聖日礼拝メッセージ
2012年6月3日 更新

聖 書 詩篇18:4〜15   (第2講)
 題  「信仰者の歩みに直接介入して下さる神」


  (序)部分的にではなく、全体的に見て下さる神

* ダビデは、初めの所で、自分のこれまでの信仰人生に深くかかわって下さった主が、驚くべき御力を持って助け導いて下さって、信仰を持って生き抜いていくように、信仰体験させて下さり、更に信仰的応用体験をして進むようにと導いて下さった主を思い、8つの呼び名を持って主を告白して歌ってきました。

* 神中心の信仰人生を生きてきたダビデにとって、与えられた人生の道行きは決して楽なものではありませんでした。というより、それは厳しくてつらいものであったと言えるでしょう。

* それ故ダビデにとって、主に対する信仰が、揺るがなかったと言っても、それは総合的な見方の表現であって、部分部分においては、厳しく長い戦いが続いたり、自分の愚かさ、不信仰さを見させられたりした時に、心が揺らいだり、落ち込んだりしたこともあったのです。

* しかし、それで信仰をなくしたり、平安を失ったり、主が伴って下さっていることや、助けと守りとを与えて下さっていることを疑うようになったり、主から心が離れていくようになったりはせず、すぐに立ち戻ることできていたので、全体として、主に対する信仰は揺るがなかったと言っているのです。

* このことは、今日の私たち信仰者においても言えることです。瞬間的、部分的にふらついたり、主への信頼が消えかけたり、助けと守りとを信頼できない思いが少し出てしまったからと言って、100%ではないから私は信仰者失格だと思わないことが大事です。

* 私たちの弱さ、足らなさ、不信仰さが、なお私たちの信仰人生にいたずらを仕掛ける状態のままであることは、主がよくご存知であり、決して完璧さを私たちに求めてはおられません。主は、私たちの信仰人生を全体として見て下さり、一部分を指摘はされても、責められるようなことをされず、より信仰が確立していくように導いて下さるのです。

* ダビデの信仰人生もそうでありました。ダビデの人格や性格が引き起こしたものが、不信仰な姿として表に出てきたとしても、その愚かさ、弱さを認め、主の前にぬかずき、信仰を取り戻したならば、主の目には、全体として神中心の信仰人生を生き抜いた者として見て下さるのです。

* しかし、部分的な不信仰な姿や、揺らぎの思いを、一時的なものとして受けとめず、それを貫き通してしまった者は、主から完全に心が離れてしまい、それまでどれだけ信仰に生きてきたとしても、全体として神中心の信仰人生を歩まなかった不信仰者と見られるのです。

* それではダビデが、部分部分においてどのような信仰の戦いを通され、時には揺らぎ、時には叫び、苦痛を覚える状態の中で主に立ち帰り、主を見上げ、主に信頼を寄せ、主によりすがって行ったか、具体的な出来事についてはよく分かりませんが、その状況を歌っている内容をご一緒に見ていくことにしましょう。


  (1)介入して下さるようにと叫び求めるダビデ

* ダビデの信仰人生は、波乱に満ちたもので、時には死を覚悟させられる状況の中に置かれることが何度もあったのです。ダビデは、その内のどれかの出来事を思い浮かべて歌っているというよりも、あの時も、この時もそうであったと、いくつかの出来事を思い浮かべつつ、その度毎に主がどのように御手を差し伸べて下さったかを思い起こして歌っていることが分かります。

* ダビデの思いの中には、サウル王から槍で殺されようとしたり、(サム上19:10)ダビデを助けた祭司とその親族85人が殺されたり、(サム上22:18,19)どこまでも命をつけ狙われたり、(サム上24:1〜他)いつ死が襲い掛かってくるか知れない歩みの連続であったことが、走馬灯のように浮かんでいたのです。

* それを、ダビデは4つの表現で言い表しました。死という縄が私に巻きつき、滅びという川が私を飲み込もうとした。陰府という網が私をとらえ、死という罠が私を引き落とそうとしたと。

* これらの表現は、自分の上に押し迫ってくる状況に対抗できる力が自分にはなく、その中に翻弄され、振り回され、逃げ回るしかないという惨めな自分の姿を見させられるものであったことを歌っています。

