聖日礼拝メッセージ
2012年6月19日 更新

聖 書 詩篇17:6〜12   (第2講)
 題  「敵の手から守られる霊的イメージを描く詩人」


  (序)サタンの存在についてどこまで分かっていたか

* 前回の結びの所で、私たち信仰者を引き落とそうとするあらゆる働きかけの奥、問題の奥、敵の背後にはサタンが控えていると、私たちの適用として考えたのですが、その時、詩人も主に訴えて、サタンと対抗して下さるのは神であることを前面に打ち出したと言いました。

* この言葉は、もう少し補足する必要があります。詩人は明確に、背後にサタンを強く意識していたと言えるのかということですが、旧約ではサタン(悪魔)について触れられている記事はごく僅かであり、歴代誌上21:1、ヨブ1:6〜9他、ゼカリヤ3:1,2の3つの文書に出てくるだけであり、しかも狂暴な敵というよりも、単なる告発者として出ているだけですから、この詩人がどこまで意識していたかは明確ではありません。

* 後期ユダヤ教からサタンの存在が意識され始め、新約の時代においては狂暴な敵、神に対する反抗勢力として強く意識するようになって行ったのです。なぜそうなって行ったのか、その理由はよく分かりませんが、この詩人の時代においては、まだボンヤリと敵の背後にいる存在を感じ取っていた程度であったと思われますが、救い主が遣わされた時から、大きく変化し、神に対する反抗勢力も明らかにされて行ったのでしょう。

* それ故、詩人の時代においては、神に反抗する目の前の直接的な敵の存在が大きく描き出されており、敵を操る背後のサタンの存在については、十分認識していない状態であったと言うべきでしょう。

* しかし、そのような恐るべき強力な敵であるサタンに目を注いでいなかったとしても、自分をつぶそうとして働きかけている敵の大きな力が、決して侮ることのできない勢力であることを受けとめていたと考えられますから、ボンヤリとではあっても敵の背後にいる存在を感じ取っていたと言えるでしょう。

* この意味で、福音の素晴らしい内容が明らかにされてくるにつれ、その敵の背後の存在もより明らかにされていき、信仰者の敵は直接的な敵ではなく、それは単なる敵の道具に過ぎず、その背後に恐るべき存在がいることが明らかにされ、パウロによって、「わたしたちの戦いは、血肉(目に見える敵)に対するものではなく、…やみの世の主権者、また天上にいる悪の霊に対する戦いである」(エペソ6:12 新307)とはっきりと示されるようになってくるのです。

* それ故、私たちが、詩篇を通して、神の御声を聞こうとする時、詩人が目に見える敵について触れ、その背後の敵はボンヤリとしていても、今日の私たち信仰者においては、明白にされているやみの世の主権者に目を注ぎ、神の力によって、その敵に立ち向かわなければならないことが分かるのです。それでは、詩人の立場からこの内容を続けて見ていくことにしましょう。


  (1)自分の状態を分析し、主に訴えている詩人

* この詩人は、身に覚えがない不当な訴えを受けて、地方の裁判所では自分の弁明が受け入れられず、考えられない判決が出て、神による裁判所と言われる神殿における裁判に上告するしか方法がなかったので、訴え出たのが、この詩人の置かれている状態であったのです。

* そこでの裁判は、人間による裁判とは異なり、神が間接的に導いて下さり、正しい判決を示して下さると確信していたのです。

* 私のすべてをご存知である神が、正しい判定を下して、無罪にして下さることを信じて待ち望んだのです。それは、神と結びついて、神に喜ばれる生き方に思いを向けているこの私を、神が見離されるはずがないと信じ切っていたからです。

* 神は、私の信仰的生き方を見て、義として下さっている、そう信じることができるほど、彼は、主の道に沿って歩んできたという信仰的自負心を持って歩んできたのです。このことが、詩人が、神の守りと支えと助けとを確信していた根拠であったのです。

* この世は、誤解と思い込みと争いの心が満ちているから、信仰者として生きていくには厳しい世界であり、引き落とそうとする働きかけから逃れることはできないですが、神が、私の歩みに目を留めて下さっていると信じていた詩人は、主に向かって叫び、主に祈らずにはおれませんでした。

* すでに、1節と2節において、私のすべてをご存知である主に、自分の窮状を訴え、正しい裁きをして下さるようにと願っているのに、再び6節〜8節の所において訴えを聞いて下さるように求め、落とされることのないように主の守りと助けとを繰り返し求めているのはなぜでしょうか。

* 主の守りと助けを信じ切ることができなかったから、心から安心できなかったから再度願わずにはおれなかったのでしょうか。そうではありません。第1部の方では、私の無実を明らかにして下さるように、との確信を得ようとする者の願いに対する答えを求めたものです。

