(序)不当な訴えを受けた体験記
* この詩人の置かれている状態、厳しい境遇、弁明が通じない心休まらないつらさなど、詩人が現在どのような状況にいるのか、その背景を知ることができるのですが、なぜ不当な訴えがなされ、誰から、またそれがどのようなものであったのか、その詳細は全く分かりません。
* ある学者は、この詩は単純な祈りでしかなく、この詩に深みのある宗教思想を汲み取ることは難しいと言っています。内容をそのような観点からしか見ることのできない霊的感受性の乏しさを感じさせられます。
* 詩人が、一人の信仰者として、自分の置かれている状況において戦い、主を見上げ、主の助けを願うその内容には、信仰者としての信仰の現し方、受けとめ方、対処の仕方、向き合い方などが、そこに描き出されています。
* それらのことを通して私たちに対する神からの大事な語りかけを読み取ることができるのです。目新しい宗教思想が汲み取れるかどうかで見るべきではないのです。
* この詩人が立っているところは、不当な訴えを受ける羽目となったが、それは全くの濡れ衣であって、弁明をしても受け入れられず、神の下に行ってその裁定を求めるしかなかったのです。
* 当時、神殿に行き、そこにおいて神の裁定を求めるということがなされていたようです。それは、エルサレム神殿が造られ、奉納された時に、ソロモン王が祈りの中で、神の名が置かれた神殿の前に来た時、神がその裁定を下してくださるように祈ったことから、なされるようになったのでしょう。(列王上8:31〜 旧489)
* この詩人が歌っている2節の内容には、そのような背景が考えられ、しかも泊り込みで、夜にその心が試みられ、神の裁定の判断材料にされ、15節の目覚める時という表現から、朝にその判決が下されると歌われているのでしょう。
* 詩人の、この時の体験記が歌われ、私の訴えに対して、神がどのように正しい判決を下してくださったか、信仰に生きる者の向かうべき姿と、神がどのように働きかけて下さったか、喜びを持って歌っている様子が描かれています。
* 信仰者は一人一人、時代も状況も、置かれる境遇も、異なっていますが、自分の立っている状況の中で、信仰者としてどのように生きていくべきか、神の働きかけをどのように受け取って歩んでいくべきか、信仰を持って向かうようにされているわけですから、この詩人の信仰を通して、神を前において向かうべき姿について、学び取っていく必要があるでしょう。
(1)人間的解決によらず、信仰によって乗り越える
* この詩人は、何かのことで、ある人から訴えられていたのですが、詩人には身に覚えがなく、自分の正当性を訴えても受け入れられず、のっぴきならない立場に置かれてしまっていたのです。
* そこで、ここに描かれていると考えられる通常の裁判で納得できない時に上告する場として、エルサレム神殿における神の裁定を求める、神による裁判と呼べるような司法制度があったのではないかと考えられます。
* その原型と言えるものが、モーセの律法において記されています。「もし人が金銭…を託し、それが隣人の家から盗まれた時、…もし盗人が見つけられなければ、家の主人を神の前に連れてきて、彼が隣人の持ち物に手をかけたかどうかを確かめなければならない」(出エジ22:7、8 旧105)
* また申命記では、「町の内に訴えごとが起こり、…あなたが、さばきかねるものである時は、立ってあなたの神、主が選ばれる場所にのぼり、…レビびとである祭司と、その時の裁判人とに行って尋ねなければならない」(17:7,8 旧271)と言っています。
* このような取り決めが背景となって歌われている内容であったとしても、詩人は、下級審において納得のいく判決が出なかったので、上級審に上告したという人間的解決を求めようとしたのではありませんでした。
* 形としては、神殿において、祭司や裁判人を通して判決が下されるとしても、そこに神の御意志が働いて、神による正しい裁定が下されると、信仰によって受けとめて向かったのでしょう。
* 人間の裁判人によって、正しい裁定を望むことができないと思っていたのでしょう。それは、人間が持つことのできる裁定能力はごく僅かでしかなく、心の奥底にあるものまで読み取ることができず、限度のある人間が下す判断は、不確かさと推測と誤解とが混じったものだと分かっていたからです。
* それ故、人間の世界は誤解と思い込みと争いとが絶えません。人によって違いはありますが、そのような人間が満ちている世界、これが世であります。ましてそこに、自己中心と利害と自己都合を優先するのが人間ですから、誤解と思い込みと争いはなくなることはありません。
