(序)詩人の根底にある考え方
* この詩の最後の所において、詩人がどのような人生を虚しいと感じているか、どのような人生を最高の素晴らしい人生と感じているか、その思いが詩の背景によく表されていると言えます。
* 人の生き方は、すべてこの思いが出発点となっていると言っても過言ではないでしょう。誰しも虚しい人生を送りたいとは思わないものです。最高の素晴らしい人生がどのようなものかを考えずして、そのような人生を送ることはできないでしょう。
* それではどのような人生を虚しい人生と考え、どのような人生を最高の素晴らしい人生と考えていたのか、詩人は、信仰者の立場から、神に反抗する人々に、神が与えられる虚しい人生とはどのようなものか、ご自身を信じる者に与えられる最高に素晴らしい人生とはどういうものかを受けとめた上で歌っているのです。
* 詩人の置かれている状態は決していい状態だったとは言えません。それどころか、事態は最悪であったとさえ言えます。にもかかわらず、詩人は、今の自分は最高に素晴らしい人生を送らせて貰っていると、現状に押しつぶされずに歌っているのです。
* これは、信仰的やせ我慢で歌っているのでしょうか。それとも、必ずこのような結果に導いて下さると期待している通りになったならば、最高の素晴らしい人生になると言っているのでしょうか。詩人はどんな思いで現状を見、神が与えられる最高の素晴らしい人生はどのようなものだと思っていたのでしょうか。
* このことは、今日の私たち信仰者においても重要な事柄だと言えるでしょう。自分に与えられている今の人生が、神が与えて下さった最高の素晴らしい人生だと、現状に目を背けずに、はっきりと告白して、神に対して感謝の思いを表しているだろうか。このことをご一緒に考えてみる必要があります。
(1)神に訴え願ったことは何であったのか
* この詩を、詩人が訴えている内容から見て、3部に分けて学んできました。不当な訴えを受けるはめになり、その弁明が受け入れられず、地方の裁判所においては有罪とされてしまったので、神による正しい判定が下されると信じて神殿における裁判に上告した詩人でありました。
* 3番目の訴えの内容を理解するために、第1部と第2部の訴えの内容について復習してみましょう。第1部では、自分の苦しい現状を訴え、すべてをご存知である主が、正しい裁きをして下さるようにと訴えたものでした。第2部では、いのちさえも狙って引き落とそうと、恐ろしい力を持って迫ってくる敵の手から、守りと助けを願い求めて訴えたものでした。
* 第3部では、敵の手から守られるだけではなく、敵がこれ以上、私をつぶそうとしてくることのないように、あなたの剣で打ち滅ぼして下さいと訴え、信仰者がいつまでも敵の手の中でもてあそばれたままにしないで下さいと願っているのです。
* 言わば、この第3の訴えによって、信仰者であるこの私に完全な勝利を見させて下さいと願っているのです。こう願ったのは、神は、ご自身により頼む者には、必ず勝利を与えて下さるお方だと確信していたからでしょう。
* しかし、このような訴えは、私を引き落とそうとする敵を排除し、消し去って下さいという、敵への報復を願っている、およそ信仰者らしくない見苦しさを感じるのです。
* 敵をも愛せよと言われたイエス様の御言葉や、復讐をしないで神の怒りに任せなさいと言ったパウロのことばなどから考えてみて、度量の狭さを感じるのです。
* ここで、詩人は敵を倒し、敵を殺して下さいと願ったのでしょうか。このことを14節の内容から考えてみる必要があるでしょう。けれどもこの14節は、原文が少し破損しており、きわめて難解な文章ですから、様々な翻訳がなされ、様々な読み方がなされていて、どれが正しいか判断しにくいのです。
* 考えられる一つの解釈は、13節とのつながりから、主の御手によって,敵として立つ人々から救い出して下さいと願った上で、敵である人々の分け前(神からの賜物)は、この地上における生命と、自分の蓄えたもので子の腹を満たし、その富を子孫に残すという内容だと考えられます。
* もう一つの解釈は、敵が罰を受け、その罰が子々孫々にも及ぶようにという報復の祈願と理解しています。難解な文章であるが故にどちらとも言えませんが、文の流れから言って、神の手の中にあって救い出されるために、敵がなおも力を振るって襲い掛かるということがないように、敵の力を抑え、この私に勝利を与えて下さいとの願いであると見ていいでしょう。
* とすると、敵を滅ぼし、その罰が子孫の何代にも及ぶようにとの報復の願いではなく、敵には敵の受ける分が神によって定められており、信じる者には信じる者の受ける分が定められており、その定めに沿って、この私に勝利をお与え下さいと願っていると考えられます。
