聖日礼拝メッセージ
2012年7月13日 更新

聖 書 使徒7:23〜36      新年礼拝
 題  「神の導きを信じて一歩を踏み出す一年の歩み」


  (序)神のみわざの次の展開

* 新しい年を迎え、神の導きを信じて一歩を踏み出そうとする時、信仰者にとって、どのように受けとめつつ向かわなければならないのか、このことを理解していることは非常に重要なことだと言えます。

* 神が私たち人間を選び、ご自身のみわざを進めるために用いようとされる時、神はどのように私たちを取り扱われるのか、そのことを、モーセを導かれた神のなさり方から、それを学び取りたいと思うのです。

* もちろん、一人一人は異なった存在であり、神のお取り扱いも、一人一人の信仰状態や、置かれている環境、立場、人間性などすべてをご存知の上で取り扱われるのですから、その対応も異なったものになるのですが、そこに受けとめるべき共通した原則というものを見ることができます。

* その原則を学び取り、一人一人が自分のことに適用して、神の導きを受け取っていくということが必要であることは言うまでもないことでしょう。

* また群としても、これまで導かれてきたことから、今どのような一歩を踏み出すことが、今、神が与えて下さっている導きだと言うことができるのか、それを考えてみなければなりません。

* 神は、群を大きく成長させるために、まず剪定されるという道を通されました。神の目から見て不信仰の枝を切り取り、力ある神への絶大な信頼を現す群にしようとされ、枝が成長し、豊かな実を結ぶことを求められたのです。

* もちろん一人一人の信仰者としても、その人の内になお残っている不信仰な部分を剪定され、信仰の思いが育てられ、み栄えを現す者へと導かれ、豊かな実を結ぶことを求められたのです。

* 群としても、個人としても、これまでの神の働きかけを正面で受けとめた上で、私たちが心に留めるべき次の事柄は、神が私たちを用いてみわざを展開しようとして下さっているのですから、それを信じて一歩を踏み出すということが重要になってくるのです。そのことをご一緒に考えて見ることにしましょう。


  (1)自分に失望して逃げ出したモーセ

* 今日は、神に用いられたモーセについて人々に説き明かしている、ステパノのメッセージから見ることにしたいと思います。まずそのあらましから見ていくことにしましょう。

* モーセは乳児の時に、パロの娘の養子として育ち、あらゆる学問を学び、言葉にもわざにも力があったと言います。モーセは自分がイスラエル人であることを知っていたので、いつか時が来たら、イスラエルの民を、その窮状から救う救世主になれたらと思っていたのです。

* 40歳になった時に、一つの事件をきっかけに立ち上がろうとしました。自分の手によって、神が民を救い出して下さることを、イスラエルの民みんなが認めて、歓迎の声を上げて迎えてくれると期待していたのです。

* それというのも、不思議な形で自分に与えられた身分、置かれた立場、民を愛する思い、自分に備えられた知的水準、能力などを思い、指導者となることができるのではないかと思い、自分の思いで、砕かれない心のまま一歩を踏み出そうとしたのです。

* しかし、想定外の同族の民の拒否反応に当てが外れ、民を愛する思いが全く通じず、誰が君を私たちの指導者として認めたのかと否定され、王族としての逸脱した行動が、王に知られることになったので、逃避するしかなくなり、ミデアンの地に身を寄せて、ひっそりと暮らすことになってしまったと言うのです。

* その時のモーセの思いは、失意と無力感と脱力感と恐れの思いに包まれ、完全に混乱していたでしょう。どうして民は、この私が救世主になることを認めなかったのか。どうして私の愛が通じなかったのか。どうして私を退けたのか。そんな思いがいつまでも駆け巡り、思いを引きずりながら歩み続けたのでしょう。

* 40年経ってモーセが80歳になって、何もかも過去のこととなった時に、モーセの側と、民の側とが整えられたと考えられたその時に、神はモーセに臨み、民をエジプトから脱出させるご計画を進ませようとされたのです。

* モーセの側とは、自分の力では何もできないことを知らされ、自分に失望し、自分への期待を全く持たなくなりました。しかしこれだけではまだ砕かれた心になったとは言えません。神にのみ期待して進もうとする信仰が、そこには必要なのです。

* それは、モーセに見える形で現れることによって、モーセが、神にのみ期待する信仰に立つことを予測しておられたのです。このあたりの様子を、ステパノは特に取り上げてはいませんが、それは結果さえ語ればそれでいいと考えたのでしょう。

* 出エジプト3章を見ると、「あなたを、イスラエルの人々をエジプトから脱出させる指導者にしよう」と言われた時、自分に失望した思いから解放されていなかったモーセは、「私は過去に失敗を犯しているので、その役割を果たすのには不向きです」と一度辞退したのですが、再度主が語られ、私が共にいるのだから行きなさいと言われて、やっと立ち上がる決心はついたのです。

