるようにされたのかが分からない人は、不安定な土台の上に建っている家のようなもので、信仰を持っているつもりで、目の前に起きる事柄や、自分の内側に起きてくる肉の思いに対応できず、おろおろさせられてしまうのです。
* この詩人が、なぜここまでの信仰を持ち得たのか、すべて知ることはできませんが、この歌ににじみ出ている信仰の輝きはまぶしいほどです。もちろん、この人の素晴らしさを言おうとしているのではなく、このような信仰の思いを彼の内側に起こさせられた神のすごさを感じるのです。
* 人間の側が妨げようとせず、否定しようとしなければ、神は私たちの内にもこのような信仰を起こして輝かせてくださるのです。しかし人間の思いが強いと、神のその働きかけは不十分なものとなり、輝くほどにはならないのです。
* この詩人の内側に起こされた信仰の思いがどのようなものであったかを学ぶことによって、神が私たちの内にも起こそうとしておられる信仰を受けとめ、動かない信仰とさせて頂きたいと思わされるのです。それではご一緒に学んでいくことにしましょう。
* 主を所有し、主を飲む信仰者の生き方
* まず5節の所で、信仰によって私は何を頂いた者になったのか、カナンの地の土地分配の表現を比喩として用いて、神が、信仰に生きる私に与えてくださった所有地は、形あるものではなく、神ご自身が私の所有となってくださったと歌うのです。
* この詩人は、なぜこのように歌ったのでしょうか。神が私に与えようとしてくださる最高のものは、神ご自身であって、神の手の中に置かれている人生でありつつ、神は、私の中に入ってくださり、私の命の原動力となり、私のすべての歩みにおいて、正しくコントロールしてくださるお方となってくださったという強い意識を持つ者となったからです。
* この詩人は、新約の福音に生きている者であるかのような信仰認識を持っていて、神の臨在を歌い、受け継ぐ分として頂いた神が、いつも伴ってくださり、導いてくださる神の働きかけを受けとめていたのです。
* それはあたかもパウロが、内住の御霊の働きを受けて、信仰に輝いて歩んでいたように、(ローマ8:11 新242)この詩人も確信して輝いていたのです。
* もう一つの表現は、主は私の杯として受けるべきお方だと言いました。これはあたかも、客が主人から最高のもてなしとして杯を受ける光景が描かれ、信仰によって神の御手から、幸福な運命という杯を飲み干すように与えられたと言っています。
* 主という飲み物が杯の中に入れられていて、信仰によってそれを飲むという信仰に立っていると言っているのです。主を飲むとは具体的にどういうことでしょうか。主のお心をそのまま受け入れることにより、主の導きと助けとを受け取って、導きのままに自分の人生を明け渡すことを意味しているのでしょう。
* 自分の思いを強く残したまま、主を飲むことはできません。主の御手に自分の人生を明け渡そうとせずして、主を飲むことにはならないのです。詩人が、主は私の杯に受くべきお方と言った時、自分を明け渡し切ったのです。
* 自分を明け渡すことは、決して簡単なことではありません。それは、人間の思いが強いからです。自分の思いよりはるかに優れていて力があり、裏切ることなく、確かなものだと飲むべき主のすごさ、偉大さを本気で思うことができずしてできないことです。
* この詩人はどのようにして、そのような信仰に立つことができたのでしょうか。すべてが分かるわけではありませんが、強い自分を握ることをやめ、自分の思いを持ち続けることに失望し、神だけを見上げる以外に自分の人生に最高の道は見いだせないと確信したから、主を飲み、自分を明け渡すことができたのです。
* その時から、もはや先のことを心配することをやめ、主の御手の中にある人生として、主が導いてくださり、助けてくださり、守ってくださることを信じて歩むようにしたのでしょう。
* 主は、ご自身を信仰者の所有として与えてくださり、主がいつも伴ってくださる人生へと導き入れてくださいました。また、主はご自身を信仰者に飲ませ、強く握っている自分を離し、主に自分を明け渡し切って、主の御手の中にある人生として、主が責任を持って導き、助け、守ってくださることに信頼を置いて生きるようにしてくださったのです。
* 詩人は、この思いが神によって起こされた信仰の思いだと受けとめたから、そこに立つことができたのです。神はその信仰の思いが失われることがないように守り支えてくださるとも歌っています。これは、今日の私たち信仰者も立つべき信仰だと強く思わされるのです。
* 神の深い思いを受けとめる歩み
