聖日礼拝メッセージ
2012年6月19日 更新

聖 書 詩篇18:1〜3  (第1講)
 題  「ダビデが現した信仰の深みの出所」


  (序)神中心の信仰人生を生きる

* この詩の背景は、表題では、敵の手とサウルの手から救い出された時のダビデの歌とあり、ダビデ王が、戦いと逃亡と困窮と家庭内紛争という数奇な運命を歩む中で、確固たる信仰を表し続けた人生の総括の歌として記されたものであることが分かります。

* サムエル記下22章には、ほとんど同内容の詩が記されており、ダビデが著者であることを認めない学者もいますが、多くはダビデ自身が書いたものと考えています。

* 後の祭儀における賛美として用いられるようになることによって、語句の変更や加筆が行なわれたと見る人もありますが、それを証明するものは何もありません。

* たとえ、もし変更や加筆があったとしても、神のお言葉として、神の御心を歪める内容になっているならば、それを神が認められるはずがありませんから、ダビデの信仰として歌い継がれてきた信仰の歌として、ここから神の御心を正しく学び取ることができます。

* ダビデは、自分に与えられた人生を思い起こし、神が、この私の人生にどのようにかかわって下さったか、声を大にして歌わずにはおれなかったのです。人は、自分の人生を顧みて、神は自分にとってどのようなお方だと心から告白できるようになるか、ある意味で、その人の信仰体験からにじみ出てくるものだ言えます。

* ダビデの人生は、波乱に満ちた人生であったと言えるでしょう。そのような人生の中にあって、ダビデの思いの中には、神がこの私の人生をどのように導き、御心に沿って押し出そうとして下さっているかという、神のお心を中心として生きていたことが見て取れます。

* 神中心の信仰人生、それがダビデにとって生きることでありました。この詩篇全体を見る時、すべてのことがうまく行った歩みだったわけではありませんが、主の助けによって勝利人生を送らせて下さることを、一度も疑ったことはなく、主の道を守りさえするならば、こけることはないと信じて歩んだ信仰人生でした。

* 人生が波乱に満ちているか平穏であるか、それは人様々でありますが、神中心の信仰人生を生きるということが、主の道であると示されているこの内容から、私たちも信仰人生を生きるとはどういうことか、ここから学んでみたいと思うのです。


  (1)神との深い結びつきを感じ取っていたダビデ

* ダビデが最初に歌い出した言葉は、主よ、私の力よ、という神への呼びかけでした。ダビデにとって神様は、自分の主人であり、自分の生きる力の源であると確信していました。この呼びかけそのものが、神に対するダビデの信仰をよく表しています。

* その力ある神を、私は愛しますと告白しています。旧約においては、神が私たちを愛し、あわれんで下さるという表現はよく使われるのですが、このような人間の側が、神を愛するという用例は極めてまれです。

* たとえまれな表現であったとしても、神との結びつきを深く感じ取っていたダビデにとっては、そのように告白せずにはおれなかったのでしょう。

* 当時の信仰的向かい方の枠を超えて、神を心から慕い、神がどんな思いで私を捉え、私を養い、私に目を留めて下さっているか、神の変わらぬ愛に対して、心を動かされていたダビデは、神を心から愛し、慕う思いが強くされていたのでしょう。

* サムエル記下22章では、この詩篇18:1の部分はありません。2節の内容から歌われています。サムエル記から一つの詩篇として抜き出し、多くの詩篇の中の一つに組み込む時に、この詩で歌われているダビデの信仰姿勢をまとめる表現として、本人か、それともその信仰の流れを汲む詩人が加えたのでしょう。

* それは、2節3節の内容をまとめた内容になっていますから、その詳細を見ることによって、ダビデが神のことを力あるお方だと信頼し切っていた様子が浮かび上がってきます。そこに8つの表現で、神を言い表しました。それを簡単に解説してみましょう。


  (その1)神に対する8つの名称

* 第1にダビデが主のことを「わたしの岩」と歌った時、どんな恐ろしい敵が私の周りを取り囲んでも、主が私の隠れ場、私を覆って下さるお方だと確信できる信仰体験をしてきたダビデであったことが分かります。

* その一つの記事として、逃亡していたダビデとその従者たちとは、執拗に追いかけてくるサウルとその従者たちに、今にも捕らわれようとしていたその時に、サウル王の下に、ペリシテ軍が侵攻してきたことを告げ知らせる使者がやってきたので、もう一歩で追い詰めることができる所まで来て、追跡をやめなければならなくなったのです。

* ダビデは、それを決して偶然とは捉えませんでした。神がペリシテ人たちを動かして、サウルとその従者たちの心を引き寄せることによって守られたという、ダビデとその従者たちにとって、神による守りを体験したのです。それを体験した人々は、その所を、のがれの岩と名づけたと言うのです。(サムエル記上23:28 旧420)