* けれども、同族の民から退けられた思いがなおも心を覆っていたので、あなたのことを何と言えばいいのですか。民に信用されないのではとか、口下手ですとか言って、なお辞退しようとしたのですが、そのような応答の中で、モーセは、神にのみ期待する思いが強くされていき、真に砕かれた者として、導きのまま一歩を踏み出そうとしたのです。

* ここから分かることは、人は本当の意味で神の前に砕かれるということは簡単なことではないということです。モーセは40年かかって導かれ、神からの直接的な語りかけを受けても、再三再四辞退しようとしたのは、自分に対して失望することまではしても、偉大な神への絶対信頼を現し、「神にはできないことはありません」(ルカ1:37)と言い切る信仰に、すぐに立つことができなかったのです。その信仰に立って始めて砕かれたと言えるのです。

* 神が用いようとされる魂は、悔いし砕けし魂であります。(詩篇34:18,51:17他)自分の無力さを知った上で、どんなことでもなさることのできる神への絶対信頼を現すことなくして、心は砕かれたとは言えないのです。すなわち、私たちの信仰とは砕かれることだと分かります。


  (2)砕かれて、神のご判断を正しいとしたモーセ

* 同族の民から救世主にあらずと排斥されたモーセを、何と神は支配者、解放者としてお遣わしになったのです。一体なぜでしょうか。そこには神の深いお考えがあったと考えられます。

* 何の苦労も知らずに育ったモーセにとっては、真の苦労も戦いも分かってはいませんでした。もし苦労を知らないまま指導者となったとしたら、故郷への帰途において民の反抗にあったなら、耐え難くなると見られていたのでしょう。それ故それは、戦いを乗り越えられる指導者にするための道筋だったのでしょう。

* 厳しい訓練を経て招きの声を聞いたモーセは、あの時の失意が、深く思いの中に残っていたので、再三再四、私には無理です。どうぞ他の人にして下さいと辞退したのです。

* にもかかわらず、どうして最後には観念して従い、彼は一歩を踏み出したのでしょうか。昔の深い傷が完全に癒されて再び強い思いが戻ってきたからでしょうか。

* そうではないでしょう。自分には無理だとの自分の思いを主張し続けることによって、すべてをご存知の上で判断なさった神の深い御心をかたくなに拒み続けることになる、それが傲慢な心であると言うことに気づかされたのでしょう。そうでなければ、そう簡単に昔の傷から解放されることはなく、従う決心をすることはできなかったでしょう。

* 一度受けた傷は、なかなか癒やされることができないものです。そしてその傷が、その人を変形させてしまうほどの強い力を持っています。

* 神は、モーセを陥れるためにそのような傷を負わせられたのではありません。自分に失望した上で、神の前に降参し、神の力によって進ませようとさせるためであったのです。

* モーセが神に対して観念したのは、いやいやでも、仕方なしにでもなかったでしょう。私の思いや感覚や経験から考えてみて、「無理だ、昔の2の舞になるだけだ」との思いが強かったと考えられますが、神が大丈夫だ、私がついている、すべてのことを正しく把握している私の判断を信用しなさいとの御言葉に、積極的に観念したのです。

* すなわち、信仰とは積極的に観念することだと言えます。このことは非常に重要です。自分の思い、自分の感覚を主張している間は、神のご判断を受け入れることができません。主のご判断の前に観念した時、信仰が湧き上がってくるのです。

* 私の思いで大丈夫だと思えなくても、神がご自身の御力を持ってみわざを進めて下さる。神はそのためにこの私を用いて下さると言われているのだから、その神のお言葉に賭けてみようと積極的に観念したことが、その後のモーセの姿から分かります。

* このことを、信仰者は必ず経験している必要があるのです。自分の思い、自分の感覚、自分の主張が強い間は、神のご判断の方が正しいと受けとめて優先させることはできず、神の励ましや慰めの言葉を正しく受けとめることができないのです。

* 言うならば、神のご判断を、信用できないもの、頼りないもの、うっかり信用しようものなら、後で後悔することになる。それを岡山弁で言うならば、あてはうことになる、そう思っている間は、観念することができず、砕かれない信仰者のままで終わってしまいます。

* モーセは、自分の感覚で思うことができなくても、神のご判断を正しいと考え、積極的に観念したのです。それによって古い傷は完全に癒えたわけではありませんが、再び立ち向かう思いが起こされ、神が一歩前に進んで下さっていると信じて、一歩前に踏み出すことができたのです。