* 詩人が、自分の腹立たしい思いを、神の力を借りて憂さ晴らしをしようと願ったのではなく、私の無実であることをご存知である神が、正しい裁きをなして下さり、悪しき意図を持って害しようとしている敵には、その悪に応じた報いを与えられ、あなたに聞き従う者には、その義に応じた報いをお与え下さいと願っていることになります。
* これは、神の全知性を信頼し、誤った判断を下されない神をどこまでも信じ、神の御声に聞き従う者と、聞き従わずに悪を行ない続ける者に、相応の報いを正しく与えられる神に信頼を寄せていたのでしょう。
* イエス様もこうはっきりと語っておられます。「人の子は、父の栄光の内に、御使たちを従えて来るが、その時には、実際の行いに応じて、それぞれに報いる」(マタイ16:27 新27)と。
* パウロも同様の内容を語っています。「神は、おのおのに、そのわざにしたがって報いられる」と。(ローマ2:6)この詩人も、その信仰を持って、神の正しい裁きを信じたのです。これが彼の拠り所であり、信仰に立ち続けた根拠であったのです。
(2)敵の受ける分…神から見離された人生
* それでは詩人は、神がお与えになる敵の受ける分け前を、どのようなものだと考えて願ったのか見てみることにしましょう。最初の解釈の方が、文の流れから言って正しいと思われますので、その解釈に沿って見ていくことにしましょう。
* 神に逆らい、神に従う者に対して悪意を持って襲い掛かろうとする敵が受けるように定められている、神からの分け前があって、彼らはそれをこの世において受けると言って、それが地上における肉の人生であって、欲望を満たす生き方が、神から与えられた人生なのだと言うのです。
* どうしてそれが13節で言う、敵を倒して下さいと祈り願っている内容だと言えるのでしょうか。それは、彼らに与えられた地上における欲望を満たす人生というのは、良いものとして神から与えられたものではなく、神から見離された結果、虚しく意味のない人生としてプレゼントされたものだと言われているのです。
* そのような人生は、歩めば歩むほど、神から遠く離れ、害を撒き散らし、行き着く先は滅びでしかない、この地上だけの命、人生は、神の目から見れば、ただ本能のままに生きる動物と同じでしかなく、愛し導く価値が全くない存在だと見られているのです。
* そのようなこの世限定の、虚しい人生であることが明確にされているのですが、それは信仰者の目から見れば分かることであっても、世の人の目から見れば、神から見捨てられている状態が見えず、ただ自分たちの人生を謳歌しているように見え、虚しい人生だとも思わないのです。
* 自分の欲望を満たす生き方の中で、蓄えてきた世の宝を持って子の腹を満たし、その富を子孫に残すという、この世のごく普通の光景が描かれています。しかし実は、これが神から見捨てられ、愛する価値がないものとして見離された虚しい人生そのものだと言うのです。
* 神を信頼せず、神に逆らい、神に従う者に対してつるぎを向けようとする人々が、神から受けるように定められているプレゼントは、この世では普通に与えられている歩みでありますが、神の目から見れば、意味のない、愛する価値が全くない虫以下の人生だと見られているのです。
* 世の人にとっては、神から見て、全く価値のない無意味な人生だと見られても痛くも痒くもありません。自分の欲望を満たす生き方が大事なのだと考え、せっせと歩んでいるのです。
* しかし神に目を向けている者にとっては、神から見捨てられるという最も恐ろしい刑罰が、そのような神から見捨てられた、行き先が滅びでしかない虚しい人生だと分かるのです。
* そのことをローマ書では、「汚すままに任せられた」とか「恥ずべき情欲に任せられた」とか「なすべからざる事をなすに任せられた」(2:24,26,28)と言われ、人間が肉欲のままに生きるように放置され、見離された姿だと言っているのです。
* すなわち、世が当たり前のように現している生き方、必死になって追い求めている欲望を満たす生き方、自分の思いのままに歩むその生き方が、神から呪われた最悪の虚しい人生、生きている価値のない人生、生きていることが害にしかならない人生だと見られているのです。
* これは詩人が、神から見捨てられることが最も恐ろしいことであり、虚しい人生だと受けとめていたからです。敵が目に見える大きな刑罰を受けることを望まず、神から見捨てられることを刑罰として与えられるように願ったのです。
* 欲望を満たすだけの虚しい人生を歩んでいる彼らの姿が、すでに神から見捨てられている生き方をしていると判断したのでしょう。
(3)信仰者の受ける分…神の臨在と導きを受ける人生
* それでは詩人は,神を信じ、神に聴き従う歩みをする者に、神はどのような人生を分け前として与えて下さると信じていたのでしょうか。