* しかし第2部においての訴えは、敵の恐ろしい手から守って下さるようにという、次の段階の救いと助けとを順を追って願い求めたものであったのです。

* 第3部は次回に学びますが、このように、順を追って主に訴えるとは、今の私は、何を主に訴えて求めていくべきか、自分の状態を正しく分析して、何段階かに分け、順を追って願っていることだと分かります。そこに、主のあわれみが注がれると信じていたからです。

* 私たち信仰者が、自分の状態をどのように受けとめ、分析し、どこに主が働いて導いて下さるように求めて訴え、祈り願っているのか、その作業をしているでしょうか。

* 主は、私たちの信仰的向かい方を見て下さっています。自分の状態を分析せず、何でもかんでも主よ助けて下さい、主よ働いて下さいと願うのではなく、今私のここに御手を差し伸べて下さいと、信仰によって願い求める姿を主は見ておられるのです。

* そのような訴えと共に、どのように主は助け守られると信じているのか、信仰によって告白しています。これは、主が必ずこのような助け方をして下さるようにと、主の働きかけを私たち信仰者の側が、傲慢にも指定しようと言うのではありません。

* これまでの主の助けと導きを覚え、また約束されている御言葉から、このような私の状態を見て、このように助けて下さるとの強い確信と告白という、信仰的受けとめ方を述べているのです。

* 主がどのような助け方をして下さるのか、信仰によって受けとめていないなら、もし主が助けて下さっていても、霊が鈍くて何にも感じ取れず、信仰によって解決することにはならないのです。それでは、主がどのように助け守って下さると詩人は信じていたのでしょうか。そのことについてもう少し見てみましょう。


  (2)神の守りの霊的イメージを描いた詩人

* 7節では、寄り頼む者をそのあだから右の手で救われると告白しました。この寄り頼むという言葉は、避けどころとするという意味の言葉ですから、主の下に逃げ込んでくる者を、主はご自身の大事なものとして、敵の手から救って下さると言うのです。

* 右の手という比喩は、詩篇121:5からも分かるように、悪しき敵、害を与えようとするものから守る防護服、覆いの働きをして下さる神の偉大な御力を表しています。この詩人が、この表現を用いたのは、自分の知恵や工夫や力によってではなく、一方的な主の守りの覆いによって、敵の目をくらまし、排除し、助け守って下さるとの信仰を告白しているのです。

* それが現実においては、どのようなものであったか、これだけでは知るすべはありませんが、詩人自身が、その信仰の目を持って、主がなして下さる働きかけを見ていたから、彼の目にはその守りと助けとが見えたのでしょう。

* 2行目は、そのことを別の表現で、「あなたのいつくしみを驚くばかりにあらわし」と言いました。神のそのような働きかけを、慈愛に満ちたお方による、考えられないような奇蹟的救出のみわざだと受けとめたのです。

* もちろん、ここは、そうして下さるようにと訴えている内容でありますが、その言葉の裏には、主は偉大で、御力を惜しまれない慈愛深いお方であり、信じる者をどこまでも愛し守って下さるお方であるとの強い信頼があったから、願うことができたのです。

* この、神による慈愛に満ちた働きかけを、8節において2つの表現で言い表しました。一つは「ひとみのようにわたしを守り」、もう一つは、「みつばさの陰にわたしを隠し」と言ったのです。

* ひとみのようにと記されている原文は、「娘の目」「瞳のように」という2つの言葉が並べられているのです。申命記32:10(旧294)に記されているように、これは非常に繊細な器官として、注意深く守られるものの比喩として示され、神がご自身の許に身を寄せようとする者を大事に思い、傷がつかないように守って下さることが言われているのでしょう。

* もう一つの、みつばさの陰とは、天使の翼の下か、あるいは母鳥が雛を翼の中に隠す比喩か、どちらとも言えませんが、どちらにしても、敵と対等に戦うことのできない弱い者を、大きな守りの下に置こうとして下さる神の愛について示された比喩であります。

* さらに9節で、「わたしをしえたげる悪しき者から、わたしを囲む恐ろしい敵から、のがれさせてください」と歌い、命までも狙っている恐ろしい敵の存在が、詩人を苦しめていたが、神は、ご自身の瞳を守るように、また、天使の翼の下におらせるように、どんな悪しき敵からも守って下さることを期待することができたのです。

* どうしてそこまで、神の庇護を信じることができたのでしょうか、即座に訴えが取り上げられて解放されたようには見られませんし、敵が自滅したようにも見受けられません。見える形での神の庇護があったのではないでしょう。

* しかし詩人は、霊の目で、その霊的イメージを描いて、それを確信したのでしょう。15節の内容は、単なるそうなってほしいという願望ではなく、そうして下さるとの強い確信が感じられます。その所は、次回詳しく見ることにしましょう。