  (3)民の側が主を見上げる時まで待っておられる

* それでは、神様はモーセに対して、どこに向かって一歩踏み出すように言われたのでしょうか。34節で、「さあ、今あなたをエジプトに遣わそう」と言われました。

* それは、エジプトにいる同族の民の苦悩のうめき声が神の御許に届いたので、民の側が、整えられた状態になったと見られたので、モーセを遣わそうとされたのです。

* モーセが、以前エジプトにいた時、民の苦悩のうめき声をじかに聞いていたので、自分が彼らの救世主となろうと決心したのですが、今回は遠く離れ、ミデアンの地で、民に対する関心が全く薄れてしまっていた状態にある時でありました。

* しかし、民の苦悩のうめき声が、神の御許に届いたと言うのです。やっと民の心の中に、主を求める信仰が起こされ始めたので、主は救いのみわざを進めようとモーセに臨まれたのです。

* 民の側に、主の助けを求める思いが出てこないと、神のみわざも空回りに終わってしまいますから、その時を待っておられたのです。

* モーセが整えられるために40年かかったというよりも、民の側に、主の助けを求める思いが起こされるまでに、長い期間が必要だったのです。民が神を見上げて、苦悩のうめき声が発された時、それまでモーセへの働きかけが封印されていましたが、それが解かれることになったのです。

* それでは、それまで神は民を放置されていたのでしょうか。そうではありません。アブラハム、イサク、ヤコブ、ヨセフが信仰の遺産を残していったにもかかわらず、エジプトの中で生活し始めたイスラエルの民の心は、神から離れて行ったのでしょう。

* 人間は、苦しみを経なければ、なかなか神に目を向けようとしない強い人間の思いを持っています。すなわち、人間の頑張りで取り除くことができない恐れに会ったりすると、人は神の方に目を向けます。

* すなわち、苦痛、苦悩が押し寄せてくると、人は神の方に目を向けるしかないのです。それが病気であったり、災害であったり、死であったり、それ以外のものもあるでしょう。それらを前において、人は震えるしかできないのです。

* しかしそこに、神の救いに招き寄せられる大きなチャンスがあるとも言えます。もしイスラエルの民が、エジプトにおいて、平穏な、苦しむこともない生活を送っていたならば、もっと神から離れていたことでしょう。

* それ故、苦痛、苦悩を覚える状況を用いて、神はご自身の方に目を向けさせようとしておられるのです。ご自身の方にしか真の平安や喜びがないことを教えようとしておられるのです。


  (まとめ)一歩を踏み出すことによって受ける主の力

* イスラエルの民が、神の方に向くようになり、苦悩のうめき声を上げた時、神はモーセに臨み、「さあ、今あなたをエジプトに遣わそう」と言われました。神による救いのご計画を進められるために、モーセに必要な道を通させ、訓練し、時が来るまで準備をしておられたのです。今がその時だ、私はあなたをエジプトに遣わすと言ってモーセを押し出されたのです。

* ここで言うエジプトとは、霊的な比喩として考えると、神の方に目を向け、救いを待ち望む心が起こされた者のことだと言えます。神の方に目を向けようとしていない時には、神は遣わされなかったのです。それは、まだ救いの必要な状態になっていないからです。

* 今日の私たち信仰者も、神はある人を用いられて、エジプトの中から救い出し、天国人とし、神の子の身分を与えた上で、この地上に置いておられます。それは時がきた時に今度は、私たちをエジプトに遣わされるためです。

* 私たちの周りにいる、愛する家族、親族、友人、知人がいつ神の方に目が向けられ、救いを求める、エジプトにいるイスラエル人状態になるのか、私たちには分かりません。しかし確かなことは、そのために私たち信仰者を、遣わされる準備ができている者とするために、神は聖霊を送って働き続けて下さっており、手を休まれることはないのです。

* いつ、誰が、私の遣わされるべきエジプトにいる者になるのかは分かりませんが、その時には、砕かれた者として、自分に失望し、神にのみ絶対的な信頼と期待とを置いて、神にはできないことはありませんと告白しつつ、主が導いて下さるまま一歩を踏み出していきたいのです。

* 私たちの内側に、躊躇する思いや、人間的感覚で判断しようとする思いが残っていて、それが妨げとなっていますが、さあ、今あなたをエジプトに遣わそうと言われたならば、神がご自身の権威によって、みわざを進めて下さると信じて、大胆に一歩を踏み出していくならば、その歩みには主が伴って下さり、力を添えて下さるのです。逆に踏み出さないならば、神の助けも導きも見えないままです。

* 自分の中にある妨げに負けてしまうなら、いつまで経っても、大胆に一歩を踏み出すことができず、停滞し、後退してしまい、ますます歩み出せないようになってしまいます。個人として、群として、神の招きの声を聞いて、力強く一歩を踏み出したいと思うのです。



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