* この詩人は、世に正しい裁きを求めることに無理があると感じていましたから、すべてのことをご存知であり、正しい裁きをなさることのできる唯一のお方を見上げ、主が私の正しい訴えを聞き、叫びに耳を傾け、偽りのない祈りを耳に留めてくださいと主の正しい裁きに期待したのです。
* しかし、詩人のこのような訴え方は、主が私のことをご存知ではないから、現状を訴えて正しい裁きをして下さるように求めたのでしょうか。叫びも祈りも同様だと言えます。神が何もご存知ではないと思っていたわけではありません。けれども、主のあわれみを求め、私の窮状に目を留めて、正しい裁きを行なって下さいとの願いが強くあふれてきたので、訴えずにはおれなかったのでしょう。
* ここに、この詩人の信仰が浮き出ています。主だけがすべてのことをご存知で、正しい裁定ができる能力をお持ちである。だからこそ誤解と思い込みと争いとがあふれている世に生かされていても、主の正しい裁定の下で生きることができるようにされているのが信仰者だと考えていたことが分かります。
* それでは、主が正しく裁定して下さるなら、人から誤解されたり、非難されたり、不当な訴えを受けたりしても、何ともなかったのでしょうか。それほど強い人ではなかったように見えます。戦いを覚え、苦痛に顔はゆがみ、そのような状況から早く逃れたいと願っていたことでしょう。
* しかし、だからといって人間的解決を得ることのできない状況の中に置かれ、主が正しい裁定をなして下さるということが、唯一の拠り所とし、主に向かっている私を、主が支えて下さると確信していたことが慰めとなり、力となっていたのでしょう。
* これは、人間的解決に頼ろうとせず、信仰によって乗り越えようとした向かい方であったと言えるでしょう。人間的に解決を得てすっきりとする道を必死になって選ぼうとせず、神が私のことを受けとめて下さっていると信じ、そこに思いを置くことによって、この状況を乗り越えたのです。確かにそれは、人間的にホッとできる道ではありませんが、神の下にあってホッとする道を求めたのです。
(2)人を用いて示される神の裁定
* それでは詩人は、神がどのような方法で正しい裁定を示して下さり、自分の支えとなって下さると確信したのでしょうか。2節では、「わたしについての宣告(裁定)が、み前から出て、あなたの目が公平を(私の正しいことを)みられる」と言っています。
* 具体的にどのような方法で、その正しい裁きを示して下さるかは記してはいませんが、当時において、祭司や裁判人を通して示されると信じたのでしょう。祭司や裁判人は人間であるのに、彼らを通して神の裁定を聞くことができるとどうして信じることができたのでしょうか。
* 使徒行伝に興味深い記事が記されています。それは12弟子の一人ユダが主を裏切って死んでしまったので、主の復活後、使徒を補充するように示され、バルサバとマッテヤとがその候補とされ、この2人の内一人を選ぶ時、くじで決めたという記事です。(使徒1:21〜26 新181)
* 何と、これからキリスト教の中心となって活動する使徒の一人が、くじ引きで決められたと言うのです。何といい加減な選定でしょうか。イエス様が自ら選ばれた12人の弟子たちとは異なり、あまりにもいい加減に感じるのですが、それが、神による選定であったと記されているのです。
* それは、くじを引く手を神が動かして正しく選定させて下さるように祈り願ったことによって、そのいい加減なくじ引きが神によるものだと信じられ、誰もそれに意義を唱えなかったのです。人間的な方法としては、幼稚なものであったとしても、そこに神が働いて導いて下さったと、信仰によって選んだのです。
* このことからも分かるように、裁判をする祭司も、裁判人も普通の人間でありましたが、神がその人たちの内側に働いて下さり、神の裁定を示すことができる者にして下さると信じた結果、神による正しい裁きがなされると確信したのです。
* それでは、神はどのような人間でも、神の裁定を示す者として用いられると言えるでしょうか。信仰者が神の働きかけを本気で信じて祈り、神が正しき裁定を示して下さることを信じて祈るならば、神はどのような人をもその人の意志にかかわりなく用いられると言えます。
* 祭司や裁判人から出た裁定を、神の御前から出た裁きだと信じた詩人は、主の前に私が正しいことを明らかにし、主は保護して下さると確信していたのです。
(3)信仰的自負心を持って生きる