* 人間の目から見れば、危機一髪の所で、偶然逃れることができたと見るしかありませんが、信仰者の目から見れば、それは信仰によって、神が不要な争いを避けさせて下さるように、のがれの岩となって下さったと見ているのです。

* また、第2は、ダビデが主のことを「わたしの砦」と呼んだ時、詩篇27編の詩人が歌っているように、私の命を守ってくれる命の砦となって下さったという信仰体験をしてきたのです。(27:1)

* この砦という言葉は、逃れるという動詞から派生した語で、安全な場所として、砦と訳され、形容的用例も多いのです。神が私の砦だとの表現は、私にとって安全な場所は神の下にあることだとの表現で使っているのでしょう。(ヨエル3:16 旧1265)

* また、第3は、ダビデが主のことを「わたしを救う者」と呼んでいます。これは引き上げる、助けるという意味の言葉で、そこから救い出し、助け出して下さるお方という意味で表現されています。

* ダビデは、主が私のことに無関心でおられるお方ではなく、必要な時に上から手を差し伸べて救い出し、助け出して下さる、あわれみに満ちたお方であることを示しています。

* 第4は、ダビデが主のことを「わたしの神」と呼びました。この名称は、この方は私にとって全能者なるお方、永遠なるお方としての側面を言い表しています。御心のままに、どんなことでもなし得る神への信仰的告白で、このお方がわたしの神ということで、全能なる御力を持って、この私を捉えて下さっている神を言い表しています。

* ダビデは更に第5に、「わがより頼む岩」と呼び、第1の岩とは異なった言葉で言っていますが、意味においてはそれほど大きな違いはありません。岩は力や安全を意味し、人々は岩の陰に身を隠したのです。そこを敵から逃れる場所としています。

* ダビデは6番目に、「わたしの盾」と呼びました。これは戦士が左手に持って、敵の攻撃を防ぐ丸盾を指しています。そこから主の守りと救いとを言い表す呼称として使われていることが分かります。(申命記33:29 旧299)

* ダビデは7番目に、「わが救いの角」と呼びました。これは形容的に力の意味で用いられています。象徴として雄牛の角を表していますが、救いの角と表現することによって、強力な力を持って救い出して下さる助けを意味しています。

* 最後に「わが高きやぐら」と呼びました。町を守るために城門の高い所に、見張り台兼攻撃場所として、やぐらが建てられました。それは敵の動向に対する正しい把握と、敵を崩すための攻撃を行なう場所として、神は信仰者にとって、敵に付け入らせないための見張りとなり、敵を排除する守護者であることが表現されています。


  (その2)8つの名称全体を通して示そうとしたこと

* こうして、ダビデが神に対して用いた呼称は、一つ一つ別々のものではなく、いろいろな表現を用いながら、神がこの私に対して、信仰者として歩み続けることができるように、すべての時、すべての状況にあって私を守り、支え、強くし、時には御許に隠れさせ、敵の手から助け出し、落とされてしまわないように保護して下さるお方であることを、あらゆる言葉を並べることによって表現しているのが分かります。

* これは、ただ言葉を並べているというのではなく、信仰者としての歩みの中で、神の守りや助けを体験してきた信仰体験が、神に対して、その時にふさわしい呼び方で呼ぶようになっていたのでしょう。

* それが一つ増え、2つ増え、僅かな呼び方では神を言い尽くせない思いで言葉を並べていったのでしょう。それは、神が与えて下さった信仰体験を、決してその場限りのものにせず、ダビデの信仰として、しっかりと刻み込まれていったのでしょう。

* ダビデが、受けた信仰体験を無駄にしない信仰者であったことがよく分かります。もちろん信仰体験と言っても、自分にとってよい結果を見せて下さった時にだけ反応して、神は私を守って下さった、助けて下さったと告白しているのではなく、時には助けが見えなかったり、戦い、苦しみの中を歩むようなことがあったりしても、神の守りと助けとを疑わず、主は支えて下さっていたと確信できた時など、現実の体験だけではなく、信仰によって体験させて頂くことを指しています。

* 信仰者として、一つの信仰体験を次の状況においても生かしていくことが、信仰体験の有意義なところですが、それは、そんなに簡単なことではありません。というのは、次の時の状況と言っても、必ずしも全く同じ状況が繰り返されるわけではないからです。

* それ故、信仰体験した時と同じ状況ではなくても、受けた信仰体験を基にして、それを応用し、別の状況に適合するようにして用いる。これが信仰的応用体験というものです。これが十分になされていなければ、信仰はその場限りのものになってしまいます。


  (2)信仰体験を基に積み上げられていく信仰の深み

* 毎回別の状況において、新たな信仰体験をしなければ支えられないというのではなく、応用して、霊において体験していく時、その信仰の奥行きは広がっていきます。その時その時の、単発的信仰体験をさせて頂くように求める向かい方をしているならば、信仰が積み上げられてはいかず、信仰の深みが出来上がっていきません。