* 15節において、詩人が信仰を持って思い描いていた最高の素晴らしい人生とは、神から義と認められ、神の御前に大胆に義人として頂いている者として立ち、主の前にびくびくすることなく、主の御顔を仰ぎ見、主のみ形を見て、内なる思いが満ち溢れさせて頂ける生き方をすることでした。
* 詩人が、主の御顔を仰ぎ見るという表現で,どのような信仰的状態を表そうとしたのでしょうか。いくつかの御言葉から見てみますと、民数記6:25(旧192)では、「主がみ顔をもってあなたを照らし」とあり、詩篇にも同様の表現が使われていることから、(89:15,119:135他)主の御顔を仰ぎ見るとは、主の現して下さる導きを信じて、その下にあって安心している様が示されていると分かります。
* 主が御顔を隠さないように願っている表現も多く、これは私に対する導きを隠さないで下さいとの願いであることが分かります。
* 神は、お心に沿った導きを与えて、私たちに進むべき道を照らして導いて下さるお方ですから、その御顔を仰ぎ見るとは、その導きをしっかりと見つめ、疑わず、導きを信頼して歩もうとする信仰のことを言い表しているのでしょう。
* この詩人は、神が与えて下さった最高の素晴らしい人生を生きることが望みであったのです。それは、私のすべての状態を思い、信仰をご存知の上で、その時にふさわしい最高の導きを与えて下さるお方として信じ、その御顔を仰ぎ見て生きることを願ったのです。
* 自分にとって最もいいと思える状況、環境にして下さいと主に望むのではなく、私にとって神が良いと考えて下さっている導きを、それが自分の思い通りであってもなくても、そのまま受け取るようにして、御顔を仰ぎ見る生き方を望んだのです。
* 更に、主のみ形を見てとも言いました。あまりこの表現は使われていないのですが、民数記12:8(旧202)では、「彼はまた主の形を見る」と言って、モーセが主と向き合い、主との密接なつながりを持っていることとして表現されています。
* 詩人が朝、目覚めて、主を見ることができたことによって、主は私の訴えに応えて下さり、主による勝利を与えて下さったと確信できたのでしょう。もちろん肉の目で神のみ形を見たのではなく、比喩として、霊において神の臨在を受け取ったのでしょう。
* それによって、今まで敵の方が勝利しているかのような状況に置かれていたにもかかわらず、霊において神の臨在を激しく感じ取ったことによって、霊においてはすでに勝利者としての思いに満ち足りたと言っているのです。
* 前回の所でも見ましたが、神の臨在を激しく感じたからと言って、即座に無実が晴れたり、敵が引き下がったりして、問題の解決が見られたわけではないでしょう。また、そうなってほしいという強い願望として歌ったものでもないでしょう。
* 神にあって、勝利者として頂いたとの霊的イメージを受けとめることができたので、霊の思いが満ち足りた情景を確信したのです。これが、この詩人の勝利者としての信仰だったのです。
(結び)信仰的な解決を頂く歩み
* どうして詩人は、現状解決にそれほど期待が持てない状況の中にあって、主の守りと助けの中に置かれている信仰人生であることを、霊的にイメージすることができたのでしょうか。
* それは言うならば、暗い闇の中にいるようであっても、夜が明け、目が覚めたならば、そこには勝利の主が立っていて下さるという霊的イメージを抱くことができたのです。これは単なるそうあってほしいという希望的観測に過ぎないものだったのでしょうか。それとも、確信を持ってそう言える根拠があったのでしょうか。
* 詩人が求めたものは、現実的な解決ではありませんでした。信仰的な解決であったのです。神がこの私を、ご自身の瞳のように注意深く守って下さり、どんな悪しき敵からも守って下さる、みつばさの陰に置いて下さっているという霊的状態を疑いませんでした。
* 確かに、敵の働きかけは小さなものではなく、かき裂こうとするライオンのように感じさせられるほどでありましたが、信仰者に対して神が用意して下さっている人生は、神の驚くべき導きの中にある、最高の素晴らしい信仰人生であると確信できたのです。
* そう確信できた根拠は、神は、神によりすがる私の生き方を見て、義として下さり、罪がないわけではないが、神が受け入れて下さっているとの信仰的自負心が消えることはなかったからです。
* 神は、ご自身の下にある者のことをご存じないはずがない、訴えを聞いて下さらないはずがない、導きを与えて下さらないはずがない、大事な子として愛し導こうとして下さらないはずがないと、主を決して疑わなかったのです。これが勝利を確信できた根拠であったのです。
* 私たち信仰者も同様です。勝利を確信できる根拠を握っていれば、状況がどのようであれ、信仰が崩されることなく、疑いの思いを引き出されることもないです。このような信仰的な解決を頂いて前進して行きたいと思うのです。