* 6節では、測りなわの比喩をもって歌っています。これは、土地の測量道具で、自分に与えられる所有地の分量を測るためのものとして使われている表現であります。
* その測りなわが自分にとって好ましい所に落ちたというのです。これは、自分に与えられた神からの恵みと祝福が、自分にとって好ましいと思えるものであったと言っているのです。
* 神は、ご自身の深いお考えによって、事を進められるお方ですから、時にはそれが私にとっては苦しいこと、嫌なこと、つらいこと、好ましくないことなどもあり得るのですが、詩人がこの時に歌っているのは、神が良しとして進められていることが、自分の思いでも好ましいと思えるものだったと言っているのです。
* 詩人は、私にとって好ましい所に測りなわが落ちたから、神が与えてくださった所有分は素晴らしいものであったと言っているのではありません。神のお心に沿ってなされたことが、私にとってこの時には好ましいものであった、良い所有であったと言うのです。
* 信仰者にとって、与えられたものが、望んでいるものであるかどうかが重要なのではなく、神が深いお考えをもって働いてくださっているかどうかが大事なのです。詩人は、神が、この私の所有として与えられたと受けとめていたので、私の歩みに伴ってくださり、力をもって働き続けてくださると信じ切っていたのです。
* そのように、神のお働きを真剣に待ち望んでいたし、神のお心を知ろうと向かっていたので、自分の願う思いが神のお心に近づけられ、一致したことによって、神がお心に沿ってなされたことが、詩人にとってもうれしいと思えることだったと歌っているのです。
* ということは、この詩人が喜んだことは、思い通りになったということよりも、神の深い思いを受けとめることのできた結果として、すなわち、神の御心と自分の願いとが、一致したことがうれしくて仕方がなかったのです。
* このように喜ぶことができた理由として、6節の後半において、2つの点を取り上げています。一つは、私をさとしてくださっている主をたたえています。さとすと訳しているこの言葉は、助言するという意味で、私の無知な所、考えの足らない所に適切な助言を与えてくださり、神のお心を分からせてくださったと言っています。
* 新約の福音によるなら、内なる御霊がその役割を担ってくださり、(へブル12:2 新356)「信仰の導き手であり、その完成者であるイエスを仰ぎ見つつ、神の深いお心を知って歩むように、助言者となってくださると言われています。聖霊が示してくださる御言葉による助言ですが、この詩人の時代には、そこまでの福音が示されてはいませんから、主が直接、助言の働きもしてくださると信じて、主をほめたたえているのです。
* もう一つは、夜はまた、私の心が私を教えるようにしてくださっているからと言いました。この心とは腎臓の意で、奥深い潜在意識の宿る場だと考えられていました。夜になると、一日を反省し、神のお心を深く思う時だと詩人は受けとめていたのです。
* たえず助言を与え、神のお心を思う心を養ってくださり、その度毎に、新たに助言を求め続けるのではなく、育てられてきた信仰の心が、これまで受け取ってきた助言を基に適用し、応用して神のお心を受けとめていくように導かれていると詩人は考えていたのです。
* こうして上からの適切な助言と、養われてきた信仰の心によって、神のお心を探り知り、お心のままになるように願う心が起こされてきたのです。それ故、神からのプレゼントは、私にとって好ましい所となったと言ったのです。
* 神の御心を知ろうとせず、自分の願い、求めばかりを主に訴えている間は、上からの助言も受け取れず、育て養おうとしてくださっている信仰の心も痩せ細ったままで終わることになります。
* ご利益信仰と飢え渇き信仰との違い
* このように、主に願い求めるにしても、主の御心を知ることを第1に置いていた詩人は、自分の信仰的生き方を一言で歌いました。「わたしは常に主をわたしの前に置く」と。
* この表現は、物のように神を自分の前に持ってくるかのように感じられ、不敬な、傲慢極まりない表現に聞こえるからか、いくつかの翻訳は、それを和らげるような言葉で意訳しています。
* 「常に主を思い浮かべる」とか「絶えず主を正面に見据えた」とか「絶えず主と相対しています」と訳しています。確かに、不敬に見えるこの表現を、詩人がなぜあえて使ったのかを考えてみる必要があります。もちろん自分の意のままに動かすことのできる神だと思って歌ったわけではありません。