  (3)最強の狂暴な敵として認識する

* 詩人の立場は好転してはいませんでした。詩人を打ち倒そうとする敵の姿は、今もなお、あたかもかき裂こうとするライオンのように、その激しさは、隠れて待ち構えている若いライオンのように見えていたからです。

* 詩人が、自分に襲い掛かっている敵のことを、ライオンにたとえて歌ったのは、この当時において、最強の狂暴な敵を表現するたとえであったのでしょう。ライオンが家畜や人間に襲い掛かってくることがあり、それに対抗する力を持たない人間にとっては、それは、非常な恐怖でしかなかったのです。

* 詩人は、敵のことを、腹を空かせたライオンが獲物を食い尽くそうとする様子にたとえたのは、敵がどれほど恐ろしい存在であるのか、自らの信仰体験の中で、注意を呼びかけようとしたのでしょう。敵を甘く見るな、私たちの命を噛み食らい、神から完全に引き離そうとする恐怖だからだと言うのです。

* 序論の所でも見たように、旧約においては、その背後にいるサタンの存在はまだボンヤリとしたものであったので、直接的には触れてはいませんが、神の下にある私の信仰人生に襲いかかろうとしている恐ろしい存在として、感じ取っていたのでしょう。

* もちろんこれは、もっと怖がりなさいというために、自らの体験談を歌ったのではありません。敵がどんなに恐ろしい存在であるかということを十分に認識した上で、引き落とされないためには何に注意しなければならないのか、何を見張っていなければならないのか知って乗り越えてほしいと証しているのでしょう。

* 新約の時代においては、敵そのものよりも、その敵の背後にいる恐るべき霊的存在として、サタンの存在が明確にされ、信仰者にとって戦う相手として、同じライオンにたとえて注意を喚起しているのです。

* ペテロは、サタンをライオンにたとえてこう言っています。「あなたがたの敵である悪魔が、ほえたけるししのように、食いつくすべきものを求めて歩き回っている」と(Tペテロ5:8,9)。

* そのライオンに引き落とされないためには、まず「身を慎み、目を覚ましていること」と言い、さらに「信仰にかたく立って、抵抗しなさい」と言いました。

* サタンに隙を見せないために、道徳的、肉欲的に肉の思いに振り回されるまま歩もうとしてはならない、節制することが身を慎むことであり、何がサタンの働きかけか、よく見張るように目を覚ましていなさいと言いました。

* パウロは、その敵なるサタンと対抗する唯一の手立ては、神の武具を身につけることだと言いました。それは自力で対抗できない強大な敵に対しては、神を信じ、神が与えて下さる武具で立ち向かう以外に勝ち目はないと言うのです。(エペソ6:11)

* そして、信仰にかたく立って抵抗せよと言うことにより、サタンに負けない歩みは、キリストを信じる信仰により、キリストの力を持ってサタンと対抗することだと示しているのです。時には表面的にサタンに負けているように見える時があっても、キリストにおいて負けることはないと信じきることが信仰にかたく立つことなのです。これ以外に強大な敵サタンに勝つ道はありません。


  (結び)キリストという防護服

* 第2部において、主に訴えている内容は、敵の恐ろしい手から守って下さるように、主の救いと助けとを願い求めたものでありました。

* 信仰者の歩みには、必ず立ちはだかる敵が起きてきます。詩人のように、引き落とそうとする人間の場合もあれば、他の働きかけもあるでしょう。どんな形で襲い掛かってくるか分かりません。

* 新約の時代に生きる私たちにおいて考えておかなければならないことは、その背後に、神に対する反抗勢力であるサタンとその部下たちとがいて、神にある生き方をしようとする者を、何としてでも引き落とし、罠にはめ、包囲して攻め落とそうとしている敵がいるという点です。

* 言うならば。サタンに包囲されている世のただ中で、私たちは信仰によって、神と結びついて生かされている状態が、信仰者の置かれている状態なのです。

* ペテロは、信仰にかたく立って抵抗しなさいと言いました。パウロは、サタンに勝利するためには神の武具を身にまとうしかないと言いました。この武具の中に信仰の盾が含まれています。どちらも、信仰によって立ち向かわなければ、サタンの包囲網の中では、押しつぶされるしかないと言っているのです。

* 信仰で立ち向かう、それは、私たち信仰者が、キリストという防護服を信仰によって着ることにより、神の守りと助とをどこまでも信じ、現状において、目に見える良い兆しがなくても、敵が取り囲んでいる中を、キリストの力によってのみ掻き分けて進むことができるという霊的イメージを思い描くことが重要なのです。

* パウロはそのことをローマ13:14で、「あなたがたは主イエス・キリストを着なさい」と言いました。信仰者を神から引き離そうとする、世において無数にうごめいている恐ろしいサタンウイルスから守られるためには、キリストという防護服によってしっかりと身を包んで向かうことが必要なのです。そうでなければ、誰も身を守ることはできないのです。



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