聖日礼拝メッセージ
2012年6月7日 更新

聖 書 ガラテヤ人への手紙4:4〜7  2011年クリスマス
 題  「パウロのクリスマス」


  (序)私たちにとってのクリスマスとは

* 以前にも言いましたが、クリスマスはイエス様の御降誕をお祝いする日ではありません。それは世的な人々が作り上げた異教的祭りであります。聖書のどこにも主の御降誕をお祝いしましょうと勧められている箇所はありません。

* 主の御降誕がもたらす深い主の恵みを悟って、喜び感謝する日です。12月25日を主の御降誕の日と定めたのは、ずっと後のAD300年代であり、そればかりか、異教の祭りから借用して定められたものと言われています。初代教会の人たちにとっては、主の御降誕の日を祝うなど考えもしなかったのです。

* そのことが分かった上で、なぜ私たちはこの日にクリスマスを守ろうとするのでしょうか。私たちにとってクリスマスが何時の日であろうと、神が御子をこの地上に遣わして下さったという恵みの事実は変わらず、そこに込められている神の熱い思いを感じ取ることができます。それを1年に1度記念して覚えるということは、月毎に主のあがないの死の事実を覚えて、聖餐を行なうのと同じ意味で、その恵みを霊的に風化させないために、思いを新たにして向かうことは大事なことだからです。

* しかもクリスマスという言葉は、the Mass of Christの意味で、キリストを礼拝する日という表現です。徐々にそこに娯楽的な、世俗的な要素も加えられていくのですが、私たちは聖書に立ち返り、何を感謝し喜ぶように示されているのか、原点に戻ってみたいのです。


  (1)パウロの福音において

* 歴史的な順序から言えば、このガラテヤ書は、4つの福音書が書かれる前に記されており、パウロが伝えた福音の中には、イエス様の母親がマリヤであったということに触れられることはなく、御降誕の情景がどのようなものであったか、全く教えようとはしませんでした。

* それは、パウロが知らなかったからでしょうか。そうは考えられません。パウロの弟子であり、いつも側にいて良き同労者であったルカが、あらゆることについて調査して後に福音書を書き記しているのですから、その中の多くはパウロから情報を聞き取っていたことは確かであります。

* その中には、イエス様について聞き知っていた内容も含まれていたことでしょう。にもかかわらず、パウロは福音を伝える上において、なくてはならない真理として、主の御降誕の情景を語ろうとはしなかったのです。

* それではパウロにとって、大事なのはキリストの十字架と復活だけであって、御子がこの地上に肉体を取ってきて下さったことは、それほど重要ではないと思っていたのでしょうか。

* そうではありません。ピリピ2:7などを見ると、神の位を降りて、「おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた」ということが、福音の大事なポイントであると語っています。

* ただ世的な人々がしている連想ゲームのように、誕生日祝いだ、だからプレゼントだ、サンタクロースだ、ケーキだとやらないだけです。

* それではパウロは、どのようなクリスマスを示したのでしょうか。それが今日の箇所に描き出されています。その意味でパウロのクリスマスと言えるものを御一緒に学んでいきましょう。


  (2)パウロにとってのクリスマスの意義

* 神が御子を、肉体を取った者としてこの地上に遣わされたというクリスマスの出来事を、パウロは第1に、神が世の初めからご計画なさっていた「時が満ちた」時であったことを示し、それが何のためであり、それを実現するためにはどのようなものを送って下さり、信じる者にどのような祝福の結果が伴うことになったかをここにおいて示しています。

* その描写は、美しく描かれる絵画的なものではなく、単なるニュース報道のような味気のないものでありますが、それだけに、クリスマスの真意を、霊的な、なくてはならない真理として伝えようとしているのが感じられます。

* 何年の、どのような季節において、イエスは人の子としてお生まれになったのかと言わないで、神の時が満ちた時だと言いました。この言葉で何を示そうとしたのでしょうか。

* 世の始まる前から驚くべきご計画を持って人間を救おうとお考えになり、最も良いと考えられ、お定めになった時、それが神の時が満ちた時であったのです。言わば、神ご自身の愛の思いを果たそうとされた時がここに実現した。それがクリスマスであったと言うのです。

* その時に何が実現したのか、2つの点を取り上げています。第1は、御子を女から生まれるという方法で、この地上にお遣わしになったと言いました。マリヤから生まれたということを知らなかった人のように、女から生まれたと言ったのです。

* パウロが大事だと思っていた点は、その女の人がマリヤであったか他の人であったか、それはどちらでも良かったのです。女から生まれるという方法を、神はあえてお取りになったという点を示そうとしたのです。

* なぜそれが、神のお心にとって大事なことであったのでしょうか。それはダビデの子孫から生まれる必要があったことと、(ローマ1:3)肉から生まれ、罪人と同じ人間の位置に立たれる必要があったという点を示そうとしたのです。この2つの点は、救い主にとって必要な条件であったからです。

* そして第2は、律法の下に生まれさせるという形で、御子を世にお遣わしになったと言いました。これは律法の下に奴隷として束縛されていた人間をあがない出すためには、人間と同じ位置に降られ、律法ののろいを受ける必要があったからです

* 律法ののろい、それは人間のからだをもって神の刑罰を、人類に代わって受け入れることでありました。そのために、完全な人間として刑罰を受けるために、人の肉体を持っている必要があったのです。

* パウロにとってクリスマスとは、神の子が、この私を救うために、神の定められた時に、神の位を降りて、自らを低くして下さるために、あえて女から生まれ、私に代わって律法ののろいをその肉のからだで受けて下さり、救いを実現して下さったという恵み深い事実を指していたのです。

* パウロのクリスマスは、お祝いも、プレゼントも、ケーキもありませんが、神からの特別な証書を頂ける約束の日、なくてはならない特別な日であったのです。


  (3)子たる身分を授けて頂いた記念日

* そのことをもう少し考えて見ましょう。御子が肉体を取ってこの地上に遣わされたのは、わたしたちに子たる身分を授けるためであったと言っています。子としての特権にあずかることのできる身分、すなわち、神の王子となって、神の王子が受けるすべてのものが私のものとなるためであったと言うのです。

* それまで、神と無縁であったこの私たちが、神の養子として認知されることになり、神の王子となるようにして下さったと言うのです。

* 私たち人間の側が、必死に頼み込んで養子にしてもらったのではなく、神の側の一方的なあわれみによって、御子に律法ののろいを受けさせてまで、本来私たちが受けるべき刑罰を代わって御子に受けさせ、そこまでして私たちを養子にして下さったのです。

* そのことによって、霊的に貧しい人間となってしまっていた私たちが、神の王子としての身分を与えて頂いたことによって、状況が一変し、霊的に豊かな、神の祝福で日々満ち溢れ、何の心配もなくなり、喜びと希望と、生きる力にみなぎるようになったのです。

* 神は、子としての身分を与えた者に対して、神をアバ父よと呼ぶことのできる御子の霊を、私たちの心の中に送り込んで下さったと言っています。

* すなわち、聖霊が送り込まれたということは、この私を信頼できる神の出張所として認めて下さったことであり,神のお心のままに、聖霊に働いて頂く場として下さったということです。


  (まとめ)神による直接介入を信じ切ったダビデ

* 言わばパウロにとってクリスマスとは、神の王子として頂いた大事な記念日だと言うのです。

* それは、神の王子とされた者にとっては、重要な意味ある記念日でありますが、そうでない者にとっては、何の意味もないものです。

* 神の王子として頂いたことの素晴らしさを味わった者として、クリスマスの喜びに溢れていたいと思うのです。



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