* 詩人は、神の前に自分が潔白であることを訴え、内面を調べられても、問題なしと出てくることを確信していました。しかし、それは訴えられている罪に対しての無実宣言であって、すべての点で罪を犯したことがないと言っているのではありません。
* そうでなければ鼻持ちならない傲慢お化けか、罪無自覚人間でしかないと言うしかないでしょう。詩人は、自分をしえたげようとする敵の存在を恐ろしく感じ、できれば主の下に隠れさせてほしいと願う弱さを持っていました。
* しかし、一方では決して動かさないものがありました。それは、不法の道を避け、主の道を踏み外すことなく歩んできたという自負心でありました。
* もちろん、うぬぼれの思いが入っている自負心ではなく、主を第1に置き、主の導きを大事にし、それを拠り所として生きることができるようにして頂いたという信仰的自負心であったのです。
* 確かに、私たち人間は完全な意味で神信仰に立ち、僅かの疑いも抱かない完璧な信仰を持っている者だとは言えないでしょう。しかし神は私たちに、そのような完璧さを求めておられるのではなく、弱さを持ちつつも主にすがり、主の導きを大事にし、主の道から外れることのないように向かい、主の助けと力とを味わいながら歩むことができるようにして頂いていると確信できる時、信仰的自負心を持って、神は、私の内に何の悪いものをも見出されないと告白できるのです。
* もし、この信仰的自負心を持つことができず、この私の歩みでは主にしっかりと結びついていることにはならない、神の目から見たら、思いと言葉と行いにおいて失格ではないかという霊的安心感がないと思わされるならば、生涯確信のない、主の支えと守りとを期待することのできない者に終わってしまうことになります。
* 御言葉に沿って生きることに楽しみを見出さず、主のものとされていることに喜びを見出さないのに、言葉上だけで大丈夫だ、神は私を支え、守り、助けて下さると言い聞かせていればいいと言っているのではありません。
* 信仰的自負心とは、イエス様が教えて下さったように、まことのぶどうの木であるキリストに、しっかりとつながっている枝として、キリストから養分を受け続けて実を結ぶように導かれている信仰に立たせて頂いていることを確信しているなら、枝そのものが弱さを持っていても、不安を覚えていても、主の枝としての信仰的自負心を抱くことができるのです。(ヨハネ15:5 新166)
* こうして、神としっかりと結びついている確信に立っているならば、不当な訴えにもつぶされることなく、神による正しい裁定を引き出して、そこから逃れさせて下さると信じたのです。
(まとめ)神を前面に打ち出す向かい方
* 詩人が戦ってきたものは、詩人に害を与えようとする存在からの働きかけによるものでありましたが、世に生きている人間は、すべて誤解と思い込みと争いに満ちている中に生きていますから、信仰者の信仰を引き落とそうとする働きかけはなくなることはないでしょう。その時代、状況に応じた働きかけが必ずあるのです。
* その時に、信仰によってどう対処し、乗り越えていくのか、その向かい方が確立しているならば、そのような働きかけに恐れる必要はないでしょう。それでは、どう対処すればいいのでしょうか。
* 人間的解決を得てすっきりさせたい思いが強いのが人間ですが、それをやめ、自分の力で正面から立ち向かおうとしないで、すべてをご存知である主が正しい裁定を下してくださると信じ、主としっかりと結びついていることに心を向けることが、信仰による対処法だとこの詩人は受けとめていました。
* それは、問題を取り込まずに避け、正面で受けとめないようにする向かい方で、それでは真の解決を得ることができないと考えやすいのですが、問題の奥、敵の背後には信仰者を引き落とそうとするサタンが控えており、対抗できる相手ではないことを知るべきです。
* 勝利を得るには、人間的には消極的に見え、弱弱しい対応に見えるのですが、私たちが前面に出るのではなく、主を前面に出して、信仰によって対処していくことが勝利の秘訣でしょう。
* この詩人も、自分の力によって対抗できないから、主に訴え、叫び、祈ることによって、サタンと対抗して下さるのは神であることを前面に打ち出したのです。
* 神を前面に打ち出すには、その神に、私たちがしっかりと結びついて歩む、日毎の歩みが求められており、悪しき道を避け、主の道を踏み外さない確かな歩みをせずして、神を前面に打ち出す向かい方はできないでしょう。
* この対処の仕方が分かったならば、私たちが弱くても、サタンと対抗できる力がなくても、恐れる必要がなく、堂々としておることができるのです。