* 人間的に言えば、惨めで、不細工で、颯爽たる信仰人生を歩んでいるとは言えない様でありました。そんな只中にあって、悩みの内に主を呼び求め、私の味方をして下さる神様であると信じて主に叫び求めたのです。

* 私の、このような状態をあわれんで、主が深く介入して下さり、この私の信仰が強くされるように導いて下さいと主に嘆願したのです。

* すると主は、宮からわたしの声を聞かれ、主に叫ぶ私の叫び願う声を聞き届けられましたと言います。しかしこの表現を単純に聞き取ってはなりません。苦しいから、主よ助けて下さいと祈ったら、主はすぐに応えて下さったかのように見えるのですが、決してそうではなかったでしょう。

* 主がわが力、わが盾と信仰体験をした上で歌ったダビデでありましたが、苦しむことなく、そのように歌い得たのではなかったはずです。主の助けと守りとを頂いて敵の手から逃れ、勝利を実感できるまでは、今にもつぶされそうな状況の中で戦い、苦しみ、耐え続けたのです。

* 主は助けて下さると言っても、私が苦しまないように助けて下さると思っていたわけではありませんでした。それは、信仰生活の中で学び取ってきたことでしょう。現実には大波の中を漂い、助けの陸が見えない厳しい状態にあえいでいたのです。

* そんな中で、主に叫び求めたらすぐに主が聞いて下さったというのではなく、主の時が来なければ、それまでは繰り返し繰り返し叫び続けなければならなかったのです。

* それでは、その主の時とはどういうものなのでしょうか。主が私たち一人一人の状態を見て、信仰が育っていくために、神がよいと考えて下さっている時のことだと言えるでしょう。私たち人間にはその時が分かるわけではありません。それではどうすればいいのでしょうか。主の時がいつであるか分からなくても、その時が必ず来ることを信じて、主に呼び続けることが大事なのです。

* それでは、主に呼び続けるとはどうすることでしょうか。ただ「主よ」と言っていればいいのでしょうか。厳しい現状にかかわらず、そこに主が働いて下さることを信じ切って、主に期待し続けることであります。

* それでは何を期待するのでしょうか。そこに主が伴って下さり、主が私に代わって戦って下さり、私が信仰において強くされていくようにして下さることを期待することです。私の信仰が強くされないような聞かれ方はあり得ないからです。

* 主が最もよい時として、主の時を設けて下さり、それに従って、助け、守り、導いて下さるのです。そのことを信じたダビデは、祈りが聞かれないのではないかと思わされた時があったと考えられますが、それでも、主は聞いて下さったと言い得たのです。


  (2)地震と火山噴火の比喩が示している意味

* それでは、主はどのように聞いて下さったとダビデは判断したのでしょうか。「あなたの叫びを聞いたよ」と天から声が聞こえたわけではありません。ダビデは、その情景を特異な自然現象を用いて、比喩的に歌っていくのです。

* これは、7節においては、地震が主の怒りの結果として起こされたと言い、8節では、これは火山噴火を思い浮かべ、敵を裁かれる主の裁きの恐ろしさを描写したものだと考えられます。

* 確かに比喩的にではなく、神がご自身の威厳と荘厳さを示すために、実際に「かみなりといなずまと厚い雲、さらにシナイ山から煙が立ちのぼり、激しく震えたという特異な自然現象を用いて示されている事例もあり、(出エジプト19:16〜19)、必ずしも比喩だとは言い切れません、

* けれども、ここでは自然現象を用いた介入があったというよりも、その比喩を用いて神の助けと守りとを言い表した表現だと見る方がいいと思われます。

* では、それはどのような助けと守りとを言い表した比喩だと見るべきでしょうか。記されている範囲内で考えて見ることにしましょう。

* 地震の比喩は、地震がすべて神の怒りによるものだと言おうとしているのではなく、助けのみわざをなそうとされる時、人間の生きる基盤となっていて、不動なることが前提となっている大地を揺り動かすことによって、そこに拠り所を置いて生きている者に不安を与えることを意味しています。

* ダビデの上に襲い掛かろうとしていた個人、あるいは国の上に、その根幹を揺るがし、平安を奪い、混乱を与え、自滅していくようにされた様子を、地震の比喩によって表現したのでしょう。

