(序)主の働きかけに対してどのように応答したのか
* 詩篇16篇の詩人が、この歌を通して示そうとしたことは、主が私の主でいてくださるという事実を味わわせて頂いたことによって、どれほど喜びと感謝にあふれているか、うれしくて仕方がない思いを隠し切れず、声を大にして歌わずにはおれなかった思いを示そうとしたのです。
* 主が私の幸いそのものであると、自分の思いに目を向けず、神のみを見上げた詩人は、その主を自分の所有として頂いた上に、主を飲むことによって私の内に一杯に満ち溢れてくださっていることが霊で感じられ、自分の思いに振り回されることのない、御心を知る者にして頂いたという事実のすごさに打ち震えていたのです。
* それ故、主が私のすべての生活の中にかかわってくださるお方であるとの信仰、すなわち、主を私の前に置く歩みが揺るがないものとなって、喜びにあふれたのです。
* そのあふれた喜びがどのようなものであったか、主への信頼がどれほどのものであったか、最後の所で歌っているのが今日の箇所ですが、信仰者が、愛に満ちた主からの働きかけを頂いている者として、どのように応答すべきか、この詩人の信仰から、私たちも学び取っていく必要があると思わされます。
(1)心と霊と体が受けたもの
* 前回学んだように、詩人は、私の生活のすべてに主がかかわってくださるように、積極的な信仰を持って、主を私の前に置くと言いました。
* これは、主が働いてくださるのをじっと待つ向かい方ではなく、主の前に自分を明け渡して、主が働かずにはおれないように積極的に向かった姿だと言えるでしょう。
* これは理にかなっています。主は、私たちと深く交わりを持つことを願ってくださっており、私たちの側が飢え渇いて求めていきさえすれば、主の側はその働きかけを惜しまれず、その結びつきを喜んでくださるのです。
* しかし人間の側が、自分の思いを重んじ、私の生活すべてに、主が深くかかわってくださることを求めようとしない思いを持っているならば、それが壁となって、主の側から働きかけることができず、その結びつきは小さなものとなってしまうのです。
* 16篇の詩人は、自分の思いを大事にせず、自分の思いに未練を持たず、主の前に自分を明け渡した人でありました。だから、主の働きかけを全部受け取って、信仰が全く揺るがないものにされ、喜びにあふれたのです。
* 単に喜びにあふれたと言わずに、自分という存在を3つの要素に分けて表現し、各々において、心は楽しみ、魂は喜び、体は安らかだと言いました。なぜあえて自分のことを3つに分けて言う必要を感じたのでしょうか。どのような思いを込めてそのように言ったのかをまず考えてみることにしましょう。
* 心と魂と体という分け方から考えてみて、ここでいう魂とは、霊のことを指していると分かります。この箇所で言っている心とは、7節で語られていた腎臓(心)という言葉とは違う言葉が用いられ、ここでは心臓を意味する言葉になっています。
* すなわち、心と霊と体という分け方で示しているのは、霊は神と結びつく部分ですから、その霊を持っている人格、人間性のことを指して心と言い、それを宿す外の器のことを体と呼んでいることが分かります。
* 口語訳では、「心は楽しみ」と訳していますが、喜ぶと言う意味もある言葉で、私の生活すべてに深くかかわってくださる主の深い愛を思うと、心は喜びにあふれますと言っているのです。
* 心が喜ぶとは、どういうことでしょうか。この地上に置かれている信仰人生でありますから、信仰を持たない人と接することも多くあり、信仰にそぐわないことにも多く遭遇し、心に戦いを覚えることが無数にある中で、主が私の生活のすべてにかかわってくださっているという信仰を持って前向きに歩んでいるならば、思いも世に囚われることなく、主に信頼することによって喜んでおることができると言うのです。
* 自分の置かれている状況が、自分の思い通りに進んで喜んでいると言っているのではなく、どんな状態であり、どのような戦いが押し寄せてくることがあっても、主が私の歩みのすべてにかかわってくださり、おろおろする必要がなく、思い煩うことも、先行き不安を覚えることもなく、与えられている信仰人生を喜び楽しむことができると言っているのです。
* この詩人が、どのような生活を送っていたか、想像もできませんが、生活のただ中に深くかかわってくださっている主を仰ぎ見て、自分に与えられている信仰生活として喜び楽しんでいた様子が伺えます。
* 次は、霊は喜び躍っていると言っています。口語訳で喜ぶと訳されている言葉は、激しく喜ぶとか、喜び躍っているという、その喜びが非常に大きなものであることを示しています。すなわち、彼の霊は、神の御手の中に握りしめられていて、主の守りのすごさが感じられ、喜び躍っていると言うのです。
* 目の前に起きている肉の現状に左右されるのが人間ですが、神との接合部分である霊は、肉の現状にかかわりなく、神からのエネルギーを受けて、霊はフル回転し、喜び躍っていると言って、肉と霊とをある部分で切り離して受けとめることができる信仰を表していたのです。