* 「主の前にわたしを置く」という表現では意が伝わらないと考えた詩人は、強い信仰的意志を持って、主の方が私の所に出張してくださり、この私の生活のただ中にかかわろうと、こんな私の前に立ってくださると信じ切って告白し、主をわたしの前に置くと言ったのでしょう。
* 一見不敬な表現のように聞こえるのですが、主が、私の信仰的生き方の中に深くかかわってくださり、取扱い、養い育ててくださるお方として、私の前にいてくださいとの真剣な願いを、この表現で言い表そうとしたのでしょう。
* 信仰者は、変に遠慮深げに向かう方がいいかのように思う節がありますが、肉的遠慮は飢え渇きの欠如です。神を意のままに動かそうとするものではありませんが、神が動いてくださるように、強引なほどに飢え渇いて求めていく必要があるのです。
* もっと強引に、私の思い通りにではなく、あなたのお心のままにもっと私の全生活にかかわってください。私のような者でももっと有効に用いてください。すべての必要を満たしてくださいと。
* それでは、ご利益信仰のように、あれもしてください、これもしてくださいと願う肉欲信仰と、この詩人が示している強引な飢え渇き信仰とはどこが違うのでしょう。
* ご利益信仰は、どこまでも自分の思いが中心です。自分の思い通りになることだけを求めています。しかしこの詩人の示している飢え渇きの激しい信仰は、神のお心が中心です。神を自分の意のままに動かそうとするのではなく、神がこの私をどのように導こうとしてくださっているかを知った上で、主のお心がなるように激しく求めていくのです。
* ある時イエス様はこんな話をされました。「バプテスマの時から今に至るまで、天国は激しく襲われている。そして激しく襲う者たちがそれを奪い取っている」と。(マタイ11:12)これは、遠慮深そうにしていては、天国は奪い取れないと言っているのです。
* なぜこのようなことが言われたのでしょうか。その文章の前後を見て見ますと、飢え渇きが全く感じられない、見物がてらにイエスを見に来ていた人たちがそこに大勢いたのです。
* そんな人たちに対して、神が用意してくださっている最高のプレゼントである天国は、激しく飢え渇いて奪い取ろうとする思いなくして与えられないものだ。自分が救われなければ何の希望も持てない人間であることに気づき、救われて、永遠の命にあずかりたいと、本気で飢え渇くように言われている箇所です。
* 激しく飢え渇いて求めるということは、気楽ではないし、その恵みに合わせて戦いも伴ってくることもあるでしょう。けれども、この詩人が立っていた「主をわたしの前に置く信仰」がなければ、神からのプレゼントにあずかることはできないでしょう。
* この信仰に生きるならば、主が私の右にいてくださり、すべての歩みに伴ってくださるので、サタンのどんな働きかけを受けても、動かされることはなく、喜びに満ち溢れることができると言うのです。
(まとめ)動かされることのない信仰
* この歌を通して、信仰とは何を頂く者になることか、何に思いを向けて生きるようにされることか、これらのことが分かった者として、今を生かされることがいかに大事であるかに気づかされるのです。
* それは、神ご自身を頂いた者となり、主の導きに沿って生きるように自分を明け渡すことだと学んできました。古い自分によって生きてきた時には、古い自分をしっかりと握って離さず、古い自分が強くなることだけを願って生きてきたのですが、神ご自身を頂いた者となることにより、古い自分をすべて明け渡し、主の導きのままにお任せする生き方に変えられるのです。
* これが主の御手の中にある信仰人生であり、古い自分から解放された人生なのです。その生き方が目指すものは、神のお心がなるようにとの信仰であります。神はそんな私の助言者として、御心を教え示し、それによって育てられていく信仰の心によって御心を瞑想し、ますます御心を知る者とされていくのです。
* このような自分を明け渡す信仰的生き方を、「わたしは常に主をわたしの前に置く」との表現で言い表しました。強い信仰的意志を持って、私の信仰人生のただ中に、主に来て頂く以外に道はない。何としてでも主を私の前に置いて、主のお心を第1においている者としての生き方を持って前進していきたい。これがこの詩人の強い思いだったのです。
* 今日の私たちも、自分たちの今置かれている状況の中にあって、神ご自身を頂き、自分を明け渡し、私の信仰人生のただ中に主に来て頂き、主のお心第1に置く歩みをしていきたいと思わされるのです。その歩みだけが、主が伴ってくださる歩みであり、動かされることのない信仰だと言えるからです。