* ダビデが、自分の力を持って相手をやっつけ、排除することができるような状態ではなく、弱り果て、精神的にも肉体的にも、今にも倒れそうになっていた時に、なぜか敵の方が自滅し、混乱し、力を失う光景を何度も体験したので、そこに神が介入して下さったことを信じたのでしょう。

* ここに取り上げた記事は、ダビデの体験したことではありませんが、預言者エリシャの時代、サマリヤに、スリヤ軍が襲ってきて、今にも陥落させられそうになっている時、主がスリヤ軍の人々に戦車の音、馬の音、大軍の音を聞かせられ、恐れと混乱とを起こさせられたので、スリヤ軍が逃げ去ったという記事が記されています。(列王記下7:6,7 旧530)、ダビデにとっても、これと同じような体験があったと考えて差し支えないでしょう。

* 自分の力で乗り越えることができたのではなく、そこに主が介入して下さり、助けと守りの御手を伸べて、相手を自滅へと追い込んで下さったと確信したのです。それは、神の怒りの鉄槌であったと言うのです。

* もう一つの火山噴火の比喩は、煙が主の鼻から立ち上っていると言い、さらに主の口から焼く尽くす火が噴き出て、すべてのものを、炭が燃え続けるように焼き尽くすという表現によって、悪に対する神の裁きの火は激しく、徹底的に焼き尽くす恐ろしいものだとたとえているのでしょう。

* これは、20節や22節で告白しているように、私は主の前にきよく、罪を犯さない者として神が見て下さっているから、神の選びし者に敵対し、策略を持って悪を通そうとする敵に対して、神は義を愛し、不義を憎まれるお方として激しい裁きの火を下され、結果的に私を助け守って下さったと表現しているのでしょう。

* もちろん、人間的な意味で、人格において何の欠けもなく、きよい存在であり、罪を犯したことのない者だと言っているのではありません。何度も罪を示されて罰を受けこともあったし、自分のせいで家族問題は絶えず、人格的に何の問題もないと思っていたわけではなかったのです。

* ダビデが歌ったとされる詩篇51篇では、「わたしは自分のとがを知っています。わたしの罪はいつもわたしの前にあります」と歌っているところから、罪の自覚を持っていたと言えますから、自分の人間的きよさを主張し、誇っているのではないことが分かります。

* 確かに、新約の福音のように、人類すべてが罪でしかないという理解までは持ってはいなかったようですが、神の選民の中においても、神の戒めに聞き従わない罪人と、神の戒めに聞き従い、神の前に生きる者とされた義なる者とがあると受けとめていたのでしょう。

* ダビデは自分自身、罪を犯す者であることを自覚しながらも、罪を示された時に悔い改め、主の御前にぬかずくことによって、主の赦しを確信して向かっており、それが主の目に罪のない者と見て頂いているという信仰になっていたのでしょう。

* 神に選ばれた者として神から離れず、神中心の信仰に生きていて、主によりすがっている者を、神の目にはきよく、罪を犯していない者と見て頂いているという意味として受けとめていたから、このように表現したのでしょう。

* ダビデが、人の目の判断によらず、神のご判断によって、この私を、きよい者、罪を犯さない者と見て下さっているとの信仰に立ち得たから、主の助けと守りを疑うことはなかったのです。


  (3)神による直接介入を見る霊の目が開かれているか

* それでは、主を信じ、主の助けと守りとを信頼して歩む者のために、神はご自身の判断によって、どのような救援活動をして下さったと歌っているのでしょうか。9〜15の比喩的表現をもって示している内容を見ていきましょう。

* 9節では「主は天をたれて下られ」とありますが、これは、当時天とは、天幕のように張り広げられたものと考えられていましたから、(イザヤ40:22 旧998)ここでは、その天幕を傾けて、神が天から降りてこられた様子を描写しています。

* すなわち、神が直接介入するためにこの地上に降られ、闇を踏みつけて支配し、どこにでも瞬時に飛びかけり、闇の覆いをもって身を隠されながら、必要な時にはご自身の驚くべき輝きをもって黒雲(罪の世界)を突き破り、ひょうと火の雨を降らして敵を散らされ、彼らが拠り所としているものをみな打ち破られ、彼らの頼みとしていたものは、すべてあらわにされ、無力にされたと言います。

* 神による直接介入の前に立ち向かうことのできるものは何一つなく、信じる者のために、敵の力をことごとく打ち破られ、支配され、神の栄光の輝きは罪を裁き、義の支配を明らかにされると言うのです。