* このことを、ダビデの若い時の信仰に見ることができますから、その用例によって理解していくことにしましょう。少年ダビデが巨人ゴリアテを倒した時の記事を見てみましょう。

* サムエル記上17章からの所に記されていますが、イスラエルとペリシテとが谷を隔てて戦列をしいていた所に、ダビデが兄たちへの使いで立ち寄るのですが、その時に、イスラエルに戦いを挑む巨人ゴリアテの高飛車な言葉を聞き、それに対してイスラエル兵が恐れおののいている様子を見て愕然とし、どうして誰も立ち向かわないのですかといぶかったのです。

* この当時のイスラエル兵には、誰一人信仰的応用体験できる者がいなかったのです。目の前の恐ろしい敵を見て震えるしかなかったのです。もし信仰的応用体験ができる者となっていれば、このような、惨めな恐れの姿を現さなかったでしょう。

* 信仰的応用体験どころか、信仰体験すらできていなかったのでしょう、目の前の恐ろしい敵に目を奪われ、その状況に思いが振り回されて、神が味方として、ここにいて下さるということが思いの中から消えてしまい、ただただ恐れることしかできなかったのです。

* それはどうしてでしょうか。それは彼らの信仰が力となってはおらず、自分たちの前に「わが砦、わが岩」と呼べる神がいなかったからです。

* サウル王が、勇ましい少年ダビデの言葉を伝え聞いて呼び寄せた時、サウル王は小さなダビデを見て人間的判断を下し、あなたがあのペリシテ人と戦うのは無理だと言いました。その時にダビデは、彼の持っていた信仰的応用体験を語り出したのです。

* 17:34〜36「しもべは父の羊を飼っていたのですが、しし、あるいはくまがきて、群の小羊を取った時、わたしはその後を追って、これを撃ち、小羊をその口から救い出しました。…この割礼なきペリシテ人も、生ける神の軍に挑んだのですから、あの獣の一頭のようになるでしょう」と。

* ダビデの信仰体験は驚くべきものでありました。ししやくまに対して、神の守りと助けとを信じて立ち向かっていった所、神の力によって勝利を得たと言うのです。そればかりか、生ける神の軍に戦いを挑む愚か者を見た時、あの獣の一頭のようになると信じ切って語ったのです。

* ししのつめ、くまのつめからわたしを救い出された主は、またわたしを、このペリシテびとの手から救い出される、と過去の信仰体験に基づいた確かな信仰を表して言い切ったのです。これが信仰的応用体験です。

* 現実には、以前と全く状況が異なり、今ここで神が助けて下さると保証された言葉を聞いているわけではありません。これまで助けて下さった神のあわれみを、この状況の中においても助けて下さると信じ切っていただけです。

* ダビデの信仰体験は、決して過去のものではありませんでした。今も同じ御力を持って私の上に臨んで下さっているという平常信仰にしっかりと刻み込まれていたのです。これが信仰の深みです。

* せっかく、神に取り扱って頂く恵みに満ちた信仰体験をさせて頂いたのに、それを、その場限りのものにしてしまうならば、その人にとって、神の呼び名は増えていかず、神信仰が深められたものにはなっていかず、浅いままで終わってしまいます。

* 神は、このわたしにとって盾であり、高きやぐらだと本気で信じて告白していく時、信仰体験は過去のものとはならず、信仰の奥行きがその人の中で深められていくのです。


  (結び)ダビデの現した根本的信仰姿勢

* ダビデの信仰の根底にあったものは、3節で歌っている動かない確信でありました。若い時からの信仰体験と、信仰的応用体験を深く刻んで歩み続けたダビデは、ほむべきお方である主を呼び求めさえするならば、敵の手から私を救い出して下さるという確信でありました。

* それは、もはや疑うことのない事実として、ダビデの信仰の中に確立していたのです。人生の終盤に差し掛かって、これまでの人生を思い起こした時、主を呼び求めれば、主は応えて下さる、そう言い切ることができたのです。いつでもすぐに見える形で助けられたわけではなくても、神の助けを疑うことはありませんでした。

* もちろん、今日の倫理的基準で見たダビデは、問題も多い人物だと感じるのですが、信仰体験を基にした彼の確かな信仰、信仰的応用体験を積み重ねて、主の助けを疑うことをしなかったその信仰の深みは、神に選ばれた信仰者にふさわしいと言えます。

* 具体的な信仰体験と、信仰的応用体験は、この後歌っていくのですが、それは各々の部分で学んでいくこととして、人生の総括として歌っている今日の箇所から見えてくるものは、ダビデの根本姿勢から、彼の信仰の深みがどこから生み出されたのか十分に学び取ることができるのです。

* 8つの名称で、神に対する信頼を表し、その神を心から愛し、慕ったダビデは、神中心の信仰人生を生きることが、自分に与えられた人生であることを信じて生きてきたのです。ダビデのこの徹底した歩みが、信仰に深みをもたらしたのでしょう。



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