* 信仰者はともすれば、肉の現状が良くないと、霊まで引き落とされ、霊の働きを鈍らされてしまうものです。肉の現状に左右されず、霊をしっかり切り離して、神からのエネルギーを十二分に受け取り、霊がはなはだしく喜び続けていたこの詩人の信仰的向かい方は、素晴らしいと思わされるのです。
* 霊がフル回転していれば、落とされそうになる思いも逆に支えられ、強くされるからです。この意味で現状に生きる肉と、神との接合に生きる霊とをしっかり切り離していることが、すべてのことを乗り越える鍵であることが分かります。
* 次に、体も安らかにされたと言っています。人間の体は、神から預けられた、神の作品です。確かに罪に汚れてしまったことにより、不良品となってしまいましたが、神の救いのみわざによって、補修済みの製品にしようと働きかけてくださっています。この詩篇の時代では、まだキリストによるあがないの恵みについて分かってはいませんが、神の思いではその救いがすでに用意されているのです。
* この詩人も、神による救いの働きかけを確信していましたから、この体も意味のない、滅びに至る罪の体としてではなく、神が大事に思ってくださっている体だと受けとめていたのです。
* それ故、神の御手の中に置かれている人生として、平安を得ているならば、精神的ストレスは小さくなり、体は安らぐことができるのです。
* 詩人にとって、ストレスの起きない環境に置かれていたわけではないでしょう。外からの悪しき働きかけもあり、内側には起きてくる不安、恐れ、思い煩いなどの思いもすべてストレスとなり、体を痛めつけようとするのですが、神の御手の中に置かれているという霊的事実がストレスを取り除き、安らぐことができるのです。
* この詩人が経験して歌っている体の安らぎは、そのようなストレスからの解放であったと考えられます。こうして、心においては喜び楽しみ、霊においては喜び躍り、体においては安らぎを得ているという、信仰者が受けることができるようにされている最高のものを、詩人は受けていたと歌っているのです。
(2)神の御手の中に置かれた生
* 詩人は生きている時だけではなく、死んだとしても、神の大きな御手の中から落ちるわけではないと歌っています。詩人にとって、何か死を覚悟しなければならないような迫害や、病の床にあったとは考えられません。しかし死を間近に感じていたからこのように歌ったと思われます。
* ここから考えられる一つのことは、死について考えさせられる年齢であったのではないかと推測できるのです。けれども年老いたからと言って、詩人は死を恐れていたのではなく、いつか時が来れば死を迎えることになり、その時に死んで黄泉に下るとしても、そこに放置されてしまうことなく、神の御手の中から落ちることなく、滅んで消滅してしまうことを意味する墓穴を見させられることはないと言いました。
* この内容が、ペテロによって、キリストの復活が示されている預言として取り上げられています。(使徒2:27 新182)パウロも同じように引用し、キリストの復活の預言として語られたものだと言っています。(使徒13:35)
* しかしこの詩人自身は、後において重要な意味を持つキリスト預言となると意識していたわけではないでしょう。ここでは、キリストの復活を予見して歌ったものではなく、神は、ご自身を敬う者を、生きている間だけではなく、死んだ後も、御手の中に置き続けてくださっていると確信して歌っているのです。
* この詩人にとって、死後にどのような神の導きがあるのか、この歌から見ると、明確ではなかったと思われます。ただ死で終わってしまう生ではない、死後にも神の御手の中にあって意味のある生が待ち受けていると理解していたことが感じられます。
* この詩人が受けとめていたことは、いつかは来る肉体の死は、主から切り離され、主と断絶する世界に落ちることではありません。死後の世界である黄泉に行くことにはなっても、主を敬う者にとっては、そこは主から切り離された所ではなく、主との結びつきが継続しており、私の生が途絶えることはないと信じていたのです。
* その思いが11節の最初の所で、「あなたはいのちの道をわたしに示される」という言葉となっているのでしょう。神の御手の中に生かされることになった私の生は、肉体の死で途切れてしまうようなものではない、どこまでも続くいのちの道として私に示してくださったと言っているのです。
* ここに、この詩人の、肉体の死を超越した、神の御手の中に置かれた生という信仰認識が強くにじみ出ているのを見ることができます。この信仰認識が、世にあって何が起ころうと動じない信仰に立たせていたのでしょう。
* この歌が、キリストの復活を預言している内容として、詩人の思いを超えて、神はペテロやパウロの内に働きかけられ、キリストの復活があらかじめ預言されている内容として取り上げさせられ、さらに、キリストの復活がすべての信仰者の初穂としての復活であり、すべての信仰者も後に復活することになることが明らかにされていくのです。(Tコリント15:20 新274)