* それは、終わりの日の後の御国において、神の栄光の輝きがすべてを照らし、罪が入り込むことのない場とされると示されている通りです。(黙示22:23)

* ダビデは、どうしてここまでの神による直接介入を信じることができたのでしょうか。苦難の道を通されながら、神の祝福を受ける道へと押し上げられていった状況は、自分の才能や称賛を受ける人格の故であったとは、決して思ってはいませんでした。

* 背後で、人々の思いをコントロールして神が直接介入して下さったが故に、このような祝福にあずかっていると、信仰によって受けとめていたのでしょう。

* いくら神が、祝福の道へと追いやって下さっても、それを見る霊の目が鈍ければ、神による直接介入のお働きを見ることも、信じることもできないのです。ダビデの霊の目は、神による直接介入があったことを見て、確信していたのです。

* それは、主を信頼する者に対して、主から発される栄光の輝きは、悪を駆除され、義を育てられることを疑わなかったからです。ダビデが出エジプトの故事についてどこまで学び知っていたかは知る由もありませんが、神に敵するエジプトには雹が降り、雹の間に火がひらめき渡ってすべてのものを打ったが、イスラエル人のいたゴセンの地は避けたとあります。(出エジプト9:24〜26)神の栄光の輝きは正邪を見分けてみわざがなされたと言うのです。

* ダビデは主を信頼していましたから、神による直接介入の働きかけも疑わなかったのです。主に信頼するこの私を守り導いて下さらないはずがない、見捨てられるはずがない。それは、あたかもイエス様が「わたしはあなたがたを捨てて孤児とはしない」(ヨハネ14:18)と言われたごとく、私の信仰人生を導いて下さる暖かい主を、ダビデは感じ取っていたのでしょう。

* 神による直接介入を信じることができる人と、それを全く見ることができない霊の目が鈍い人との差は、受ける祝福が天と地ほどの違いがあります。


  (まとめ)神による直接介入を信じ切ったダビデ

* ダビデの信仰人生は、部分部分においては問題もあり、罪も犯しており、弱さもあり、この人がどうして信仰の王と称えられるほどの人だろうかといぶかる人がいても不思議ではありません。しかし、神中心の信仰人生を全体としてぶれることなく貫き通した信仰の人であったことは疑い得ない事実です。

* それは、彼の霊の目が開かれていて、神による直接介入の働きかけを見ることができ、苦しみの中にあっても、神の御心を優先させる思いが消えることはなかったし、主に向かって叫び続けた人でありました。

* 神様に、「何とかして下さい」と救援要請というか、要求を出して、気が向いていない神様を無理やり引きずり出して働かせようというのではなく、主は、この私の人生に介入しようと待ち構えて下さっている、しかも、ただ闇雲に働いて下さるというのではなく、私の信仰が育っていくために最もよい時、よい状況をご存知の上で、ご計画をもって働いて下さるとダビデは信じていたので、早く何とかして下さいと叫び求めたりはしなかったのです。

* 主は、私の叫び求める声を聞いて下さっているということを疑わなかったダビデは、自分の願う時と、こうしてほしいと求める状況とを提示せず、神がよしとして下さる時と状況とを信頼してお任せし、忍耐してその時を待ち、主のお働きを期待する信仰を表し続けたのです。

* 私が主を信頼し、主を前において生きている者であることを主はご存知であるから、私を見捨てられるはずがないとの確信を、何があっても見失わず、主の時を信じて、神によりすがり続けたのです。

* 自分の要求を出さず、神の御思いのまま、この弱い者、あえいでいる者、助けを必要としている者であるこの私を見て、救援活動を行なって下さると信じ切っているならば、ダビデのように、神は天から来て下さり、瞬時に来て下さり、私が信仰を堅く保って生きることができるように、栄光の輝きをもって働いて下るという直接介入を信じて安心しておることができます。

* 神の御力は、暗い黒雲をさえ突き破り、どんなに不可能に見えることも、お心のままにことをなされると歌ったダビデは、つらく、苦しく、厳しい歩みを通されましたが、神の御力の偉大さ、不可能のなさ、義を貫かれるすごさ、信じる者に対するいつくしみ深さを信じ切っていたのです。これがダビデの信仰を表すキーワードだったと言えるでしょう。



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