* 詩人に見えていなかった死後の状態が、新約において明らかになっていくのです。確かに詩人にはその詳細は見えてはいませんでしたが、導きを頂いて、死で終わらない生を確信していたし、それが彼にとって世におけるストレスから解放される要因となっていたのです。
(3)霊において喜び躍る
* 死で途絶えることのない、いつまでも続くいのちの道を歩んでいた詩人は、御前には満ち溢れる喜びがあり、あなたのそばには永遠の楽しさがあると歌って、この地上にあって生かされている生だけではなく、死後の生も含めて、私に与えられた信仰人生は、喜びで一杯であり、永遠に続く楽しみを頂いていると告白しているのです。
* 確かに、死後の状態がすべて分かって、死に対する勝利を得たのではありませんでしたが、神の御手の中に置かれた生であり、肉体の死でさえも主の御手の中から落ちて、主と断絶することはなく、主の前における生が続くとの確信を得たことによって、彼の内側から出てくるあらゆる不安、恐れ、思い煩いなどから解放され、喜びが内側から爆発したのです。
* それは、キリストの復活にあずかって、終わりの日に朽ちない者によみがえるという霊的事実を確信して、死からの勝利を歌ったパウロのように、(Tコリント15:55 新276)すべてが分かった上で歌ったわけではないけれども、肉体の死という越え難い大きな壁のように見える事柄の前にも、主の御手の中に置かれているという生が失われないことを信じていたがゆえに、「死は勝利にのまれてしまった」と叫ぶことができたのです。
* この詩人が、今の生かされている生、それはやがて来るであろう死さえも含めて、どんなに喜びにあふれ、勝利感に満ち、与えられた生を楽しみ、歌わずにはおれないほど喜び躍っていたか、その姿が目に見えます。
* これは、ペテロの言葉で言うならば、「信仰の結果なるたましいの救いを得ていたから、輝きに満ちた喜びにあふれていた」のです。(Tペテロ1:8,9 新366)
* 逆に言えば、喜びに溢れて輝いていないならば、信仰の結果であるたましいの救いを得ていないことになります。たましいの救い、それは汚れた罪が赦されることにより、神の御手の中に置かれるようにして頂けるという福音のすごさに触れ、神のみ前に生きることができるようになったという霊的事実がどれほどうれしいことなのかが分かって喜ぶことができるのです。
* これは、肉における喜びのことではありません。霊における喜びのことなのです。神は必ずしも人間的な面において思い通りにして喜ばせてくださるわけではありません。この詩人が、測りなわが自分の好ましい所に落ちたと言えたのは、詩人の側が、神の御心に近づいたから、その願いが聞かれただけです。
* いつも肉において喜べるわけではなくても、霊においては、神のなしてくださったみわざは変わらないので、すべて喜べるものであり、神のしてくださることは、神の御手の中に置かれるための働きですから、霊で喜ぶことができるように臨んでくださっているのです。
* その、神の側の熱い思いを受けとめて、それに応えようとする姿として大事なのは、霊において喜んでいることを表していくことです。霊においてどれほど喜んでいるか表そうとしないなら、たましいの救いの素晴らしさを味わっている人とは言えません。
* 肉において喜びを無理矢理表そうとしても、いつも喜べる状態にあるとは限りませんから不自然であり、できるものではありません。しかし霊において、どれほどの恵みの中に置かれているかを、霊で感じ取ることができたなら、霊において喜び躍ることができ、それは失われることはないのです。その喜びを表すことを神は求めておられるのです。
(まとめ)
* 詩篇16篇を3回に分けて学んできましたが、この詩人が歌を通して示そうとしたことは、主によりすがる人生が与えられたことを喜び、主が私の幸いそのものだと神の前に置ける幸いを味わった者としての喜びの声を上げ、積極的に自分の全生活に、神がかかわってくださることを求めて自分を明け渡す生き方をすることによって喜びがあふれている様を、神に向かって告白することにあったことが分かります。
* 世における生活が、すべての面で問題なく、順調に言っていたわけではないでしょう。けれども主が示してくださっている霊的な状態が見えた詩人は、神の御手の中に置かれている自分が、自分にとって最も幸いな姿であると感じ、喜ばずにはおれなかったのです。
* 霊の喜びを、積極的に表していくことが自分にできる神への応答であると受けとめていたので、心の底から喜びを表し、主の素晴らしさをたたえた詩人の姿に、信仰者のあるべき姿が見られるのです。
* 私たちも、自分の置かれている霊的な状態を見て、どれほど喜びに満ちて主を告白し、感謝の心で主をたたえているか、問われているように思えるのです。